訓練所の庭に、夜の名残がまだ薄く残っていた。
朝日は山の端を越え始めているのに、アヤメの周囲だけは、月明かりが消え残っているように見えた。月迅剣士装・霞夜の黒と銀は、光を跳ね返さず、ただ静かに吸い込む。装甲の継ぎ目に走る淡い紋様が、彼女が一歩動くたび、霞の奥で瞬く星のように揺れた。
カナメは、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
隣ではボンバーが耳をぴんと立て、ロクは前脚を揃えて伏せている。伏せてはいるが、怯えて縮こまっているのではない。鼻先はわずかに上がり、耳はアヤメの足音と衣擦れを拾うように動いていた。
アヤメは腰の太刀へ手を添えた。
その瞬間、庭の空気が変わった。
鞘は夜のように黒く、ところどころに銀の線が流れていた。飾り気は少ない。だが、無駄がないからこそ美しい。柄巻きは深い藍。鍔は欠けた月を思わせる細い輪で、そこに薄い白銀の光が乗っている。
アヤメが静かに言った。
「月迅刀・朧閃。私の太刀よ」
名を聞いただけで、カナメは喉の奥が詰まった。
強い武器の名を聞いた時の興奮ではない。もっと別のものだった。近づいてはいけないものを前にした時の緊張と、それでも目を離せないほどの美しさが、同時に胸へ落ちてくる。
ボンバーはごくりと唾を飲んだ。
「……爆弾みたいに派手じゃないニャ。でも、なんか……爆発する前より怖いニャ」
カナメは小さく頷きかけて、慌てて首をすくめた。
「す、すみません……俺が頷くことじゃ……」
「謝るところじゃないわ」
アヤメは笑わなかった。
馬鹿にするでもなく、呆れるでもなく、ただそのまま受け取る声だった。カナメは余計に目の置き場に困り、視線を地面へ落としかけた。
その時、アヤメの親指が、鍔をわずかに押した。
ちり、と小さな音がした。
鞘の口から覗いた刃は、朝の光を受けても白くは光らなかった。鈍く、深く、月の影のような色をしていた。けれど刃文の奥だけが、細い霧のように揺れている。
カナメは息を止めた。
綺麗だ、と思った。
だが、その綺麗さは飾りの綺麗さではない。立つ場所を間違えれば、そのまま何も言えずに斬られる。そう思わせる静かさだった。
「少しだけ見せるわ。危ないから、そこから動かないで」
「は、はい」
「ニャ」
ロクは返事の代わりに、すっと身を低くした。
アヤメはそれを見て、ほんの少し目を細めた。
次の瞬間、彼女の姿が消えたように見えた。
風が鳴ったわけではない。地面が大きく踏み鳴らされたわけでもない。けれど、アヤメはいつの間にか半歩前にいた。月迅刀・朧閃が鞘から抜かれ、朝の中に黒い線を引いている。
藁束が、遅れてずれた。
斬られたことに気づくのが、藁束の方が遅れたみたいだった。
「にゃっ……!」
ボンバーの尻尾が膨らんだ。
ロクは耳を伏せたまま、前脚を一寸だけ引いた。逃げたのではない。刃が通った道を見て、次に危ない場所から身体を外したのだ。
カナメは、藁束ではなく地面を見ていた。
アヤメの足跡。
踏み込みの深さ。
刃が通った高さ。
斬った後に残された、逃げ道のような隙間。
おかしいと思った。
あれだけ速く、鋭い一太刀なのに、アヤメは全部を奪いに行っていない。藁束を両断した後でも、彼女の体はすぐ次へ動ける形で止まっている。追撃も、回避も、納刀もできる場所にいる。
カナメは思わず呟いた。
「……斬った後も、帰れる位置にいる」
言ってから、血の気が引いた。
また変なことを言った。
そんなふうに考えるのは、自分だけかもしれない。太刀のすごさを見る場面で、斬り方ではなく帰り道を見ているなんて、笑われるに決まっている。
「あ、す、すみません。今のは、その、俺が勝手に――」
「帰れる位置」
アヤメが、言葉を繰り返した。
カナメは肩を跳ねさせた。
アヤメは月迅刀・朧閃を下げたまま、斬られた藁束ではなく、カナメを見ていた。
「あなたは、そこを見ていたの」
「え……」
「普通は刃を見るわ。速さか、威力か、姿勢を見る。もちろん、それも大事。でもあなたは、斬った後の足を見ていた」
カナメは俯いた。
「……すみません。俺、近接武器、全然だめなので。だから、たぶん変なところばかり……」
「変ではないわ」
短い言葉だった。
けれど、それは笑い声よりずっと強く、カナメの耳に残った。
ボンバーが目を丸くして、カナメとアヤメを交互に見た。
「カナメ、そんなとこ見てたのかニャ?」
「え、いや、その……足が、残ってたから」
「足が残るって何ニャ」
「えっと……逃げられるというか、戻れるというか……斬った後に、倒れた相手だけ見てないというか……」
カナメの声はどんどん小さくなった。
説明すればするほど、自分が変なことを言っている気がした。ボンバーは難しい顔で腕を組んだが、すぐに耳をぴくりと動かした。
「でも、それ大事かもしれないニャ。爆弾も置いた後に逃げ道がないと、自分が吹っ飛ぶニャ」
「ボンバーはまず吹っ飛ばない置き方を覚えた方がいいと思う……」
「そ、それはこれからニャ!」
ロクが鼻先でボンバーの腰袋を軽く押した。中の小タルがころりと鳴る。ボンバーは慌てて袋を押さえた。
「今は爆発しないニャ! たぶん!」
「たぶんは駄目だと思う……」
