練習場の端に、白線とカラーコーンで作られた簡易コースが用意されていた。
直線の先に右折と左折。そこから狭い通路を抜け、少し急な坂を登り、最後は車体を斜めに置いて通路を塞ぐ。見た目だけなら、どこにでもありそうな操縦練習用コースだった。
ただし、そこを走る戦車は普通ではない。
「……長いですね」
小走すずは操縦席から右折用の白線を見て、率直な感想を漏らした。
問題は曲がり角そのものではなく、その先だった。右へ曲がった直後には細い通路があり、普通の戦車なら慎重に入れば通れそうな幅しかない。だがTOGⅡは、曲がりたい場所で車首を向けても、長い後部がまだ前の進路に残っている。
「これ、曲がる戦車じゃなくて、曲げる建物じゃないですか?」
車内が一瞬静かになった。
戸郷灯里は真面目な顔で頷く。
「良い表現です」
「褒めないでください」
「TOGⅡは建物ではありませんが、存在感としては近いものがあります」
「もっと否定してください」
砲手席から、火野まどかが淡々と割って入った。
「戸郷さん、今のは小走さんの悲鳴です」
「悲鳴でしたか」
「はい」
呼子かなえは手元のメモへ目を落とす。
「本日の練習項目は、曲がり角、坂道、狭い通路、停止位置確認です」
「全部、TOGⅡの苦手分野ですね」
米倉ちとせが穏やかに言うと、早見りんも頷いた。
「苦手盛り合わせです」
「苦手ではありません。TOGⅡの個性確認です」
「言い方を変えても、曲がりにくいことは変わりません」
まどかが即座に現実へ戻す。
すずは少しだけ笑った。
緊張はある。それでも、笑える程度には落ち着いている。
「始めます」
すずが操縦桿を握り直し、TOGⅡをゆっくり前進させた。
* * *
TOGⅡは急がない。
急げない、とも言う。
重いエンジン音とともに車体が動き出し、操縦席へ履帯の振動が伝わる。給食部で押している配膳ワゴンとは比べるまでもない。ワゴンなら人の流れを見ながら少し早めに角度をつければ狭い通路も抜けられるが、TOGⅡでは動かす前に、どこで曲がり始め、どこで止まり、後部がどこを通るのかまで決めなければならなかった。
すずは右折の白線を見る。
「右折、入ります」
「了解です。ただし小走さん、白線のところで曲がると遅いです」
「分かってます」
白線より少し手前で操縦桿を切る。
だが、反応が鈍い。
「……あれ」
曲がってはいる。
ただ、すずが頭の中で描いた軌道より、TOGⅡの車体はずっと長く直進を続けていた。車首だけが先に右へ向き、後部はまだ元の進路に残っている。
「右後方、コーン接近です」
「止めます」
かなえの報告に合わせ、すずがブレーキを踏む。
長い車体が重く沈むように止まり、遅れてきた後部履帯がカラーコーンを一つ倒した。
からん、と軽い音がする。
「接触しました」
「今の、後ろが追いついていませんでした」
まどかの指摘に、すずは小さく肩を落とした。
「曲がる前から曲がったつもりだったんですけど」
「TOGⅡ基準では、まだ直進気分でしたね」
「気分で走る戦車なんですか」
「TOGⅡにも気分はあります」
「ありません」
まどかが即答する。
すずは息を吐き、もう一度前を見る。
「もう一回お願いします」
「もちろんです。TOGⅡは一度で曲がれなくても可愛いです」
「戸郷さん」
すずは操縦席から振り返らない。
「今は可愛さより、角度が欲しいです」
「はい」
灯里は素直に黙った。
* * *
二回目は、今度こそ早く曲がろうとして、逆に切り始めが早すぎた。
TOGⅡの前部が通路の内側へ入り込み、車体全体が斜めになったまま入口へ差しかかる。通れないわけではない。しかし、そのまま入れば後で切り返す余裕がほとんど残らない。
「入れます」
すずが言う。
かなえは外の確認係から送られた合図を見て、少しだけ言いにくそうに続けた。
「入れますが、出にくいそうです」
「それは、入れていると言っていいのでしょうか」
