体育館の扉が開くと、ざわめきが一気に大きくなった。
全校生徒集合。
その言葉通り、体育館にはすでに多くの生徒たちが集まっていた。普段の集会とは少し違う空気がある。
何かが始まる。
誰もがそう感じているようだった。
「何の集会だろうね」
武部沙織が、隣を歩く西住みほに小さく声をかける。
「……うん」
みほは小さく頷いた。
けれど、その声は弱い。顔色もまだ良くない。さっき保健室で少し休んだとはいえ、戦車道という言葉が消えたわけではない。
五十鈴華は、そんなみほの様子を気遣うように少し横へ並んでいた。
「西住さん、無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう、五十鈴さん」
みほは笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
灯里は、三人の少し後ろを歩いていた。
近すぎず、遠すぎず。何かあったら声をかけられる距離。
体育館の中を見渡すと、生徒たちは思い思いに話していた。
「戦車道って本当なの?」
「うち、戦車なんてあったっけ?」
「選択科目って言ってたよね」
「何か面白そうじゃない?」
「戦車って乗れるのかな」
期待。
戸惑い。
好奇心。
その全部が混ざった空気だった。
灯里は、ステージの方を見る。
そこにはすでに生徒会の三人がいた。
角谷杏はいつも通り軽い雰囲気で立っている。小山柚子は資料を抱え、河嶋桃はマイクの前で真面目な顔をしていた。
やがて、桃が一歩前に出る。
「静粛に!」
体育館のざわめきが、少しずつ収まっていく。
桃は胸を張り、マイクを握った。
「本日は、今年度から新たに復活する選択科目について説明する」
生徒たちが一斉に反応した。
「復活?」
「やっぱり戦車道?」
「本当に?」
桃は、その反応を待っていたように声を張る。
「そうだ。本年度より、大洗女子学園では選択科目として、戦車道を復活させる!」
体育館が大きくざわついた。
戦車道。
その言葉が、改めて体育館全体へ広がっていく。
灯里は、隣の方へ視線を向けた。
みほは、じっとステージを見ている。
表情は固い。
戦車道。
西住みほが逃げてきたもの。
戸郷灯里が追いかけてきたもの。
同じ言葉が、二人にとってまるで違う意味を持っている。
* * *
ステージでは、柚子がプロジェクターの準備を進めていた。
杏は桃の横で、にこにこしながら手を振る。
「まあまあ、みんなそんなに固くならないでさ。まずは戦車道ってどんなものか、見てもらおっか」
「会長、軽すぎます」
「説明は映像の方が分かりやすいって」
桃は咳払いをした。
「では、戦車道紹介映像を流す!」
照明が少し落ちる。
体育館前方のスクリーンに映像が映し出された。
華やかな音楽。
整備された戦車。
優雅に敬礼する女子生徒たち。
競技場を進む車列。
砲撃、旗、歓声。
映像の中の戦車道は、明るく、美しく、誇らしいものとして紹介されていた。
「すごい……」
「かっこいい」
「戦車って意外と綺麗なんだね」
「制服かわいい」
生徒たちの声が、あちこちから聞こえる。
沙織も少し身を乗り出した。
「なんか、思ってたより華やかだね」
「戦車というと、もっと荒々しいものを想像していました」
華も穏やかに言う。
「でも、礼儀や所作も大事にされているのですね」
灯里は映像を見ていた。
確かに、映像は綺麗だった。
戦車道を知らない生徒には、魅力的に見えるだろう。安全で、華やかで、伝統ある乙女のたしなみ。
けれど、灯里の視線は自然とみほへ向かう。
みほは、映像を見ている。
でも、その目は画面の華やかさを追っていなかった。
きっと、別のものを見ている。
試合。
黒森峰。
雨。
川。
助けに向かった先。
そして、その結果。
灯里はそこまでを知っている。
知ってしまっている。
けれど、それをここで口にすることはできない。
映像は綺麗だ。
でも、西住さんにとって戦車道は、こんなに綺麗なものだけじゃない。
灯里は、みほの手を見た。
指が、少し震えていた。
* * *
紹介映像が終わると、桃が再びマイクを取った。
「戦車道は選択科目である。履修を希望する者は、配布された履修届に記入し、指定の期日までに提出するように!」
杏が横から軽く付け加える。
「まあ、興味ある子はどんどん来てねー。初心者歓迎だからさ」
