『BLEACH 〜煩悩代行・千堂遥の現世奮闘記〜』 作:トート
「あ、痛たた……。やっぱり、あの速度で大斧を振り回すのは、人間の筋肉の限界を超えてるって……」
砕蜂(ソィフォン)ちゃんとの死闘を終え、瀞霊廷(せいれいてい)の裏路地を這うように進んでいた僕――千堂 遥(せんどう はる)は、右腕の激痛に顔をしかめていた。
超巨大な斧『恋慕断絶(れんぼだんぜつ)』を力任せに超高速回転させた代償だ。肩から指先にかけての筋肉がズタズタに断裂しかけており、まともに指を動かすことすらできない。霊圧で強引に肉体を補強してはいるものの、このまま次の強敵――それこそ白哉のお兄さんや、十一番隊のイカれた連中に遭遇したら、今度こそ一撃でミンチにされてしまうだろう。
「藍染(あいぜん)隊長が暗殺されたとかで、街じゅう大パニックになってるのが唯一の救いだな……」
路地裏の影から覗き見ると、死覇装(しはくしょう)を着た死神たちが慌ただしく四方八方へと走り抜けていく。警備の目は完全に分散していた。
僕は痛む右腕を左手で抑えながら、壁に寄りかかって息を吐いた。その時、僕の脳内美少女センサーが、すぐ近くにある大きな建物から放たれている、『すべてを包み込むような、圧倒的に優しく、そして底知れない霊圧』を敏感に察知した。
(この霊圧の形……。間違いない、四番隊隊長の卯ノ花(うのはな)烈さんだ……!)
脳内に刻まれたデータが告げていた。
護廷十三隊における救護専門部隊――『四番隊』。そのトップに君臨する、黒髪を胸元で綺麗に編み込んだ大人の女性。
「よし……。ルキアちゃんを助けに行く前に、まずはあのお姉さんにこの傷を癒やしてもらおう。美人の医療チームに看病してもらえるなら、この怪我もご褒美みたいなもんだ!」
僕は不純すぎるモチベーションを燃料にして立ち上がり、気配を殺して四番隊舎の敷地内へと忍び込んだ。
幸い、隊舎の内部は現世から連れてこられた怪我人(一護たちが暴れた被害者だろう)の治療で大忙しらしく、見張りの隊士もまばらだった。僕は開いていた窓から、静かな奥の診察室へと滑り込んだ。
白を基調とした、清潔で静謐な部屋。
その中央に、彼女は静かに背を向けて立っていた。
編み込まれた美しい黒髪が、優美な曲線を描いて胸元へと垂れている。
白い隊長羽織を上品に纏い、薬瓶を整理しているその後ろ姿からは、戦場の血生臭さなど微塵も感じられない、圧倒的な聖母のオーラが漂っていた。
「……おや。現世のお客さんが、ずいぶんと手酷い怪我を負って迷い込まれたようですね」
振り返るよりも早く、彼女の鈴を転がすような、おっとりとした優しい声が部屋に響いた。
ゆっくりと彼女がこちらを振り向く。
慈愛に満ちた、細められた優しい瞳。大人の包容力を体現したような、物静かで美しい微笑み。
(女神だ……! 乱菊さんの爆乳セクシーも最高だったけど、この卯ノ花さんの『全てを許してくれそうな聖母の包容力』は次元が違いすぎる……っ!)
