柱の陰から響いた声は、訓練所の庭に残っていた小さな音を、まとめて押しのけた。
「少し、面白いものを見ておるようだな」
太い声だった。
怒鳴ったわけではない。叱ったわけでもない。けれど、庭の端でひそひそと漏れていた笑い声も、遠巻きの視線も、その一声でぴたりと止まった。
カナメの肩が跳ねた。
ボンバーは団子を両前足で抱えたまま固まり、口の端についたたれを舐めることも忘れた。ロクは耳を伏せ、けれど逃げなかった。四肢に力を入れ、カナメの横から一歩も離れず、声のする方へ鼻先を向ける。
太い柱の陰から、フゲンが姿を現した。
大きな体。太い腕。歩くだけで、庭の土が少し沈むように見える。里長としての存在感は、訓練所の誰とも違っていた。候補生たちは自然と道を開けた。先ほどまでカナメたちをちらちら見ていた者たちも、目を逸らし、背筋を伸ばす。
フゲンは急がなかった。
一歩、一歩、庭へ入ってくる。
カナメは息を呑んだ。
近い。
声も、体も、視線も、大きい。
笑い声よりもずっと大きいのに、不思議と、笑い声のように背中へ刺さらなかった。逃げ場を探したくなる圧はある。けれど、それは人を小さくするための圧ではなく、場そのものを受け止めるような重さだった。
フゲンの目が、まずアヤメへ向いた。
「アヤメ。おぬしが足を止めておる」
「はい」
アヤメは静かに頭を下げた。
「刃の線を見る価値があると思いました」
「ほう」
次に、フゲンの目がヒノエへ移る。
「ヒノエ。おぬしは団子まで持ってきておるな」
「はい。少し、息をつける場所が必要かと思いまして」
「ふむ」
ヒノエの返事に、フゲンの太い眉がわずかに動いた。
最後に、フゲンの目がミノトの記録帳へ落ちる。
「ミノト。おぬしは何を書いておる」
「観察記録です」
ミノトは記録帳を閉じずに答えた。
「対象は、カナメ、ボンバー、ロク。三人一組で見る必要あり、と記しました」
その言葉に、庭の端がまた少しざわつきかけた。
三人一組。
落ちこぼれ三人組。
そんな言葉が、候補生たちの喉元まで上がったのが、カナメにも分かった。
けれど、それが声になる前に、フゲンが低く言った。
「ほう」
たった一言だった。
それだけで、ざわめきは喉の奥へ戻された。
カナメは、自分の指先が冷えていることに気づいた。謝らなければ、と思う。自分のせいで、アヤメもヒノエもミノトも、里長に何かを言われている。ボンバーとロクまで巻き込んでいる。
口が勝手に開きかけた。
「す――」
その瞬間、ロクの鼻先が膝に触れた。
熱くも冷たくもない、湿った鼻先だった。ロクはカナメを見上げていない。ただ横にいる。耳は伏せているが、足は退いていない。大きな声の方へ鼻を動かし、敵意の匂いを確かめているようだった。
カナメは、言いかけた謝罪を飲み込んだ。
アヤメが見ている。
ヒノエが湯呑みを静かに置いている。
ミノトの筆が止まっている。
その三つの気配が、逃げるための壁ではなく、倒れないための杭のように感じられた。
フゲンがカナメの前で足を止めた。
「カナメ」
「は、はい」
声が裏返りそうになる。
「おぬし、さきほど何を見ておった」
カナメの喉が詰まった。
何を見ていた。
また同じ問いだった。ミノトに問われた時よりも、声は何倍も太い。胸の奥まで揺らされる。頭の中に、笑い声が戻りかける。
変なことを言ったら、また笑われる。
場違いなことを言ったら、今度こそ本当に、ここにいてはいけないと言われる。
カナメの視線が土へ落ちた。
庭の土。縁側の影。団子の皿。ボンバーの足。ロクの前足。アヤメの立ち位置。ヒノエの湯呑み。ミノトの筆先。
それらが、ばらばらではなく、一本の線のように繋がって見えた。
逃げる場所。
いや。
逃げるだけなら、壁際へ行けばいい。
でも壁際は追い詰められる。
木の近くは、ロクが動きにくい。ボンバーが何かを落としたら危ない。縁側に近すぎると、ヒノエやミノトの邪魔になる。アヤメの刃の線を塞いではいけない。
