『名探偵コナン』オリ主・銀編 作:トート
1. 隔離された世界の住人
米花総合病院の4階、廊下の最奥に位置する個室。
夕暮れの陽光が遮光カーテンの隙間から細く差し込み、ベッドの白いシーツの上に、血を思わせる一本の赤黒い線を引いていた。室内を満たすのは、微かな消毒液の臭いと、壁の掛け時計が刻むチクタクという規則正しい音だけだ。
白銀銀(しろがね ぎん)は、ベッドの背もたれを起こし、半身を起こした状態で座っていた。
彼の左肩から指先にかけては、厳重な包帯とギプスによって完全に固定され、衣服の袖を通すことすら叶わない状態だ。だが、その顔には悲壮感も絶望の陰りも微塵もなかった。右手に持った新書のページを、親指だけで器用にめくりながら、眼鏡の奥の昏く鋭い双眸で文字を追っている。
コンコン、とドアが小さくノックされ、返事を待たずに静かに開いた。
入ってきたのは、ランドセルを背負っていない、大きな丸眼鏡をかけた小学生――江戸川コナンだった。その足音は極めて重く、いつもの明晰な探偵としての気配はどこにもない。ただ、罪悪感と敗北感にまみれた一人の男の亡霊が、子供の肉体を借りて歩いているかのようだった。
銀は本から目を離さず、ページをめくる音を室内に響かせた。
「お見舞いの品にしては、随分と貧相な手ぶらだな、江戸川コナンくん。それとも、警察の事情聴取の補足でもしに来たのかい?」
「……白銀」
コナンはドアを背中で閉め、ベッドの足元までゆっくりと歩み寄った。その視線は、銀の動かない左腕へと向けられ、そして激しく拒絶するように床へと落ちた。
「先生から聞いたよ。お前の左腕……神経が完全に引きちぎられてて、もう一生、動かねぇって」
「それがどうした?」
銀は淡々と返した。その声音には、自分の肉体が永久に損なわれたことに対する感傷が、一滴たりとも含まれていない。
「人間の肉体など、ただの有機物の塊であり、脳という中央演算装置の命令を物理世界に反映するための出力末端(デバイス)に過ぎない。その一部に不具合が生じたところで、僕の脳の論理的思考回路(ロジック)には1ビットの損傷もないよ。毛利さんという至高の存在を、あの狂乱したバカの弾丸から守り切った。その結果として生じた減価償却の範囲内さ」
「何が減価償却だ、ふざけんじゃねぇよ!」
コナンは激昂し、ベッドのパイプフレームを両手で強く叩いた。
「お前は高校生なんだぞ!? これから先、やりたいことも、掴みたい未来もたくさんあったはずだろ! それを、蘭のために……俺が、俺があの場にいたのに、何もできなかったせいで、お前の人生を――!」
「声を荒げるなよ、工藤新一くん」
銀の口から紡がれたその本名が、コナンの喉を力任せに締め付けた。
コナンは息を呑み、言葉を失って銀を凝視する。
銀はゆっくりと新書をサイドテーブルに置くと、残された右手を動かし、眼鏡の位置を静かに直した。その瞳が、初めてコナンを真っ直ぐに、そして冷酷に射抜いた。
「まだそんな『子供の仮面』の裏で、安っぽい自己憐憫の涙を流しているのか。君のその傲慢さが、僕のロジックを常に不愉快にさせるんだよ。君は自分が『蘭を守るべき主人公』だと勘違いしているようだが、その実態は、彼女に世界の不条理を押し付けている加害者そのものだ」
2. 壊れた秤の証明
「加害者……だと?」
コナンは声を引き攣らせ、銀を睨み返した。
「そうだ」
銀は身を乗り出し、冷徹な言葉の刃を容赦なくコナンの胸元へと突き刺していく。
