アンツィオ戦を目前にして、大洗女子学園の戦車道部は少しずつ忙しさを増していた。
模擬戦で分かった課題を整理し、各車輌の整備を進め、対アンツィオ戦の作戦も詰めていく。その一方、第34話の戦車探しで見つかった新しい車輌たちは、まだ戦場へ出られる状態ではなかった。
戦車は見つかった。けれど、戦車を見つけただけでは戦力にはならない。乗る人が必要で、整備する人が必要で、動かすための時間も必要になる。
そして大洗では、その三つが少しずつ揃い始めていた。
* * *
放課後の風紀委員室では、今日も園みどり子が遅刻者の記録を整理していた。机の上には名簿、出欠記録、生活指導の報告書が整然と並び、向かいではゴモヨとパゾ美もそれぞれの書類へ目を通している。
「最近、遅刻が減ったわね……」
そど子が名簿を見ながら呟く。
「いいことじゃない」
「風紀が良くなってきたのかな」
ゴモヨとパゾ美も顔を上げた。
全国大会が始まってから、校内の空気は確かに変わっている。戦車道部が一回戦を突破し、さらに二回戦へ進出したことで、放課後になると戦車道の話をする生徒も増えた。以前より学校全体に、どこか活気が出ている。
「戦車道のおかげなのかしら……」
そど子は納得しきれない顔で呟いた。
「勝ってるから、みんなちょっと元気なのかも」
「でも、風紀が良くなったかと言われると……」
パゾ美が言葉を濁したところで、そど子の眉が動いた。
「もっとも、最近は変な台車で登校してくる人もいるけど」
「冷泉さん?」
「TOGⅡみたいなやつ」
パゾ美の一言に、そど子が机を叩く。
「あれは徒歩ではありません!」
「でも本人は乗ってるだけだよね」
「だから問題なのよ! 登校とは、自分の足で――」
その時、風紀委員室の扉が開いた。
「おー、いたいた」
三人が一斉に振り向く。
「会長?」
杏がいつもの調子で入ってきた。手には薄い冊子が数冊あり、それを見たそど子が少し警戒した顔になる。
「何のご用ですか?」
「ちょっとねー」
杏は三人の顔を順番に見て、指を折るように数えた。
「一、二、三。ちょうど三人だし、いいねー」
「何がですか?」
「最近、新しい戦車が見つかったんだよ」
ゴモヨとパゾ美が顔を見合わせる。
「戦車?」
「またですか?」
「うん。ルノーB1 bisっていうやつ」
杏は持っていた冊子を三人の前へ置いた。表紙には大きく、『誰でもできる戦車道マニュアル』と書かれている。
そど子はしばらく黙って、それを見た。
「……何ですか、これは」
「初心者向け」
「そういう意味ではありません!」
杏は気にせず続ける。
「調べてみたら、ちょうど三人で動かせそうなんだよねー」
「はい?」
「そのうち乗れるようになるから、ルノーB1 bisよろしくねー」
「はい?」
そど子の声が一段高くなった。
「じゃ!」
杏は手を振って扉へ向かう。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
扉が閉まり、風紀委員室に沈黙が残った。嵐のように現れて、嵐のように去っていった後には、机の上に三冊のマニュアルだけが残されている。
「……どうする?」
ゴモヨが聞いた。
「戦車って、運転したことないよね」
「ない」
「砲も撃ったことないよね」
「ない」
パゾ美とゴモヨは、同時にそど子を見る。
そど子は無言でマニュアルを手に取り、表紙を見て、中を見て、さらに数ページめくった。
「逆に考えるのよ!」
突然立ち上がる。
「え?」
二人が揃って声を出した。
「戦車に乗って風紀を指導すれば――従わない生徒なんていないわ!」
そど子は拳を握る。
ゴモヨとパゾ美が顔を見合わせた。
「そういう使い方なの?」
「戦車で風紀指導……」
「絶対に遅刻させないわよ!」
そど子の目は完全に本気だった。
こうして、その日から風紀委員の仕事が一つ増えた。本人たちが正式に了承したかどうかは、誰も確認していなかった。
* * *
同じ頃、みほ、優花里、灯里の三人は、以前ポルシェティーガーを発見した船底区画へ向かっていた。目的は単純で、あの巨大な車輌が今どうなっているのか確認するためだった。
通路を進むにつれ、遠くから大きな音が聞こえてくる。
ガガガガガッ――! ドンッ! ギィィィ――!
