落ちこぼれ訓練編から始めて行きます矛盾点や直した方がいい箇所などなどがあればどんどん送って下さい励みになります
カムラの里の外れに、その家はあった。
大きな家ではなかった。むしろ、里の立派な屋敷や鍛冶場、集会所に比べれば、見落としてしまいそうなほど小さい。軒は低く、戸は古く、雨風に削られた柱には、何度も手入れされた跡が残っている。
けれど、その家は不思議と暗くなかった。
朝になると、薄い障子越しにやわらかな光が差し込む。囲炉裏の灰は前夜の温もりをわずかに残し、薬草の乾いた匂いと、古い木材の匂いが混ざっていた。壁際の棚には、使われなくなった道具が丁寧に並べられている。
古い薬棚。
小さな鈴のついた首飾り。
焦げ跡の残る道具箱。
使い込まれた首輪。
そして、布に包まれたライトボウガン。
少年は、それらを見るたびに、胸の奥が少しだけ静かになった。
名は、カナメ。
まだ何者でもない少年だった。
里の子供たちの中でも、特別背が高いわけではない。顔立ちが整っているわけでもない。声も大きくなく、人と話す時には、言葉が喉に引っかかることが多かった。誰かに強く見られると、すぐに目を伏せてしまう。
それでも、彼は毎朝、誰よりも早く起きた。
囲炉裏に火を入れる。水瓶の水を確かめる。干し肉を少し切り分ける。魚を包んだ葉を開き、傷んでいないか見る。薬草を吊るした紐に手を伸ばし、乾き具合を確かめる。
誰かに命じられたわけではなかった。
ただ、そうしていると、家が息をしているように感じられた。
「……おはよう」
カナメは、棚に向かって小さく言った。
返事はない。
それでも彼は、毎朝そう言う。
古い薬棚に。
鈴の首飾りに。
焦げ跡の道具箱に。
使い込まれた首輪に。
布に包まれたライトボウガンに。
かつてこの家にいた者たちの気配が、まだそこに残っているような気がした。
戸の外で、何かがごそごそと動いた。
次の瞬間、勢いよく戸が開く。
「カナメ! 魚はあるニャ!?」
転がり込むように入ってきたのは、一匹のアイルーだった。背には小さな道具袋。顔には寝ぐせのように毛が跳ね、目だけは朝から妙に輝いている。
ボンバー。
里では、少し困ったアイルーとして知られていた。
魚よりも火薬。鍋よりも爆弾。綺麗に片づいた道具箱を見るより、黒く焦げた試作品を見る方が嬉しそうな顔をする。危ない、うるさい、落ち着きがない。大人たちはよくそう言った。
だがカナメは、ボンバーが何かを壊したくて爆弾を作っているのではないことを、なんとなく知っていた。
塞がれたものを見ると、ボンバーはじっとしていられなくなる。
倒木。崩れた石。開かない箱。抜けない杭。
そういうものを見るたび、彼は目を細めて言うのだ。
ここ、開けられるニャ。
カナメは葉包みを差し出した。
「昨日、釣れた分。小さいけど」
「小さくても魚は魚ニャ!」
ボンバーは胸を張って受け取ったが、その直後、囲炉裏の横に置かれた焦げ跡の道具箱をちらりと見た。
ほんの一瞬だけ、騒がしい顔が静かになる。
「……今日も、借りないニャ」
小さくそう言って、ボンバーは自分の道具袋をぽんと叩いた。
「これはボンバーの道具ニャ。いつか、すごい道を開く道具にするニャ」
カナメは頷いた。
「うん。ボンバーの道具だ」
その言葉に、ボンバーの耳がぴんと立った。
「そうニャ。ボンバーのニャ」
言いながら、少しだけ嬉しそうだった。
また戸口の外で、今度は静かな足音がした。
開いた戸の向こうに、ガルクが一頭立っていた。
ロクだった。
体はまだ細く、立派な成犬のガルクに比べると頼りなく見える。耳はいつも少し伏せ気味で、大きな音がするとすぐに身を低くする。そのせいで、里の若者たちから臆病だと笑われることがあった。
ロクは家の中へ入る前に、周囲を一度見回した。
右。左。屋根の上。風の匂い。
それからようやく、そっと足を踏み入れる。
カナメは干し肉を一切れ差し出した。
「おはよう、ロク」
ロクは返事の代わりに、鼻先でカナメの手に触れた。干し肉を受け取る時も、がつがつとは食べない。まず匂いを嗅ぎ、カナメの顔を見て、それから静かに噛む。
食べ終わると、ロクは壁際の首輪の前で足を止めた。
古びた革の首輪だった。金具には細かな傷があり、何度も濡れ、乾き、手入れされてきた跡がある。
