今回はいぬさんチームの個別回です。
サンダース戦から数日後。大洗女子学園の調理実習室には、戦車道の練習場とは違う音が響いていた。
包丁がまな板を叩き、鍋の中ではソースが小さな泡を立てている。オーブンの扉が閉まり、その中央で火野まどかは、小さな鍋の表面をじっと見つめていた。
「火、少し弱めます」
つまみが、ほんのわずかに回る。見ている側にはほとんど違いが分からないが、まどかの視線は鍋から離れない。泡の大きさ、色、木べらを動かした時の粘り。少し詰めすぎれば、味が重くなる。
「まどか、そこまで細かく見る?」
「見ます。少し詰めすぎると、後味が重くなります」
「戦車より繊細だね」
「戦車も繊細です」
まどかは即答した。
米倉ちとせはソーセージを温め、呼子かなえが材料表と分量を確認する。小走すずは作業台の端で、完成した皿を置く場所を確保していた。
いぬさんチームは戦車道チームだが、こうして並ぶと、給食部の調理実習にしか見えない。
そこへ、戸郷灯里がやってきた。
「火野さん」
「はい」
「本日のTOGドッグは、どのような方向性でしょうか」
「戦車道の練習前に確認することですか」
「補給は士気に関わります」
「その理屈は正しいですが、目がTOGⅡの話をしたそうです」
まどかは鍋を見たまま言う。灯里は一度口を閉じた。
「……分かりますか」
「分かります」
「さすが火野さんです」
「褒められている気がしません」
灯里が鍋を覗き込む。
「この濃度。TOGⅡの長い履帯を思わせます」
「違います」
「長いパンへ均等に乗るソース。長い車体を支える履帯のように――」
「戸郷さん」
「はい」
「ソースが煮詰まります」
灯里はすぐに一歩下がった。
まどかは火をさらに弱め、泡の立ち方が落ち着くのを待つ。木べらを持ち上げると、ソースが細く繋がりながら鍋へ戻った。
「火加減は、強ければいいわけではありません」
「名言ですね」
「料理の話です」
「戦車道にも通じます」
まどかは少し考え、火を止める。
「少しだけ、分かります」
「え、もう止めるの?」
りんが目を丸くした。
「今です」
「もう少し煮た方が濃くならない?」
「濃くはなります。でも、香りが飛びます。パンとソーセージへ乗せた時は、このくらいがちょうどいいです」
灯里が真剣な顔で頷く。
「つまり砲撃も、香りが飛ぶ前に撃つ」
「言い方は独特ですが、だいたい違います」
「違いましたか」
「ただ、早すぎても遅すぎても駄目という点は同じです」
そこで、まどかは初めて灯里を見た。
「砲撃も、火加減と似ているのかもしれません」
灯里の目が、わずかに明るくなる。
「では、今日の練習はそれでいきましょう」
「何がですか」
「火加減と照準です」
「今、思いつきましたね」
「はい」
「正直ですね」
まどかは小さく息を吐いたが、嫌そうではなかった。
* * *
午後の練習場には、TOGⅡがいた。
長い。いつ見ても長い。
まどかは砲手席へ座り、照準器を覗き込む。正面には三つの練習標的。距離はそれほど遠くなく、動きもしない。
だが、TOGⅡの砲で狙うとなれば、単純な話ではなかった。長い車体は停止してもすぐには落ち着かず、砲塔の動きも軽くない。すずが車体を少し動かすだけで、砲手席には微妙な揺れが伝わってくる。
「火野さん、どうですか」
「揺れます」
「TOGⅡですので」
「理由になっていますか」
「なっています」
「便利ですね、TOGⅡ」
まどかは照準線を標的の中心へ重ねた。だが、わずかに動く。車体が止まったように見えた後、重さが遅れて沈み、また戻ってくる。
火を止めた鍋に、余熱が残るのと同じだった。
「中心へ合わせるだけでは、遅れますね」
「TOGⅡは余韻のある戦車です」
「褒めていますか」
「かなり」
まどかは照準器から一度目を離す。
「戸郷さん」
「はい」
「砲撃前にTOGⅡを褒める必要はありますか」
