アヤメは、訓練所の端に立っていた。
派手に声を上げるわけではない。
誰かの失敗を笑うこともない。
ただ、静かに見ている。
その姿は、訓練生たちの中では少し浮いていた。背筋はまっすぐで、動きには無駄がない。腰に差した太刀は訓練用ではなく、きちんと手入れされた実戦の気配を持っている。
月の光を思わせる人だと、カナメは前から思っていた。
昼間の訓練所にいても、アヤメの周りだけは少し空気が澄んで見える。声を荒げず、無理に目立たず、それでいてそこにいることがはっきり分かる。
だから、カナメは余計に苦手だった。
嫌いなのではない。
怖いのだ。
綺麗な人に見られると、何をしていいか分からなくなる。自分の不格好さが、普段より何倍も目立つ気がする。泥のついた訓練服、擦れた袖、武器を上手く持てない手、すぐ謝ろうとする口。
全部が、恥ずかしくなる。
その日、午後の訓練は、簡易隊列と投擲の確認だった。
昨日、カナメが射線を見ていたことを受けて、ウツシ教官は少しだけ訓練内容を変えたらしい。
広場にはいくつかの木札が置かれ、訓練生たちは三人一組で移動する。布玉を投げる者、受け取る者、避ける者。オトモは待機線と補助線を確認する。
カナメは、イチカ、ボンバー、ロクと組んでいた。
「今日は見る場所を絞る」
イチカが言う。
「うん」
「周り全部を見ようとして固まらない」
「うん」
「失敗したら?」
「状態を言う」
「よし」
ボンバーが横から胸を張る。
「オイラも状態を言うニャ。爆発しそうなら爆発しそうと言うニャ」
「それは爆発する前に止めて」
「分かってるニャ」
ロクが鼻を鳴らした。
その音に、イチカが笑う。
「ロクも同意してる」
カナメは少しだけ笑った。
訓練開始の号令が響く。
最初は、順調だった。
イチカが前へ出る。カナメは半歩後ろで布玉を受け取る。ボンバーは待機線の端で道具袋を押さえ、ロクは横切る役として指示を待つ。
カナメは、射線を見た。
布玉の通る線。
イチカの足元。
ロクの走る道。
隣の組の槍の先。
ボンバーの道具袋が置かれた位置。
多い。
けれど昨日よりは、少し整理できていた。
「今、投げます」
声は小さいが、出た。
布玉を投げる。
的には届かなかった。
手前に落ちる。
「手前!」
「拾う!」
イチカがすぐに動いた。
失敗した。
けれど、訓練は止まらない。
ボンバーが誇らしげに言う。
「今のは状態が早かったニャ」
「的には当たってないよ」
「でも止まってないニャ」
ロクが尾を揺らした。
そのやりとりを、アヤメは見ていた。
カナメは気づいてしまった。
目が合ったわけではない。
けれど、見られていることが分かる。
アヤメの視線は、他の訓練生たちのそれとは違った。
笑うための視線ではない。
欠点を探すだけの視線でもない。
静かに、剣筋を見るような目。
だからこそ、緊張した。
次の布玉を受け取る時、カナメの手がわずかに強張った。
布玉が指先をすり抜ける。
「あっ」
落ちた。
足元に転がる。
謝りそうになる。
「すみ――」
「状態!」
イチカの声が飛ぶ。
カナメは息を吸った。
「足元に落ちました!」
「拾って次!」
イチカが拾う。
カナメは頷く。
だが、胸の奥は乱れていた。
アヤメが見ている。
そう思っただけで、身体がいつもより不器用になる。
イチカはそれを見抜いたように、小声で言った。
「人の視線で崩れてる」
「……うん」
「誰?」
カナメは答えられなかった。
言えば、余計に意識してしまう。
だがイチカは、カナメの視線の先を追った。
そして、小さく「ああ」と言った。
「アヤメさんか」
「声が……」
「ごめん、小さく言ったつもり」
カナメの耳が熱くなる。
ボンバーがにやりとする。
「カナメ、綺麗な人に見られると動きが壊れるニャ」
「ボンバー」
「事実ニャ」
ロクが静かにカナメの横へ寄った。
落ち着け、とでも言うように。
カナメは深く息を吸った。