ちとせが首を傾げる。
「給食ワゴンなら、戻して切り直します。でもTOGⅡで戻すの、すごく大変です」
「はい。TOGⅡは戻るのも大仕事です」
灯里はなぜか誇らしげだった。
「誇るところではありません」
まどかが止める。
すずは操縦桿に手を置いたまま、通路の先を見た。
配膳ワゴンでも、狭い場所へ入る時は曲がり角そのものを見続けない。人の流れや出口を先に見て、ワゴンを最後にどこへ置くか決めてから角度を作る。
「……先に出口」
「小走さん?」
「曲がり角を見ていると遅れます。出口を見ます」
灯里の声が少しだけ真面目になる。
「良い判断です。TOGⅡは、曲がる場所より曲がり終わった場所を先に決めた方がいいです」
「最初からそう言ってください」
「言いました」
「もう少し短くお願いします」
「出口を見てください」
「分かりました」
すずは操縦桿を握り直した。
一度車体を戻す。後退だけでも時間はかかるが、その間に次の軌道を頭の中へ描いていく。
前だけではなく、後ろ。
入口ではなく、出口。
曲がる場所ではなく、置く場所。
「三回目、いきます」
TOGⅡが再び動き出す。
今度は白線ではなく、その先の通路を見る。内側の余白、外側のコーン、後部履帯が通る位置を先に決め、少し早めに車首を向ける。
焦ってさらに切らない。
後ろがついてくるのを待つ。
「右後方、余裕あります」
かなえの報告。
「前方、通路入ります」
すずは速度を抑えたままTOGⅡを進めた。
ぎりぎりではない。
余裕があるわけでもない。
それでも、今度はコーンを倒さず通路へ入れた。
「通過しました」
「やりました!」
りんが声を上げる。
「まだです。出るところまでです」
すずはすぐに返した。
その言葉に、灯里が少しだけ目を細める。
「小走さん、良いです」
「褒めるのは、出てからでお願いします」
「了解です」
長い車体が少しずつ通路を抜け、最後に後部が外へ出る。
「……出ました」
すずがようやく息を吐くと、車内に小さな拍手が起きた。
* * *
次の課題は坂道だった。
練習場の緩い斜面には途中に停止線が引かれ、そこまで登って一度停止し、再発進して頂上まで抜ける。言葉にすれば簡単だが、重いTOGⅡでは動き出しも止まり方も平地とは違う。
「坂、嫌ですね」
「TOGⅡは重いですからね」
ちとせが言う。
「重厚感です」
「重量です」
灯里の訂正を、まどかがさらに訂正する。
すずは苦笑した。
「行きます」
TOGⅡが坂へ入る。
速度がさらに落ち、エンジン音も一段重くなる。履帯から伝わる振動に、平地とは違う抵抗が混じった。
「登っていますか?」
りんが不安そうに聞く。
「登っています。少しずつ」
「TOGⅡらしい登坂です」
「それ、褒めてますか」
「かなり」
「なら、受け取らないでおきます」
停止線が近づく。
すずは早めに速度を落とし、重い車体を坂の途中で止めた。
「停止しました」
「後退、なし」
かなえが確認する。
すずはブレーキを保ったまま息を整える。
「ここから再発進します」
問題はそこだった。
坂道で一度止まったTOGⅡを、今度は前へ出さなければならない。焦って力を入れれば車体がぎくしゃくし、慎重すぎれば動き出さない。
すずは足元の感覚を確かめた。
給食部でも、空の配膳ワゴンと、大鍋や食器を満載したワゴンでは動き始めが違う。重いものは先に力を掛ける必要があるが、勢いをつけすぎれば中身が崩れる。
「……重いものは、先に押す。でも、押しすぎると崩れる」
少しずつ力を掛ける。
TOGⅡが低く唸る。
まだ動かない。
もう少し。
車体がわずかに前へ出る。
「動きました」
かなえの声。
すずはそこで踏み込みすぎず、速度を一定に保った。重い車体を暴れさせないまま坂を登り切り、履帯が平地へ戻ったところでようやく肩の力を抜く。
「通過です」
ちとせがほっと息を吐いた。
「坂道、怖いですね」
「はい。でも、少し分かりました」
