カナメは、よく謝った。
誰かに肩が触れれば、すみません。
道を譲られれば、すみません。
訓練で転べば、すみません。
笑われても、すみません。
ボンバーが怒ってくれても、ロクが心配してくれても、まず口から出るのは謝罪だった。
それは、礼儀ではなかった。
癖だった。
朝、小さな家を出る前にも、それは出た。
カナメは囲炉裏の灰をならしていた。薬草湯の椀を片づけ、布袋に手拭いを入れ、水筒の栓を確かめる。いつもと同じ支度だった。
けれど、その日は少し手元が鈍かった。
昨日の訓練で腕がまだ重い。肩も痛む。指先にも、武器を握り続けた名残があった。
水筒を持ち上げた時、手が滑った。
ことん、と床に落ちる。
大きな音ではない。
中身もこぼれていない。
それなのに、カナメは反射のように言った。
「す、すみません」
家の中が一瞬、静かになった。
ボンバーが魚の包みを開けようとしていた手を止める。
ロクが顔を上げる。
カナメ自身も、少し遅れて気づいた。
誰に謝ったのだろう。
水筒に。
床に。
家に。
それとも、音を立てた自分に。
「……今の、誰に謝ったニャ?」
ボンバーが尋ねた。
責める声ではなかった。
けれど、カナメは目を伏せた。
「えっと……音、立てたから」
「誰も怒ってないニャ」
「でも」
「でもじゃないニャ」
ボンバーは包みを置き、カナメの前に来た。
小さな身体で胸を張る。
「カナメは、何も悪くない時にも謝るニャ」
カナメは返事ができなかった。
分かっている。
自分でも分かっている。
謝らなくていい場面で謝ってしまう。謝ることで、先に自分を小さくしておけば、誰かの怒りが少し弱まる気がする。笑われても、叱られても、謝れば早く終わるかもしれない。
そう覚えてしまった。
いつからかは、分からない。
人に見られる前から、すみません。
言われる前から、すみません。
失敗する前から、すみません。
そうしていれば、少しだけ傷が浅く済む気がした。
ロクが静かに近づき、落ちた水筒を鼻先で押した。
ころ、と水筒がカナメの方へ戻る。
それからロクは、カナメの手に鼻を触れた。
怒っていない。
そう伝えるように。
カナメは水筒を拾った。
「……ありがとう」
今度は、謝らなかった。
ボンバーが満足げに頷く。
「それでいいニャ」
朝の道でも、謝り癖は顔を出した。
里の通りはいつもより人が多かった。荷車を引くアイルー、団子を買いに来た子供、訓練所へ向かう若者たち。カナメは人の流れの端を選んで歩いた。
自分が邪魔にならないように。
ロクはその半歩横を歩き、ボンバーは道具袋を揺らして前へ進む。
曲がり角で、カナメの肩が誰かの荷袋に触れた。
「あっ、すみま――」
言いかけたところで、ボンバーが振り向いた。
カナメは口を閉じる。
荷袋を持っていた里人は、気にした様子もなく通り過ぎていった。
何も起きなかった。
カナメは胸に残った謝罪の言葉を飲み込む。
飲み込んだ言葉は、喉の奥で小さな棘のように引っかかった。
訓練所に着くと、その棘はもっと増えた。
「お、今日も来た」
「謝りに来たのか?」
「武器に謝っとけよ」
訓練生たちの笑い声。
カナメの唇が動きかける。
すみません。
言いそうになる。
だが、横でボンバーがじっと見ていた。
ロクも見ていた。
カナメは、言葉を飲み込んだ。
その代わりに、軽く頭を下げただけで通り過ぎる。
笑い声が少しだけ変わった。
「何だ、今日は謝らないのかよ」
謝らなければ、それはそれで言われる。
カナメは足を止めそうになった。
謝った方が楽だ。
謝れば、相手は満足するかもしれない。自分が悪いことにしてしまえば、その場は終わる。
けれど、足元でロクがぴたりと寄った。
ボンバーが小さく言う。
「行くニャ」
カナメは頷いた。
「……うん」
広場には、ウツシ教官がいた。
いつもの明るい笑顔で、訓練生たちを見ている。けれどカナメが近づくと、その目が少しだけ細くなった。
「おはよう、カナメ」
