『名探偵コナン』オリ主・銀編 作:トート
1. 密謀の放課後
「――というわけだから! あんた、今日の放課後は絶対に蘭をよろしくね!」
昼休みの屋上。鈴木園子は、お弁当の卵焼きを口に放り込みながら、目の前に座る白銀銀(しろがね ぎん)をビシッと指差した。
銀は手元にある心理学の専門書から目を離さず、ただトーンの低い声で返す。
「断るよ、鈴木さん。僕は放課後、図書室の新着図書のデータ入力をしなければならない。君の個人的な『思いつき』に付き合っているほど、僕の脳のメモリは安売りしていないんだ」
「何よ、堅物ねぇ! これがただの思いつきに見えるわけ!?」
園子は不満げに頬を膨らませ、声を潜めて銀に詰め寄った。
「いい? 蘭はね、昨日あんたが図書室で一瞬にして学級費の泥棒を見抜いたあの時から、ずーっとあんたの話ばっかりしてるのよ。『銀くんって本当に凄いのね』とか『新一とは全然違うタイプだけど、なんだか見透かされてるみたいでドキドキしちゃう』とかさあ!」
(……言動のサンプリングに誇張が含まれているな。毛利さんが『ドキドキしちゃう』などという情緒的な言葉を使う確率は、現在の彼女の精神状態から逆算して0.3%以下だ。鈴木さんの主観による脳内補正が9割を超えている)
銀は本をめくりながら、脳内で冷静にログを弾き出す。だが、園子の言葉の根底にある「蘭の意識が自分に向き始めている」という事実そのものは、否定しきれなかった。
「あのホームズオタク、今日も連絡一つよこさないわけ。蘭は今朝もスマホを見つめて死にそうな顔をしてた。だから、私がちょっとスパイスを効かせてあげるのよ! 私が放課後、急用ができたって言って先に帰るから、あんたが蘭を駅まで送る。……名付けて『鈴木園子・プロデュース、雨の相合い傘作戦』よ!」
園子がドヤ顔で空を見上げる。その先には、今にも泣き出しそうな、どんよりとした灰色の雨雲が米花町の空を覆い尽くそうとしていた。
「天気予報によれば、放課後は確実に土砂降りよ。蘭は朝、傘を忘れてたわ。そして、あんたの鞄にはいつも黒い折り畳み傘が入ってる。……ロジックは完璧でしょ?」
銀はゆっくりと本を閉じ、眼鏡の奥の鋭い瞳を園子に向けた。
「人間の感情を狂言のようにコントロールしようとするのは感心しないな、鈴木さん。……だが、工藤の『不在』が彼女の精神をこれ以上摩耗させるのは、僕の美意識(ロジック)が許さない。一度だけ、君のその稚拙な狂言に付き合ってあげるよ」
「よっしゃ! 言ってみるもんねー!」
園子がガッツポーズを決める。
銀はポケットに手を突っ込み、灰色の空を見つめた。
(工藤新一。お前が不在の舞台で、舞台装置(鈴木園子)が勝手に動き始めたぞ。お前がその小さな身体で泥を捏ねくり回している間に、彼女の隣という特等席は、僕の手によって完全に『檻』へと変質していくんだ)
2. 雨の境界線
放課後。園子の予告通り、米花町には激しい雨が降り注いでいた。
アスファルトを叩く無数の雨音が、世界を白い霧の中に閉じ込めていく。
「――ごめんね、蘭! 本当に急にお父さんに呼び出されちゃって! 織田くん……じゃなくて、銀くんに駅まで送ってもらいなさいよ! じゃあねー!」
園子は申し訳なさそうな(演技力の低い)声を上げると、お迎えの高級外車へと滑り込み、嵐のように去っていった。
校舎の軒下には、買い物袋を抱えた毛利蘭と、いつも通りの無表情で立つ銀の二人だけが取り残された。
「あ、行っちゃった……。もう、園子ったら……」
蘭は途方に暮れたように、激しい雨のカーテンを見つめた。彼女の手元には傘がない。微かに冷える空気のせいで、制服の肩が小さく震えている。
「毛利さん」
銀が静かに声をかけ、鞄から一本の黒い折り畳み傘を取り出した。パサリ、と小気味よい音を立てて傘が開く。
「駅まで300メートルだ。僕の歩幅に合わせれば、およそ3分と40秒で到着する。君が雨に濡れて風邪を引き、明日の学校を欠席するのは、クラスの出席簿の並びとして美しくない。……入りなさい」
「あ……ありがとう、銀くん。すみません、いつも迷惑ばっかりかけちゃって」
蘭は少し頬を赤らめながら、銀の差し出した傘の下へと一歩足を踏み入れた。
直径わずか1メートルの、黒い布が作り出す小さな密室。
激しい雨音が傘の布を叩くたび、二人の距離が嫌応なしに近くなる。蘭の動くたびに、彼女の髪から香るシャンプーの微かな匂いが、銀の嗅覚を刺激した。
(――心拍数、毎分85回。通常時より15回多い。呼吸が浅く、肩がわずかに僕と反対側に傾いている。僕という異性を意識している証拠だ。だが、それ以上に……彼女の左手の指先が、ポケットの中のスマートフォンを強く握りしめているな)
銀は前を見つめたまま、淡々とロジックを紡ぎ出す。
「毛利さん。君は今、僕の隣を歩きながらも、頭の9割はあの『名探偵』のことで埋まっているね」
「えっ!?」
