紙を擦る音は、団子の湯気よりも小さかった。
けれど、カナメにはそれがやけにはっきり聞こえた。
訓練所の庭には、まだ朝の湿り気が残っていた。斬られた藁束は片づけられ、月迅刀・朧閃の刃の気配も鞘の中へ収まっている。ヒノエの持ってきた団子と茶のおかげで、庭に張っていた空気は少しずつ緩んでいた。
ボンバーは二本目の団子を両前足で抱え、熱さに尻尾を震わせながらも、今度は最初より慎重に息を吹きかけている。
「ふー、ふー……今度は爆発しないように食べるニャ」
「団子は爆発しませんよ、ボンバー」
ヒノエが微笑むと、ボンバーは真面目な顔で首を振った。
「油断すると口の中が爆発するニャ。これは火薬とは違う危険ニャ」
ロクはその横で、鼻先を団子へ近づけ、湯気の流れを確かめていた。すぐには食べない。耳を少し伏せ、茶の香り、焼けた餅の香り、周囲の人の匂いを一つずつ分けるように鼻を動かす。それから、カナメの膝の近くへ身体を寄せた。
カナメは、そのロクの動きに自然と目を落とした。
「熱いから、ゆっくりでいいぞ」
小さな声だった。
その声を聞いて、紙の音が止まった。
木陰に立つミノトは、記録帳から顔を上げていた。淡い光を受けた目は、ヒノエのように柔らかく包むものでも、アヤメのように狩人として射抜くものでもない。
静かだった。
静かで、深かった。
カナメは、自分の喉が詰まるのを感じた。
見られている。
そう思った瞬間、さっきまで少しだけ緩んでいた肩が、また固くなった。湯呑みを持つ指に力が入り、膝の上の団子をどうしていいのか分からなくなる。
「あ、あの……すみま――」
言いかけたところで、ヒノエがそっと湯呑みを置いた。
強く止めるわけではなかった。ただ、音を立てない所作で、カナメの言葉の先に小さな間を置いた。
ミノトはその間を見逃さなかった。
筆先が、再び記録帳へ触れる。
「謝罪反応、早い」
ぽつりと落ちた言葉に、カナメの背筋が伸びた。
「す、すみま――」
「二回目」
ミノトの声は平坦だった。責める響きはない。けれど、逃げ道もなかった。
ボンバーが団子を抱えたまま、カナメとミノトを交互に見た。
「ミノトさん、カナメを怒ってるニャ?」
「怒ってはいません」
ミノトは記録帳から目を離さずに答えた。
「観察しています」
「観察……ニャ?」
「はい」
短く返して、ミノトはまた筆を走らせる。
カナメは、湯呑みを両手で持ったまま固まっていた。何を見られているのか分からない。団子を食べるのが遅いからか。庭に残っていたからか。アヤメの太刀を変な目で見ていたからか。ヒノエの団子を遠慮したからか。
考えれば考えるほど、謝る理由だけが増えていく。
その時、アヤメが静かに口を開いた。
「ミノト様は、何を記録されているのですか」
ミノトは少しだけ視線を上げた。
「今は、三人の行動です」
「三人、ですか」
「はい。カナメさんだけではありません。ボンバーさんと、ロクも含めて」
ロクの耳が、ぴくりと動いた。
名前を呼ばれたことは分かる。けれど、ミノトの声に敵意がないことも分かったのか、ロクは吠えなかった。ただ、カナメの膝へ鼻先を寄せ、またミノトの筆先へ目を向けた。
ミノトは、その動きも書いた。
「視線確認。警戒音なし。対象の声音を判断している可能性」
「すごいニャ……ロク、書かれてるニャ」
ボンバーが感心したように言う。
ロクは尻尾を小さく揺らしたが、すぐに止めた。揺らしすぎると団子の皿に当たる位置だったからだ。
ミノトの筆が、また止まる。
「……今のも」
「今の、ですか?」
ヒノエが尋ねると、ミノトは小さく頷いた。
「尾の動きを抑えました。周囲の物の位置を把握しています。怯えだけなら、後方へ下がるか、身を伏せる。ですが、ロクはカナメさんから離れず、皿を避けました」