「士気が上がります」
「照準は下がります」
「それは問題ですね」
灯里が真面目に口を閉じると、かなえが無線席から情報を伝えた。
「正面標的が最も近く、右はやや遠め。左は木陰に半分隠れています。風はほとんどありません」
「ありがとうございます」
ちとせとりんも、装填位置で次弾を準備する。
「砲弾、いけます」
「受け取りも大丈夫です」
すずが操縦席で息を整えた。
「止まります。三、二、一……停止」
TOGⅡが止まる。しかし長い車体は、そこからさらに沈んだ。
まどかは照準の動きを追う。
まだ。もう少し。
照準線が標的の中心へ戻りかける。
「……撃ちます」
砲声。
車内を衝撃が抜け、砲弾は標的の少し下へ着弾した。土が跳ね、的は大きく揺れたものの、直撃ではない。
「外れました」
「惜しいです」
「惜しいではなく、外れです」
「ですが、次へ繋がる外れ方でした」
「外れ方に種類があるのですか」
「TOGⅡにはあります」
「励ましてくれているのは分かります。ただ、説明が少し長いです」
車内へ小さな笑いが広がる。
まどかはすぐに照準器へ戻った。焦りはない。外れた理由も分かっている。
早かった。
車体が沈みきる前に撃ってしまった。料理でいえば、余熱を見ずに皿へ移したようなものだ。表面が整っていても、まだ中は落ち着いていない。
「もう一度、同じ標的でお願いします」
「了解です」
ちとせからりんへ砲弾が渡る。
「装填完了!」
「次は、車体の戻りまで待ちます」
灯里が嬉しそうに頷いた。
「TOGⅡの呼吸を読み始めましたね」
「呼吸ではなく揺れです」
「揺れは呼吸です」
「物理です」
まどかは即答する。
すずが笑いをこらえながら、TOGⅡを少し前進させた。
「もう一度止めます。三、二、一……停止」
車体が止まり、揺れ、沈み、戻る。
まどかは照準線が標的の中央を一度通り過ぎるのを見送った。
まだ。
少し。
ここ。
「撃ちます」
砲声。
今度の砲弾は、標的の中央からわずかに右下を捉えた。
「命中です!」
「やりました!」
「焼き上がり!」
かなえ、ちとせに続き、りんが勢いよく叫ぶ。
「焼き上がりは料理です」
「あ、そっか!」
灯里は満足そうに頷いた。
「TOGⅡの一撃が、火野さんの火加減で完成しました」
「言い方は変ですが、ありがとうございます」
まどかは照準器から目を離す。
当たった。ただし、偶然ではない。
待った。合わせた。撃った。
その順番が、少しだけ自分の中へ入ってきた。
「次は、右の標的です」
まどかの言葉に、灯里が目を瞬かせる。
「続けますか」
「はい。今の感覚を、冷める前に確認したいです」
「火加減ですね」
「はい」
右の標的は少し遠く、下半分が木陰へ隠れている。見えている中央だけを狙えば、弾は高く外れる可能性があった。
「右標的、距離やや遠め。下側は木の影で見えません」
「了解しました」
すずが車体の向きを微調整する。
「停止位置、少し右へ寄せます」
「お願いします」
ちとせとりんも次弾を装填した。
「砲弾、渡します」
「受け取りました。装填完了です」
それぞれの声が、車内で一つずつ重なる。
料理も一人では仕上がらない。下ごしらえ、火入れ、盛り付け、提供。砲撃も同じだった。
すずが車体を止める。かなえが距離と状況を伝える。ちとせとりんが砲弾を運び、灯里が撃つべき場面を判断する。
まどかが担うのは、最後の一点。
料理なら、皿の上へソースを落とす位置だ。そこがずれれば、全体の形まで崩れてしまう。
「……中心ではなく、少し右下」
「なぜですか」
灯里が尋ねた。
「見えている部分だけを中心にすると、上へ外れます。隠れている下半分まで想像して、標的全体の中心を取ります」
「仕上がりの中心」
「はい。撃つ位置は、今見えている中心ではありません。全部見えた時に、一番きれいに収まる場所です」
