放課後の廊下には、まだ夏の熱が残っていた。
窓の外では蝉が鳴き、傾き始めた日差しが床を長く照らしている。授業を終えた生徒たちが部活や帰宅へ向かう中、あんこうチームと灯里も戦車倉庫へ向かって歩いていた。
「そういえばさ」
沙織が歩きながら振り返る。
「全国大会で強豪チームのほかに勝ち進んでた、継続高校ってどんなところなの?」
「継続高校でありますか!」
優花里が待っていましたと言わんばかりに食いついた。
「フィンランド系の学校であります! 派手な物量戦よりも、地形利用や奇襲、機動力を活かした戦術を得意としていて、少数でも非常に厄介な相手であります!」
「また詳しいねー」
「戦車道に関することでありますから!」
みほも少し考えてから頷いた。
「黒森峰にいた時、練習試合をしたことがあるよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。すごく動きが読みにくくて、手強かった。いつの間にかいなくなったと思ったら、別の場所から出てきたりして」
華が少し驚いた顔をする。
「黒森峰でも苦戦するほどの相手なのですね」
「面倒そうだな」
麻子が率直に言う。
「正面から付き合ってくれない相手は、だいたい面倒であります」
「優花里、それ褒めてる?」
「最大級の褒め言葉であります!」
灯里は、そんな会話を聞きながら少しだけ記憶を探った。
継続高校。
知っている。
原作でも見た。ゲームでも戦った。それとは別に、この世界で自分が聖グロリアーナにいた一年生の頃、どこかで一度だけ顔を合わせたような気もする。
ただ、細部が妙に曖昧だった。
相手の編成も、結果も、場所も、記憶の奥で輪郭がぼやけている。
それなのに、一つだけ妙にはっきり残っていた。
「……カンテレ」
「カンテレ?」
沙織が聞き返す。
灯里は顔を上げた。
「いえ。少し思い出しただけです」
「楽器だっけ?」
みほが言う。
「はい。どこからともなく聞こえてきた記憶があります」
「戦車道の試合で?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
灯里自身、今はそれ以上説明できなかった。
いつか継続高校と向き合う時が来れば、思い出すこともあるだろう。それくらいでいい。
今の相手はアンツィオだ。
そう考えて前を向いた時、灯里の視界の端を何かが横切った。
長い金髪。
そして、特徴的な丸い眼鏡。
一瞬だけ廊下の柱から顔を出し、こちらを見たと思った次の瞬間には引っ込んでいる。
誰も反応しない。
みほも、沙織も、華も、優花里も、麻子も、そのまま歩いていた。
灯里だけが足を止める。
「灯里ちゃん?」
みほが振り返った。
「すみません。少し用事を思い出しました。皆さんは先に行っていてください」
「分かった。後でね」
「はい」
あんこうチームが廊下の先へ消えていく。
灯里は来た道を少し戻った。
柱の陰。
そこには、一人の女子生徒が肩を落として立っていた。
「また声をかけられなかったにゃー……」
小さな独り言が聞こえる。
長い金髪。
ぐるぐる眼鏡。
少し猫背で、目立つ外見の割には妙に気配が薄い。
灯里は確信した。
猫田舞。
通称、ねこにゃー。
後に大洗女子学園の戦車道部へ入り、アリクイさんチームの一員になる人物。
原作で知っていなければ、私も見逃していたかもしれません。
灯里は少しだけ考え、それから自分から近づいた。
「あの……」
「にゃっ!?」
猫田の肩が大きく跳ねた。
「私たちに何か御用でしたか?」
ぐるぐる眼鏡の向こうで、猫田の目が見開かれる。
「や、やっと気づいてくれたにゃー!」
思った以上に嬉しそうだった。
「何度か声をかけようとしていたんですか?」
