『名探偵コナン』オリ主・銀編   作:トート

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第1話:観察者のロジック

1. 教室の解像度

放課後を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、帝丹高校2年B組の教室は、せきを切ったような喧騒に包まれた。部活動へ向かう生徒たちの足音、夕暮れの予定を話し合う高い声、机を引く乾いた音。そのすべてが、白銀銀(しろがね ぎん)にとっては「過剰な情報」として脳内に流れ込んでくる。

銀は窓際の最後列の席で、手元にある太宰治の文庫本に視線を落としたままでいた。だが、彼の意識は文字を追うことには使われていない。ただ、視界の端に映る「一人の少女」の後ろ姿から、頼みもしないのにログが弾き出されていく。

(――右足の踏み込みが2センチ浅い。歩幅が通常よりわずかに狭く、重心が左に偏っている。それに加えて、意識が右上肢に集中しているな。つまり、毛利さんは昨日の空手の練習で右肩を軽い筋肉痛にしている)

銀はページをめくるフリをしながら、さらに観察の精度を上げる。

(スマートフォンの画面を確認する回数は、この30分間で12回。およそ3分に1回。画面を見つめる時間は平均して0.8秒。着信を待っているが、何も届いていない。その落胆を隠すために、眉間を寄せる癖が、コンマ数秒だけ現れる。睡眠不足の兆候、目の下の微かな陰。工藤新一からの連絡を待っている時の、いつもの特有の焦燥だ)

見えすぎるということは、一種の呪いだ。

人間の視線、呼吸の深さ、衣服の擦れる音、わずかな歩幅の変化。それらを脳が勝手に拾い上げ、その人物が何を考え、何を隠そうとしているのかを100%見抜いてしまう。銀にとって、この2年B組という教室は、嘘と本音が剥き出しになった、あまりにも解像度の高すぎる空間だった。

「ねえ、そこの人間観察ストーカーくん」

不意に、真上から遮るような影が落ち、鋭い声が鼓膜を叩いた。

銀がゆっくりと顔を上げると、カチューシャを直しながらニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた鈴木園子が、彼の机に両手を突いていた。

「なにか用、鈴木さん。僕は今、太宰治の陰鬱な世界に没頭して、自分の精神を削っているところなんだけど」

「嘘おっしゃい。あんたの目、15度右を向いてたわよ。つまり蘭の背中に、レーザービームでも撃ちそうな勢いで固定されてたってこと。白白堂々と読書を隠れ蓑にするんじゃないわよ」

園子はフンと鼻を鳴らし、近くの椅子を勝手に引き寄せて腰掛けた。

「あんたさー、いつもそうやって一歩引いたところから蘭のこと見てるけど、本当に手を出さなくていいわけ?」

「……人聞きが悪いな。僕はただの『クラスの背景』だ。世界の片隅で、静かに呼吸しているだけの無害な存在だよ。それに、主役が不在の舞台で、ヒロインに無駄なアプローチをかけるほど、僕は安っぽいロマンチストじゃない」

銀が声音に温度を乗せず、冷淡に言い放つ。しかし、園子はそんな銀の態度を百も承知といった様子で、身を乗り出してきた。

「でもさ、あの推理オタク、もう何ヶ月も学校に来てないのよ? 蘭だって、口では『難しい事件で忙しいんだから、信じて待ってる』なんて健気なこと言ってるけどさ。本当は寂しくて寂しくて、今にも泣き出しそうなの、あんたのその特級品の観察眼なら分かってるんでしょ?」

銀は文庫本をパタンと静かに閉じた。

眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、鋭い双眸で園子を真っ直ぐに見据える。その瞳に、一瞬だけ、ナイフのような冷徹な光が宿った。

「工藤新一が、ただの傲慢なバカだということには完全に同意するよ」

「へえ、言うじゃない」

「あんな綺麗な女の子を、たかが事件だ何だと不透明な理由で一人にして、何ヶ月も放置して街を飛び回っている神経がわからない。僕なら、彼女を泣かせるようなリスクは最初から徹底的に排除する。世界中のどんな難解な謎を解き明かすよりも、彼女の隣でその機嫌を最優先にするのが、男としての最低限のロジックだ。……まぁ、僕にはその資格も権利もないから、ただの机上の空論として言っているだけだけどね」

