翌朝。
教室に入ってきた西住みほを見て、戸郷灯里はすぐに気づいた。
顔色が悪い。
昨日よりも、少しだけ目元が重い。うっすらと隈があり、髪もいつもよりほんの少しだけ整いきっていない。眠れていないのだろう。
「みほ、おはよー」
武部沙織が明るく声をかける。
「……おはよう、沙織さん」
みほは笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ薄い。
五十鈴華も、すぐに気づいたようだった。
「西住さん、お顔の色があまりよろしくありませんね」
「大丈夫。ちょっと、考えごとしてただけだから」
みほはそう言った。
その言葉に嘘はないのだろう。ただ、全部ではない。
考えごとの中身は、きっと戦車道だ。昨日、体育館で発表された選択科目。そして、みほが避けたかったもの。
沙織は心配そうに、みほの顔を覗き込む。
「寝不足?」
「少しだけ」
「無理しちゃダメだよ」
「うん。ありがとう」
灯里は、そのやり取りを少し離れた席から見ていた。
ここで自分が前に出る必要はない。そう思った。
みほの隣には、沙織と華がいる。昨日の保健室でも、二人はみほのために自然にそばにいた。それが、今のみほには必要なのだと思う。
灯里は、鞄の中から自分の履修届を取り出した。
戦車道の欄には、相変わらず綺麗な丸がついている。自分でつけた覚えはない。だが、消すつもりもない。
TOGⅡがある。自分の理由がある。だから灯里は戦車道を選ぶ。
けれど、それはみほにも同じことを求める理由にはならない。
誰かが選ぶものと、自分が選ぶものは違う。
それを間違えてはいけない。
* * *
朝のホームルーム前。
教室のあちこちで、生徒たちが履修届に丸をつけていた。
「何にする?」
「書道かなー」
「昨日の戦車道、ちょっと気になるよね」
「食券百枚って本当かな」
「でも戦車だよ? 怖くない?」
「単位三倍っていうのも本当なのかな」
戦車道という言葉は、昨日の説明会からずっと教室の中に残っていた。
興味を持つ生徒もいる。怖がる生徒もいる。特典だけを気にしている生徒もいる。
その中で、みほは自分の履修届を見つめていた。
戦車道の欄。その少し下に、香道の欄。
みほのペン先は、なかなか動かなかった。
「みほ」
沙織が、そっと声をかける。
「急がなくていいよ」
「うん……」
みほは小さく頷く。
それから、ゆっくりとペン先が動いた。
丸がついたのは――香道だった。
沙織と華は、黙ってそれを見ていた。
みほは、申し訳なさそうに二人を見る。
「ごめんね……私、やっぱり……どうしても戦車道、したくなくて」
沙織はすぐに首を横に振った。
「謝ることじゃないよ」
「でも、昨日、二人とも少し興味あるって……」
「興味はあるよ。でも、みほがつらそうなのに、無理してまでやることじゃないでしょ」
沙織はそう言うと、自分の履修届を見た。そして、迷わず香道に丸をつける。
みほが目を見開いた。
「沙織さん……?」
「一緒のにするって言ったじゃん」
華も静かに微笑んだ。
「香道にも興味がありますし」
そう言って、華も香道に丸をつけた。
「五十鈴さんまで……」
「西住さんが選んだものですから」
華の声は穏やかだった。
「それに、香りを学ぶというのも、きっと奥深いものだと思います」
「そうそう。女子力高そうだし」
沙織が明るく笑う。
みほは、泣きそうな顔で二人を見た。
灯里は、その光景を静かに見ていた。
自分はここに混ざらない方がいい。そう思った。
みほが今必要としているのは、同じクラスの転校生の理屈ではない。普通の友達が、自分と同じ場所に立ってくれるという安心感だ。沙織と華は、それを自然にしている。
灯里は、机の上の履修届を見た。
自分の戦車道の丸。みほの香道の丸。
どちらも、選択だった。
たとえ、その選択が後で変わるとしても。