カナメが小さく言うと、ボンバーは口を尖らせた。けれど怒ってはいない。むしろ、さっきより少しだけ元気になっていた。
アヤメはそのやり取りを静かに見ていた。
カナメは刃の後の足を見る。
ボンバーは爆発の後の退避を思う。
ロクは言葉を使わず、危ない線から身体を外す。
三人とも、笑われているほど単純ではない。
そう思っている自分に、アヤメ自身が少し驚いた。
彼らは強く見えない。
訓練所の中では、むしろ頼りなく見える。カナメはすぐ謝る。ボンバーは勢いだけに見える。ロクは臆病だと呼ばれている。
けれど、今の三人は、同じものを別々の角度から見ていた。
帰るための線。
まだ言葉にはなっていない何かが、そこにあった。
アヤメは月迅刀・朧閃をゆっくりと納めた。
鍔が鳴る。
ちん、と澄んだ音が庭へ落ちた。
「もう一度だけ、見る?」
カナメは反射的に顔を上げた。
けれどすぐに、申し訳なさそうに眉を下げる。
「い、いいんですか」
「見たいのでしょう?」
「……はい」
小さな返事だった。
だが、今度は謝らなかった。
アヤメはそれに気づいたが、何も言わなかった。
彼女は再び構える。月迅刀・朧閃の柄に指がかかる。霞夜の装甲が朝の光を受け、わずかに薄く輝く。
カナメは今度こそ、刃を見た。
速さを見る。
手首を見る。
肩を見る。
それから、足を見る。
ボンバーは目を凝らしながら、小さく呟いた。
「音が少ないニャ……火薬だったら、合図が遅れるニャ……でも煙を使ったら……いや、煙の中で味方が迷うニャ……」
ロクは伏せたまま、尻尾を低く保っている。視線はアヤメの刃先ではなく、踏み込みの向きと、カナメの立ち位置の間を行き来していた。
アヤメが動いた。
一閃。
今度は、藁束の上半分だけが斜めに落ちた。残された下半分は倒れない。切り口だけが、朝露に濡れた草のように静かだった。
カナメは息を吐いた。
「……すごい」
それ以上の言葉は出なかった。
強い、速い、美しい。
どれも合っている。
けれど、それだけでは足りない。
アヤメの太刀は、ただ敵を斬るものではなく、斬った後の自分と仲間の位置まで決めている。刃の軌跡が、道のように見えた。
カナメは自分の手を見下ろした。
近接武器を握ると震える手。
木刀さえまともに扱えず、笑われた手。
その手では、あんなふうに月迅刀・朧閃を抜くことはできない。
できない。
けれど、見えるものはあるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。すぐに消えてしまいそうな、弱い灯りだった。それでも、完全な暗闇ではなかった。
アヤメが納刀する。
「カナメ」
「は、はい」
「あなたは太刀を振れないかもしれない。でも、今の一太刀をただ眺めていたわけではない」
カナメは言葉を失った。
褒められたのか、注意されたのか、分からなかった。ただ、馬鹿にされていないことだけは分かった。
それだけで、喉の奥が苦しくなる。
「ボンバー」
「ニャッ」
「あなたは音と合図を見ていた。火薬を使うなら、味方がどう動くかも考えなさい」
「……味方」
ボンバーの耳が少し倒れ、それから立った。
「味方が帰るための爆発ニャ」
アヤメは小さく頷いた。
次に、ロクを見る。
ロクは身じろぎせず、ただ耳だけを動かした。
「ロク。あなたは刃を怖がったのではなく、通る場所を避けたのね」
ロクは静かに立ち上がり、カナメの横へ歩いた。尻尾は低いが、腹の下に巻き込んではいない。鼻先をカナメの手の甲へ寄せる。
カナメはその頭をそっと撫でた。
「うん。ロクは、ちゃんと見てたんだよな」
ロクの耳が、ほんの少しだけ緩んだ。
その様子を見て、アヤメは月迅刀・朧閃の柄から手を離した。
まだ、分かったとは言えない。
この三人が何者なのか。
本当に狩人になれるのか。
ただの落ちこぼれではないのか。
アヤメ自身にも、答えは出ていなかった。
けれど、笑って終わらせるには、今の視線はあまりに惜しかった。
遠くから、訓練所の方へ誰かの笑い声が流れてきた。朝の支度を終えた候補生たちが、また集まり始めているのだろう。
その笑い声に、カナメの肩が少しだけ強張った。
ボンバーの耳も伏せかける。
ロクが一歩、カナメの前へ出た。
アヤメは何も言わず、三人の前に立つ位置を少しだけ変えた。庇うほど露骨ではない。ただ、笑い声と三人の間に、月迅剣士装・霞夜の黒い影が一枚入った。
カナメはそれに気づいたが、どう受け取ればいいのか分からなかった。
「あの……アヤメさん」
「何?」
「見せてくれて、ありがとうございました」
今度は、謝罪ではなかった。
アヤメは少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
朝の光が強くなり、月の名を持つ太刀の影が薄れていく。
その代わり、訓練所の向こうから甘い匂いが漂ってきた。焼けた団子の香ばしさと、温かな茶の気配。里の朝が、戦いの庭へゆっくり流れ込んでくる。
ボンバーの腹が、くう、と鳴った。
「……団子の匂いニャ」
カナメは思わず小さく笑った。
ロクも鼻先を上げ、匂いのする方へ耳を向ける。
アヤメは月迅刀・朧閃を腰に戻し、庭の入口へ視線を向けた。
そこにはまだ誰の姿もない。
けれど、甘い湯気の向こうから、誰かがこちらを見ているような気がした。