カナメは思わずロクを見た。
ロクは何事もなかったように鼻を鳴らし、団子の匂いをもう一度確かめている。
今まで、そういう動きを誰かに言葉にされたことはなかった。
ロクは怖がりだと言われてきた。震えている、逃げそうだ、役に立たない。そういう声ばかりが耳に残っていた。
けれどミノトは、震えたかどうかではなく、どこに立ち、何を避け、何から離れなかったかを見ていた。
カナメの胸の奥が、少しだけ変な音を立てた。
「ボンバーさん」
「ニャ?」
突然名を呼ばれ、ボンバーは団子を口に入れかけた姿勢で止まった。
「先ほど、おかわりの団子へ飛びつきそうになりましたね」
「うっ……飛びついてはないニャ。ちょっと前足が勝手に動いただけニャ」
「最後の一歩で止まりました」
ボンバーの耳が立つ。
「止まってたニャ?」
「はい。皿の前で一度、カナメさんを見ました。次にロクを見ました。それから、団子を取りました」
ボンバーは団子を抱えたまま、目を丸くした。
「……そうだったニャ?」
カナメも驚いていた。
言われてみれば、ボンバーは確かにすぐ取らなかった。勢いよく身を乗り出し、それでも皿の縁で止まり、カナメの方を見た。ロクが鼻先を近づける余地があるか確かめてから、自分の分を取った。
そんな些細なことまで、ミノトは見ていた。
「火薬を扱う者としては、勢いが強い。ですが、完全に周囲を見ていないわけではありません」
「ニャ……」
「ただし、熱い団子を爆発に例えるのは、食事記録としては不適切です」
「そこも記録するニャ!?」
「必要なら」
ヒノエが口元を袖で隠した。笑いをこぼさないようにしているが、目は楽しげだった。
アヤメは静かにボンバーを見ていた。先ほど刃の線を見た時の目とは違う。小さな相棒の動きにも、狩場で役立つものがあると確かめる目だった。
カナメは、その三人の視線の違いを感じていた。
アヤメは、立ち位置を見る。
ヒノエは、息ができる場所を作る。
ミノトは、見落とされるものを書き留める。
同じ庭にいるのに、それぞれが違うものを見ている。
そして今、その全部が、自分たち三人へ向けられていた。
カナメの指が、湯呑みの縁でわずかに震えた。
「カナメさん」
「は、はい」
ミノトは記録帳を閉じなかった。開いたまま、まっすぐにカナメを見た。
「あなたは、今何を見ていましたか」
「え……」
「団子を受け取る時。ロクに声をかける時。周りの笑い声がした時。あなたは、何を見ていましたか」
問いは静かだった。
けれど、答えを曖昧に逃がしてくれるものではなかった。
カナメは視線を落とした。湯呑みの中で茶が揺れている。自分の手が揺れているからだと気づき、慌てて力を抜こうとする。けれど、力を抜くのは難しい。さっき自分でそう言ったばかりなのに、もう忘れそうになっている。
「……あの」
「はい」
「ボンバーが、熱いのを我慢して食べそうだったので」
ボンバーがぴくりと動いた。
「我慢じゃないニャ。気合いニャ」
「気合いでも、熱いものは熱いだろ」
「む……それは、そうニャ」
カナメは少しだけ息を吐いた。
「ロクは、知らない人が近いと、匂いを確かめます。でも、怖いだけじゃなくて……たぶん、どこが危ないかを見てるんです。だから、急に動かない方がいいと思って」
ロクの耳がゆっくり立った。
「それから」
カナメは庭の端へ目を向けた。
遠くで、他の候補生たちがこちらを見ていた。はっきり聞こえるほどではないが、笑い声も混じっている。誰かが何かを言い、誰かが肩をすくめた。
その瞬間、カナメの肩がまた小さく縮んだ。
ミノトの筆が動く。
「視線反応」
カナメは唇を噛んだ。