この瞬間、みほが自分で香道を選んだことは、ちゃんと守られるべきだと思った。
* * *
昼休み。
食堂はいつも以上に賑やかだった。
理由は明らかだった。戦車道である。
昨日の説明会と、今朝の履修届。その話題で、生徒たちはあちこちで盛り上がっている。
「戦車道って、本当に戦車に乗るんでしょ?」
「見学だけなら行ってみたいかも」
「食券百枚なら、ちょっと考える」
「でも怖いよね」
「安全なんじゃないの?」
「単位三倍って、どこまで本当なんだろ」
そんな声を聞きながら、灯里は購買で買ったパンを手に席へ着いた。
近くには、みほ、沙織、華の三人がいる。みほの手元には、香道に丸をつけた履修届があった。
それを見て、沙織が明るく言った。
「香道って、お香とかやるんだよね?」
「たぶん」
みほが少しだけ笑う。
「落ち着きそうでいいかも」
「いいじゃん。戦車よりずっと静かそう」
沙織がそう言うと、華が穏やかに頷いた。
「香りを聞く、という言い方もあるそうです。心を整えるには良いかもしれません」
「へえ、香りを聞くんだ」
「素敵な表現ですね」
三人の空気が、少しだけ柔らかくなる。
灯里はそれを見て、ほっとした。
その時だった。
食堂の入り口に、河嶋桃の姿が現れた。周囲の生徒たちが少しざわつく中、桃はまっすぐ、みほたちの席へ向かってくる。
「西住」
みほの肩が小さく揺れた。
「生徒会室まで来てもらう」
沙織がすぐに反応する。
「またですか?」
「履修届について確認がある」
桃の視線が、みほの手元の紙へ向く。
香道。その丸を見た瞬間、桃の眉が少し動いた。
みほは、静かに履修届を持ち直す。
「……分かりました」
沙織が立ち上がった。
「私も行きます」
「武部には関係ない」
「あります。みほの友達です」
桃が言葉に詰まる。
華も、静かに立ち上がった。
「私もご一緒します」
「五十鈴まで……」
灯里は、自分の履修届を鞄にしまいながら立った。
「私も行きます」
「戸郷もか」
「はい。戦車道履修者ですので、無関係ではないと思います」
桃は少し困ったように眉を寄せた。しかし、強く拒否はしなかった。
沙織が力強く頷く。
「じゃあ、四人で行こう」
みほは、少しだけ迷ってから頷いた。
「……ありがとう」
四人は、食堂を出た。
* * *
生徒会室の扉の前で、みほは一度立ち止まった。
沙織が隣に立つ。華は反対側に並ぶ。灯里は半歩後ろ。
みほの指が、制服の裾をぎゅっと握っている。
「大丈夫」
沙織が小さく言った。
「私たちもいるから」
みほは、こくりと頷いた。
灯里は扉を見た。
この向こうにいる生徒会にも、事情がある。それを灯里は知っている。
大洗女子学園の廃校。その危機が、彼女たちを強引にしている。
でも、事情があることと、みほの意思を踏みにじっていいことは別だ。
灯里は、自分の中で線を引いた。
みほを説得するつもりはない。ただ、みほが自分で選べるようにしたい。
「失礼します」
みほが扉を開けた。
生徒会室には、角谷杏、小山柚子、河嶋桃の三人がいた。
桃は机の上に一枚の紙を置いている。みほの履修届だ。
香道に丸がついている。
桃が厳しい顔で言った。
「西住。これはどういうことだ?」
みほは俯いた。
「……私は、香道を選びました」
「なぜ戦車道を選択しない?」
桃の声が少し強くなる。
沙織が一歩前に出ようとするが、みほが小さく手で制した。
杏は机の向こうで、不機嫌そうに頬杖をついている。
「なんで選択しないかなー」
いつもの軽さはある。
でも、声には明らかに焦りが混ざっていた。
柚子は書類を見ながら、ほとんど青ざめている。
「西住さんが参加しないとなると、戦車道経験者は……」
桃の視線が灯里に向く。
「一人、一応いるにはいるが」
「一応とは」
灯里は思わず返した。
桃は少し気まずそうに咳払いをする。
