焼けた団子の香りは、刃の気配よりもずっと柔らかく、けれど訓練所の庭に残っていた緊張をほどくには十分だった。
月迅刀・朧閃が鞘へ戻った後も、庭の空気にはまだ、細く張られた糸のようなものが残っていた。斬られた藁束はもう地面に伏せているのに、カナメの目はその跡を追っていた。どこから踏み込み、どこで斬り、どこへ戻るのか。刃の軌跡そのものではなく、その後に残る余白を見てしまう。
自分でも、また変なところを見ていると思った。
口の奥に、謝る言葉が浮かびかける。
その時だった。
「お団子、焼けましたよ」
声は、庭の端から届いた。
振り向いたカナメの視界に、湯気が入った。薄い朝の光の中、木の盆を両手で持ったヒノエが立っていた。盆の上には、焼き目のついた団子と小さな湯呑みが並んでいる。甘いタレの香りに、少し焦げた米の匂い。張り詰めていた空気の中へ、里の日常がそっと差し込んできたようだった。
ボンバーの耳が跳ねた。
「だ、団子ニャ……!」
さっきまで月迅刀の静かな怖さに固まっていた顔が、いきなり別の意味で真剣になる。腹の音がまた小さく鳴り、ボンバーは慌てて自分の腹を押さえた。
「な、鳴ってないニャ。これは、ええと、爆薬袋の音ニャ」
「爆薬袋は今、持っていないのではありませんか?」
アヤメが静かに言うと、ボンバーは目を泳がせた。
「心の爆薬袋ニャ」
ロクは言葉を発しない。ただ、鼻先が湯気のほうへぴくりと動いた。伏せていた前脚が少しだけ崩れ、耳の角度が緩む。まだ周囲の笑い声を警戒しているのか、完全には立ち上がらない。だが、尻尾の先が一度だけ、地面を払った。
ヒノエはその小さな動きを見逃さなかった。
笑い声に身を強張らせた時の三人と、団子の香りに少しだけほどけた今の三人。その差は、ほんのわずかだった。けれど、わずかだからこそ分かるものがある。
「よければ、皆さんでどうぞ。訓練の後は、甘いものが一番ですから」
「え、あ、いえ、俺たちなんかがいただくのは……その、すみません」
カナメは反射のように頭を下げかけた。
団子を持ってきてもらったことへの驚き。アヤメの稽古の場に居合わせてしまった申し訳なさ。笑われている自分たちへ、ヒノエが声をかけてくれたことへの戸惑い。
全部が一緒になって、いつもの言葉が先に出た。
ヒノエは怒らなかった。
困ったようにも、同情するようにも見なかった。ただ盆を持ったまま、柔らかく首を傾げる。
「カナメさん」
「は、はい」
「お団子は、謝って食べるものではありませんよ」
言い方は穏やかだった。けれど、軽く流すだけの声ではなかった。
カナメは口をつぐんだ。
ヒノエは盆を少しだけ差し出す。
「こういう時は、ありがとうございます、でよいのです」
「……あ」
喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を変えた。
謝るほうが楽だった。自分が悪いことにしてしまえば、相手の親切を受け取らずに済む。受け取っていいのか考えずに済む。けれど、目の前の団子は、謝罪を求めて置かれたものではなかった。
カナメは両手を膝の横でぎゅっと握り、一度だけ息を吸った。
「……ありがとうございます。ヒノエさん」
言ってから、顔が熱くなった。
たったそれだけの言葉なのに、狩場で大型モンスターの前に立つより難しい気がした。いや、まだ狩場に立ったことなどない。けれど、少なくとも訓練所で笑われるより、ずっと胸の奥が落ち着かなかった。
ヒノエは、嬉しそうに微笑んだ。
「はい。どうぞ」
その笑顔に、ボンバーが待ちきれず前へ出た。
「いただくニャ! カナメ、早く食べるニャ! ロクも匂いだけじゃなくて食べるニャ!」
ロクはボンバーに鼻先を向け、少しだけ目を細めた。急かされても飛びつかず、まずカナメのほうを見る。カナメが小さく頷くと、ようやく立ち上がり、静かにヒノエの前へ近づいた。
ヒノエは膝を折り、ロクの目線に少し近づく。
「あなたも、どうぞ。熱いですから、少し冷ましてからですね」
ロクは湯気を嗅ぎ、熱さを確かめるように鼻先を引いた。その仕草が慎重で、けれど怯えではないことを、ヒノエは感じ取った。危ないものから逃げているのではなく、危ない距離を測っている。さっき月迅刀の刃筋から自然に身体を外した時と同じだった。