だから。
「あの……」
声は小さかった。
フゲンは急かさなかった。
庭全体が待っている。その沈黙が怖い。けれど、今の沈黙には笑いが混じっていなかった。
「逃げる場所、じゃなくて……」
カナメは指を握りしめた。
「帰れる、位置を……見ていました」
言ってから、すぐに胸が縮んだ。
変だ。
やっぱり変な言い方をした。
謝らなければ。
カナメの唇が動きかけた時、フゲンの太い声がそれを止めた。
「帰れる位置、か」
低く、ゆっくりとした声だった。
責める声ではなかった。
「なぜ、そこを見た」
「ロクが……大きな声や、知らない人の距離を確かめていたので。ボンバーは、熱いものや、勢いで動く時があるので。えっと、その……誰かの邪魔にならず、でも離れすぎず、何かあったら戻れる場所を……」
言葉は途中で何度も引っかかった。
堂々とは言えない。
胸を張ることもできない。
けれど、カナメは最後まで声を消さなかった。
「見ていました」
フゲンは黙ってカナメを見た。
その沈黙に、カナメの背中が汗ばむ。
ボンバーが、団子を抱え直した。
「ボンバーは、団子に突撃しようとしただけじゃないニャ」
思わず出たような声だった。
カナメが驚いて横を見ると、ボンバーは耳を少し寝かせながらも、フゲンを見上げていた。
「団子は熱いニャ。ロクのしっぽも近かったニャ。皿をひっくり返したら、団子が台無しニャ。だから、最後の一歩で止まったニャ」
そこで、ボンバーは一度真剣に団子を見た。
「団子は爆発しないけど、台無しにはなるニャ」
ヒノエが小さく笑った。
アヤメの口元も、ほんの少しだけ緩む。
フゲンは、腹の底で笑うように喉を鳴らした。
「団子を台無しにせぬ判断か。悪くない」
「悪くないニャ?」
「ただし、熱い団子へ突撃しようとした時点で、まだまだ危うい」
「ニャ……」
ボンバーの耳がさらに下がった。
けれど、その目はしょんぼり沈みきってはいなかった。悪いと切り捨てられたのではない。危ういが、見られていた。そんな微妙な違いを、ボンバーも感じ取ったようだった。
フゲンは次に、ロクへ視線を下げた。
ロクは大きな体を少し低くした。耳は伏せたまま。尻尾は動かない。けれど、後ろへ下がることはしない。鼻先だけが、フゲンの足元、手、腰、声の方向へわずかに動いている。
「ロク」
フゲンが呼ぶ。
ロクは吠えなかった。
ただ、カナメの横で伏せるでもなく、立つでもなく、すぐ動ける姿勢を保った。
「大きな声は苦手か」
ロクの耳が、ぴくりと動いた。
フゲンは声量を落とさなかった。だが、言葉の角は丸かった。
「逃げぬのだな」
ロクは一度カナメの膝へ鼻先を寄せ、それからフゲンの方へ向き直った。低く、小さく、喉を鳴らす。威嚇ではなかった。返事にも似た、短い音だった。
ミノトの筆が紙を撫でる。
「大声への反応あり。逃走せず。カナメの状態確認後、対象へ再注視」
フゲンの目が記録帳へ向いた。
「ミノト」
「はい」
「その記録、見せよ」
ミノトは一瞬だけ目を伏せ、記録帳を差し出した。
フゲンは大きな手でそれを受け取った。紙が小さく見える。太い指でページを押さえ、ゆっくり文字を追った。
庭にまた沈黙が降りる。
カナメは自分の心臓の音を聞いていた。
悪いことが書いてあるわけではない、とミノトは言った。けれど、里長が読むとなると、また違う。近接武器全滅。謝罪反応。自己評価の低さ。ボンバーの危うさ。ロクの臆病と見られる動き。
全部、本当のことだ。
本当だから、怖い。
フゲンは読み終えて、記録帳を閉じなかった。
「近接武器適性、低い」
カナメの肩がわずかに落ちる。
「謝罪で場を収めようとする傾向、強い」
喉が詰まる。
「ボンバー、勢いと危うさあり」
「ニャ……」
「ロク、臆病と見られやすい動きあり」
ロクの耳が伏せ直される。
フゲンはそこで一度、紙から目を上げた。
「だが」
太い声が、そこで庭の空気を支えた。