「……笑われると、邪魔になってる気がして。すぐ、どいた方がいいのかなって思います」
「どこへ?」
「邪魔にならないところへ」
「具体的には」
ミノトの声は、少しだけ厳しかった。
カナメは答えに詰まった。
邪魔にならないところ。
そう思う時、自分がどこへ行こうとしているのか、考えたことがなかった。ただ、視線から外れたい。声の届かない場所へ行きたい。誰かの邪魔にならない場所へ身を縮めたい。
けれど、狩場ならそれでは駄目だ。
逃げる場所が分からないまま下がれば、味方の射線を塞ぐかもしれない。モンスターの進路に入るかもしれない。退路を見ずに動けば、ボンバーもロクも巻き込む。
カナメは、庭の地面を見た。
「……壁際は、駄目です」
ぽつりと言った。
ミノトの筆が止まる。
「なぜですか」
「追い詰められます。後ろに下がれないから。あと、ボンバーが爆弾を使うなら、逃げる向きがなくなるし、ロクも走り出しにくいです」
ボンバーが団子を持ったまま、カナメを見た。
ロクも顔を上げた。
「木の近くも、たぶん駄目です。枝が邪魔になります。ロクが振り返る時に引っかかるかもしれないし、ボンバーが火薬を持っていたら、葉に火が移るかもしれない」
「では、どこですか」
ミノトが問う。
カナメは庭を見渡した。
アヤメが藁束を斬った位置。ヒノエが団子を置いた縁側。候補生たちが見ている方角。ロクが伏せられる広さ。ボンバーが走って離れられる距離。
「……あそこ、です」
カナメは訓練所の庭の、少し開いた場所を指した。
「縁側から近いけど、近すぎない。ロクが伏せても通路を塞がない。ボンバーが何か落としても、すぐ拾える。アヤメさんが動くなら、邪魔にならない。ヒノエさんのお盆にもぶつからない」
言ってから、カナメは顔を青くした。
「あ、す、すみません。勝手に、変なことを」
「三回目」
ミノトが静かに言った。
カナメは口を閉じた。
ヒノエは責めなかった。アヤメも笑わなかった。
ミノトは、今度は少し長く記録帳へ筆を走らせた。
カナメはその音を聞きながら、自分が何を書かれているのか分からず、ただ立っていた。悪いことを書かれているのかもしれない。変な候補生、落ち着きがない、謝罪反応過多、視線に弱い。そう書かれても仕方がないと思った。
やがて、ミノトが筆を止めた。
「候補生カナメ」
「はい」
「近接武器適性は低い」
その言葉は、いつもの嘲笑と同じ形をしていた。
カナメの胸が、反射的に沈む。
「はい」
「視線への反応が過敏。自己評価が低く、謝罪によって場を収めようとする傾向が強い」
「……はい」
「ですが」
ミノトの声が、そこでほんの少しだけ変わった。
「周囲の位置、味方の動き、退避先、火の危険、通路の確保を同時に見ています。少なくとも、今の庭では」
カナメは顔を上げた。
ミノトは記録帳を閉じず、そこに書かれた文字を見下ろしている。
「ボンバーさんは勢いが強く、言動に危うさがあります。ですが、食べ物一つ取る時にも仲間の位置を確認しました。爆発物を扱うなら、この確認癖は重要です」
「確認癖……ニャ」
「ロクは臆病と見られやすい動きがあります。ですが、匂い、熱、距離、視線、尾の可動域を確認してから動いています。これは怯えだけでは説明できません」
ロクは、ミノトの声を聞きながら静かに尾を伏せた。
伏せた尾は、逃げ腰ではなかった。皿に当てないための位置だった。
「三人一組で見る必要あり」
ミノトは最後にそう言った。
カナメは、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
三人一組。
落ちこぼれが三つ並んでいる、という意味ではない。
カナメとボンバーとロクが、互いの危うさを補い合っているかもしれない。少なくとも、そう見ようとしてくれる人がいる。