銀の言葉は、酷く合理的で、同時に歪んだ執着を孕んでいた。

園子は一瞬だけその迫力に圧倒されたが、すぐに「ひゅーひゅー!」と調子外れな声を上げて、銀の背中をバシバシと力任せに叩いた。

「言うねえ銀くん! そのセリフ、本当に録音してあのホームズオタクの耳元で大音量で流してやりたいわ! 蘭もさ、あんな不誠実な男なんかポイして、あんたみたいに過保護な男に乗り換えちゃえば楽なのにねー!」

「声が大きいよ、鈴木さん。背景としての僕の擬態が解ける」

二人の騒がしい掛け合いに気づいて、窓際で鞄をまとめていた蘭が、不思議そうに振り返った。

「園子、銀くんと何をお話ししてるの? 廊下まで聞こえそうな声だったよ」

「ん? なーに、ちょっとね。男の甲斐性と、逃げた魚はいつまでも戻らないって話!」

「もう、園子ったらまた変なこと言って……。ごめんね、銀くん。園子が迷惑かけて」

蘭が困ったように微笑む。その眉の下げ方、口元の歪み方。やはり、先ほど銀が脳内で弾き出した通りの「隠しきれない疲労」と「寂しさ」のシグナルが、明確に発信されていた。

銀はゆっくりと席を立ち、自分の黒い学生鞄を肩にかけた。そして、蘭のすぐ隣の通路を通り過ぎる瞬間に、誰にも聞こえないほどの低い声で、言葉を落とした。

2. 境界線の忠告

「毛利さん」

「え? あ、はい」

呼び止められると思っていなかったのか、蘭が丸い目をさらに丸くして銀を見る。

「右の肩、帰ったら少し入念に揉んだほうがいい。筋肉痛の時に無理をして荷物を右手で持つと、代償動作で今度は左の腰を痛めることになる。君の空手のフォームが崩れるのは、クラスの損失だ」

「えっ……ええ? どうして私が肩を痛めてるって……」

蘭は驚愕して、自分の右肩をさすった。今日、学校では誰にもそんなことは言っていないし、湿布も貼っていない。なぜ、一度も会話らしい会話をしていない同級生に、見抜かれているのか。

銀は彼女の動揺を意に介さず、視線を彼女のスマートフォンへと落とした。

「それと、工藤は今、おそらくアメリカの東海岸か、あるいはそれに準ずる時差のある場所にいるんじゃないかな。もしお昼休みに彼にメールを送っているなら、それはやめたほうがいい。向こうは深夜だ。どんなに優秀な探偵でも、深夜の睡眠不足の脳では不用意な返信しかできない。彼からまともな言葉を引き出したいなら、向こうの時間を逆算して、こちらの少し遅めの夜、向こうの朝に届くようにするといい。そうすれば、不用意なボロを出して君を余計に不安にさせることも減るはずだ」

「銀くん……あなた、新一の居場所を知ってるの……?」

蘭の声が、微かに震える。すがるような、必死な瞳が銀の顔を捉えた。

しかし、銀の表情は鉄の仮面のように冷ややかなまくだった。

「さあね。図書室の本に書いてあったんだよ。人間の行動パターンと、通信ログの時差についての心理学さ。――じゃあ、また明日。鈴木さん、あまり毛利さんを振り回さないように」

銀はそれだけ言い残すと、ポケットに両手を突っ込んで、振り返りもせず教室の引き戸を開けて出て行った。

残された蘭は、ただ呆然と、自分のスマートフォンを見つめるしかなかった。銀の言った「時差」という言葉が、彼女の胸の奥に、得体の知れない小さな波紋を広げていた。

「ちょっと蘭、今の聞いた!? 何よあいつ、めちゃくちゃ格好いいこと言って去っていったじゃない! もしかしてあいつ、本当にあんたのこと――」

「もう、園子ったら……。でも、不思議な人ね、銀くんって」

蘭は、銀が去っていった廊下の先を見つめながら、ぽつりと呟いた。いつも教室の隅で静かに本を読んでいるだけの少年。けれど、彼の言葉には、まるで自分のすべてを見透かされているかのような、奇妙な説得力と――そして、ほんの少しの、残酷な優しさがあった。

3. 18キロの威嚇

帝丹高校の長い廊下を、銀は一定の歩幅で歩いていた。

彼の頭の中では、まだ先ほどの蘭のデータが明滅している。

(工藤新一。お前は本当にアホだな。あんなに自分のことを一途に想い、待ってくれている女の子を、どこの馬の骨ともしれない事件のために放置する。探偵としての知能指数は高くても、人間としてのロジックは破綻している。僕なら、絶対にそんなヘマはしない。彼女を自分の『檻』の中に大切に囲い込み、誰の目にも触れさせず、ただ僕だけを見ていられるように、完璧に支配するのに)