「周囲の位置、味方の動き、退避先、火の危険、通路の確保を同時に見ている。ボンバーは仲間の位置を確認する芽あり。ロクは匂い、熱、距離、視線、尾の可動域を確認してから動く」
ミノトの記録を、フゲンは一つずつ読み上げた。
候補生たちの中で、誰かが息を呑む。
カナメは顔を上げられなかった。
自分の欠点を読まれるより、できていることを読まれる方が、なぜか胸が痛かった。そんなはずがない、という言葉が腹の底から湧いてくる。自分たちは笑われる側で、邪魔な側で、失敗する側だ。見られてよいものなど、何もないはずだった。
けれど、フゲンは紙に書かれたものを、笑わなかった。
「三人一組で見る必要あり」
フゲンが最後にそう読んだ。
そして、低く息を吐く。
「なるほどな」
ミノトが静かに頭を下げた。
「現時点での結論です。過大評価はできません。ですが、一括りに落ちこぼれとして扱うのは、観察不足になる可能性があります」
「うむ」
フゲンは記録帳をミノトへ返した。
「よい記録だ」
「ありがとうございます」
ミノトが受け取る。
その時、庭の端にいた候補生の一人が、気まずそうに視線を逸らした。別の一人は、まだ納得していない顔をしている。近接武器を扱えないカナメ。爆弾ばかりのボンバー。臆病と呼ばれたロク。その評価が、たった一度の庭の出来事で消えるわけではない。
カナメにも、それは分かっていた。
分かっているから、余計に怖かった。
フゲンが自分を向く。
「カナメ」
「は、はい」
「おぬしは、近接武器が不得手だ」
まっすぐな言葉だった。
逃げ道のない言葉だった。
「はい」
「それは訓練所で見ておる者も多い。笑う者もおる」
カナメの指先が震えた。
フゲンの声は続く。
「だが、不得手なものがあることと、何も見ておらんことは同じではない」
カナメは息を止めた。
「今のおぬしが十分だとは言わん。ボンバーも、ロクも同じだ。危ういところはある。弱いところもある。訓練は必要だ。見誤れば怪我もする」
「……はい」
「だからこそ、軽く笑って終わらせるものでもない」
太い声が、庭の端まで届いた。
候補生たちは黙っていた。
笑い声が、完全に消えている。
カナメは、その静けさが信じられなかった。自分が何かを成し遂げたわけではない。認められたわけでもない。けれど、笑い声の中に押し込められていた体が、少しだけ外へ出された気がした。
フゲンはボンバーを見た。
「ボンバー」
「ニャ、ニャい!」
「爆発は好きか」
「好きニャ!」
即答だった。
ヒノエが目を丸くし、アヤメが少しだけ苦笑する。
フゲンは眉を上げた。
「正直でよい。だが、爆発は好きなだけでは扱えん。何を飛ばすか。誰を巻き込むか。爆ぜた後、どこへ退くか。それを見ぬ爆発は、里では許されん」
ボンバーは団子を抱えたまま、背筋を伸ばした。
「……ボンバー、見るニャ。カナメとロクの位置、見るニャ。団子もひっくり返さないニャ」
「団子はともかく、仲間の位置は見よ」
「見るニャ」
フゲンはうなずき、今度はロクへ向いた。
「ロク」
ロクの耳が動く。
「恐れることは悪ではない。だが、恐れたまま止まり続けるなら、狩場では戻れぬ」
ロクは伏せた耳のまま、じっとフゲンを見ていた。
「今、おぬしは逃げなかった。声を聞き、匂いを確かめ、カナメを見た。それが臆病だけなら、ここに残らん」
ロクの尻尾が、ほんの少しだけ動いた。
すぐに止まる。
皿に当たらない位置を確かめたように。
ミノトの筆がまた動きかけたが、彼女は一瞬だけ迷い、今は書かずにロクを見た。
フゲンは三人をまとめて見た。
「しばらく、三人で訓練を続けてみよ」
カナメは顔を上げた。
「え……」
「ただし、甘やかしではない」
フゲンの声が少しだけ強くなる。
「できぬものはできぬと見る。危ういものは危ういと見る。だが、できておるものまで、笑い声で潰す必要はない」
カナメの喉の奥が熱くなった。
謝りそうになる。
けれど、謝る場面ではない。