「きょ、今日だけじゃないにゃ……」
「そうだったんですね」
まったく気づかなかった。
灯里が素直にそう思っていると、猫田は嬉しそうだった顔をすぐにもじもじしたものへ戻した。指先を合わせ、視線を床へ落とす。
「その……ぼくも……」
「はい」
「戦車道を、やってみたいんだけど……」
灯里は一瞬だけ黙った。
やっぱり。
原作を知っている自分からすれば、答えは分かっている。
猫田舞は戦車道を始める。
仲間を集め、戦車に乗り、大洗の一員として戦う。
けれど、それを今ここで口にするのは違う。
「なるほど」
灯里は少し考えてから答えた。
「歓迎したいところではあります」
「ほんとかにゃ!?」
猫田の顔が一気に明るくなる。
「ただ……現在は、戦車も搭乗員も足りていません」
「にゃ……」
一気にしぼんだ。
大洗の戦車道部は人手不足である。猫の手でも借りたい。けれど、本当に一人増えただけで戦車が一輌動くほど、戦車道は簡単ではなかった。
「もちろん、練習へ参加したり、欠員が出た時の補助要員として準備したりすることはできると思います。でも、いきなり公式戦に出るのは難しいです」
「そうなのかにゃー……」
猫田の肩がさらに下がる。
「それに、戦車道は意外と体力を使います」
「体力……」
「装填。整備。乗り降り。車内で姿勢を保つのも必要です。操縦席によっては狭いですし、揺れます」
灯里はTOGⅡの車内を思い浮かべた。
「車種によっては、移動するだけで結構疲れます」
「ぼく、あんまり外に出ないにゃ……」
「それなら、少しずつ体力作りを始めておくと良いと思います」
「筋トレ……」
「無理のない範囲で」
猫田は自分の細い腕を見て、遠い目をした。
灯里は、少し言いすぎたかと思う。
けれど、ここで「大丈夫です。あなたはいずれ戦車に乗れます」と言うわけにもいかない。未来を知っていることと、その未来を保証することは別だった。
「それと、一番確実なのは――」
猫田が顔を上げる。
「戦車と、それを動かせる仲間を集めることですね」
「仲間……」
「最低でも三人くらいは、目安にした方が良いと思います。もちろん、必要な人数は車種によって変わりますが」
猫田はしばらく黙った。
「三人……」
少し落ち込んでいる。
やはり現実的な話をしすぎたでしょうか。
灯里がそう思いかけた、その時だった。
「でも、ぼくは諦めないにゃ!」
突然、猫田が顔を上げた。
「ゲームでは三優等! スーパーユニカムなぼくは、ここで諦めないにゃ!」
「……三優等?」
灯里の眉がわずかに動く。
「得意な車輌なら結構取ってるにゃ!」
「スーパーユニカム」
「そうにゃ!」
灯里は改めて猫田を見る。
かなり強いですね、この人。
「戦車ゲームは、どのくらいやっているんですか?」
「ほぼ毎日にゃ」
「車種ごとの装甲配置や弱点も?」
「だいたい覚えてるにゃ。見たら大体どこ撃つか分かるにゃ」
灯里は少しだけ興味を強めた。
昨日、自分はP40について調べた。
ゲームで知っている戦車と、戦車道で実際に動く戦車は同じではない。
だから、ゲームが無意味なのではない。
使い方が違うだけだ。
「それは、役に立つかもしれません」
「ほんとかにゃ!?」
「はい。ただし、ゲームの知識がそのまま戦車道で使えるわけではありません」
「にゃ」
「ゲームなら装甲値や耐久値が表示されます。でも、戦車道では整備状態も、乗員も、地形も違います」
「確かに……」
「ただ、車輌特性や弱点を覚える下地としては、かなり強いと思います」
猫田はぐるぐる眼鏡の奥で目を輝かせた。
「なら、勉強するにゃ!」
「はい」
「筋トレもするにゃ!」
「良いと思います」
「あと、仲間も探すにゃ!」
灯里は何も言わず、続きを待った。
