まだ全国大会も長そうです…
第32話「祝勝の朝と、長い台車」
朝の大洗女子学園は、いつもより少しだけ賑やかだった。
サンダース大学付属高校との試合に勝ってから、学園の空気は確かに変わり始めている。廊下や食堂では戦車道チームの話題が増え、掲示板の前には学園新聞の号外を読む生徒の姿があった。
大洗が勝った。
強豪校に勝った。
まだ現実味の薄い言葉だったが、みほの耳には試合の音が残っている。
砲声。無線に重なる仲間たちの声。森を駆ける戦車。最後まで途切れなかった返事。そして、華が放った決着の一撃。
勝てたことは嬉しい。
みんなで繋いだ勝利だと思う。サンダースの生徒たちも試合後には笑い、こちらへ手を差し出してくれた。
けれど、その余韻の奥には、黒森峰で何度も聞いた言葉が残っている。
犠牲なくして、大きな勝利を得ることはできない。
勝つために必要なものを選び、時には切り捨てる。個人の感情よりも隊の勝利を優先し、与えられた持ち場を守る。
家元である母からも、西住流は勝利のためにあると教えられてきた。
その考えを、すべて間違いだとは言えない。黒森峰は実際に、その戦い方で勝ち続けてきた。
だからこそ、みほはまだ、自分が過去に選んだ行動を真正面から肯定できずにいる。
「みぽりーん、おはよー!」
後ろから飛んできた明るい声に、みほは足を止めた。
振り返ると、沙織と灯里が並んで歩いている。
二人の間には、紐で引かれた小さな台車。
妙に長く、細長い車体の上には簡易的な砲塔らしき飾りまで付けられている。側面には、パンに挟まれたダックスフンドのようなエンブレム。
そして、その台車の上には冷泉麻子が横たわっていた。
「……えっと」
みほは一度瞬きをする。
「それは?」
「冷泉さん専用の移動戦車です」
灯里は真顔で答えた。
「通称、ミニTOGⅡ麻子輸送型です」
「移動戦車……?」
「毎朝、麻子を起こして連れてくるのが大変だって相談したら、灯里ちゃんが作ってくれたの」
沙織が楽しそうに説明する。
みほは台車へ視線を戻した。
確かに長い。
しかし、戦車ではない。
「作ったんだ……」
「はい。タイヤ駆動なので、履帯より校舎に優しい設計です」
台車の上から、麻子の低い声が聞こえた。
「私は、まだ起動していない」
「現在、暖機運転中です」
「暖機……?」
みほが困ったように笑う横で、沙織は台車の紐を持ち直す。
「でも、これなら遅刻しないんだよ!」
「徒歩ではないが、登校はしている」
「それは大丈夫なのかな」
「おそらく、校門で止められます」
灯里は淡々と言った。
「分かっていて来たんですか?」
「実地確認が必要ですので」
その予想は、すぐに現実となった。
校門前には風紀委員の腕章を付けた園みどり子が立ち、朝から鋭い目で登校する生徒を確認している。
長い台車を見つけた瞬間、その眉が跳ね上がった。
「冷泉さん! 自分の足で歩きなさい!」
麻子が台車の上で、ゆっくり目を開く。
「これは徒歩の延長だ」
「違います!」
「でも、遅刻はしてないよ?」
「遅刻していなければ、台車で登校していいことにはなりません!」
「厳しい」
麻子は小さく呟いた。
灯里が台車の側面を軽く叩く。
「タイヤ駆動なので、履帯より校舎への負担は少ないです」
「そういう問題ではありません!」
「風紀委員は、戦車道でいう審判に近いですね」
「何の話をしているの!?」
みどり子が頭を抱える。
「そど子、これ結構安定してるんだよ。ほら、麻子も落ちてないし」
「落ちなければいいというものでもありません!」
「でも、遅刻は――」
「していなくてもです!」
沙織の援護も通らない。
みどり子がきっぱり言い切ると、麻子は諦めたように息を吐いた。
「仕方ない。起動する」
台車からゆっくりと降り、両足で地面に立つ。
そのまま数秒、目を閉じた。
「麻子、寝ないで!」
「立ったまま眠るのは危険です」
灯里の指摘に、みどり子が深いため息をつく。
「とにかく、台車での登校は禁止です!」
「次回からは、自分で押して歩きます」
「そういう意味でもありません!」
みほは、つい小さく笑ってしまった。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ薄くなる。
大洗の朝は、黒森峰とは違う。
厳しい号令ではなく、遅刻寸前の友達と、長すぎる台車と、それを本気で止める風紀委員がいる。
その騒がしさが、今のみほにはありがたかった。
* * *
校舎へ近づくと、壁に掲げられた大きな横断幕が見えてきた。
『祝! 戦車道全国大会 一回戦突破!』
