『名探偵コナン』オリ主・銀編 作:トート
1. 18キロの限界
激しい豪雨が米花町を叩いた翌日。毛利探偵事務所の空気は、重く、沈んでいた。
「はくしゅん……っ!」
ソファの上で、江戸川コナンは厚手の毛布に包まりながら、大きなくしゃみをした。赤くなった鼻をこすり、熱を帯びた額に手を当てる。体温計が示した数字は38.2度。あの雨の中、ターボエンジンスケートボードで死に物狂いで激走し、全身ずぶ濡れになった代償は、子供の脆弱な肉体(18キロ)へ容赦なく跳ね返っていた。
「ほら、コナン君。無理して起きちゃダメって言ったでしょ」
蘭が心配そうな顔で、氷嚢(ひょうのう)をコナンの額に載せた。冷たい感覚がじんわりと頭の芯に染み渡る。
「ごめんね、蘭姉ちゃん……ボク、大丈夫だから……」
「大丈夫なわけないじゃない。あんな土砂降りの中を傘も差さないで走るなんて、どうかしてるわよ」
蘭はコナンの枕元に、温かいお粥とスポーツドリンクを置いた。その手つきはどこまでも優しい。しかし、コナンはその蘭の制服のベストの下に、昨日まではなかった「微かな違和感」を鋭く嗅ぎ取っていた。
(……柔軟剤の匂いが違う。いつも蘭が使っているフローラル系じゃねぇ。これは――ウッディで、少し冷ややかなシトラスの香り。あの男(白銀)の制服の匂いだ)
コナンは毛布の下で、悔しさに奥歯を噛み締めた。
蘭は今朝、銀から借りた制服の上着を丁寧にクリーニングに出し、アイロンをかけて返そうとしているのだろう。あの雨の夕暮れ、自分が蘭の前に這いつくばることしかできなかった間に、銀は自らの体温の残る上着を蘭にかけ、彼女を完璧に保護した。その厳然たる事実が、蘭の日常の香りを塗り替えている。
「ねえ、コナン君」
蘭がお粥の湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「新一にね……昨日、メールしたの。『今、雨が凄くて、ちょっと風邪を引きそうだよ』って。いつもなら、すぐに『バカ、ちゃんと暖かくして寝ろよ』って返ってくるのに……」
蘭はスマートフォンを両手で握りしめた。
「昨日の夜、返ってきたのは『そうか。気をつけてな』の、たった一言だけ。……新一、本当に、私のことなんてどうでもよくなっちゃったのかな」
「そんなことないよ! 新一兄ちゃんは――」
コナンは叫ぼうとして、自分の喉から出たのが「子供の、掠れた甲高い声」であることに気づき、言葉を失った。
違う。新一は蘭をどうでもいいなんて思っていない。組織の影を追い、いつ命を落とすか分からない極限の戦いの中で、蘭にこれ以上執着すれば、彼女の命まで危険にさらしてしまう。だから、あえて突き放すような、冷たい言葉を選ぶしかなかったのだ。
(だけど、それを蘭に伝える手段が……今の俺にはねぇ……!)
「言葉には質量がないんだよ」
蘭の口から漏れたのは、昨日、銀が彼女に放った残酷なロジックそのものだった。
「新一の『絶対に帰る』って言葉を信じて、もう何ヶ月も待ってる。でもね、昨日、銀くんの傘の下で、銀くんの上着を着せてもらったとき……思っちゃったの。私、何のために、誰のために、こんなに寂しい思いをしてるんだろうって……」
蘭の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
コナンは手を伸ばし、その涙を拭おうとした。だが、熱で震える小さな子供の手は、蘭の頬に届く前に、重力に負けてベッドへ落ちた。
「質量が足りないんだよ、18キロじゃね」
銀の嘲笑うような声が、コナンの脳内で無限にリフレインする。
蘭の心を支えている工藤新一の「約束(虚像)」が、今、白銀銀という圧倒的な「現実」の前に、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
2. 観察者のチェックメイト
その頃、帝丹高校の図書室。
放課後の静寂の中、白銀銀は新着図書のバーコードを淡々と機械で読み取らせていた。隣の席(蘭の席)は、今日、看病のために早退したため空席になっている。
「ふーん。相棒が休みだからって、随分と寂しそうな顔をしてるじゃないの、白銀くん」
本棚の影から、鈴木園子がニヤニヤしながら顔を出した。
銀は手元を動かしたまま、声音に一切の感情を乗せずに返す。
「鈴木さん。人間の網膜は、対象への関心の度合いによって光彩の開き方が変わる。僕の目は今、100%デジタルバーコードの規格を正確に処理することだけに使われているよ。寂しさなどという非論理的なバグを発生させる余裕はない」
「はいはい、相変わらず可愛げのない男ねー」
園子はカウンターに肘をつき、楽しそうに笑った。
「でもさ、作戦は大成功だったわよ。蘭、今朝学校に来たとき、ずっとあんたの上着を愛おしそうに抱えてたんだから。クリーニング屋の最高級コースに出したから、放課後にあんたの家に直接届けるって言ってたわよ」
「……そうか」
銀の手が一瞬だけ止まった。