「君は、黒の組織という巨大な闇から彼女を遠ざけるため、正体を隠して傍にいると言い訳している。だが、それは単なる君の『欺瞞』だ。君が江戸川コナンという18キロの子供の肉体に甘んじている限り、物理的な危機が彼女に迫った瞬間、君は彼女の盾になることすらできない。今回がまさにその証明だ」
「俺は……麻酔銃を狙ってた! 犯人の動きを止める算段は――」
「コンマ5秒遅いんだよ、探偵さん」
銀の声が、冷たくコナンの言い訳を叩き潰した。
「君の脳がどれだけ精緻なトリックを暴こうと、弾丸が肉体を貫く速度は変わらない。君が子供の姿で物陰に隠れ、時計の針を合わせている間に、彼女の頭部は確実に破壊されていた。君の正義や推理は、現実に流れる血の前には何の質量も持たない紙屑だ。君が『工藤新一』として彼女の隣に立ち、その手で犯人を殴り倒していれば、僕が肉体を損なう必要など最初からなかった。君の不在と無力さが、僕の左腕を破壊したんだよ」
コナンは言葉を返すことができなかった。
銀の言うことは、すべてが残酷なまでに正確な「事実」だった。自分が正体を隠し、子供の姿でいたからこそ、蘭の命が危機に瀕し、その身代わりとして白銀銀の未来が失われた。その厳然たるロジックの前に、工藤新一のプライドは粉々に粉砕され、足元に飛び散っていた。
「……君のチェスは、すでに終盤(エンドゲーム)を迎えている」
銀は冷酷に宣告する。
「毛利さんは今、猛烈な罪悪感と、それ以上の『覚悟』を抱いて僕の元へ通ってきている。彼女は僕の動かない左腕を見て、君という虚像を待つ時間の無意味さを悟った。世界で最も誠実な彼女のことだ、自分のために未来を失った男の左手になることを、自らの意志で選び取るだろう。君がどれだけ『絶対に帰る』と叫ぼうと、その声はもう、僕が構築した現実の檻の壁を透過することはできない」
コナンは眩暈を覚えるほどの敗北感に襲われ、一歩、また一歩とベッドから後ずさりした。
目の前にいる男は、黒の組織のように命を奪いに来るのではない。工藤新一の存在そのものを、蘭の人生から、日常から、根こそぎ、最も合理的で反論の許されない形で排除しにきているのだ。
「……俺は、認めねぇ」
コナンは震える声で、必死に最後の言葉を絞り出した。
「蘭の心を……そんな檻の中に閉じ込めるような真似、俺は絶対に認めねぇぞ……!」
「認めるかどうかの決定権すら、君の質量(18キロ)には残されていないよ。――とっとと行きな、名探偵。君の居場所は、もうこの部屋のどこにもない」
銀は再び新書を手に取り、コナンの存在を完全に思考から消去するように、文字へと視線を戻した。
コナンは逃げるようにして個室のドアを開け、長い、暗い病院の廊下へと飛び出した。
3. 灰色の抱擁
病院の冷たい非常階段。
夕日が完全に沈み、夜の帳が米花町を包み込んでいく中、コナンはコンクリートの段差にへたり込み、顔を両膝に埋めて激しく肩を震わせていた。
「……クソッ、クソッタレが……! 俺が……俺が全部間違えたんだ……!」
喉の奥から漏れるのは、声を殺した探偵の慟哭だった。
蘭を巻き込まないために、正体を隠し続けた。江戸川コナンとして、彼女を陰から支えているつもりだった。だが、その結果として蘭は寂しさに摩耗し、銀という怪物に付け入る隙を与え、最後には他人の肉体を一生モノの障害で縛り付けることになってしまった。
すべては、自分の独りよがりの正義が招いた最悪の計算違い(イレギュラー)だった。
「随分と、みっともない顔ね。名探偵」
不意に、上方の踊り場から、冷淡で、けれど毛布のように静かな声が降ってきた。
コナンが濡れた眼鏡の奥の瞳を上げると、そこには赤茶色の髪を夜風に揺らせた少女――灰原哀が、非常階段の手すりに背を預けて立っていた。
