少しだけ灯里の両親についても言及しています。
夕方の会場には、まだサンダース戦の余韻が残っていた。
砲声はもう聞こえない。白旗を上げた戦車も、試合中の緊張から解かれるように一両ずつ回収されていく。サンダース大学付属高校のシャーマン隊も、夕日を受けながら撤収準備を始めていた。
大洗女子学園は、全国大会一回戦を突破した。
相手は、強豪サンダース大学付属高校。
確かに大きな勝利だった。
だが、興奮が落ち着くにつれ、今度は戦い終えた相手の明るさが目に入ってくる。
「サンダースって、負けても明るいね」
「強豪校の余裕でありますね」
遠ざかる車列を眺める沙織の横で、優花里が感心したように頷く。
「最後まで、気持ちの良い方々でした」
華も穏やかに微笑んでいる。
灯里はTOGⅡの横に立ち、サンダースの撤収風景へ視線を向けていた。ケイは最後まで笑顔を絶やさず、アリサはまだ少し不満そうで、ナオミは相変わらず静かに周囲を見ている。
「勝っても負けても補給が厚い学校は、心も強いのかもしれません」
「補給って、そこに繋がるんだ」
「補給は大事です」
「戸郷さんが言うと、ホットドッグの話に聞こえます」
「今日は、ほぼ合っています」
まどかがいれば、すぐに止められていたかもしれない。
しかし今、灯里の周囲にいるのは、あんこうチームの五人だった。
麻子も、いつもの眠そうな顔で立っている。
「よく分からんが、眠い」
「麻子はいつも通りだね」
沙織が、どこか安心したように笑った。
その時、麻子のポケットから猫の鳴き声が響いた。
ニャー、ニャー。
携帯電話の着信音だった。
「……可愛いですね」
「麻子の着信音、意外と可愛いよね」
「勝手に設定された」
「誰に?」
「おばぁ」
麻子は眠そうなまま携帯電話を取り出した。
画面を見た瞬間、わずかに眉が動く。
「知らない番号だ」
「出た方がいいんじゃない?」
みほの言葉に短く頷き、通話ボタンを押した。
「はい」
最初は、いつもの平坦な声だった。
だが、数秒後。
麻子の目から眠気が消えた。
「……はい」
顔色が変わり、返事も硬くなる。
みほたちは、すぐに異変へ気づいた。灯里も何も言わず、その横顔を見つめる。
やがて通話が終わった。
麻子の手から、携帯電話が滑り落ちる。
「麻子?」
沙織が慌てて拾い上げた。
「……なんでもない」
「そんなわけないでしょ!」
いつもなら、面倒だ、眠いと短く返すはずだった。
今は、その言葉さえ出てこない。
麻子は唇を結び、やがて小さく声を絞り出した。
「おばぁが……病院に運ばれた」
その場の空気が止まる。
「すぐに行きましょう」
華が真っ先に一歩前へ出た。
「ですが、ここから大洗までは距離があるであります」
優花里が周囲を見回す。
会場は学園艦の外、陸地側にある。大洗町へ戻るには移動と手続きが必要で、普通の手段ではすぐに病院へ着けない。
灯里も一瞬考えた。
「TOGⅡでは海を渡れません」
「そこ考えたの!?」
「仮に渡れたとしても、到着が遅すぎます」
「真面目に検討しないで!」
沙織が叫ぶ。
だが、麻子の耳には届いていなかった。
ふらりと海の方へ歩き出し、靴へ手をかける。
「麻子?」
「泳ぐ」
「無理に決まってるでしょ!」
沙織が身体ごと抱き止めた。
麻子は逃れようとするが、腕に力が入っていない。頭では無理だと分かっていても、身体だけが先に動いているようだった。
「冷泉さん、落ち着いて」
「落ち着いていられるか」
駆け寄ったみほへ、麻子が震える声を返す。
「おばぁが……」
その先は、言葉にならなかった。
灯里も、何を言えばいいのか分からない。
戦車なら射線を塞げる。敵の進路ならTOGⅡで止められる。
けれど、こういう時に何をすればよいのかは、どの教本にも書かれていなかった。
その時、背後から静かな声が届く。
「私たちが来たヘリを使うといい」
全員が振り向いた。
黒森峰女学園の制服。
西住まほと逸見エリカが、少し離れた場所に立っていた。
「お姉ちゃん……」
みほが小さく呟く。
エリカは驚いたように、まほの横顔を見た。
「隊長、この子たちにヘリを使うのですか?」
「ああ」
「ですが――」
「これも戦車道だ」
まほの声に迷いはない。
エリカは納得しきれない表情を見せたものの、それ以上は言わずに口を閉じる。
沙織は麻子の手を握った。
「麻子、行こう」
「沙織……」
「私も行くから。一人で行かせるわけないでしょ」
