『BLEACH 〜煩悩代行・千堂遥の現世奮闘記〜』 作:トート
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! 死ぬかと思った……。っていうか、あの氷のチビ隊長、霊圧が冷たすぎて俺の情熱まで凍りつくところだったじゃねえか……!」
十番隊の敷地から命からがら脱出した僕――千堂 遥(せんどう はる)は、白い瓦屋根の死角に身を潜め、激しく乱れた呼吸を整えていた。
手をかざすと、制服の袖口がうっすらと白く凍りついている。日番谷冬獅郎が『氷輪丸』を抜こうとした、ただそれだけの予備動作で放たれた冷気だ。もしあのまま本気の一撃を喰らっていたら、自慢の巨大斧『恋慕断絶(れんぼだんぜつ)』ごと、僕の肉体は綺麗な氷像にされて粉々に砕かれていただろう。
(隊長格ってのは、やっぱり現世で見た白哉のお兄さん並みにバケモノ揃いだな……)
冷や汗を拭いながら、僕は現世の空座第一高校で過ごしていた、つい数日前までの平和な放課後を思い出していた。毎日、織姫ちゃんをナンパしてはたつきちゃんにドツかれ、一護とくだらない言い合いをしていたあの日常。
いま僕は、その日常から遠く離れた、死神たちの総本山『瀞霊廷(せいれいてい)』のど真ん中に一人で立っている。
「……ま、弱音を吐いてる場合じゃないよね。ルキアちゃんも待ってるし、何より乱菊さんの他にも、僕の脳内センサーに刻まれた極上の美少女死神たちがこの世界にはまだ残ってるんだから!」
自分を奮い立たせる動機がどこまでも不純なのが、僕の僕たる所以だ。
実際、浦原商店の地下で『恋慕断絶』が目覚めた瞬間に脳内に流れ込んできた、世界の美女死神たちの霊圧マップ。そのナビゲーションは、十番隊の冷気から逃れた今も、僕の胸の奥で確かに次の目的地を指し示していた。
その時、瀞霊廷の西の空から、鼓膜を震わせるほどの凄まじい爆音と、地響きのような霊圧の衝突が伝わってきた。
ズガアアアアアアン!!!!
「うおっ!? また一護のやつか?」
遠くを見上げると、巨大な砂煙が天高く巻き上がっている。その中心にあるのは、一護の荒々しく真っ直ぐな霊圧と、もう一つ、剃刀のように鋭く狂気に満ちた、十一番隊特有のどす黒い霊圧だった。
(あいつ、本当に退屈しない男だな……。落ちた早々、十一番隊のイカれた連中と正面からガチバトルやってるよ)
おそらく一護の周辺には、侵入者を仕留めようと無数の死神たちが群がっているはずだ。一護が派手に暴れて注目を集めてくれているおかげで、僕への包囲網が一時的に緩んでいる。この隙に、僕はさらに瀞霊廷の深部へと潜り込む必要があった。
「悪いな一護、囮(おとり)は任せた。俺はスマートにルキアちゃんのいる場所を目指させてもらうよ」
僕は足音を完全に消し、屋根の影から影へと、目にも留まらぬ速さで跳躍を繰り返した。浦原さんの地下ドックで叩き込まれた身のこなしが、ここに来て完全に活きている。死覇装(しはくしょう)を着た一般の隊士たちが、僕の頭下の路地を血眼になって走り抜けていくが、誰も上空に潜む僕の気配には気づかない。
しかし、その油断が命取りだった。
いくつかの白い回廊を飛び越え、巨大な白い塔が見える広場へと着地した、その瞬間。
ピキッ、と脳内の美少女センサーが、今まで経験したことのないような『冷徹で、極限まで洗練された、鋭利な刃物のような霊圧』を、至近距離で感知した。
「――そこまでだ、旅禍(りょか)」
「……っ!?」
声は、僕の真後ろから聞こえた。
全く気配がなかった。瞬歩(しゅんぽ)の音すらさせず、いつの間にか僕の背後に完璧に回り込まれていたのだ。
全身の毛穴が恐怖で一気に開き、冷や汗が背中を伝う。僕はギギギ、と錆びついた人形のような動きで、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、僕の脳内データにしっかりと刻まれている、もう一人の『至高の女性』だった。
地肌に沿った、艶のある美しい黒髪のショートヘア。
そこから伸びる、白い布で丁寧に包まれた2本の長いお下げ髪が、微風に揺れている。
小柄な体躯でありながら、その身に纏う十番隊とは異なる、二番隊隊長――そして隠密機動総司令官の証である、袖の無い独自の死覇装。
二番隊隊長、砕蜂(ソィフォン)。
(本物だ……! 黒髪ショートの、あのキリッとした冷たい瞳……! 踏まれたい、あの鋭い目で睨まれながら思い切り罵倒されたい……っ!)
恐怖の絶頂にありながらも、僕の煩悩は相変わらず最悪の方向へとフルスロットルで加速していた。
「初めまして、砕蜂隊長……! 君のその冷徹な瞳に射抜かれて、僕のハートはすでに一撃必殺(?)、木っ端微塵です! よければ僕と今すぐ、隠密で甘いデートを――」
「戯言(ざれごと)を」
砕蜂隊長は、僕のナンパ文句を1ミリも耳に入れることなく、その切れ長の目をさらに鋭く細めた。彼女の右手の高価な指輪のような装飾から、スラリと一本の、蜂の針を思わせる奇妙な形状の暗器――斬魄刀が突き出される。
「現世の人間でありながら、瀞霊廷を乱す害虫め。お前のその軽薄な舌ごと、ここで肉体を削ぎ落としてくれる」
彼女が静かに構えをとった瞬間、周囲の空気が一変した。
十番隊の日番谷隊長が「圧倒的な質量と凍てつく冷気」の恐怖だとしたら、目の前の砕蜂隊長が放つのは、「一瞬でも目を離せば死ぬ、絶対的な速度と殺意」の恐怖。
「待って、待って! 砕蜂ちゃん! 話せば分かるって!」
「黙れ。――行くぞ」
シュッ、と空間がブレた。
次の瞬間、彼女の姿が僕の視界から完全に消失した。
(消えた……!? 速すぎる……っ!!)
僕の野生の勘が、右斜め後ろからの『死』を察知した。僕は考えるよりも早く、魂の力を解放し、超巨大な斧『恋慕断絶』を具現化させて、己の右側へと盾のように突き出した。
金、と鼓膜を突き刺すような鋭い金属音が響き渡る。
僕の巨大斧の刃の表面に、砕蜂隊長の放った極小の針が、寸分の狂いもなく突き立てられていた。受け止めた衝撃はそれほど大きくない。しかし、彼女の瞳は、まるで獲物を完全に捕らえた蜘蛛のように、妖しく、そして冷酷に輝いていた。
「ほう、私の速度に反応して武器を出したか。……だが、旅禍。私の『雀蜂(じゃくほう)』の恐怖は、受け止めただけでは防げんのだよ」
砕蜂隊長の不敵な笑みが、僕の目の前で妖しく揺れた。
十番隊を脱出した僕を待ち受けていたのは、瀞霊廷の影を支配する、暗殺の女王による容赦のない洗礼。僕の『恋慕断絶』と、彼女の『雀蜂』の、噛み合わぬ歯車のような異色の死闘が、いま幕を開けようとしていた。