『名探偵コナン』オリ主・銀編 作:トート
1. 祭りのあとの空白
学園祭という非日常の熱狂が幕を閉じ、数日が経過した米花町。帝丹高校の喧騒は嘘のように引き、生徒たちはいつもの退屈で平穏な日常へと戻っていた。しかし、2年B組の空気だけは、あの舞台の日を境に確実に変質していた。
放課後の教室。夕日が差し込む窓際で、毛利蘭は自分の鞄を抱えたまま、ぼんやりと外の景色を見つめていた。その視線はどこか遠く、けれど定まっている。
(――スマートフォンの画面を確認する回数は、この1時間でゼロ。ポケットから出すことすらしていない。彼女の工藤への執着値は、学園祭の『現実の抱擁』によって完全にリセットされ、現在は空白のモラトリアム期間に入っている)
最後列の席で文庫本を開く白銀銀(しろがね ぎん)は、眼鏡の奥の瞳でそのログを淡々と処理していた。
あの日、工藤新一は一時的に本来の質量を取り戻して蘭の前に現れた。しかし、舞台の上で銀が蘭を抱き寄せた瞬間、工藤の「不完全さ」と持続時間の限界は完全に露呈した。学園祭の終了と同時に再び姿を消した名探偵に対し、蘭の心は怒りや悲しみを通り越し、冷ややかな諦念へと至りつつあった。
「あの、銀くん」
蘭がゆっくりと振り返り、銀の席へと歩み寄ってきた。
「なにかな、毛利さん」
「今日の図書当番、もしよかったら私、先に新着図書のラベル貼りをやっておこうか? 銀くん、最近ずっと一人でやってくれてたから……」
蘭の言葉には、以前のような「新一の不在を埋めるための気紛れ」ではない、明確に銀の負担を減らそうとする自発的な意志が宿っていた。
「構わないよ。君の作業効率は正確だ。僕のロジックを阻害しない」
銀が淡々と返すと、蘭は嬉しそうに口元を綻ばせた。その笑顔には、もう工藤新一の残像による陰りはない。銀が構築した『観察という名の檻』は、蘭の心を優しく、確実に侵食していた。
2. 探偵の不在
「おい、歩美ちゃんたちを連れて早く阿笠博士の車に戻れ! 早くしろ!」
米花町5丁目の路地裏。江戸川コナンは、少年探偵団のメンバーを避難させながら、激しい呼吸のまま路地を駆け抜けていた。
学園祭での敗北以降、コナンの心は焦燥感と無力感で消し炭のようになっていた。新一の身体に戻っても蘭を繋ぎ止めることはできず、今は再び18キロの子供の肉体に縛り付けられている。その鬱屈とした感情をぶつけるように、彼は偶然遭遇した連続殺人犯の追跡に没頭していた。
だが、状況は最悪だった。
犯人は警察の包囲網を突破し、狂乱状態でこの住宅街へと逃げ込んでいる。しかも、どこで手に入れたのか、本物の自動拳銃を乱射しながら暴走していた。
『コナン君、応答しなさい! 犯人はそっちのブロックへ向かったわ!』
探偵バッジから灰原哀の緊迫した声が響く。
「分かってる! 警察の応援はまだかよ!」
『ダメよ、周辺の道路がパニックで大渋滞を起こしてる。到達まであと5分はかかるわ!』
「クソッ……!」
コナンはキック力増強シューズのスイッチを入れ、近くの廃ビルの敷地へと視線を向けた。犯人の足跡は、その不気味なコンクリートの建物の奥へと続いていた。
その時、コナンの視界の端に、信じられないものが映り込んだ。
避難誘導のサイレンが鳴り響く大通りを避け、安全なルートを選んで帰宅しようとしていたのだろう。白い制服のブラウスを夕日に染めた少女――毛利蘭が、買い物袋を抱えたまま、ちょうどその廃ビルの前の通りを歩いていたのだ。
「――蘭っ!?」
コナンの喉から、悲鳴のような叫びが上がった。
しかし、その声が彼女に届くより早く、廃ビルの割れたガラス窓から、血走った目をした男が飛び出してきた。衣服はボロボロに裂け、右手には黒光りする拳銃が握られている。連続殺人犯だった。
「ハハハ! 警察め、誰も俺を捕まえられねぇぞ!」
男は狂気的な笑声を上げ、目の前にいた蘭の姿を捉えた。
「おい、お前! 盾になれ!」
男は蘭の長い髪を掴み、その華奢な身体を無理やり引き寄せた。
「きゃああっ! 放して!」
蘭は空手の技術で応戦しようとしたが、至近距離で突きつけられた銃口の冷たさに、身体が恐怖で硬直した。
「動くな! 動いたらぶち殺すぞ!」
犯人は蘭の首に腕を回し、銃口を彼女の側頭部に突きつけた。
3. 計算違いのコンマ数秒
「蘭姉ちゃん――ッ!!」
コナンは路地裏から飛び出し、廃ビルの敷地内へと駆け込んだ。
物陰に身を隠しながら、コナンは即座に腕時計型麻酔銃を構え、犯人の首筋に狙いを定めた。レンズの十字マークが、狂乱する犯人の皮膚を捉える。
だが、探偵としての精密な脳が、瞬時に最悪の計算を弾き出した。
(ダメだ……。犯人の指はすでに引き金にかかってる。麻酔針が届いて、薬効が脳に達するまでに『0.5秒』かかる。その前に、犯人の反射神経が指を引けば、弾丸は蘭の頭を確実にぶち抜く……!)
キック力増強シューズで近くのドラム缶を蹴り飛ばすか?
それも同じだ。物体が犯人に激突するまでの物理的な時間の方が、犯人が引き金を引く速度よりも決定的に遅い。
自分が「工藤新一」の肉体であれば、今すぐこの物陰から飛び出して、自分の身体を蘭の盾にすることができたかもしれない。だが、今の自分は「18キロの子供」だ。ここから飛び出したところで、犯人の足元に縋り付くことしかできない。質量が、圧倒的に足りない。
(クソッ……間に合わねぇ……! 俺のせいで……俺が子供のままでいるせいで、蘭が死ぬ――!!)
工藤新一としての全細胞が、絶望と無力感に凍りついた、その瞬間だった。
「――邪魔だ、アホ」
低く、酷く冷淡な声が、夕闇の静寂を切り裂いた。
背後の影から、弾丸のような速度で飛び出してきた影があった。帝丹高校の緑色の制服を翻した男――白銀銀だった。
銀はコナンの潜む物陰の横をすり抜けると、人間とは思えない歩幅と正確な踏み込みで、一瞬にして蘭と銃口の間に、自らの身体を割り込ませた。その動きには、死への恐怖も、躊躇いも、一切の無駄な感情(バグ)も存在しなかった。ただ、蘭を保護するという、完璧なロジックだけが彼を動かしていた。
ドン、と鼓膜を震わせる銃声が、廃ビルに轟いた。