『名探偵コナン』オリ主・銀編 作:トート
1. 亡霊の抱擁
放課後の喧騒が、学園祭という非日常の熱気によって何倍にも膨れ上がった帝丹高校の朝。廊下を行き交う生徒たちの足音や笑い声が壁を震わせる中、2年B組の教室の片隅だけは、まるで時間の流れが凝固したかのような静寂に包まれていた。
「し、新一……!? 本当に、新一なの……!?」
毛利蘭は、手元に抱えていた劇の小道具の衣装を床へと落とした。パサリ、と軽い音が足元で響くが、彼女の耳には届いていない。
そこに立っていたのは、紛れもない工藤新一だった。緑色の帝丹高校の制服を着こなし、両手を無造作にポケットに突き入れ、いつものように不敵で、どこか意地悪そうな笑みを浮かべている。
「よぉ、蘭。わりぃな、連絡もろくにしないでさ。ちょっと厄介な事件が片付いたから、お前の晴れ舞台、特等席で見に来てやったぜ」
新一はいつもの口調のまま、呆然とする蘭の頭を軽く小突いた。その指先が伝える、生身の男の確かな体温。数ヶ月もの間、スマートフォンの無機質な液晶画面の向こう側にしか存在しなかったはずの幼馴染が、今、自分のすぐ目の前で呼吸している。その圧倒的な現実の前に、蘭の瞳から一気に大粒の涙が溢れ出した。
「新一……新一、新一――っ!」
蘭はなりふり構わず新一の胸へと飛び込み、その制服の布地を千切れんばかりの力で握りしめた。
新一は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから愛おしさと愛おしさと申し訳なさが入り混じった表情で、蘭の細い背中に腕を回した。彼女の華奢な身体を、壊れそうなほど強く抱きしめ返す。
(蘭……待たせてごめんな。もうどこにも行かねぇ。あの男に、お前を奪わせるわけにはいかねぇんだよ……!)
新一の鋭い視線は、蘭の肩越しに、教室の最後列へと向けられていた。
そこには、騒がしい教室の空気から完全に隔離されたように、自席で静かに文庫本を開いている白銀銀(しろがね ぎん)の姿があった。
銀は本のページから目を離すことなく、ただ視界の端の解像度を上げ、抱き合う二人の挙動を淡々と観察していた。
(――毛利さんの心拍数、毎分110回に急上昇。工藤の出現という最大級の精神的スパイクによる興奮状態だ。しかし、工藤の呼吸の深さ……わずかに浅いな。一時的な薬物治療による、心臓への過度な負担と、持続時間への焦燥が、肉体の微細な挙動から如実に漏れ出ているよ)
銀は眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、フッと冷たい笑みを口元に浮かべた。その表情には、焦りも動揺も一滴すら存在しなかった。
「ちょっと、そこらのバカップル! 劇の最終準備が始まるわよ! 離れなさい!」
教室のドアを乱暴に叩いて怒鳴り込んできたのは、鈴木園子だった。園子は新一の帰還に驚きつつも、どこか複雑そうな、戸惑いの混ざった視線を一瞬だけ銀の方へと向けていた。
「あ、ごめん……! 新一、私、衣装の着替えに行ってくるね!」
蘭は慌てて新一の胸から離れると、真っ赤になった顔を隠すようにして、園子と共に教室を飛び出していった。
喧騒の去った教室には、新一と銀の二人だけが残された。窓の外からは、模擬店の呼び込みやブラスバンドの演奏が、陽炎のような熱気と共に聞こえてくる。
新一はポケットから手を抜き、銀の机の前まで歩み寄ると、その木製の天板を強く叩いた。
「白銀銀。お前の思い通りにはさせねぇよ。蘭が待っていたのは俺だ。お前の言う『現実の質量』とやらが、俺たちの絆に勝てると思ったら大間違いだぜ」
新一の、探偵としての、そして一人の男としての、絶対的な宣戦布告。
しかし、銀はゆっくりと文庫本を閉じ、静かに立ち上がった。新一よりもわずかに高い視線から、どこまでも冷徹に、名探偵を見下ろす。
「一時的なドーピングで、18キロから58キロへ質量を偽装したところで、何の意味があるんだい? 工藤くん」
「っ!?」
新一の身体が、一瞬で凍りついた。やはりこの男は、すべてを知っている。