「いや、元聖グロリアーナの戦車道経験者ではあるが、総隊長としての指揮経験があるわけではないだろう」
「それは否定しません」
灯里は素直に答えた。
自分は総隊長タイプではない。副官、盾役、現場判断型。TOGⅡの運用なら自信がある。
だが、大洗全体を率いるとなれば話は違う。
柚子が頭を抱えた。
「終了です……我が校は終了です……!」
「小山、落ち着け」
桃が言うが、桃自身も落ち着いているとは言い難かった。
杏は、みほを見る。
「西住ちゃんさー、昨日も言ったけど、戦車道やってくれないと困るんだよね」
「でも……私は……」
みほの声は小さい。
沙織が、ついに前に出た。
「みほが嫌だって言ってるのに、無理やりやらせるのは違うと思います!」
桃が眉を寄せる。
「これは学校のためでもある」
「でも、みほの気持ちはどうなるんですか?」
沙織は引かなかった。
華も静かに続ける。
「本人の意思を無視して履修を迫るのは、あまりに一方的です」
その声は穏やかだったが、芯があった。
灯里も口を開く。
「私も、本人の意思は尊重されるべきだと思います」
杏の視線が灯里へ向く。
「戸郷ちゃんは戦車道やるんでしょ?」
「やります」
「じゃあいいじゃん。西住ちゃんもやれば」
「私は私の理由で選びました。西住さんには、西住さんの理由があります」
生徒会室が少し静かになった。
灯里は続けた。
「戦車道を選ぶことも、選ばないことも、本人が決めるべきです」
桃が何か言おうとする。
けれど、その前に杏が口を開いた。
「じゃあさ」
軽い声だった。
だが、その場の空気が少し変わる。
「あんたたち、この学校にいられなくするよ?」
沙織の表情が固まった。
「え……?」
華の目が細くなる。
「脅すなんて、卑怯です」
柚子が慌てる。
「会長……!」
桃も一瞬、言葉を失った。
杏は、表情を大きく変えない。
けれど、灯里には分かった。
これはただの意地悪ではない。
杏は知っているのだ。本当に、この学校にいられなくなる未来を。
だから、その言葉を使っている。
けれど。
それを今のみほにぶつけるのは、あまりにも重い。
沙織が声を張った。
「そんなのおかしいです!」
華も一歩も引かない。
「西住さんが望まないのであれば、私たちも納得できません」
「そうだよ! みほが嫌がってるのに!」
沙織の声は震えていた。
怒っているからだ。怖いからでもある。
みほは、そんな二人を見ていた。
自分のために怒ってくれている。自分のために、一緒に香道を選んでくれた。自分のために、生徒会の前で立ってくれている。
その事実が、みほの表情を変えた。
「……沙織さん」
みほが、小さく声を出す。
沙織が振り返った。
「みほ?」
みほは、自分の履修届を見た。
香道の丸。自分で選んだもの。逃げるためではなく、戦車道ではない場所で自分を取り戻すために選んだもの。
それは、間違いではない。
けれど。
目の前の沙織と華を見て、みほは少しだけ息を吸った。
「……ごめん」
その声は、震えていた。
「私、戦車道をやります」
生徒会室が静かになった。
沙織が目を見開く。
「みほ……?」
「沙織さんと五十鈴さんを巻き込むのは、嫌だから」
「巻き込んでなんかないよ!」
沙織がすぐに言う。
みほは首を横に振った。
「ううん。二人が一緒にいてくれたから、私、ちゃんと考えられた」
みほは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「怖いのは、まだ怖い。戦車道をやりたいって、今すぐ言えるわけじゃない。でも……二人が私のために怒ってくれたのを見て、逃げるだけじゃ駄目だと思った」
その言葉に、灯里は何も言わなかった。
これは、みほの選択だ。
誰かに押しつけられたものではない。完全に前向きなものでもない。それでも、今のみほが自分で出した答えだった。
杏は、少しだけ目を細める。