僕は一瞬で恐怖も右腕の激痛も忘れ去り、いつものようにへらへらとした軽い笑みを浮かべて一歩前に出た。
「いや〜〜〜〜! 初めまして、卯ノ花隊長! 僕は現世から君のその美しい笑顔に癒やされにやってきた千堂遥です! 右腕の筋肉が千切れちゃって痛いから、今すぐ君のその綺麗な手で優しく手当てしてほしいな。ついでに僕のハートも一緒に治療して、僕のお嫁さんになって――」
いつものように、全力のナンパスマッシュを打ち込んだ、その瞬間だった。
ピキリ。
診察室の空気の温度が、一瞬で『絶対零度』へと叩き落とされた。
いや、違う。温度が下がったのではない。
目の前にいる卯ノ花隊長の、その慈愛に満ちた聖母の微笑みは、【1ミリも崩れていなかった】。
笑顔のまま。全く表情を変えないまま。
ただ、彼女の全身から放たれた『言葉を失うほどの、どす黒く、凶悪で、質量を持った圧倒的な殺意(霊圧)』が、診察室のすべての空間を完全に支配したのだ。
「ひっ……!?」
喉の奥から、情けない悲鳴が漏れた。
体が、動かない。
指先一本、動かすことができない。
日番谷隊長の氷の恐怖とも、砕蜂ちゃんの速度の恐怖とも違う。
これは、野生の動物が、自らの命を完璧に刈り取る『絶対的な捕食者』の前に立たされた時に感じる、本能的な生命の危機の恐怖。
彼女の笑顔の裏に、底知れない、血の海の底から這い上がってきたような『本物の化け物(初代剣八)』の片鱗が、ほんの微かに、しかし確実に牙を剥いていた。
「千堂遥さん、とおっしゃいましたか」
卯ノ花隊長は、満面の聖母の笑みを浮かべたまま、静かに僕の目の前へと歩み寄ってきた。足音がしない。ただ、彼女が一歩近づくたびに、僕の心臓が恐怖で破裂しそうになる。
「四番隊は救護の場所です。怪我人を治療するのは私の務めですが……。その不純な口を二度と開けないように『治療』することも、私には容易いことなのですよ? ――うふふ」
黒い。微笑みが、完全にどす黒い。
目が全く笑っていない。僕の美少女センサーが、「今すぐ前言を撤回して土下座しろ、さもなければここで魂ごと消滅する」と、人生最大の警報を狂ったように鳴り響かせていた。
「す、すみませんでしたぁあああああ!!! ナンパしてごめんなさい! お嫁さんとか調子に乗りました! 僕はただの大人しい怪我人です!!!」
僕は人生で初めて、美女の前でナンパを音速で撤回し、直立不動で涙目で叫んだ。
「――よろしい」
僕が降参した瞬間、部屋を埋め尽くしていたあの凶悪な殺意の霊圧が、まるで幻だったかのように綺麗に霧散した。
卯ノ花隊長は何事もなかったかのように、おっとりとした笑顔のまま、僕の右腕にそっと手を触れた。
「では、治療を始めましょうね。少し、痛みますよ」
彼女の手のひらから、緑色の温かい回道(かいどう)の霊圧が放たれ、僕の右腕を包み込む。
ズキズキとした激痛が、みるみるうちに心地よい温かさへと変わっていき、断裂しかけていた筋肉が急速に結合していくのが分かった。さすがは護廷十三隊最高の医療術者だ。
「……ハルさん。あなたの中にあるその霊圧の形、とても奇妙ですね。死神のものではない。ですが、驚くほど頑強で、どこまでも一途な……歪んだ執念を感じます」
治療をしながら、卯ノ花隊長が静かに僕の瞳を見つめてきた。その目は、僕の魂のすべてを見透かしているかのようだった。
「あはは……。僕はただ、女の子の涙が嫌いなだけですよ。ルキアちゃんが泣いてるから、助けに来た。それだけです」
僕が少し真面目なトーンで答えると、卯ノ花隊長は一瞬だけ意外そうに目を見開いた後、今度は本当に優しく、フッと微笑んだ。
「そうですか。……はい、治療は終わりです。もう動かしても大丈夫ですよ」
「ありがとうございます、卯ノ花隊長!……あの、最後にもう一つだけ」
僕は完全に再生した右腕を回しながら、恐る恐る彼女を見上げた。
「君の笑顔、本当に世界一美しいと思います。……恐怖で心臓が止まりそうになったのも、含めてね」
「うふふ、お口の減らない男の子は、嫌いではありませんよ。……さあ、早く行きなさい。ここに長居すると、他の隊士に見つかってしまいますから」
彼女に背中を押されるようにして、僕は窓から四番隊舎を後にした。
屋根の上に飛び乗り、冷や汗を拭いながら深呼吸をする。右腕は完全に元通り、いや、治療前よりも霊圧の巡りが良くなっている。
「……ふぅ。白哉のお兄さんより怖かった。でも、やっぱり最高の美人だったな!」
僕は再びニヤリと笑うと、視線を瀞霊廷の最深部――ルキアちゃんが囚われている巨大な白い塔『懺罪宮(ざんざいきゅう)』へと向けた。
怪我は完全に治った。障害はすべてクリアした。
僕は足音を消し、夕焼けに染まり始めた白い瓦屋根の上を、懺罪宮に向かって猛スピードで疾走し始めた。