銀の胸の奥にある独占欲は、およそ高校生のそれとはかけ離れた、歪で冷徹なものだった。彼は蘭に恋をしているというよりは、工藤新一という存在の「不完全さ」に苛立ち、その不完全さの犠牲になっている蘭という「至高の存在」を、自分の手で正しく管理したいという、悍ましいほどの過保護さを抱いていた。

カツン、と銀の足音が階段の手前で止まった。

彼はポケットから手を出さず、ただ視線だけを斜め下の影へと向けた。

(……足音、衣服の擦れる音、及び呼吸のピッチから計算して、対象の体重は約18キロ。子供。いや、ただの子供ではないな。この帝丹高校の敷地内に、これほどまでの『殺気』を孕んだ子供が紛れ込んでいるはずがない)

銀はゆっくりと、階段の踊り場へと視線を落とした。

そこに立っていたのは、青いジャケットに灰色の半ズボン、そして顔の半分を覆うような大きな丸眼鏡をかけた、小学生の男の子だった。

江戸川コナン。

毛利探偵事務所に居候しているという、あの妙に小賢しい子供だ。

しかし、今のコナンの目は、テレビで見るような「無邪気な子供」のそれとは完全に一線を画していた。眼鏡の奥の瞳は、まるで獲物を追い詰めた凶暴な肉食獣のように、鋭く、冷たく、銀の全身を品定めするように射抜いている。

「……お兄さん、随分と蘭のことに詳しいんだね」

コナンの声は、低かった。子供特有の高音ではなく、大人が喉の奥で押し殺したような、凄みのある声音。その右手は、ズボンのポケットの中で、何かの機械――腕時計型の装置に、いつでも引き金を引けるようにかけられているのを、銀の目は見逃さなかった。

銀はフッと、口元だけで冷たい笑みを浮かべた。

彼は一切の警戒を解かないまま、コナンの前にゆっくりと膝を折り、視線の高さを合わせた。大人が子供をあやすための動きではない。対等な、いや、それ以上に獲物を見下ろすための、冷徹なアプローチ。

「ボクこそ、ただの小学生の居候にしては、随分と独占欲が強いみたいだね、江戸川コナンくん」

「……何のこと言ってるのか、ボク分かんないな」

コナンは一瞬だけ表情を崩しかけたが、すぐに子供の仮面を被り直そうとした。だが、銀の観察眼はその一瞬の「目の泳ぎ」と「呼吸の停止」を完璧にキャッチしていた。

「嘘をつくときは、左の口角が1ミリ上がる。君のその悪い癖、直したほうがいいよ、探偵さん」

「っ!」

コナンの身体が、目に見えて強張った。

銀はコナンの顔に、自分の顔をさらに数センチ近づけ、耳元で囁くように言葉を紡ぐ。

「君が誰で、どこから来て、何を隠しているのか、僕には興味がない。君がどれだけ小さくて無力な身体(18キロ)に甘んじていようと、それは君の勝手だ。……だけどね、一つだけ忠告しておくよ」

銀の長い指が、コナンの丸眼鏡のフレームを、チッと爪で弾いた。

「あまり彼女(蘭)を放置していると、僕みたいな『隙間につけ込む質の悪い男』に、いつでも横から攫(さら)われるよ、ってね。君の自慢のその頭脳で、彼女の寂しさの質量を計算してみたらどうだ? 探偵さんじゃあ、彼女の涙を拭うことも、その華奢な肩を抱きしめることも、物理的に不可能なんだから」

「お前……!」

コナンの頬が、怒りと焦燥でピキッと引きつる。ポケットの中の腕時計型麻酔銃を構えようとした瞬間、銀はすでにすっと立ち上がっていた。

「じゃあね、江戸川コナンくん。おじさん(小五郎)に、麻雀のやりすぎで腰を痛めないように言っておいてよ。――それと、君の『主(工藤)』にもね」

銀はそれだけ言うと、今度こそ軽やかな足取りで、夕暮れの長い廊下を去っていった。

階段の踊り場に残されたコナンは、ただ、去っていく銀の大きな背中を、血が滲むほど拳を握りしめて見つめ続けることしかできなかった。

(白銀銀……! あいつ、一体何者なんだ……! 俺の正体に気づいてるのか……!?)

夕日が米花町を赤黒く染めていく中、工藤新一の心に、これまで感じたことのない、強大で冷徹な『恋敵(ライバル)』の影が、決定的な脅威として刻み込まれたのだった。

 

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