白地に書かれた大きな文字の周囲には、可愛らしく描かれたⅣ号、八九式、38(t)、M3リー、III号突撃砲。そして、少し横に長すぎる戦車。
横断幕の隣には、砲塔のような飾りを付けた細長いバルーンまで浮かんでいた。
「こんなに大きく……」
みほが目を丸くする。
「すごーい! みんな見てくれてるんだね!」
沙織の声が弾む。
少し遅れて合流した華も、横断幕を見上げて微笑んだ。
「とても華やかですね」
「目立つな」
麻子は相変わらず眠そうだった。
優花里はすでにカメラを構えている。
「全国大会一回戦突破記念横断幕であります! これは記録しておかねば!」
一方、灯里の視線は細長いバルーンへ固定されていた。
「TOGⅡバルーンもあります」
「あれ、TOGⅡなんだ」
「長さは正確ではありませんが、努力は感じます」
「そこを採点するんだ」
「本物は、もう少し長いです」
「これ以上長いと、廊下へ入りません」
みどり子が横から口を挟んだ。台車の件を処理するため、まだ近くにいたらしい。
「生徒会が勝手に設置したのよ。朝から『戦車道チームの見学はできますか』『TOGⅡとは何ですか』『長い風船はどこで買えますか』って、風紀委員へ問い合わせが来て大変なんだから」
灯里の表情が、わずかに動く。
「TOGⅡバルーンには販売需要が」
「ありません!」
「まだ調査が足りません」
「調査しなくていいの!」
みどり子は即座に止めた。
横断幕の前では、何人もの生徒が足を止めている。
「西住さんだ」
「サンダース戦、すごかったんでしょ?」
「TOGⅡって、本当に長いらしいよ」
「いぬさんチームって、ホットドッグも売ってるんだっけ?」
以前なら、戦車道は多くの生徒にとって遠い話だった。
けれど、今は違う。
戦車道が、大洗女子学園の話題になっている。
みほは嬉しいような落ち着かないような気持ちで、風に揺れる横断幕を見上げた。
* * *
昼休み。
あんこうチームは、自然と戦車倉庫前へ集まっていた。
倉庫の中からは、自動車部が整備を進める音が聞こえる。工具が金属を叩き、履帯が確認され、時折、明るい笑い声が混ざった。
戦車道チームにとって、ここは少しずつ部室のような場所になりつつある。
麻子は、いつの間にかⅣ号の近くへ座っていた。
「麻子、いつの間に」
「移動した」
「普通に歩いた?」
「少し」
沙織が苦笑しながら購買の袋を開く。
華が持ってきた大きな包みには、サンドイッチが整然と並んでいた。
「華、相変わらず多いね」
「皆さんで食べられるように、少し多めにしました」
「華さんの少しは、普通の人の多めであります」
優花里も弁当箱を広げる。
「母が作ってくれたお弁当であります!」
みほが普通の弁当箱を取り出す横で、灯里はTOGⅡの近くに座っていた。
いぬさんチームの給食部組は、昼時の食堂や購買の手伝いへ向かっている。灯里だけが、長い車体の横で弁当箱を開こうとしていた。
その弁当箱も、横に長い。
かなり長い。
「灯里ちゃん、お弁当まで長い!」
「TOGⅡ弁当です」
蓋を開けると、ご飯で作られた長い車体、海苔の履帯、卵焼きの砲塔、ウインナーの主砲が収められている。
優花里が身を乗り出した。
「素晴らしい再現度であります! この長い車体と、海苔による履帯表現!」
「可愛らしいですね」
華も微笑む。
麻子は少しだけ目を開けた。
「食べにくそうだ」
「長さと食べやすさの両立は、今後の課題です」
「そこは改良が必要だね」
沙織が笑う。
戦車倉庫の前で、戦車のそばに座って昼食を取る。
少し前のみほなら、考えもしなかった時間だった。
今は、不思議と自然に感じられる。
「そういえば、先日の取材が号外になっていたであります!」
優花里が思い出したように言った。
「見た見た! みぽりん、すごく大きく載ってたよ!」
「私より、みんなのことを書いてほしかったんだけど……」
「隊長なんだから、ちゃんと載らないと!」
「隊長……」
その呼び方には、まだ少し慣れない。
灯里はTOGⅡ弁当の端を切り分けながら言う。
「TOGⅡについても触れられていました」
「少しで済んだのか」
麻子の問いに、灯里が頷いた。
「文字数制限がありました」
「なかったら危なかったね」
「TOGⅡの魅力は、紙面の余白だけでは語りきれません」
「絶対に長いやつだ」
「はい」
灯里は否定しなかった。
みほは、みんなのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜く。
勝利。号外。横断幕。自分へ向けられる視線。
まだ少し重い。
それでも、ここにはいつもの仲間がいる。
そのことが、今のみほには支えになっていた。