車内が一瞬、静かになる。
「火野さん」
「はい」
「それは、かなり砲手の言葉です」
「料理の言葉でもあります」
「では、両方ですね」
「はい」
すずがTOGⅡを停止させる。
揺れ。沈み込み。わずかな戻り。
まどかは待ち、照準を合わせ、最後の一点を選んだ。
「撃ちます」
砲声。
右の標的が大きく揺れ、砲弾は先ほどより中央に近い位置へ命中していた。
「命中です!」
「今の、かなり良かったです!」
かなえとりんの声が重なる。
「すごいというより、手順が合いました」
まどかは淡々と答えたが、その口元は少しだけ緩んでいた。
「TOGⅡも喜んでいます」
「それは分かりません」
「喜んでいます」
「戸郷さん」
「はい」
「TOGⅡへの愛は分かりました。次の照準がずれます」
灯里はすぐに口を閉じ、今度は車内の全員がはっきりと笑った。
* * *
練習が終わる頃には、空が赤く染まり始めていた。
TOGⅡは練習場の端で長い車体を休ませている。すずは停止位置の跡を確認し、かなえは命中記録をまとめ、ちとせとりんも装填の受け渡しについて話し合っていた。
一発を当てるために、全員が動いている。
まどかは砲手席へ残り、照準器の周辺を丁寧に拭いていた。
「火野さん」
「はい」
「今日は、かなり良かったです」
「ありがとうございます。でも、まだ遅いです」
「TOGⅡも遅いので、お揃いですね」
「それは励ましですか」
「かなり」
「では、受け取っておきます」
まどかは少しだけ笑い、布を畳んだ。
「砲手は、最後に撃つ係だと思っていました」
「違いましたか」
「はい。撃つ前に、ほとんど決まっています」
まどかは砲塔の内側へ手を置く。
「停止位置、装填、情報、車長の判断。私は最後の仕上げをするだけです」
「それは、謙遜ですか」
「事実です」
「でも、仕上げを間違えれば全部崩れます」
「はい。だから、丁寧に撃ちます」
いつも通り落ち着いた声だったが、その言葉には以前より少し強い芯があった。
「火野さんは、TOGⅡの火加減担当ですね」
「砲手です」
「TOGⅡの火加減砲手」
「長いです」
「TOGⅡですので」
「それを理由にしないでください」
いつもの掛け合いに戻りながらも、まどかの視線は前方の標的へ向いている。
中心を狙うだけではない。見えているものだけを見るのでもない。全体の形を想像し、最後に一番きれいに収まる一点を選ぶ。
料理の仕上げと同じ。
砲撃の照準も、きっと同じだった。
「戸郷さん」
「はい」
「次は、動く標的も試したいです」
灯里が少し目を見開く。
「いいのですか」
「はい。動かない標的だけでは、本番の火加減は分かりません」
「火野さん」
「はい」
「それは、かなり戦車道の言葉です」
「料理の言葉でもあります」
まどかは淡々と返した。
「では、次は動く標的です」
灯里が決めた瞬間、操縦席からすずの声が飛んでくる。
「動く標的って、私も動くんですよね!?」
「はい」
「TOGⅡで!?」
「TOGⅡで」
「先に曲がる練習をください!」
かなえはすでにメモを取っていた。
「次回練習項目。操縦停止位置、動的標的、砲撃タイミング」
「増えましたね」
ちとせが穏やかに言う。
「その前に、補給も必要です」
りんがトレーを持ち上げた。
「さっきのソース、試食できます!」
灯里の表情が真剣になる。
「では、TOGドッグ試食会へ移行しましょう」
「戦車道から戻るのが早いです」
「補給までが戦車道です」
まどかは少し考え、頷いた。
「それは、少しだけ分かります」
調理実習室へ向かう仲間たちの後ろを、まどかも歩き出す。
火加減。余熱。仕上げの一点。
その三つが、砲撃の感覚と少しだけ繋がった日だった。
TOGⅡは長く、重く、遅い。その一発を仕上げる砲手も、まだ発展途上だった。
だからこそ、いぬさんチームの火力は、これからもっと強くなれる。