麻子は何かを言いかけ、結局、短く頷いた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
みほの言葉に、まほはほんの少し目を細める。
「急いだ方がいい」
その一言で、全員が動き出した。
* * *
黒森峰が観戦に使用していたヘリコプターは、会場近くの広い場所に待機していた。
ローターが回転を始めると、周囲の空気が震え、砂埃が低く舞い上がる。
「こ、これはFa223を思わせる双ローター式の――」
「優花里、今は説明短め!」
「はっ、申し訳ありません!」
目を輝かせた優花里は、沙織に止められて慌てて口を閉じた。
麻子と沙織が機内へ乗り込み、座席に身体を固定する。ヘッドセットが渡される頃にはローター音が大きくなり、外からの声はほとんど聞こえなくなっていた。
「麻子、大丈夫?」
「……分からない」
「じゃあ、私が大丈夫って言う」
沙織は麻子の手を握り直す。
「大丈夫。絶対、間に合うよ」
声は少し震えていた。
それでも、その手は離れなかった。
機体がゆっくり浮き上がる。
みほ、華、優花里、灯里は、夕日の中へ遠ざかるヘリを見送った。まほも何も言わず、その機影を静かに見つめている。
「……西住まほさんは、どうやって帰るのでしょうか」
灯里がふと呟く。
「そ、そういえば……」
「別の手段があるのではないでしょうか」
優花里が目を瞬かせ、華が落ち着いた声で答えた。
灯里は少し考える。
「昔、どこかで見た話を思い出しました」
「何の話?」
「いえ、こちらの話です」
みほの問いを、灯里は真顔で誤魔化した。
まほは聞いていたのか、いなかったのか。
何も言わずに踵を返し、黒森峰の生徒たちが待つ方へ歩き出す。
みほは夕日に伸びる姉の背中を、しばらく見つめていた。
* * *
後日。
みほ、華、優花里、灯里は、大洗町の総合病院へ向かっていた。
麻子と沙織はすでに病院にいる。冷泉久子の容体は落ち着いたと連絡を受けていたが、実際に顔を見るまでは安心できなかった。
華の腕には白い花束。
灯里は、小さな包みを抱えている。
「戸郷殿、それは?」
「見舞い品です」
「もしかして、TOGドッグでありますか?」
「病院仕様のミニTOGドッグは却下されました」
みほが困ったように笑う。
「持ってくるつもりだったんだ……」
「検討だけです。今回は、TOGⅡ型の姿勢補助クッションにしました」
「クッション?」
「長時間寝ている時に、腕や腰を支えられます」
華が包みを見て、柔らかく微笑んだ。
「実用的ですね」
「それでもTOGⅡ要素は残すのでありますね」
「最低限です」
病院の廊下は静かだった。
消毒液の匂い。抑えられた足音。白い壁。
戦車道の会場とは違う静けさが、胸の内側へ残る。
部屋番号は一〇二九。
名札には、冷泉久子と書かれていた。
華が扉をノックしようとした、その時。
「見舞いなんかいいから、学校に行きな! いつまでも病院に張りついてたって、単位は増えないよ!」
病室の中から、大きな声が響いた。
優花里の肩が跳ねる。
「な、なかなか迫力のある方でありますね……」
「入って大丈夫かな……」
みほも少し不安そうだった。
華は一度だけ息を整え、花束を持ち直す。
「せっかく来たのですから、ご挨拶しましょう」
「五十鈴さん、覚悟が決まっていますね」
「はい」
華は穏やかに頷き、病室の扉をノックした。
「失礼します」
扉を開けると、ベッドの上の久子がこちらを見た。
声の迫力から想像するより、その身体は小さく見える。けれど顔色は悪くなく、起こされた背もたれへ身体を預けながら、こちらをしっかりと見据えていた。
「あっ、みんな!」
病室にいた沙織が振り向く。
麻子はベッドの横に座っていた。いつも通り眠そうではあるが、目元には疲れが残っている。
「なんだい、あんたたちは」
「戦車道の友達」
麻子が淡々と答えた。
「友達?」
「そう」
久子は少しだけ目を細める。
「西住みほです。戦車道で、冷泉さんと一緒に活動しています」
「五十鈴華です。お見舞いのお花をお持ちしました」
「秋山優花里であります!」
優花里は病室に合わせて声を抑えているものの、敬礼の勢いはいつも通りだった。
最後に灯里が頭を下げる。
「戸郷灯里です。冷泉さんには、戦車道でお世話になっています」
久子の視線が、灯里の上で止まった。
「また変わった子がいるね」
「否定はできない」