柚子が資料をめくる。
「初心者向けの説明や見学も予定しています。経験がない人でも大丈夫です」
その言葉に、生徒たちのざわめきはさらに大きくなった。
「初心者でもいいんだ」
「見学だけでも行ってみようかな」
「戦車って乗れるの?」
「選択科目なら単位も出るんだよね?」
その流れに乗るように、杏がにこにこしながら言った。
「それと、成績優秀者には特典も検討中でーす」
桃がぎょっとする。
「会長、それはまだ正式には――」
「たとえばー」
杏は指を折りながら数えた。
「食堂の食券百枚とか」
体育館がざわついた。
「百枚!」
「え、食券!」
「本当に?」
「それから、遅刻見逃し二百日とか」
桃がマイクを奪いかける。
「会長!」
しかし生徒たちは別の方向でざわついていた。
「遅刻見逃しって何!」
「二百日は多くない?」
「誰向けの特典?」
灯里は無表情のまま、心の中で呟いた。
まるで誰かのための特典だぁ……。
まだその誰かは、この場にはいない。
少なくとも、灯里の視界にはいない。
だが、低血圧で朝に弱い誰かに向けられたような露骨さを感じる。
杏はさらに続けた。
「あと、通常授業の三倍の単位とか」
「会長! 確定事項のように言わないでください!」
桃がついに止めに入る。
柚子が慌ててフォローした。
「え、ええと、詳細は今後正式にお知らせします!」
体育館は笑いとざわめきで少し明るくなった。
緊張していた空気が、少しだけ緩む。
沙織は目を輝かせていた。
「食券百枚ってすごくない?」
「それほど期待されているということなのでしょうか」
華も静かに頷く。
みほは困ったように笑った。
でも、その笑顔はまだ弱い。
灯里は、それを見落とさなかった。
* * *
説明会が終わると、体育館の中はさらにざわついた。
戦車道に興味を持った生徒。
食券に反応した生徒。
単位に反応した生徒。
遅刻見逃しという言葉に首を傾げる生徒。
理由はばらばらだったが、戦車道という言葉は確かに全校生徒の中へ投げ込まれた。
みほは、履修届を握ったまま立ち尽くしていた。
沙織と華がそばにいる。
「みほ、大丈夫?」
「……うん」
大丈夫ではない。
けれど、みほはそう答えるしかないのだろう。
沙織は少し考えてから、明るい声で言った。
「ねえ、みほ。やっぱり嫌なら断ろうよ」
「沙織さん……」
「一人で言いにくいなら、一緒に行くって言ったでしょ」
華も静かに頷いた。
「はい。西住さんが望まない選択をする必要はないと思います」
みほは、二人を見た。
その目が少しだけ揺れる。
灯里は、少し離れた場所でそれを見ていた。
沙織と華は、みほの背中を押しているわけではない。
無理に戦車道へ戻そうとしているわけでもない。
ただ、みほが自分で選べるように、そばにいる。
その距離感が、灯里にはとても眩しかった。
自分が何かを言う必要はない。
少なくとも、この場では。
みほの選択は、みほのものだ。
その時、沙織がこちらを振り返った。
「そういえば、戸郷さんは?」
「はい?」
「戸郷さんは戦車道やるの?」
灯里は、履修届を少し持ち上げた。
「私の履修届には、最初から丸がついていました」
「最初から?」
「はい」
沙織が目を丸くする。
「それっていいの?」
「分かりません」
「分からないんだ」
「ですが、どのみち私は戦車道を選ぶつもりでした」
みほが、少しだけ灯里を見る。
灯里は、静かに言った。
「私には、私の理由があります」
TOGⅡがある。
自分の車長席がある。
そして、見届けたいものがある。
それは、みほに戦車道を強いる理由にはならない。
「だから、西住さんには西住さんの理由があっていいと思います」
みほは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
それだけだった。
でも、今はそれでよかった。
* * *
その少し後。
体育館の端に、一人だけ明らかに様子の違う生徒がいた。
秋山優花里。
紹介映像の時から、目の輝きが違っていた。戦車が映るたびに身を乗り出し、車両名らしき言葉を小さく呟いている。
灯里は、思わずその様子を見てしまった。
戦車が好きな人間の目だ。
分かる。
とても分かる。
優花里は履修届を握りしめたまま、何度も戦車道の欄を見ていた。
「戦車道……本当に……」