優花里が少し足を止めた。
「工事現場みたいであります……」
「戦車を回収している音には聞こえませんね」
灯里も首を傾げる。
「行ってみよう」
みほを先頭に角を曲がり、さらに下の区画へ進む。そして現場へ着いた瞬間、三人は揃って上を見た。
「……天井」
「なくなっているであります」
「物理的に搬出経路を作ったのですね」
以前まであった倉庫区画の天井が、一部だけ綺麗になくなっていた。その上から大型の吊り上げ設備が下ろされ、太いワイヤーがポルシェティーガーの車体へ繋がれている。オレンジ色のツナギ姿の自動車部員たちが、その周囲を忙しく走り回っていた。
「右、少し上げるよー!」
「了解!」
ナカジマが声を張り、スズキがワイヤーの張りを確認する。ホシノとツチヤも工具や計器を持って動き、ポルシェティーガーの巨体が少しずつ浮き上がっていった。
普通の扉から出せない。通路も狭い。なら、上から出す。
あまりにも大洗らしい解決方法だった。
灯里はしばらく天井と戦車を見比べる。
前の戦車道部は、逆にどうやってここへ運び込んだのでしょうか。
考えても答えは出なかった。
「おー、来たねー」
近くから杏の声がした。生徒会の三人も現場に来ており、桃は腕を組んで自動車部を見ている。
「貴様ら! 休まず働けー!」
「いや、それは無理ですよー!」
「大会は待ってくれないんだぞ!」
「こっちは戦車の他にも天井直してるんですよ!」
桃が一瞬黙った。
ナカジマはさらに続ける。
「今ある戦車の整備もあるし、ポルシェティーガーは重いし、足回りも怪しいし、配線も古いし。これ、勢いで何とかなるタイプじゃないですよ」
「だ、だが戦力は少しでも早く――」
「桃ちゃん」
柚子が止める。
「自動車部のみんなは、普段の戦車も全部見てくれてるんだから」
「自動車部が無理って言うなら、待つしかないねー」
杏も頷いた。
「会長!」
「壊したらもっと遅くなるし」
正論だった。
灯里もポルシェティーガーを見ながら口を開く。
「自動車部には、無理をさせない方が良いと思います」
「戸郷まで……!」
「TOGⅡも毎回お世話になっていますので」
実際、TOGⅡは決して整備の楽な戦車ではない。長い車体に巨大な各部、特殊な部品も多い。それでも毎回問題なく走れているのは、自動車部の支えがあるからだった。
「整備は戦車道の生命線であります!」
優花里も力強く頷く。
「全員で私を責めるな!」
桃が少しだけ肩を落とした。
その横で、みほは吊り上げられているポルシェティーガーの車体を見ていた。
「かなり傷んでるね……」
「うん。動くようにするだけでも、まだ時間かかりそう」
作業の手を止めずに答えるナカジマへ、優花里が興味津々で聞く。
「どの辺りが問題なんですか?」
「いっぱい」
ナカジマは笑った。
「足回り、エンジン、電装、変速まわり。長期間放置されてたから、どこが生きててどこが死んでるかも確認しないと」
「なるほど……しかも、この重量でありますからな」
「そうなんだよねー」
優花里が嬉しそうなのか困っているのか分からない顔をする横で、灯里は車体を見上げた。
「TOGⅡも整備性が良いとは言えませんが……こちらは、別の方向で大変そうですね」
「分かる?」
「はい」
「どっちが大変なんだろうね?」
優花里に聞かれ、灯里は少し考える。
「TOGⅡは大きくて長く、部品の取り回しが大変です。ただ、こちらは構造そのものが少し面倒そうです」
「つまり?」
「TOGⅡより大変かもしれません」
みほの問いに答えると、優花里が目を丸くした。
「戸郷殿がそう言うと、とても大変そうに聞こえるであります」
「褒め言葉ではありません」
そのやり取りを聞きながら、自動車部の四人はむしろ楽しそうだった。面倒そうだと言いながら、嫌そうな顔はしていない。むしろ、分解しがいのある機械を見つけたような表情をしている。
「でもさ、これ直ったら面白そうだよね」
「うん」
「癖が強そう」
「かなり」
ナカジマ、スズキ、ツチヤ、ホシノがポルシェティーガーを眺めながら言葉を交わす。
やがてナカジマが杏へ振り向いた。