「……灰原」
「白銀銀の病室での会話、阿笠博士の集音マイクを通してすべて聞いていたわ。……あの男の言う通りね。私たちがどれだけ知恵を絞ろうと、現実の物理的な質量(肉体)の前には、私たちの嘘なんてただの砂の城だったのよ」
灰原はゆっくりと階段を降り、コナンの隣へと歩み寄った。彼女の小さな手のひらには、一錠の青と白の精神カプセル――APTX4869の一時的な解毒薬が握られていた。
「これ、あなたが欲しがっていた最後のストックよ。今すぐこれを飲んで『工藤新一』に戻りなさい。そして、蘭サンの手を無理やりにでも引っ張って、あの男の病室から連れ出しなさいよ。あなたには、そのための『時間』がまだ残されているわ」
灰原の言葉は、まるでコナンの最後の未練を試すかのように冷ややかだった。
しかし、コナンは差し出された薬のケースを、力なく首を振って撥ね退けた。
「……いや。もう、意味ねぇよ」
コナンの声は、完全に枯れていた。
「俺が新一に戻って蘭の前に立ったところで、あいつの動かなくなった左腕が元に戻るわけじゃねぇ。蘭は……蘭はもう、俺の言葉じゃ救えねぇんだ。あいつの目が、蘭を縛り付けてるんじゃねぇ。蘭の誠実さが、蘭の意志が、あいつの左腕を守るために、自らあいつの檻に入ることを選んだんだ。……俺が今さら新一に戻ったって、それはただの、自分のプライドを守るためのエゴにしかならねぇよ……!」
コナンは頭を抱え、床に涙を滴らせた。
工藤新一としての未来が、蘭と共に歩むはずだった約束の日常が、今、完全に閉ざされたことを、彼は探偵としての冷徹な脳で理解してしまっていた。
灰原は、泣きじゃくるコナンの小さな肩をじっと見つめていた。その澄んだ瞳に、微かな、けれど痛切なまでの感情の光が宿る。
彼女はゆっくりとコナンの前に膝をつき、その熱を帯びた震える小さな手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
「そう。じゃあ、あなたの『工藤新一』はここで終わりね」
「え……?」
コナンが涙に濡れた顔を上げる。
「蘭サンが、あの男の動かない左手になることを選ぶなら……私は、あなたのその小さな身体の、頭脳に、盾になりましょう」
灰原の声には、いつもの皮肉は一切なかった。ただ、運命の濁流に呑まれた相棒を、絶対に一人にはさせないという、強固な決意だけがあった。
「あなたをこの世界に巻き込んだのは、私の作った薬。あなたが帰るべき日常(蘭サンの隣)を失ったというのなら、その半分は私の責任よ。だったら……これからは、私があなたの隣にいるわ。あなたが歩む、あの子のいない灰色の世界を、私が一生かけて、一緒に歩いてあげる」
灰原の、小さな手のぬくもりが、コナンの凍りついた心臓の奥底を、じんわりと、確かに溶かしていく。
蘭を失った絶望は消えない。胸を穿った風穴が埋まることもない。だが、自分の犯した罪と、引き換えた運命のすべてを、共に背負って生きてくれる「本当の相棒」が、今、目の前にいた。
コナンは灰原の手を、ゆっくりと、強く握り返した。
「……灰原。俺は、もう工藤新一には戻らねぇよ。いや、戻れねぇんだ」
「ええ。それでいいわ、江戸川君。――私たちの戦いは、ここからよ」
二人は静かに立ち上がり、非常階段の鉄格子から、夜の闇に沈んでいく米花町の街並みを見つめた。
病室の中で、蘭は銀と共に「現実の愛の檻」を紡ぎ始め、非常階段の陰で、コナンは灰原と共に「闇を駆ける運命の絆」を選び取る。
二つの異なるハッピーエンドへ向かって、壊れた世界の歯車が、静かに、そして力強く回り始めていた。