その声は震えている。
怖さではない。
期待と興奮で。
灯里は少し迷ってから、声をかけた。
「秋山さん」
「は、はい!」
優花里は驚いたように振り返った。
「戸郷殿……ですよね?」
「はい。戸郷灯里です」
「秋山優花里であります!」
勢いよく名乗られた。
灯里は少しだけ瞬きをする。
「……であります」
「あ、す、すみません。つい」
「いえ。良いと思います」
優花里は少し照れたように笑う。
だが、その視線はすぐに灯里の履修届へ向いた。
「戸郷殿も、戦車道を?」
「はい」
「経験がおありなのですか?」
「少しだけ」
聖グロリアーナ。
その記憶は、まだ完全ではない。
ただ、自分が戦車道と無縁ではないことだけは分かる。
優花里は、さらに目を輝かせた。
「もしかして、何か乗られていたのでありますか?」
「今は、TOGⅡがあります」
優花里が固まった。
数秒。
本当に、数秒止まった。
「……TOGⅡ、あります、とは?」
「TOGⅡがあります」
「TOGⅡが……」
「はい」
「実物で?」
「はい」
「大洗に?」
「はい」
優花里の瞳が、みるみるうちに輝いていく。
「そ、それは、イギリスの試作超重戦車、あの長大な車体で有名なTOGⅡでありますか!?」
「はい。長い戦車です」
「長い戦車!」
優花里は胸の前で両手を握りしめた。
「素晴らしいであります……!」
灯里は静かに頷いた。
「秋山さんは、分かる人ですね」
「分かります! 分かりますとも! あの長大な車体、試作車両ならではの存在感、時代に取り残されたようでいて、しかし確かにロマンの塊であるあの英国戦車を――」
そこまで言って、優花里ははっとした。
「す、すみません。つい」
「大丈夫です。続けてもいいです」
「よろしいのですか!?」
「はい。ですが、移動しながらでお願いします」
灯里は生徒会の方へ目を向けた。
角谷杏が、にこにこしながらこちらを見ている。小山柚子は書類を確認し、河嶋桃は腕を組んで厳しい顔をしていた。
杏が軽く手を振る。
「戸郷ちゃん、例のやつ、よろしくねー」
「分かりました」
桃は真面目な顔で言った。
「くれぐれも校内で事故を起こすなよ」
「TOGⅡは長いですが、安全運転はできます」
「その“長いですが”が不安なのだ」
「長さは事実ですので」
「そこは否定しないのだな」
柚子が少し不安そうに聞く。
「本当に大丈夫? 誘導する人、必要なんだよね?」
「はい。上から周囲を確認してくれる人がいると助かります」
灯里は、そこで優花里を見た。
戦車に詳しい。
TOGⅡという名前に即座に反応した。
そして、おそらく上に乗って周囲確認を頼んでも、怖がるより興奮する可能性が高い。
適任だった。
「秋山さん」
「はい!」
「少し付き合ってもらえますか」
「はい? 何にでしょうか?」
灯里は、当たり前のように言った。
「TOGⅡを出します」
優花里は、数秒固まった。
そして、震える声で聞き返す。
「……今、なんと?」
「TOGⅡを出します」
「TOGⅡを……出す……?」
「はい。実物を」
優花里の瞳が、さらに輝いた。
「じ、実物……実働……?」
「たぶん動きます」
「たぶん!?」
沙織が目を丸くする。
「え、戸郷さん、戦車持ってるの?」
華も驚いたように口元に手を添えた。
「それは、また……大きなお話ですね」
みほも、信じられないように灯里を見ていた。
「戸郷さん……TOGⅡって……」
灯里は静かに頷く。
「長い戦車です」
説明としては、あまりにも足りなかった。
だが、灯里にとってはそれが最重要だった。
杏が楽しそうに笑う。
「じゃ、説明会の次は実物見学ってことで」
桃が頭を抱えた。
「会長、段取りが雑です!」
「インパクトは大事だよー」
柚子は苦笑しながら、資料に何かを書き足していた。
灯里は、体育館の出口の向こうを見た。
その先には校舎があり、広場があり、さらにその先に自宅がある。
地下ガレージには、TOGⅡが待っている。
映画館の席は、もうない。
けれど、車長席はある。
そして今、その長すぎる戦車が、大洗女子学園の前に姿を現そうとしている。
灯里は、小さく息を吸った。
「行きましょう、秋山さん」
優花里は、感極まったように敬礼した。
「はい、戸郷殿!」
その日の放課後。
大洗女子学園の広場に、誰も予想していなかった長すぎる戦車が姿を現すことになる。