「会長」
「んー?」
「これ、修理終わったら私たちが担当してもいい?」
みほが少し驚く。
「自動車部のみんなが?」
「自分たちで直した戦車だしね。相当手のかかる子みたいだし」
ナカジマが車体へ手を置く。
「他の人に渡したら、故障した時に結局私たち呼ばれそうだし」
「だったら最初から乗ってる方が早いよね」
「整備しながら運用できる」
スズキ、ホシノ、ツチヤも自然に続いた。
杏はほとんど迷わない。
「いいんじゃない?」
「待ってください会長! そんな簡単に決めて――」
「乗りたい人がいて、直せる人も同じなら一石二鳥じゃん」
桃が口を閉じる。
柚子も少し考えてから頷いた。
「確かに、整備できる人がそのまま乗員なら心強いですね」
「私もそう思います。自分たちで車輌の状態を分かっているなら、試合中に何か起きた時も対応しやすいと思います」
みほも肯定する。
「じゃ、決まりー」
「まだ正式決定ではないです!」
桃が最後の抵抗をした。
それでも、自動車部の四人はもうポルシェティーガーを自分たちの車輌を見るような目で眺めていた。まだ走らない。名前もない。チームとして正式に決まったわけでもない。
それでも、形はもう見え始めている。
灯里は少し離れた場所から、そのやり取りを眺めた。ルノーB1 bisには風紀委員。ポルシェティーガーには自動車部。そして少し前には、戦車道に興味を持ち始めた猫田さんがいる。
バラバラだった人と戦車が、少しずつ組み合わさっていた。
灯里は、その先にある流れを知っている。いつか風紀委員は戦車に乗り、自動車部も戦車に乗る。猫田舞にも仲間ができる。
けれど今回は、自分がそうなるよう誘導したわけではなかった。杏が風紀委員へ声をかけ、自動車部は自分たちから乗りたいと言い、ねこにゃーも自分で仲間を探すと決めた。
知っていた未来が、自分が何もしなくても少しずつ形になっていく。
そのことが、灯里には少しだけ不思議だった。
「ところで」
みほがナカジマへ聞く。
「アンツィオ戦には、間に合いそうですか?」
「それは無理かなー」
即答だった。
「やはり……」
優花里が少し残念そうに肩を落とす。
「とりあえず動く状態にして、それから調整して、実際に走らせてみないと。乗員の練習も必要でしょ?」
「そうだね。急いで出して故障したら意味ないし」
「じゃ、気長によろしくー」
「気長にだと!?」
「桃ちゃん……」
柚子がため息をついた。
アンツィオ戦には間に合わない。それでいい。新しい戦車が見つかったからといって、次の試合ですぐ使えるほど戦車道は簡単ではない。
灯里はむしろ、その方が自然だと思った。
* * *
作業はその後も続いた。ポルシェティーガーは少しずつ吊り上げられ、オレンジ色のツナギ姿の自動車部員たちがその周囲を忙しく動いている。工具の音、モーターの唸り、ワイヤーが張る音が船底区画に反響していた。
灯里はその様子を見ながら、ふと差し入れのことを考えた。普段からTOGⅡで世話になっているうえ、今度はこの巨大な戦車まで相手にしている。さすがに、何か持ってきた方がいいだろう。
「今度、また差し入れを持ってきます」
「ほんと?」
「はい。冷たい飲み物と、塩分補給用のものを」
「助かるー」
ナカジマが笑う。
みほが灯里を見る。
「戦車の形の?」
「もちろんです」
「やっぱり」
優花里も反応した。
「前に持っていた塩分タブレットでありますか?」
「はい。TOGⅡ型もあります」
「普通の形でいいよー」
ナカジマの言葉に、灯里は少し考える。
「では、戦車各種混合で」
「減ってないね」
みほが小さく笑った。
* * *
夕方。
吊り上げられていくポルシェティーガーの巨体が、船底区画の照明を一瞬遮った。
まだ走れないルノーB1 bisとポルシェティーガー。新しい搭乗員候補も、まだ初心者。猫田舞も、仲間を探し始めたばかりだった。
戦車は見つかった。
人も、少しずつ集まり始めている。
けれど、それが一つのチームになるには、まだ少し時間が必要だった。
その時間が来るのは、アンツィオ戦より、もう少し後のことになる。