麻子がすぐに答える。
「よく言われます」
「否定しないんだ」
沙織が小さく突っ込んだ。
久子は鼻を鳴らし、麻子へ顔を向ける。
「まあ、麻子に友達が増えたなら悪いことじゃないよ」
「おばぁ」
「何だい。本当のことだろ」
言い返しかけた麻子は、途中で口を閉じた。
「あんたを心配して来てくれたんだろ。だったら、ちゃんと礼を言いな」
麻子は少し黙り、みほたちへ顔を向ける。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
沙織がすぐに笑い、みほもほっとしたように表情を緩めた。
「今朝までは意識がなかったんだけど、目が覚めてからはずっとこんな感じで……」
「こんな感じとはなんだい」
「元気そうって意味です!」
「元気だよ。ちょっと寝てただけだ」
「病院でか」
麻子の一言に、久子の眉が上がる。
「細かいことを言う子だね!」
「誰に似たんだろうな」
「口だけは達者になって」
二人のやり取りは、喧嘩のようにも聞こえた。
けれど灯里には、別のものが見えていた。
久子の声は大きく、言葉も強い。それでも視線は、何度も麻子の顔や手元へ戻っている。
麻子も面倒そうに返しながら、普段よりわずかに身体を久子の側へ向けていた。
怒っているのではない。
互いを心配している。
ただ、それを素直な言葉にすることが苦手なのだ。
華と沙織は花瓶を借りるため、ナースセンターへ向かった。みほも手伝いに出て、病室には麻子、久子、優花里、灯里が残る。
灯里は持ってきた包みを差し出した。
「こちら、見舞い品です」
「何だい」
「TOGⅡ型の姿勢補助クッションです」
久子の眉が上がる。
「とぐ?」
「TOGⅡです。長いので、腰や腕を支えるのに向いています」
「戦車なのか、枕なのか、はっきりしないね」
「TOGⅡです」
「もっと分からなくなったよ」
「だろうな」
麻子が静かに言い、優花里が小さく笑った。
包みの中から出てきたのは、横に長い緑色のクッションだった。簡略化された履帯と砲塔が刺繍され、可愛いのか、戦車なのか、枕なのか、確かに判別しにくい。
久子は受け取ったクッションを、しばらく眺める。
「妙に長いね」
「TOGⅡですので」
「これを抱いて寝ろって?」
「姿勢補助です」
「ものは言いようだね」
そう言いながらも、久子はクッションをベッド脇へ置いた。
受け取ってくれた。
それだけで、灯里は少し安心する。
「あんたたちも、こんなところで油を売ってないで、戦車に油を差したらどうだい」
久子の言葉に、灯里の目がわずかに輝いた。
「これはうまいですね」
「そこに反応するのか」
「ただし、TOGⅡの手入れは常に完璧です」
「そうかい。なら、その長いのも大事にしな」
そっけない言葉だった。
それでも、灯里には少し嬉しかった。
「はい」
短く、はっきりと頷く。
やがて華たちが戻り、花瓶に生けられた白い花が、病室の空気を少しだけ柔らかくした。
帰り際、久子がみほを呼び止める。
「あんたが隊長さんかい」
「はい」
みほは背筋を伸ばした。
「麻子は朝が弱いし、すぐ面倒くさがるし、放っておくと寝るよ」
「おばぁ、全部言わなくていい」
「でも、やる時はやる子だ」
久子の声が、少しだけ静かになる。
みほは、その目をまっすぐ見返した。
「はい。知っています」
「なら、ちゃんと見てやっておくれ」
「はい」
深く頷くみほを確認し、久子は病室にいる全員へ視線を移した。
「愛想のない子だけど、よろしく頼むよ」
「おばぁ」
「何だい。本当のことだろ」
麻子はむっとした顔を見せたが、強くは言い返さない。
「はい。冷泉さんには、いつも助けられています」
灯里も静かに頷く。
「そうかい」
久子はそれだけ言って、窓の方へ視線を逸らした。
麻子は帰る前に、布団の端をそっと直す。続いて、手を伸ばしやすい位置へ湯呑みを移した。
久子は見ていないふりをしている。
けれど、きっと気づいていた。
その不器用なやり取りに、灯里の胸の奥が少しだけ温かくなる。
* * *
帰りの電車では、麻子が沙織の膝を枕にして眠っていた。
いつもの居眠りより深いらしく、静かな寝息を立てている。沙織は揺れで頭が落ちないように支えながら、乱れた髪をそっと整えていた。
「元気そうでよかったね」
「うん。でも麻子、昨日からずっと気を張ってたんだと思う」
みほの声に、沙織が小さく頷く。