ロクはそれに鼻先を近づけた。
声は出さない。
けれど、耳の角度と、尾の動きだけで、何かを感じ取っているのが分かった。
カナメは黙っていた。
ボンバーも、こういう時だけは騒がなかった。
家の中に、朝の光が少しずつ満ちていく。
三人は、血のつながった兄弟ではない。
けれど、いつの頃からか、朝はこの家に集まるようになっていた。
カナメが火を入れる。
ボンバーが魚をねだる。
ロクが干し肉を食べる。
それだけの朝が、何度も繰り返されてきた。
カナメは鍋に水を注いだ。薬草の束から少しだけ葉を取り、手で揉んで香りを出す。幼い頃に、そうすると体が温まるのだと教わった。
誰に教わったのか、細かな声まではもう遠い。
ただ、手順だけは身体が覚えていた。
弱ったものは、まず温める。
水を与える。
無理に動かさない。
怖がらせない。
それは狩りの技ではなかった。
けれど、カナメにとっては、刃の振り方よりも先に覚えた大切なことだった。
「今日、訓練所行くニャ?」
ボンバーが魚をかじりながら尋ねた。
カナメの手が、少し止まる。
「……うん」
「また近接武器ニャ?」
「たぶん」
ボンバーは露骨に嫌そうな顔をした。
「カナメ、太刀も片手剣もハンマーも、なんか違うニャ」
「うん」
「大剣なんて、持った瞬間に負けてたニャ」
「……うん」
カナメは苦笑した。
笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。
訓練所へ行けば、また同じことになるだろう。
構える。遅れる。転ぶ。謝る。笑われる。
自分でも分かっていた。
近接武器を握ると、身体がこわばる。相手との距離が近すぎる。振る前に、相手の足や退路や、自分が倒れた時に誰の邪魔になるかばかり見てしまう。
だから遅れる。
だから笑われる。
それでも、行かないわけにはいかなかった。
ハンターになりたかった。
強くなりたいというより、見捨てたくなかった。
どうしてそう思うのか、まだうまく言葉にはできない。
ただ、道端で弱った小鳥を見つけた時。雨の中で震えるアイルーを見つけた時。里の外れで迷った小型モンスターの痕跡を見た時。
胸の奥が、ひどく痛くなる。
その痛みから目をそらせない。
だからカナメは、訓練所へ行く。
たとえ笑われても。
たとえ、向いていないと言われても。
ロクが、ふいに顔を上げた。
外の道から、子供たちの声が聞こえてきたのだ。訓練所へ向かう若者たちの笑い声。木剣のぶつかる音。誰かが大きな声で武器の自慢をしている。
ロクの耳が伏せられる。
ボンバーのひげがぴくりと動いた。
「……行くニャ?」
カナメは鍋の火を落とし、戸口の横に置いていた古い布袋を肩にかけた。中には訓練用の手拭いと、水筒と、少しの干し肉が入っている。
棚の布に包まれたライトボウガンへ、視線が向いた。
まだ、それに触れる勇気はなかった。
母のものだと知っている。
大切なものだと知っている。
けれど、それ以上のことは、まだ知らない。
知らないからこそ、軽々しく触れてはいけない気がした。
「行こう」
カナメは言った。
声は小さかった。
けれど、ボンバーはうなずいた。
「行くニャ」
ロクも、静かに立ち上がった。
三人が戸を出ると、朝の風が頬を撫でた。
カムラの里は、すでに目を覚ましている。遠くで鍛冶場の槌音が響き、団子屋の湯気が空へ上がり、訓練所の方角からは号令の声が聞こえた。
カナメは一度だけ振り返った。
小さな家は、朝日に照らされてそこにあった。
誰かを送り出すように。
誰かの帰りを待つように。
カナメは戸口に向かって、ほんの少し頭を下げた。
「行ってきます」
返事はない。
けれど、風が軒先の小さな鈴を揺らした。
ちりん、と音が鳴った。
その音を背に、カナメとボンバーとロクは歩き出した。
まだ誰も知らない。
この小さな家が、いつか数えきれない命の帰る場所になることを。
まだ、カナメ自身も知らない。
自分がいつか、世界の外側にまで手を伸ばし、帰れなかった命へ弾丸を向けることを。
今はただ、里の外れの小さな家から、落ちこぼれと呼ばれる三人が訓練所へ向かっているだけだった。
笑われるためにではない。
諦めるためにでもない。
帰ってくるために。
三人は、朝の道を進んでいった