蘭が驚いて顔を上げる。傘の骨が揺れ、雨粒が彼女の頬をかすめた。
「どうして、それが……」
「君の視線が、さっきから駅の方向ではなく、スマートフォンのバイブレーション(振動)を感知しようと、右のポケットに固定されているからさ。……哀れだな、君は」
「哀れ……?」
蘭の声に、微かな拒絶の色が混ざる。
「そうだ。君は世界で最も誠実な女の子だ。だが、君が待っている男は、世界で最も不誠実な臆病者だ。事件を解決する頭脳があっても、君の隣に立つ勇気がない。君をこれほどの豪雨の中に放置して、自分は安全な『どこか』で謎解きに興じている。……そんな男のために、君が自分の肉体や精神を削る必要性が、論理的にどこにある?」
銀の言葉は、鋭いナイフのように蘭の胸の最も柔らかい部分を突き刺した。
「新一は……新一は臆病者なんかじゃないわ! あいつは、私に『絶対に帰る』って言ってくれたの! だから私――」
「言葉には質量がないんだよ、毛利さん」
銀は歩みを止め、蘭の行く手を遮るように彼女の前に立ち塞がった。
激しい雨の中、黒い傘の下で、銀の昏く気高い瞳が蘭を真っ直ぐに見つめる。
「帰るという約束が、今この瞬間の君の冷えた身体を温めてくれるかい? 彼が解き明かした謎が、君の寂しさを埋めてくれるかい? 全てはただの虚像だ。君に必要なのは、今ここにいて、君を雨から守る『現実の肉体』だろう?」
「銀くん……」
蘭の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。新一を信じたい気持ちと、銀の突きつける圧倒的な「現実の正論」の間で、彼女の心が激しく引き裂かれていた。
3. 18キロの追跡者
その時、雨の煙の向こうから、激しい水しぶきを上げて走ってくる小さな影があった。
「――蘭姉ちゃん!!!」
悲鳴のような叫び声と共に飛び出してきたのは、ターボエンジン付きスケートボードを乗り捨て、全身ずぶ濡れになった江戸川コナンだった。
大きな丸眼鏡は雨水で完全に視界を失っているが、その目は、蘭の前に立ちはだかる銀を、明確に殺意を込めて睨みつけていた。
コナンは息を切らし、水の滴る前髪を掻き上げながら、二人の間に割って入った。
園子から「蘭と銀を二人きりにした」という連絡を受けた瞬間、コナンの脳裏には最悪の結末が過った。あの男なら、蘭の心の隙間に容赦なく付け込み、彼女を奪い去ってしまう。その焦燥だけで、彼は雨の中を死に物狂いで走ってきたのだ。
「コナン君!? どうしてこんなに濡れて……!」
蘭が慌ててコナンに駆け寄り、自分のハンカチで彼の顔を拭こうとする。
しかし、コナンは蘭のその手をそっと押し返し、銀を見上げた。
「……お兄さん。蘭姉ちゃんを困らせるのは、やめてくれないか。蘭姉ちゃんが待ってるのは、お兄さんじゃない。新一兄ちゃんだよ」
コナンの声は、雨の音に消されそうなほど低かったが、確固たる決意に満ちていた。
(これ以上、蘭の心に触れるな。俺がここにいる。工藤新一が、お前の目の前にいるんだよ……!)
銀はハンカチを持つ蘭の姿と、ずぶ濡れで威嚇してくるコナンを交互に見つめ、フッと自嘲気味に笑った。
「また君か、江戸川コナンくん。相変わらず、君の登場はタイミングが悪いな。それに――」
銀は一歩、コナンへと近づき、傘をわずかに傾けてコナンを雨から遮った。だが、その目はどこまでも冷酷だった。
「ずぶ濡れになって、体温を下げ、蘭さんに余計な心配をかける。それが君の言う『守る』ということかい? 君がどれだけ吠えようと、君のその小さな身体(18キロ)じゃあ、彼女に風邪薬を差し出すことも、一枚の上着をかけてあげることもできない」
銀は自身の制服の上着を流れるような動作で脱ぐと、それを蘭の華奢な肩へとそっとかけた。銀の体温が残る上着が、蘭の身体を優しく包み込む。
「あ……」
蘭が息を呑む。
「毛利さん、駅はすぐそこだ。これ以上、この『お荷物な子供』の相手をして体力を消耗するのは非論理的だ。行きなさい」
銀はそう言うと、持っていた黒い傘を蘭の手に握らせ、自分は上着を失ったシャツ姿のまま、激しい雨の中へと一歩を踏み出した。雨水が瞬く間に銀の銀髪を濡らし、端正な顔を伝い落ちていく。
「銀くん! 傘を持っていって!」
蘭の叫び声に、銀は振り返りもせず、片手を軽く上げて応えた。
「不要だよ。僕の脳は、雨の冷気くらいではフリーズしない。……じゃあね、探偵さん。次はもう少し、マシな肉体(質量)を持って僕の前に現れなよ」
銀の背中が、白い雨の霧の中に消えていく。
一人残されたコナンは、蘭の肩にかけられた銀の上着と、自分のずぶ濡れの身体を見比べ、激しい無力感に歯噛みした。
(クソッ……クソッタレが……! 身体が……この身体がもっと大きければ……!!)
雨の米花町で、小さな名探偵の心は、銀の突きつけた「質量の壁」の前に、かつてない絶望の深淵へと叩き落とされていた。