「お、おはようございます」
「肩は?」
「大丈夫です。すみま――」
言いかけて、止まった。
ウツシ教官は、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、かえってカナメには痛かった。
「……すみません」
結局、出てしまった。
カナメは顔を伏せる。
ボンバーが「あー」と小さく声を漏らした。
ロクの耳も少し伏せられる。
ウツシ教官はしゃがみ、カナメと目線を合わせた。
「今の謝罪は、何に対して?」
カナメは答えに詰まった。
「えっと……」
「肩が痛むこと?」
「……いえ」
「大丈夫ですと言ったこと?」
「いえ」
「僕に心配させたこと?」
カナメは、少しだけ息を止めた。
それに近い気がした。
誰かに心配されると、申し訳なくなる。自分のために時間を使わせてしまった気がする。自分の痛みや失敗で、相手の手を止めてしまうのが怖い。
「……たぶん、それです」
ウツシ教官は頷いた。
「心配されることは、悪いことじゃないよ」
カナメは顔を上げた。
「でも、俺のせいで」
「うん。君が痛めた肩の話だから、君のことではある」
ウツシ教官は明るく言い切った。
責めるでも、慰めるでもない声だった。
「でも、心配するかどうかは、こちらが決めることだ」
カナメは黙った。
「ボンバーが君を心配するのも、ロクが君の隣に立つのも、僕が肩を聞くのも、君に謝らせるためじゃない」
その言葉は、すぐには入ってこなかった。
謝らせるためじゃない。
では、何のために。
カナメが戸惑っていると、ウツシ教官は続けた。
「帰ってきてほしいから聞くんだよ」
帰ってきてほしい。
その言葉に、カナメの胸が小さく震えた。
帰る。
小さな家。
囲炉裏の火。
薬草湯。
鈴の音。
ボンバーの道具袋。
ロクの静かな足音。
そこへ、ちゃんと戻るために。
「だから、肩が痛い時は痛いと言っていい。疲れた時は疲れたと言っていい。謝る代わりに、状態を伝えること」
ウツシ教官は立ち上がった。
「それも訓練だよ」
カナメは目を瞬かせた。
「謝らない訓練、ですか」
「正確には、謝るべき時と、伝えるべき時を分ける訓練かな」
ボンバーが腕を組む。
「カナメには必要ニャ」
ロクも鼻を鳴らした。
カナメは、少しだけ困った顔をした。
「……はい」
午前の訓練が始まった。
今日は軽い走行と、道具の受け渡しだった。昨日までの近接武器ほど厳しくはない。だが、カナメにとっては別の難しさがあった。
人と組む訓練。
自分が遅れれば、相手の手を止める。受け渡しを失敗すれば、相手を待たせる。位置を間違えれば、列が乱れる。
謝罪の種が、そこら中に落ちていた。
「カナメ、薬草袋!」
訓練生の一人が声を出す。
カナメは慌てて袋を投げようとして、手が滑った。薬草袋は相手の手前に落ちる。
「あっ、すみ――」
言葉が出かける。
ウツシ教官の号令が飛んだ。
「状態!」
カナメはびくりとする。
謝る代わりに。
伝える。
「……手前に落ちました! 拾ってください!」
相手の訓練生が一瞬ぽかんとした。
だが、すぐに薬草袋を拾う。
「お、おう」
訓練は続いた。
謝らなかった。
胸は苦しい。
謝った方が楽だった。
でも、薬草袋は拾われ、訓練は止まらなかった。
次に、ボンバーへ小さな縄を渡す時、カナメは距離を見誤った。
縄が少し横へ逸れる。
「ごめ――」
「状態ニャ!」
ボンバーが叫んだ。
カナメは慌てて言い直す。
「右に逸れた!」
「拾うニャ!」
ボンバーが駆け、縄を取る。
「次、少し左ニャ!」
「うん!」
ロクとの合図訓練でも、カナメはつまずいた。
ロクが先に危険を見て止まる。カナメは半歩遅れて、その背に軽くぶつかりかけた。
「すみ――」
ロクが振り向く。
何も言わない。
ただ、じっと見る。
カナメは息を吸った。
「……前方、止まります」
声は小さい。
だが、出た。
ウツシ教官が遠くで頷いているのが見えた。
その日の訓練は、技としては大きな成果がなかった。