見る場所を決める。
今見るもの。
布玉。
イチカの足。
ロクの進路。
アヤメではない。
そう思っても、視界の端に月のような気配が残る。
ウツシ教官の号令が響いた。
「次、交差移動!」
訓練生たちが動く。
隣の組も同時に進む。布玉がいくつか飛ぶ。ロクが横切る。ボンバーが待機線をずらす。
複数の線が、広場に重なった。
カナメの目が、それを追ってしまう。
イチカの投げる布玉の線。
隣の訓練生の布玉の線。
ロクの走る線。
ボンバーが避けるべき線。
さらに奥で、別の訓練生が槍を回す線。
多すぎる。
頭が白くなりかけた。
その時、奥の槍が少し大きく振られた。
訓練用とはいえ、柄が長い。
振った訓練生は、自分の正面しか見ていない。回した槍の後端が、横を通ろうとしていた小柄な訓練生の肩に当たりそうになっている。
カナメの身体が先に動いた。
「止まって!」
声が出た。
いつもより大きかった。
広場の空気が一瞬止まる。
小柄な訓練生が足を止める。
槍の後端が、その鼻先をかすめるように通った。
当たらなかった。
カナメの心臓が強く打つ。
自分が叫んだことに、今さら気づいた。
周囲の視線が集まる。
怖い。
言いすぎたかもしれない。
間違っていたかもしれない。
大げさだったかもしれない。
「す、すみま――」
言いかけた時だった。
「謝る必要はありません」
静かな声が、広場に落ちた。
アヤメだった。
カナメは息を止めた。
アヤメはゆっくり歩いてくる。
その足取りは静かで、乱れがない。訓練生たちの視線が自然に道を空ける。
アヤメは槍を持っていた訓練生の立ち位置を見て、次に止まった小柄な訓練生を見た。
「今のまま進んでいれば、当たっていました」
槍を持っていた訓練生が青ざめる。
「え、あ……」
「周囲を見ずに振るなら、長物は危険です」
声は厳しいが、怒鳴ってはいない。
だからこそ、よく届いた。
アヤメはカナメへ視線を向けた。
カナメは反射的に目を伏せそうになった。
けれど、伏せきれなかった。
アヤメの目は、責めていなかった。
月光のような、静かな眼差し。
「よく見ていましたね」
カナメは、言葉を失った。
褒められた。
アヤメに。
それがどういうことなのか、頭が追いつかない。
ボンバーが小さく拳を握った。
「カナメ、褒められたニャ」
イチカも隣でにやりとする。
「崩れない」
カナメは慌てて息を吸う。
「……はい」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
アヤメは少しだけ表情を和らげた。
「あなたは、よく線を見ています」
「線……」
「人が動く線。武器が通る線。危険が生まれる線」
アヤメの視線は、広場全体へ向いた。
「近接武器では、その多さに身体が遅れているように見えます。ですが、今のような場面では、その目が誰かを止めます」
カナメの胸が震えた。
同じことを、ウツシ教官やイチカにも言われた。
けれど、アヤメの言葉はまた違って聞こえた。
剣を扱う人の目で見て、そう言われたからかもしれない。
近接武器を使えない自分の視線を、近接武器の達人のような人が、無駄ではないと言っている。
「ただ」
アヤメは続けた。
「全部を見る必要はありません。戦場で全部を見ようとすれば、心も身体も先に潰れます」
その言葉は、やさしいだけではなかった。
鋭かった。
カナメは思わず背筋を伸ばす。
「見るべきものを選ぶこと。それを覚えれば、あなたの目はもっと活きます」
「……はい」
アヤメは小さく頷いた。
その時、ウツシ教官が明るく手を叩いた。
「はい、今のは全員の教材だよ!」
場の空気が少し緩む。
「槍の後端、布玉の射線、オトモの動線。全部、事故につながる。見える人が声を出すこと。声を出された人は止まること。これは大事!」
訓練生たちは黙って聞いていた。
さっきまでなら、カナメが声を出しただけで笑いが起きたかもしれない。