「冷泉さんにとって、本当に大切な方なのですね」
「普段の冷泉殿からは、あまり想像できないであります」
華と優花里の声も、いつもより柔らかい。
沙織は眠る麻子を見ながら、さらに声を落とした。
「麻子のご両親、小学生の時に事故で亡くなってるの」
車輪の音だけが、急に大きく聞こえた。
「今は、おばぁが麻子のたった一人の家族なんだ」
誰も、すぐには言葉を返せない。
灯里は窓の外へ目を向けた。
流れていく町の灯り。眠る麻子。その頭を支える沙織。
久子の大きな声と、病室で布団を直した麻子の手。
麻子が単位を欲しがる理由。
学校へ来なければならない理由。
卒業しなければならない理由。
少しだけ、分かった気がした。
眠そうで、面倒くさそうで、いつも淡々としている冷泉麻子。
その奥にも、帰りたい場所と守りたい人がいる。
試合中には見えにくいものだった。
けれど、確かにそこにあった。
* * *
バスを乗り継ぎ、連絡船乗り場へ着く頃には、すっかり夜になっていた。
華は、再び眠ってしまった麻子を背負っている。優花里も疲れているらしく、歩調が少しふらついていた。
「秋山さん、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫であります。少し、頭の中でFa223の構造と冷泉殿のおばぁ殿の迫力が混ざっているだけであります」
「それは大丈夫ではない気がします」
灯里の指摘に、優花里は小さく笑った。
連絡船へ乗り込むと、麻子、華、優花里はすぐに席で眠ってしまう。麻子は華の肩へ寄りかかり、優花里は鞄を抱えたまま、うとうとしていた。
「そこは……M4A1とM4無印の違いであります……」
寝言だった。
「夢でも戦車なんだね……」
沙織が苦笑する。
みほ、沙織、灯里の三人は、船の手すり近くへ移動した。
目の前には夜の海が広がり、連絡船は低い振動を残しながら静かに水面を進んでいる。耳に届くのは、波の音と船体が水を分ける音だけだった。
「みんな、いろんな事情があるんだね」
みほがぽつりと言う。
「華も、優花里も、麻子も……」
沙織は眠っている三人へ目を向け、再び海を見る。
「それでも、みんな普通に笑ってるんだよね」
灯里は手すりへ軽く手を置いた。
「普通に見えることと、何もないことは違いますから」
沙織の視線が、灯里へ向く。
「灯里さんの家族は?」
その問いに、灯里は少しだけ言葉を詰まらせた。
家族はいる。
父と母がいる。
この世界の戸郷灯里が聖グロリアーナへ進む時も、大洗へ移る時も、心配しながら最後には認めてくれた人たち。
けれど、その記憶には薄い膜がかかっていた。
転生前の自分の家族。
この世界の戸郷灯里の家族。
どちらも自分の記憶であるはずなのに、言葉にしようとすると、輪郭がわずかに曖昧になる。
「……います」
灯里は海を見たまま答えた。
「心配は、されていると思います」
「そっか」
沙織は、それ以上急かさなかった。
その距離がありがたくて、灯里は小さく息を吐く。
「戦車道をするために聖グロへ行く時も、大洗へ移る時も、かなり心配されました」
「そうなんだ」
「TOGⅡの話は、あまり理解されませんでしたが」
沙織が少し笑った。
「そこは理解されなかったんだ」
「ただ、長い戦車だということは覚えてくれています」
みほも柔らかく笑う。
「戸郷さんらしいね」
「はい」
灯里は頷いた。
「いつか、ちゃんと顔を出さないといけませんね」
「ご両親、心配してるかもよ?」
明るい声の中に、沙織らしい気遣いが混じっていた。
「そうですね」
遠くに、学園艦の灯りが見え始める。
「でも今は、大洗にいます。ここでやることがありますから」
みほは、その横顔を見た。
何かを聞きたそうにして、それでも聞かなかった。沙織も同じように、海の向こうへ視線を戻す。
その沈黙が、灯里にはありがたかった。
夜の海の向こうには、学園艦の灯りがある。
そこには、今の自分が帰る場所があった。
勝った後も、負けた後も。
それぞれの事情を抱えたまま、みんな同じ場所へ帰っていく。
「大洗は、不思議な場所ですね」
「そう?」
沙織が首を傾げる。
「はい。いろんな人が、ここに流れ着いている気がします」
みほは静かに頷いた。
「……うん」
連絡船は夜の海を進んでいく。
サンダース戦は終わった。
次の戦いも、きっとすぐに始まる。
けれど今だけは、海風と波音の中で、少しだけ静かな時間が流れていた。