そう思った瞬間、言葉がなくなった。
何を言えばいいのか分からない。
ヒノエが湯呑みに少し茶を注いだ。小さな音だった。アヤメは何も言わず、視線だけで待っている。ミノトは記録帳を胸元に抱え、カナメの口元を見ている。
カナメは深く息を吸った。
「……ありがとうございます」
かすれた声だった。
頭も深く下がった。
けれど、謝罪ではなかった。
フゲンはその礼を受け止め、うむ、と短く返した。
「礼を言うには早い。まずは続けよ」
「はい」
「逃げる場所ではなく、帰れる位置を見る。今はまだ言葉だけかもしれん。だが、狩場でそれを本当に見られるかどうかは、これからだ」
カナメは胸の前で手を握った。
「……はい」
怖さは消えていない。
自信も湧いてこない。
明日また笑われたら、きっとまた体は固まる。近接武器を持てば、また失敗するかもしれない。ボンバーは勢い余るかもしれないし、ロクは大きな音に耳を伏せるかもしれない。
それでも。
今だけは、息が少し入った。
笑い声の中に沈んでいた胸へ、ほんの少し空気が戻った。
フゲンは庭の端へ視線を向けた。
「おぬしらも、見るならよく見よ」
候補生たちがびくりとした。
「笑うなとは言わん。訓練所では失敗もある。だが、笑った相手が何を見ていたかも見ぬままでは、己の目が鈍るぞ」
誰も返事をしなかった。
けれど、その沈黙は、先ほどまでとは違っていた。
フゲンはそれ以上責めなかった。叱り飛ばすこともしない。言うべきことだけを置き、再びカナメたちへ向き直る。
「アヤメ」
「はい」
「刃の線を見たなら、必要な時は教えてやれ」
「承知しました」
「ヒノエ」
「はい」
「息をつける場所も、訓練には要る。だが食わせすぎるなよ」
「……気をつけます」
ヒノエが少し困ったように笑った。手元の団子の残りを見て、ボンバーがそっと目を逸らす。
「ミノト」
「はい」
「記録を続けよ。ただし、紙に閉じ込めるな。訓練に返せ」
「承知しました」
ミノトはそう答えてから、記録帳へ短く書き足した。
里長確認。
三人一組の継続観察、許可。
過大評価不可。
笑い声による見落とし、注意。
カナメはその文字を横目で見た。
自分たちは、まだ何者でもない。
ただ、見落とされない場所へ、ほんの少し置かれただけだ。
それだけなのに、膝の力が抜けそうだった。
ロクがすぐに体を寄せた。支えるほどではない。ただ、倒れない距離にいる。ボンバーは団子を一口かじり、今度は慌てず、熱さを確かめてから噛んだ。
「……熱いニャ。でも、帰ってきたニャ」
「団子からですか?」
ヒノエが笑う。
「熱さから帰ってきたニャ」
ボンバーの真面目な返事に、庭の空気が少しだけ緩んだ。
フゲンも小さく笑った。
その笑い声は大きかったが、痛くなかった。
カナメはそれが不思議だった。笑い声なのに、背中が縮まらない。むしろ、庭の端へ押しやられていた三人を、中央へ少し戻すような笑いだった。
風が吹いた。
茶の湯気が細く揺れ、団子の甘い匂いが土の匂いと混ざる。訓練所の張りつめた空気の奥から、里の日常の音が戻ってきた。遠くで鍛冶場の槌音が鳴り、誰かが荷を運ぶ声が聞こえる。
フゲンは空を見上げた。
「腹が減っておる者は、飯を食え。腹が空いたままでは、よい訓練もできん」
その言葉の終わりに重なるように、訓練所の向こうから明るい声が近づいてきた。
「おーい! みんな、まだいるー?」
湯気の匂いがした。
団子とは少し違う、温かくて、腹の奥を思い出させる匂い。
ボンバーの耳が立った。
「この匂い……何か来るニャ」
ロクも鼻先を上げた。さっきまでフゲンの声を確かめていた鼻が、今度は湯気の方へ向く。尻尾が、皿に当たらない幅で一度だけ揺れた。
カナメはまだ胸の奥に太い声の余韻を残したまま、その湯気の方を見た。
笑い声ではない。
叱責でもない。
里のどこかから、温かいものが近づいてくる。
フゲンの太い声で一度切り離された庭に、今度は明るい日常の匂いが戻ろうとしていた。