それだけで、胸の奥に何かが落ちた。
軽くなるのではない。
むしろ、重くなる。
けれどそれは、笑い声に押し潰される重さとは違った。
「あの……」
カナメは湯呑みを置き、両手を膝の上で握った。
「それは、悪い記録ですか」
ミノトは少しだけ瞬きをした。
ヒノエが静かにカナメを見る。
アヤメも、口を挟まなかった。
ミノトは記録帳を閉じた。
「悪い記録ではありません」
「……でも、近接は駄目で、謝ってばかりで」
「それも記録です」
ミノトは淡々と言った。
「できないことをできるように書くつもりはありません。弱い部分を見なかったことにするつもりもありません」
カナメの指に力が入る。
「ですが、できていることまで、見なかったことにするつもりもありません」
庭の風が、ほんの少し動いた。
茶の湯気が細く流れ、ミノトの足元まで届いて消える。
ヒノエが微笑んだ。
「ミノトらしいですね」
「姉様のようにはできませんので」
「私は、ミノトのそういうところ、好きですよ」
「記録に残しますか」
「それは恥ずかしいので、残さなくていいです」
ボンバーが首を傾げた。
「今のは残さないニャ?」
「個人的な発言ですので」
「記録って難しいニャ……」
アヤメが小さく息を吐いた。
「けれど、必要なものですね」
ミノトはアヤメを見た。
「アヤメさんは、三人の立ち位置を見ていましたね」
「はい。カナメは、刃そのものよりも、斬った後に戻る位置を見ていました」
「姉様は、三人が息をつける場所を作っていました」
「ええ。固まったままでは、次に動けませんから」
「なら私は、記録します」
ミノトは閉じた記録帳を胸の前で抱えた。
「見落とされないように」
その一言は、庭の中で静かに残った。
カナメは何も言えなかった。
言えば、また謝ってしまいそうだった。だから、代わりに深く頭を下げた。謝罪ではなく、礼として。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
けれど、今度は謝罪に変わらなかった。
ミノトはその姿を見て、記録帳をもう一度開いた。
「謝罪ではなく感謝。二例目」
「そ、それも書くんですか」
「はい。重要です」
カナメは困ったように目を伏せた。
ボンバーが胸を張る。
「カナメ、記録更新ニャ!」
ロクが静かに鼻を鳴らし、カナメの手に鼻先を押しつけた。励ますような、確認するような仕草だった。
カナメはその鼻先にそっと触れた。
庭の奥で、候補生たちの笑い声がまた少し聞こえた。だが、さっきより遠かった。実際の距離は変わっていない。変わったのは、三人の周りに立つ人の数だった。
刃の線を見てくれる人。
湯気の線を置いてくれる人。
記録の線を引いてくれる人。
そのどれもが、まだカナメには慣れない。
けれど、逃げ出したいほど怖いものではなくなっていた。
ミノトは記録帳の最後に、細い字で書き足した。
――通常の落ちこぼれとして一括りにするのは危険。
少し間を置き、さらに一行。
――要観察。三人一組での訓練経過を確認すること。
その時だった。
訓練所の向こう、太い柱の陰から、低く大きな声が響いた。
「ほう」
たった一音だった。
だが、その声だけで庭の空気が少し揺れた。
ボンバーの耳が跳ね、ロクが顔を上げる。カナメは反射的に背筋を伸ばした。
庭の奥に、フゲンの大きな影があった。
里長はまだ近づいてこない。ただ、腕を組み、遠くから三人と、三人を見ている三つの視線を眺めている。
ミノトは静かに記録帳を閉じた。
その表紙を指で押さえながら、庭の向こうへ目を向ける。
フゲンの太い声が、もう一度、朝の訓練所に落ちた。
「少し、面白いものを見ておるようだな」