この子は、怖がりなのではない。
危ない線を、誰より早く見ている。
ヒノエの視線が、次にボンバーへ移る。
ボンバーは団子を両手で受け取りながらも、盆の位置をちらちら見ていた。自分が勢いよく飛びつけば盆が傾く。タレがこぼれれば、ヒノエの袖を汚す。小さな足は前へ出たが、最後の一歩だけ妙に慎重だった。
「熱いので、気をつけてくださいね」
「分かってるニャ! ボンバーは爆弾の熱さにも慣れてるニャ!」
そう言った直後、ボンバーは団子の端をかじり、目を見開いた。
「あっついニャ!」
ぴょん、と跳ねる。
アヤメがわずかに目を伏せ、笑みを隠した。カナメは慌てて手を伸ばしかけたが、ボンバーは舌を出しながらも団子を落とさなかった。落とせば土がつく。食べ物を無駄にしたくないという意地が、妙なところで働いている。
「だ、大丈夫か、ボンバー」
「大丈夫ニャ……敵は熱さだったニャ……」
「だから、冷ましてからと……」
「聞こえてたニャ。でも団子が呼んでたニャ」
そのやり取りに、庭の空気が少し緩んだ。
遠くでまだ、候補生たちの視線がある。ひそひそ声も残っている。落ちこぼれが団子をもらっている、アヤメに構われている、ヒノエにまで声をかけられている。そんな目が、いくつも刺さってくる。
カナメはそれに気づくたび、肩を狭めそうになった。
だが、ヒノエは何も言わず、盆の位置を変えた。候補生たちの視線と三人の間に、湯気の立つ団子を置くように。庇っているとは分からないほど自然に、けれど確かに、三人が少し息をつける場所を作った。
アヤメが刃で線を作るなら、ヒノエは湯気で線を作る。
カナメはそんなことを思って、また自分の考えに驚いた。
変な見方だ。
でも、今度はすぐに謝らなかった。
ヒノエは、カナメが団子を受け取る手を見ていた。
最初に自分の分を取らない。ボンバーの熱が落ち着いたかを確認し、ロクの分が食べやすい大きさかを見て、それからようやく自分の団子へ手を伸ばす。茶も同じだった。湯呑みを受け取る時、指先が震えているのに、盆が傾かないように下から支えようとする。
自分を後回しにする癖。
それは優しさでもあり、危うさでもあった。
「カナメさん」
「はい」
「熱くありませんか?」
「だ、大丈夫です。俺は、その、熱いのは平気なので」
言いながら、カナメは少しだけ団子をかじった。
直後、目元がわずかに動く。
熱かったのだ。
だが我慢して飲み込もうとする。ボンバーのように騒げない。ロクのように素直に鼻先を引くこともできない。迷惑をかけないように、平気な顔をしようとする。
ヒノエは湯呑みをそっと差し出した。
「お茶をどうぞ。熱いものを熱いと言っても、誰も困りませんよ」
カナメの指が止まった。
「……すみま」
言いかけて、唇を噛む。
ヒノエは待った。
急かさない。代わりに言ってあげることもしない。ただ、カナメが自分で言葉を選ぶ時間を、湯気の向こうで守っていた。
カナメは視線を落とし、少ししてから、小さく言った。
「……熱かったです」
「はい」
「でも、おいしいです」
それは、ひどく不器用な言葉だった。
けれどヒノエには、十分だった。
「それなら、よかったです」
ボンバーが団子をふうふう冷ましながら、横から胸を張る。
「カナメはすぐ我慢するニャ。熱いなら熱いって言えばいいニャ」
「お前、さっき跳ねてただろ」
「ボンバーは正直者ニャ」
ロクが低く鼻を鳴らした。からかうようではない。ただ、ボンバーの横で尻尾を一度振り、冷ました団子を慎重に口へ運ぶ。口元にタレが少しつくと、ボンバーがそれを見て笑い、ロクは顔を背ける。けれど耳は伏せていない。
笑われることと、笑い合うことは違う。
ヒノエは、その違いが三人にとってどれほど遠いものなのかを、ぼんやりとではあるが感じ始めていた。
訓練所の庭で聞こえる笑い声は、三人の背を縮める。
けれど、今のボンバーの笑い声には、ロクの尻尾が揺れる。
カナメも、ほんの少しだけ口元を緩めていた。すぐにそれを隠そうとするが、完全には間に合わない。ヒノエは見ないふりをした。見つめすぎれば、きっと彼はまた謝ってしまう。
少し離れた場所で、アヤメが静かに茶を受け取った。
「ヒノエ殿。ありがとうございます」
「いえ。アヤメさんも、お疲れさまでした」
アヤメは湯呑みに口をつける前に、カナメたちを一度見た。