「いつも小隊を組んでるネットの友達にも当たってみるにゃ!」
その言葉に、灯里はほんの少しだけ目を細めた。
やっぱり。
でも、それでいい。
自分が「ゲーム仲間を誘えばいい」と答えを渡したわけではない。猫田自身が、自分で仲間を思い浮かべた。
「良いと思います」
「聞いてみるにゃ!」
猫田はすっかり元気を取り戻していた。
「それなら、もし新しい戦車が見つかったり、追加の搭乗員募集が必要になった時に連絡します」
「ほんとかにゃ!?」
「はい。すぐ公式戦に出られるとは約束できませんが、準備しておいて損はありません」
「連絡先交換するにゃ!」
二人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。
登録された名前を見る。
『猫田舞』
その横に、すぐメッセージが一件届く。
『ねこにゃーです! よろしくにゃ!』
灯里は少しだけ笑った。
「よろしくお願いします。猫田さん」
「ねこにゃーでいいにゃ!」
「では、ねこにゃーさん」
「さんもいらないにゃ!」
「分かりました。ねこにゃー」
「にゃ!」
ねこにゃーは満足そうに頷いた。
「じゃあ、ネットの友達に聞いてくるにゃ! ぼく、頑張るにゃー!」
勢いよく走り出す。
十数メートル。
少しして速度が落ちる。
さらに数メートル。
「はぁ……はぁ……」
止まった。
ねこにゃーは膝に手をついた。
「……まずは体力作りからにゃ」
「それが良いと思います」
灯里は静かに答えた。
ねこにゃーが今度は歩いて去っていく。
その背中を、灯里はしばらく見送った。
原作通りなら、猫田さんには仲間ができる。
そして、いつか大洗の戦車に乗る。
けれど、だからといって先回りしてその未来を作る必要はない。
本人が戦車道をやりたいと思った。
本人が仲間を探そうと思った。
それなら今は、ほんの少し背中を押すくらいでいい。
灯里はスマートフォンをしまい、戦車倉庫へ向かった。
* * *
「遅かったね、灯里ちゃん」
戦車倉庫へ着くと、すでにあんこうチームは練習準備を始めていた。
沙織がⅣ号の横から顔を出す。
「何してたの?」
「猫の手を確保していました」
「猫?」
沙織が首を傾げる。
「猫でありますか?」
優花里まで反応した。
「将来的に、です」
「猫を戦車に乗せるのか」
麻子が言う。
「人です」
「もっと分からん」
華が少し微笑んだ。
「新しい方ですか?」
「はい。戦車道に興味があるそうです」
みほが少し嬉しそうな顔をする。
「そうなんだ」
「ただ、すぐ加入というわけではありません。戦車も足りませんし、本人にも準備が必要です」
「うん。その方がいいと思う」
みほは素直に頷いた。
「やりたいって思ってくれる人が増えるのは、嬉しいね」
「はい」
大洗には、まだ足りないものが多い。
戦車が足りない。
人が足りない。
経験も足りない。
新しく見つかった戦車も、すぐには動かせない。戦力を増やすには整備が必要で、乗員が必要で、練習する時間も必要になる。
それでも、少しずつ人は集まり始めていた。
最初は、戦車道を避けようとしていた西住みほ。
そこへ沙織、華、優花里、麻子が集まった。
それぞれの戦車にもチームができた。
TOGⅡにも、いぬさんチームができた。
そして今度は、まだ戦車に乗っていない一人が、自分から戦車道へ近づこうとしている。
「戸郷さん、準備できました」
TOGⅡの横から、まどかが声をかけた。
「はい。今行きます」
灯里は長い車体へ向かいながら、一度だけ廊下の方を振り返った。
猫の手でも借りたい。
今の大洗なら、本当にそうだった。
でも、その猫の手は、いつか自分で戦車を動かす手になるのかもしれない。
大洗は、まだ強くなる。