「じゃ、戦車道でいいんだね?」
みほは頷いた。
「はい」
桃が大きく息を吐いた。
「よし。これで――」
「ただし」
みほの声に、桃が止まる。
みほは、顔を上げた。
「沙織さんと五十鈴さんを、無理に巻き込むのはやめてください」
沙織と華が、みほを見る。
杏が少し黙る。
けれど、次に口を開いたのは沙織だった。
「私もやる」
みほが振り返る。
「え?」
「私も、戦車道やる」
沙織は自分の履修届を持ち上げた。
「みほがやるなら、私も一緒にやるよ」
「でも、さっき香道に……」
「変える」
沙織はきっぱり言った。
「一緒に考えるって言ったでしょ。みほが戦車道を選ぶなら、今度はそっちに一緒に行く」
華も、静かに頷いた。
「私も、ご一緒します」
「五十鈴さん……」
「香道にも興味はありましたが、西住さんが戦車道へ向かわれるのであれば、私もそちらへ参ります」
華は穏やかに微笑む。
「それに、戦車道にも礼節や所作があると伺いました。学ぶものは多そうです」
沙織が笑う。
「華、そこなんだ」
「はい。興味があります」
みほは二人を見た。
泣きそうな顔で、けれど、少しだけ笑って。
「……ありがとう」
灯里は、その様子を見て胸の奥で息を吐いた。
西住さんが選んだ。
沙織さんと五十鈴さんも、自分で選んだ。
その事実が、何より大事だった。
杏がぱん、と手を叩いた。
「はい、決まりー。西住ちゃん、武部ちゃん、五十鈴ちゃん、戦車道ね」
桃がすぐに書類を取り出す。
「履修変更手続きを行う。小山」
「うん」
柚子は少しほっとしたように、書類を揃え始めた。
杏は灯里を見る。
「戸郷ちゃんも、もちろん戦車道」
「私の履修届は、最初からそうなっていました」
「うん。知ってる」
「知っていたんですか」
「うん」
灯里は無言で杏を見た。
杏はにこにこと笑っている。
「TOGⅡあるし」
「理由が強いですね」
「でしょ」
桃が咳払いをする。
「ともかく、これで戦車道履修者の中心は決まった。だが、問題はまだある」
みほが顔を上げる。
「問題、ですか?」
桃は重々しく頷いた。
「戦車がない」
生徒会室に、また沈黙が落ちた。
沙織がゆっくりと聞く。
「えっと……戦車道なのに?」
「うむ」
「戦車が?」
「ない」
灯里は手を上げた。
「TOGⅡはあります」
「それは知っている」
「戦車です」
「分かっている」
「長いですが」
「それも分かっている」
桃は少し疲れた顔で言った。
「だが、TOGⅡ一両で戦車道はできない」
「それは否定しません」
灯里も素直に頷く。
TOGⅡは強い。いや、強いというより、存在感がある。
だが、一両で全てを解決できる万能戦車ではない。むしろ扱いづらい。長い。遅い。目立つ。そして、曲がり角に弱い。
杏が軽い調子で言った。
「というわけで、次は戦車探しね」
沙織が目を丸くする。
「戦車って、探すものなんですか?」
「大洗ではそうみたい」
「そうみたいって……」
華は少し驚きつつも、どこか楽しそうに言った。
「宝探しのようですね」
みほは、まだ戸惑っている。
けれど、その目には、さっきまでとは違う光が少しだけあった。
灯里はそれを見て、静かに思う。
ここから始まる。
西住みほの戦車道が。
そして、自分たちの大洗の戦車道が。
杏は、のんびりと干し芋をかじりながら言った。
「じゃ、放課後よろしくー」
桃が書類をまとめる。
「戦車道履修者は、放課後に倉庫前へ集合だ」
灯里は、小さく頷いた。
放課後。戦車探し。TOGⅡだけではない、大洗の戦車たち。
映画で見た始まりが、少しだけ違う形で動き出す。
灯里は、みほの横顔を見た。
まだ不安はある。迷いもある。それでも、西住みほは選んだ。
戦車道を。
そして、その選択の隣には、沙織と華がいた。
灯里は、そっと自分の履修届を握り直した。
自分も選んだのだ。
TOGⅡと共に、この道へ進むことを。