すずが答える。
「何がですか」
まどかが聞いた。
「TOGⅡは、急に言うことを聞いてくれる戦車じゃありません。先にお願いしておかないと、動いてくれません」
灯里が感動したように振り返る。
「小走さん、TOGⅡと会話していますね」
「していません」
「かなりしています」
「感覚の話です」
まどかが少し笑った。
「戸郷さん、その表現だと小走さんが困ります」
「すみません」
灯里は素直に引く。
次は最後の課題。
通路封鎖だった。
* * *
練習場の一角には、左右をコーンで囲った細い道が作られている。
想定は、正面から敵の軽戦車が接近し、味方は左後方へ撤退中。TOGⅡは通路へ斜めに入り、敵の追撃を止めつつ味方の退路を残す。
ただ止まればいいわけではない。
深く入りすぎれば、自分が動けなくなる。浅ければ敵が抜け、角度を誤れば味方の射線や退路まで塞ぐ。何よりTOGⅡは、一度置いたら簡単には戻せない。
「責任が重いですね」
「TOGⅡも重いです」
「今は本当に重い話です」
「すみません」
灯里がまた静かになる。
かなえが状況を読み上げた。
「想定、敵軽戦車が正面通路から接近。味方は左後方へ撤退中。いぬさんチームは敵の追撃を止めます」
「逃げ道を守る位置ですね」
まどかが確認する。
「はい」
灯里の声も引き締まった。
「小走さん。無理に奥へ入る必要はありません。敵が嫌がる位置にTOGⅡを置いてください」
「置く」
すずはその言葉を繰り返した。
速く走るのではなく、先にそこへいる。
曲がることそのものより、最後にどこへ置くか。
TOGⅡの長さも重さも、味方にとって扱いづらいなら、敵にとっても同じだった。
「行きます」
すずが前進させる。
通路の入口へ近づき、早めに右へ角度を作る。
「右後方、余裕あり。左前方、通路中央です」
「もう少し入ります」
かなえの報告を聞きながら、すずは少しだけ車体を進める。
TOGⅡの長い側面が通路へ斜めに入り、正面から見た道幅を少しずつ奪っていく。
「ここだと、左が空きます」
まどかが覗き窓から確認した。
「少し戻します」
すずは後部の位置を残しながら、前側だけをわずかに調整する。
戻しすぎない。
切りすぎない。
配膳台を置く時と似ていた。厨房の入口を塞がず、それでも人の流れを整える。大きなものは、どこに置くかで周囲の動きを変える。
「……ここ」
すずがブレーキを踏んだ。
TOGⅡが止まる。
長い車体が通路を斜めに塞ぎ、敵側から見れば抜けられそうで抜けられない。その一方で、左後方には味方が退避できる細い経路が残っていた。
「停止しました。通路、封鎖。味方退避路、確保」
かなえの確認が入る。
灯里はしばらく前を見てから口を開いた。
「小走さん」
「はい」
「完璧に近いです。敵には邪魔で、味方には壁になる位置です」
すずはその言葉を聞いて、ようやく肩の力を抜いた。
「この位置なら、砲撃もできます」
まどかが照準を確認する。
「装填もしやすいです。さっきより揺れが少ないですね」
ちとせが言うと、りんも続いた。
「これなら次も流せます」
「停止位置、記録します」
かなえはすぐにメモを取る。
すずは操縦席から前方を見る。
倒れていないコーン。
塞がった通路。
残された味方の逃げ道。
さっきまで怖かったTOGⅡの長さが、今は敵の進路を止めている。重さは簡単には動かない壁になり、遅さは無理に追わず、この位置を守る理由にもなる。
「……遅いけど」
すずは小さく呟いた。
「読める」
灯里は珍しく何も足さず、ただ静かに頷いた。
* * *
練習が終わった後、すずは一人でコースを歩いていた。
白線の曲がり角、倒したコーン、坂道の停止位置、最後にTOGⅡを斜めに置いた通路。戦車の中から見ていた時とは距離感が違い、歩いてみると通れそうに見えた場所が意外と狭く、余裕がありそうな場所でも後部にはほとんど残っていない。
すずが曲がり角の白線へしゃがみ込んでいると、後ろから足音がした。