* * *
「でもさ」
沙織が購買のパンをかじりながら、ふと口を開いた。
「サンダース戦、怖かったけど……なんか、楽しかったよね」
みほは思わず顔を上げる。
「楽しかった?」
「うん。もちろん怖かったし、撃たれそうだったし、麻子はいつも通り眠そうだったけど」
「眠かった」
「そこは否定して」
沙織は苦笑した後、少し真面目な表情になる。
「でも、みんなで何とかしようって感じがしたんだよね。追いかけられて、逃げて、考えて、最後まで諦めなくて」
「皆さんで力を合わせている感じがしました」
華も静かに頷いた。
「サンダース殿も、素晴らしい相手でありました! ケイ殿のフェアプレー精神、ナオミ殿の狙撃、アリサ殿の情報戦。どれも大変勉強になりました!」
「勝ったから、気分よく眠れた」
麻子の一言に、沙織が笑う。
「麻子は、そこなんだ」
「勝つと寝つきがいい」
みほは、皆の言葉を聞いていた。
楽しかった。
その言葉が、胸の中で小さく揺れる。
黒森峰にいた頃、戦車道は勝つためのものだった。勝利は当然で、負けは許されない。試合前には勝つための準備を行い、試合中には勝つための判断を下し、試合後には結果によって評価される。
そこに楽しさがなかったわけではない。
けれど、今みんなが口にした「楽しかった」は、みほが黒森峰で知っていたものとは少し違う。
「西住さん?」
灯里が変化に気づいた。
みほは少しだけ迷った。
ここには沙織がいる。華がいる。優花里がいる。麻子がいる。灯里もいる。
だから、少しだけ話してもいいと思った。
「私、去年の大会で……」
言葉にした瞬間、空気が変わる。
沙織はパンを持ったまま動きを止め、華は静かにみほを見た。事情を知っている優花里はわずかに目を伏せ、麻子も眠そうな顔のまま視線を上げる。
「私は、黒森峰のフラッグ車の車長だったんです」
みほは弁当箱の蓋を見つめたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「試合中、川へ落ちた仲間の戦車が見えて……」
増水した川。
流されそうになる車体。開かないハッチ。無線へ届いた焦った声。
あの日の光景は、今もはっきり残っている。
「私はフラッグ車の車長でした。絶対に持ち場を離れてはいけなかった」
声が少しだけ硬くなる。
「でも、私は戦車を降りて、仲間を助けに行きました」
その間、フラッグ車は車長を失った。
指揮も周囲の確認も不十分になり、敵の砲撃を受けた。
「車長だった私が持ち場を離れたから、黒森峰は負けました」
みほは膝の上で手を握る。
「十連覇も、そこで終わってしまって……」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
フラッグ車の車長は、最後まで車両と持ち場を守らなければならない。
それは、試合の中では間違いなく正しい。
だからこそ、みほは今も、仲間を助けた自分と、勝利を失わせた自分を切り離せずにいる。
「私は、その行動が間違っていたとは思いません」
最初に口を開いたのは、優花里だった。
声はわずかに震えている。
それでも、その目はみほをまっすぐに見ていた。
「西住殿が助けに行かなければ、本当に危険だったかもしれません。助けられた方も、きっと感謝しているであります」
「でも、私が離れなければ、負けなかったかもしれない」
みほの言葉を、優花里はすぐには否定しなかった。
「はい。結果だけを見れば、そうだったのかもしれません」
その上で、はっきりと続ける。
「でも、仲間を助けるために動いたことまで、間違いにはならないと思います」
みほは言葉を失った。
「私も、秋山さんと同じです」
灯里も静かに口を開く。
「フラッグ車の車長として、持ち場を守ることは大切です。西住さんが離れたことで、試合の結果が変わった可能性も否定できません」
結果を軽く扱わず、灯里は言葉を選ぶ。
「ですが、戦車道には安全装置があっても、事故が絶対に起きないとは言い切れません。目の前で仲間が危険な状態になっていたなら、助けに向かった判断そのものまで否定しなくていいと思います」
みほは灯里を見る。
「試合に負けたことと、人を助けたことは、同じではありません」
あの日の敗北が消えるわけではない。
十連覇が途切れた事実も、自分の責任だと感じる気持ちも、簡単にはなくならない。
それでも、今ここには、あの行動まで間違いにしなくてよいと言ってくれる人がいる。
「……ありがとう」
みほは小さく答えた。
優花里は一瞬固まり、顔を赤くして髪をくしゃくしゃとかく。