カナメの動きは相変わらず遅い。受け渡しも上手くない。声もまだ小さい。何度も謝りかけた。
けれど、そのたびに、少しだけ言い換えた。
落ちました。
右に逸れた。
止まります。
遅れます。
もう一度お願いします。
どれも簡単な言葉だった。
だが、カナメにとっては近接武器を振るのと同じくらい難しかった。
昼休み、訓練所の外れに座ると、どっと疲れが来た。
ボンバーが魚の干物をかじりながら言う。
「謝らないの、下手ニャ」
「……うん」
「でも、朝より少し上手くなったニャ」
カナメは苦笑した。
「それ、褒めてる?」
「褒めてるニャ」
ロクがカナメの膝に鼻先を乗せた。
疲れているのを見抜かれたのだろう。
カナメはロクの耳の後ろを撫でた。
「ありがとう」
今度は自然に出た。
すみませんではなく、ありがとう。
それだけで、胸の重さが少し違った。
夕方、訓練が終わる頃、ウツシ教官が声をかけた。
「カナメ」
「はい」
「今日、何回か謝らずに伝えられたね」
カナメは目を伏せる。
「でも、何回も謝りかけました」
「かけたけど、全部ではなかった」
ウツシ教官は笑った。
「それでいい。癖は一日で変わらないよ」
カナメは小さく頷いた。
「……はい」
「それと、謝ること自体が悪いわけじゃない。本当に誰かを傷つけた時、迷惑をかけた時、間違えた時。謝れるのは大事なことだ」
ウツシ教官の声が、少しだけ優しくなる。
「でも、自分が存在することまで謝らなくていい」
カナメは息を止めた。
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
自分が存在すること。
そんなつもりはなかった。
けれど、もしかしたら。
道の端を歩くこと。
視線を避けること。
何か言われる前に謝ること。
人に心配されると申し訳なくなること。
それは、自分がここにいることそのものを、少しずつ謝っていたのかもしれない。
カナメは手を握った。
「……難しいです」
「うん。難しい」
ウツシ教官はあっさり認めた。
「だから、訓練する」
その言い方があまりに自然で、カナメは少しだけ笑ってしまった。
謝り癖も訓練になる。
そう思うと、不思議だった。
帰り道、三人は並んで歩いた。
前を行く訓練生たちの笑い声は、まだ聞こえる。
カナメが完全に気にしなくなったわけではない。胸は痛む。肩も縮む。謝りそうにもなる。
だが、今日は少しだけ違った。
謝る代わりに、息を吸う。
状態を確かめる。
痛い。
疲れた。
怖い。
でも歩ける。
それを、自分の中で言葉にする。
小さな家に着くと、軒先の鈴が鳴った。
ちりん。
ボンバーが戸を開ける。
「ただいまニャ!」
ロクが静かに中へ入る。
カナメは戸口で立ち止まった。
いつものように、家の中の棚を見る。
古い薬棚。焦げ跡の道具箱。使い込まれた首輪。鈴の首飾り。布に包まれたライトボウガン。
誰も、謝れとは言わない。
この家は、カナメに謝罪を求めない。
ただ、帰ってきた者を受け入れるように、夕方の光を抱いていた。
カナメは小さく息を吸った。
「ただいま」
それから、少し遅れて言った。
「……今日は、疲れました」
ボンバーが振り返る。
ロクも顔を上げる。
カナメは、謝らなかった。
疲れたと伝えた。
ボンバーはにっと笑う。
「じゃあ、薬草湯ニャ」
ロクは敷物の上に伏せ、隣を空けた。
座れ、というように。
カナメはその横に腰を下ろした。
肩の力が抜ける。
謝る代わりに、帰ってくる。
それがどれほど難しいことなのか、カナメはまだ知らない。
けれど、この日。
小さな家の夕方で、カナメは初めて、謝らずに自分の疲れを口にした。
囲炉裏の火が灯る。
薬草の匂いが広がる。
ボンバーが湯をかき混ぜ、ロクが静かに目を閉じる。
カナメは膝の上で手を開いた。
まだ震えている。
でも、その手は何かに謝るためではなく、明日もう一度訓練所へ向かうために、ゆっくりと休んでいた。