「練習か」
「はい。冷泉さん」
麻子だった。
いつも通り眠そうな顔でコースを眺める。
「長いな」
「長いです」
「曲がれたか」
「何回か、曲がれませんでした」
「だろうな」
あまりにもあっさり言われ、すずは苦笑した。
「冷泉さんなら、どう曲がりますか」
麻子は少し考えた。
長く考えているようにも見えたが、単に眠かっただけかもしれない。
「早く曲がろうとしない方がいい」
「早く、ですか」
「長いものは、遅れてついてくる」
麻子は白線ではなく、その先の出口を指した。
「先に出口を見ろ」
すずはその言葉を静かに受け取る。
「……今日、少しだけ分かりました」
「なら、いい」
「冷泉さんは、すごいですね」
「眠いだけだ」
「操縦もすごいです」
「それは、まあ」
麻子が少しだけ目を逸らす。
そこへ灯里がやってきた。
「冷泉さん、TOGⅡの本質を理解していますね」
「長いからな」
「理解者ですか」
「長いだけだ」
すずは二人のやり取りを聞きながら、もう一度コースを見る。
早く曲がろうとしない。
出口を見る。
後ろは遅れてついてくる。
置く場所を先に決める。
どれもTOGⅡを速くするための言葉ではない。
それでも、TOGⅡを動かすためには必要な言葉だった。
* * *
夕方。
いぬさんチームは練習後の片付けを終え、TOGⅡは練習場の端でエンジンを止めていた。
夕日を受けた長い車体は、やっぱり大きく、やっぱり少し邪魔で、それでもどこか堂々として見える。
すずはその横に立った。
「戸郷さん」
「はい」
「TOGⅡは、速く動かす戦車ではないんですね」
「はい」
灯里は静かに頷いた。
「間に合わないなら、先にいる戦車です」
「置く戦車」
「はい。小走さんが今日、そうしてくれました」
すずは少し照れたように視線を落とす。
「まだ何回も詰まりました」
「詰まるのも経験です」
「TOGⅡは詰まるんですね」
「町がTOGⅡを受け止めきれないだけです」
「それを詰まるって言います」
まどかが横から言った。
かなえはメモを閉じる。
「今日の記録、まとめました。曲がり始めの位置、坂道の再発進、通路封鎖の停止角度。次回から比較できます」
「ありがとうございます」
「通路を塞いだ時、車内の揺れが少なかったです」
ちとせが続ける。
「はい。装填しやすかったです!」
りんも頷いた。
すずは少し驚いて二人を見る。
「そうなんですか」
「止まり方が安定していました」
「次の動きが分かると、準備しやすいです」
自分がどこへ止めるか。
どのタイミングで曲がり、どの角度で車体を置くか。
その判断は砲撃にも装填にも無線にも、そして灯里が次に出す指示にも繋がっている。
操縦手は、ただ走る係ではない。
TOGⅡを、どこへ置くか決める係なのだ。
「……責任、重いですね」
すずが言う。
「TOGⅡと同じくらい」
「それは重すぎます」
「では、少し軽めに」
「お願いします」
皆が笑う。
すずも少しだけ笑ってから、もう一度TOGⅡを見上げた。
長い。
重い。
遅い。
曲がりにくい。
止まるのも戻るのも大変だ。
けれど。
「遅いけど、読める」
すずがもう一度口にする。
灯里が嬉しそうに振り返った。
「小走さん」
「はい」
「それは、かなりTOGⅡの操縦手です」
「まだ練習中です」
「練習中のTOGⅡ操縦手です」
「長いです」
「TOGⅡですので」
まどかが小さくため息をつく。
「そこで戻るんですね」
かなえは笑いながら、メモの最後に一行を書き足した。
小走すず。
TOGⅡを速く走らせるのではなく、置く場所を読み始める。
いぬさんチームのTOGⅡは、たぶんこれからも速くはならない。
けれど、どこにいればいいのかを読む操縦手がいる。
長すぎる曲がり角の向こうで、すずは少しずつ、TOGⅡを戦場へ置く方法を覚え始めていた。
これにて、2.5章おしまいです…!
次はプラウダ戦となります!