だが今回は違った。
アヤメが認めた。
ウツシ教官が教材にした。
イチカが隣に立っていた。
ボンバーとロクが、カナメを見ていた。
笑いが入り込む隙間が、少しだけ狭くなっていた。
訓練が再開される。
カナメはまだぎこちなかった。
アヤメに見られていると思うと、手は少し震える。布玉も一度落とした。声も何度か小さくなった。
それでも、さっきのように完全には崩れなかった。
アヤメの言葉が残っていた。
線を見る。
でも、全部は見ない。
見るべきものを選ぶ。
午後の終わり頃、アヤメは訓練所の端で一人、太刀を抜いた。
訓練ではなく、確認のような動きだった。
鞘から刃が抜ける。
音はほとんどしない。
月の光が水面を滑るような動き。
カナメは思わず見入った。
一歩。
腰の沈み。
刃の軌道。
足の向き。
斬った後の余白。
アヤメの太刀筋には、無駄な線がなかった。
自分が見すぎて迷う線を、アヤメは選び、切り落とし、必要な一本だけにしているように見えた。
気づくと、アヤメの動きが止まっていた。
目が合う。
カナメは慌てて視線を落とした。
「す、すみま――」
また出そうになる。
だが、アヤメが先に言った。
「見ていて構いません」
カナメは固まった。
「え」
「太刀筋を見ていたのでしょう」
「……はい」
「なら、見て構いません。ただし、遠慮して目を逸らすくらいなら、最初から見ない方がいいです」
厳しい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
カナメは小さく頭を下げた。
「……分かりました」
アヤメは太刀を納めた。
「あなたの目は、逃げているようで、逃げていない時があります」
カナメは顔を上げた。
「どういう……」
「怖がって目を伏せることは多い。けれど、危険を見た時だけは、逃げずに見ています」
その言葉に、カナメは息を止めた。
そんなふうに見られていたのか。
自分では、逃げてばかりだと思っていた。
けれど、アヤメの月光のような眼差しは、逃げなかった瞬間だけを拾っていた。
「それは、悪い目ではありません」
アヤメは静かに言った。
それだけ言って、彼女は訓練所の奥へ歩いていった。
カナメはしばらく、その背中を見ていた。
美しい背中だった。
強い背中だった。
そして、誰かを見下ろすためではなく、前に立つための背中だった。
イチカが横に来る。
「良かったね」
「……うん」
「顔、真っ赤だけど」
「言わないで」
「敬語抜けた」
「あ」
イチカが笑う。
ボンバーもにやにやしている。
「カナメ、成長ニャ」
ロクは静かに尾を振っていた。
夕方の帰り道。
訓練所の笑い声は、まだあった。
カナメが失敗すれば、笑う者もいた。
けれど、その声は少しだけ遠くなっていた。
代わりに、アヤメの言葉が胸に残っている。
あなたの目は、逃げているようで、逃げていない時があります。
悪い目ではありません。
カナメは、自分の目が好きではなかった。
人と目を合わせられない。
綺麗な人を見ると緊張する。
危険ばかり見てしまう。
多くを見すぎて遅れる。
でも、今日だけは。
ほんの少しだけ、その目を否定しなくてもいい気がした。
小さな家に帰ると、軒先の鈴が鳴った。
ちりん。
カナメは戸を開ける前に、空を見上げた。
まだ月は出ていない。
それでも、アヤメの眼差しは、夕暮れの中に静かに残っているようだった。
「ただいま」
カナメが言う。
ボンバーが続く。
「ただいまニャ!」
ロクが静かに家へ入る。
囲炉裏に火を入れながら、カナメは今日見た太刀筋を思い出した。
無駄のない線。
月光のような眼差し。
いつか自分も、あんなふうに見るべきものを選べるのだろうか。
まだ分からない。
けれど、今日のカナメは一つだけ覚えていた。
自分の目を、初めてアヤメが否定しなかったこと。
それは、訓練所で笑われる少年にとって、ひどく静かで、ひどく大きな出来事だった。