(毛利さんの行動変容率、昨日からさらに12%上昇。彼女の精神の『檻』の鍵は、すでに僕のロジックによって半分開けられている。あとは、あの名探偵の息の根を、精神的に完全に止めるだけだ)
銀がそう思考を巡らせた、その時。
図書室のガラス扉を静かに開けて、一人の少女が入ってきた。
それは、蘭でも園子でもない。帝丹高校の制服ではなく、少し大きめの私服に身を包んだ、赤茶色の高貴な髪を持つ少女――灰原哀だった。
園子は「あら、可愛いお客様ね」と声をかけたが、灰原は園子を無視し、真っ直ぐに受付カウンターの銀の前へと歩み寄った。その澄んだ瞳には、感情の起伏が一切なく、どこか銀と似た「冷徹な世界の住人」特有の光が宿っていた。
「……白銀銀くん。少し、お話があるのだけど」
灰原の大人びた口調に、園子は目を丸くした。
銀は機械を机に置き、灰原を見下ろした。
(――歩幅、ピッチ、呼吸の深さ。そして、僕を見る視線の鋭さ……。この少女、肉体年齢は7歳前後だが、脳の認知機能、及び精神の成熟度は明らかに20代を超えている。そして……あの18キロの探偵(工藤)と同じ、特有の『薬品の匂い』が微かに染みついているな)
銀の人間観察眼が、灰原哀という最大級のイレギュラーを瞬時に解剖していく。
「鈴木さん。少し席を外してくれるかい。この小さなお客様は、図書室の利用規則ではなく、もっと『個人的なロジック』について僕に質問があるようだ」
「え? あ、うん……なんかピリピリしてて怖いから、私はお先に失礼するわね」
園子は首をすくめながら、逃げるように図書室を出て行った。
空間には、銀と灰原の二人だけが残された。
時計のチクタクという音だけが、二人の境界線を刻んでいく。
3. 灰色の相棒
「単刀直入に聞くわ」
灰原はカウンターに手を突き、銀を冷たく睨みつけた。
「あなた、江戸川君の正体に気づいているわね。そして……蘭サンの心を、意図的に壊そうとしている」
銀はフッと、口元だけで冷たい笑みを浮かべた。
「気づいている、という表現は正確ではないな。彼の行動、呼吸、発言の矛盾、そして君たちが共有しているその『肉体の縮小化』という非科学的な現実……それらを論理的に繋ぎ合わせれば、答えは一つしか残らない。工藤新一くんは、その小さな身体で、自分の正義(あそび)のためにヒロインを犠牲にしている」
「おやめなさい。あの人は、蘭サンを巻き込まないために命懸けで――」
「命懸け? 笑わせないでくれ」
銀の低い声が、灰原の言葉を遮った。銀はゆっくりとカウンターの裏から出て、灰原の前に立った。その圧倒的な質量の威圧感が、灰原の小さな身体を包み込む。
「守るために遠ざける、というのは、ただの自己満足の免罪符だ。彼は自分がヒーローでいるために、彼女に『待つ』という世界で最も残酷な拷問を強いている。僕はね、人間の歪んだ感情を見るのが大嫌いなんだよ。特に、彼女のような完璧な存在が、あんな不完全な探偵のために涙を流す姿は、僕の美意識(ロジック)が許さない」
銀は灰原の前に屈み込み、その赤茶色の髪に触れようとしたが、灰原は嫌悪感を露わにして一歩下がった。
「君も同じだ、小さなお姉さん。君もあの探偵と同じ『闇』を背負い、同じように自分の嘘の檻の中に閉じこもっている。君は彼の『相棒』のつもりかもしれないが、君たちがやっていることは、周囲の人間を灰色の巻き添えにするだけの、独りよがりの心中劇だよ」
灰原は息を呑んだ。
銀の言葉は、彼女が心の奥底で常に感じていた罪悪感、そして「工藤君をこの運命に巻き込んでしまった」という消えない傷を、正確に抉り出していた。
「……だとしても、私はあの人を守るわ。あの人が蘭サンの元へ帰る場所を、あなたみたいな歪んだ観察者に奪わせるわけにはいかないの」
「帰る場所?」
銀は立ち上がり、哀れむように灰原を見下ろした。
「もう遅いよ。彼女の心の秤(はかり)は、すでに僕の『現実の質量』の方へ傾き始めている。工藤新一という虚像がどれだけ言葉を尽くそうと、僕が彼女の隣に立ち続ける限り、その約束はただのゴミクズに変わる。君に、それを止めるロジックはあるかい?」
灰原は拳を強く握りしめた。言葉が出なかった。
白銀銀という男は、黒の組織のような「暴力」で迫ってくるのではない。人間の心の脆さ、正論という名の「精神の檻」で、確実に蘭を、そして工藤新一の帰るべき未来を、根こそぎ奪おうとしているのだ。
「……せいぜい、あの哀れな名探偵の看病をしてあげなよ。彼の18キロの肉体が完全に壊れてしまう前にね」
銀はそれだけ言うと、鞄を持って図書室の鍵を閉め、灰原を置き去りにして去っていった。
夕暮れの図書室で、灰原哀は一人、震える手を見つめていた。
(工藤君……大変よ。あの男は、私たちの正体を知った上で、あなたの最も大切なものを……最も残酷な方法で、完全に奪うつもりよ……)
米花町を包む夕闇は、それぞれの運命を、交わることのない破滅のチェスボードへと導いていくようだった。