「い、いえ! 私は、本当にそう思っただけであります!」
灯里は、その光景を静かに見ていた。
かつて画面の向こうで知っていた場面。
けれど、今はただ見守る側ではない。自分も大洗の戦車道チームの一員として、みほの隣に座っている。
その事実が、少しだけ不思議だった。
「戦車道には、いろいろな道があるのですね」
華が穏やかに言う。
「そうそう。勝つだけじゃないっていうか」
沙織も頷いた。
「もちろん勝てたら嬉しいけど、それだけじゃないよね」
「負けたら眠れないが、勝つために全部捨てるのも疲れる」
麻子の言葉に、沙織が少し笑う。
「麻子らしい」
「事実だ」
みほは、仲間たちの顔を見た。
勝つことだけが、戦車道ではない。
まだ、その考えを自分の言葉として完全に形にできるわけではない。
それでも、この場所には確かに存在していた。
灯里は手元のTOGⅡ弁当へ視線を落とす。
もし、自分が同じ場面にいたら。
勝たなければならない試合で、自分がフラッグ車の車長で、目の前の仲間が危険な状態にあり、そこを離れれば負けると分かっていたら。
見捨てられるのか。
たぶん、無理だ。
TOGⅡでは、すぐに助けへ駆けつけられないかもしれない。重く、長く、遅い戦車は、急いで救援することに向いていない。
それでも、できることはある。
「TOGⅡは、速く助けへ向かうのは苦手です」
沙織が振り向いた。
「灯里ちゃん?」
「ですが、味方が逃げるための道を作ることはできます。敵の進路を塞ぎ、時間を稼ぐこともできます」
灯里は、みほを見る。
「速く走ることだけが、助ける方法ではありません」
みほは少しだけ目を見開き、やがて穏やかに笑った。
「うん」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
* * *
昼休みが終わりに近づいた頃、優花里が鞄から次戦の資料を取り出した。
「さて、次の相手でありますが」
その一言で、空気が少し変わる。
「次戦はアンツィオ高校。イタリア系の学校で、小型で軽快な車両を多数運用しています」
「どんな学校なの?」
沙織が資料を覗き込む。
「明るく賑やかで、食文化にも力を入れていると聞きます! 主力はCV33快速戦車を中心とした小型車両で、その機動力を活かした戦いを――」
「TOGⅡとは相性が悪いですね」
灯里が即答した。
「即答!」
「追いつけません」
「潔い」
麻子がぼそりと言う。
華も資料を見ながら考える。
「小さくて速い相手となると、追いかけるのは難しそうですね」
「うん。追えないなら、追わない方法を考えないといけないね」
みほの言葉に、灯里が頷いた。
「最初から、相手が通る場所にいる必要があります」
「TOGⅡ理論だ」
沙織が言う。
「今回は、かなり大事な考え方だと思う」
みほは資料へ視線を戻した。
サンダース戦では勝った。
けれど、それで終わりではない。
次の相手は、物量と火力で押してくるサンダースとは違う。速く、小さく、こちらの砲撃を避けながら戦場を走り回る。
大洗の戦車は、まだ寄せ集めだ。
しかし、それぞれの車両には異なる癖と役割がある。
それを知り、組み合わせ、相手に合わせて使い方を変える。
それが、大洗の戦車道なのかもしれない。
みほは倉庫の中に並ぶ車両を見た。
Ⅳ号。八九式。38(t)。M3リー。III号突撃砲。
そして、TOGⅡ。
長い。
本当に長い。
だが、今ではその長さも、大洗の一部だった。
「次も、みんなで考えよう」
みほが言う。
「うん!」
「もちろんであります!」
「皆さんで、また頑張りましょう」
「眠くない時間なら」
麻子の言葉に、みんなが笑った。
灯里はTOGⅡ弁当の最後の端を食べ、静かに蓋を閉じる。
「アンツィオ高校」
小さく呟き、資料のCV33へ視線を向けた。
「速い相手には、速さではなく場所で対抗します」
「つまり?」
沙織が尋ねる。
灯里は指を一本ずつ立てた。
「待ちます。塞ぎます。そこにいます」
「それ、ほとんど止まってるよね」
「止まることも、戦車道です」
灯里は胸を張った。
「眠ることも戦車道ならいいのに」
「それは少し違うと思います」
麻子へ、華がやんわりと返す。
再び笑い声が広がった。
サンダース戦の勝利は、大洗の中へ少しずつ浸透している。
みほの胸の奥にも、まだ小さく、形の定まらない新しい考えが芽生え始めていた。
勝つことだけが、戦車道ではない。
けれど、勝つことを諦めるわけでもない。
仲間を見て、戦車を見て、相手を見る。
その上で、自分たちの進む道を探す。
大洗女子学園の次の相手は、アンツィオ高校。
二回戦へ向けた準備は、もう始まっていた。