「刃の後には、こういう時間も必要なのですね」
「はい。力を入れたままでは、次に動く時、身体が固まってしまいますから」
ヒノエの言葉に、カナメはふと顔を上げた。
それは武器の扱いの話にも聞こえたし、人の心の話にも聞こえた。
力を入れたままでは、次に動けない。
笑われるたびに、肩を縮める。謝るたびに、胸の奥を固くする。いつでも先に自分を下げる準備をしている。それが癖になっている自分は、もしかしたらずっと、力を抜く場所を知らないのかもしれなかった。
「……力を抜くのって、難しいですね」
気づけば、口からこぼれていた。
言った瞬間、カナメははっとした。
余計なことを言った。そんな気がした。ヒノエの前で、弱音のようなものを出してしまった。
けれどヒノエは、笑わなかった。
「難しいですね」
ただ、同じ高さで受け止めた。
「でも、難しいことは、少しずつ覚えればいいのだと思います。団子を冷ますのも、茶を飲むのも、休むのも。最初から上手でなくてもよいのです」
ボンバーが団子を掲げる。
「つまり、団子訓練ニャ?」
「そうですね。団子訓練です」
「それならボンバーは上級者を目指すニャ!」
「まずは熱いまま食べないところからですね」
「そこからニャ……」
ボンバーが真剣に頷くので、アヤメの肩がほんの少し揺れた。ロクは鼻先を前脚に乗せ、湯気の薄れた茶の香りをゆっくり嗅いでいる。警戒はまだ消えていない。けれど、逃げる準備だけをしている姿勢ではなかった。
カナメは団子をもう一口食べた。
今度は、少し冷ましてから。
甘さが舌に広がった。焦げたところの香ばしさが、鼻へ抜ける。胸の奥に残っていた冷たいものが、少しだけ溶ける気がした。
「……おいしいです」
今度は、さっきよりはっきり言えた。
ヒノエの目が、柔らかく細められる。
「よかった」
その一言は、褒めるでも、慰めるでもなかった。
ただ、そこにいていいと言われたような気がした。
カナメは湯呑みを両手で包みながら、庭の端へ目をやった。候補生たちはまだいる。笑い声も、視線も、消えたわけではない。自分たちが急に認められたわけでもない。近接武器が扱えるようになったわけでも、顔を馬鹿にされなくなったわけでもない。
それでも、今だけは。
団子の湯気があるこの小さな場所だけは、少し息ができた。
ヒノエは、そんなカナメの横顔を見ていた。
この子は、自分を低く見すぎている。
けれど、見ているものは優しい。
刃の強さではなく、帰れる位置を見る。団子を受け取る時でさえ、自分の前に仲間を見る。謝ることでしか親切を受け取れないほど傷ついているのに、それでも誰かを先に帰そうとする。
危うい優しさだと思った。
だからこそ、ただ甘やかすだけではいけない。けれど、固くなった心を無理にほどこうとしても、きっと壊れてしまう。
まずは、温かいものを渡すところからでいい。
ありがとうと言えるところからでいい。
ヒノエはそう思い、空になりかけた皿を見た。
「まだありますから、おかわりもできますよ」
ボンバーの目が輝いた。
「おかわりニャ!?」
ロクの耳も、ぴくりと立つ。
カナメはすぐに遠慮しようとして、ヒノエと目が合った。言いかけた謝罪を飲み込み、少し迷ってから、湯呑みを両手で持ったまま言った。
「……いただいても、いいですか」
「もちろんです」
ヒノエは頷いた。
その時、庭の奥で、紙の擦れる音がした。
風にしては規則正しい。木の陰、訓練所の縁側に近い場所。そこに、静かに立つ人影があった。
ミノトだった。
手には小さな記録帳。筆先は止まっているが、視線はまっすぐ三人へ向けられている。ヒノエのように柔らかく包む視線ではない。アヤメのように狩人として本質を測る視線とも違う。
静かで、深い。
何を見て、何を記すべきかを見定めるような目だった。
カナメはその視線に気づき、背筋を少し伸ばした。
また、何かを間違えただろうか。
そう思いかけた時、ロクがそっと鼻先をカナメの膝に寄せた。ボンバーはおかわりの団子へ手を伸ばしながらも、ちらりとカナメの顔を見る。
ヒノエは盆を持ち直し、ミノトのほうへ一度だけ目を向けた。
妹は何も言わない。
ただ、筆を記録帳へ下ろす。
団子の湯気が朝の庭に溶けていく中で、三人を見る視線が、もう一つ増えていた。