「君のその歪んだ心臓の鼓動のピッチから逆算して、その身体のタイムリミットは、せいぜい今日の夕方までだろう。学園祭が終われば、君はまたあの哀れな『18キロの子供』に退行し、彼女の隣から消え去る。……一度だけの幻影を彼女に見せて、また絶望の底に突き落とす。それが君の言う『絆』の正体か? 僕なら、そんな非論理的な真似は絶対にしない。僕は彼女の隣に永遠に立ち続け、完璧に保護するよ」
銀は新一の横をすり抜け、自らの劇の衣装である、黒い騎士の外衣を滑らかな動作で羽織った。
「舞台の上で、君の不完全さを完璧に証明してあげるよ。特等席で、指をくわえて見てるがいいさ。名探偵」
銀は冷酷な笑みを残し、振り返ることもなく体育館へと向かった。
新一は激しい焦燥感と、胸の奥からせり上がる微かな痛みに耐えながら、その背中を睨みつけることしかできなかった。
2. 劇場の支配者
体育館は、全校生徒と外部からの観客で埋め尽くされ、立錐の余地もないほど超満員に膨れ上がっていた。
やがて館内が暗転し、重々しいブザーの音と共に、ステージの上に眩しいスポットライトが照射される。2年B組の劇『境界のフォークロア』の幕が上がった。
物語はクライマックスを迎えていた。
白いドレスを着た姫(蘭)が、敵の軍勢に囲まれ、絶望の中で祈りを捧げるシーンだ。
「――ああ、私の声は誰にも届かないの。この暗闇の中で、私はただ、消え去るのを待つしかないのね……」
蘭の口から紡がれるセリフは、台本以上の、鬼気迫るような悲痛さを孕んでいた。彼女は劇を演じながら、現実の自分自身を重ね合わせていた。何ヶ月も新一の連絡を待ち、暗闇の中で寂しさに震えていた、あの果てしない時間を。
舞台袖の暗闇から、工藤新一はその姿をじっと見つめていた。
(蘭……ごめん、本当にごめん。俺が、お前にそんなセリフを吐かせるような思いをさせてたんだな……!)
新一は胸の奥の激しい痛みに耐えながら、拳を強く握りしめる。解毒薬の副作用による虚脱感が、確実に彼の肉体を蝕み始めていた。
その時、ステージの反対側から、黒いマントを翻した騎士(銀)が姿を現した。
スポットライトを浴びた銀の姿は、冷徹でありながらも、圧倒的な美しさとカリスマを放っていた。
「――否(いな)、我が姫よ。あなたの声は、確かに私の耳に届いている」
銀の低い、地響きのような、けれどどこまでも澄んだ声が体育館全体に響き渡る。観客席から、息を呑むような微かなざわめきが起こった。
銀はゆっくりと蘭の前に歩み寄り、彼女の前に跪いた。そして、蘭の右手を、自らの大きくて冷たい手で静かに、けれど力強く包み込んだ。
「たとえ世界があなたを忘れ、遠い幻影があなたを裏切ろうとも……今、ここにいる私は、あなたをあらゆる闇から、生涯かけて守り抜くと誓おう」
それは、台本に書かれたセリフではなかった。
銀が、蘭の瞳を真っ直ぐに見つめ、工藤新一への当てつけとして放った、銀自身の「現実のロジック」だった。
「あ……」
蘭の目が、大きく見開かれる。
銀の手の冷たさ、けれどそこにある確かな、逃れようのない力強さ。先日、雨の中で自分に上着をかけてくれたあの男の温もりが、今、目の前にある。
蘭の視線が、舞台袖の暗闇に立つ新一へと向けられた。
新一は必死に蘭を見つめている。だが、その新一の身体は、舞台の下の、手の届かない暗闇に沈んでいる。
(新一は……遠い人。いつも事件のために、私の前からいなくなっちゃう人。でも、銀くんは……今、私の目の前で、私の手を握ってくれてる……)
劇の台本を越えて、蘭の心の中で、二人の男の「質量」が完全に天秤にかけられた瞬間だった。
銀は蘭の手を引き、彼女を優しく抱き寄せた。劇の演出としての抱擁。
しかし、その腕の力強さは、蘭を自分の『檻』の中に完全に閉じ込め、二度と工藤新一の元へ返さないという、銀の冷酷な意志そのものだった。
舞台袖でそれを見た新一は、激しい心臓の動悸と共に、その場に崩れ落ちそうになった。
蘭の目が、もう自分を見ていない。彼女の身体は、完全に白銀銀という現実の男の腕の中に収まっている。
「クソッ……蘭……蘭ァ……ッ!」
新一の喉から漏れたのは、声にならない絶望の悲鳴だった。
パチパチパチ、と体育館全体を満たす嵐のような大喝采の中、新一は胸を掻きむしりながら、自分の身体が急速に熱を帯び、再び「18キロの無力な子供」へと退行し始める恐怖に、ただ怯えることしかできなかった。