訓練所へ向かう道は、里の中心をゆるやかに抜けていく。
朝のカムラは、音で満ちていた。
鍛冶場から響く鉄の音。団子屋の前で湯気を上げる釜の音。通りを駆ける子供たちの足音。荷を運ぶアイルーたちの掛け声。遠くで吠えるガルクの声。
その中を、カナメは少しだけ肩をすぼめて歩いていた。
白い訓練服は、まだ新しい。
汚れも少ない。傷も少ない。布地は硬く、身体に馴染んでいなかった。
けれどそれは、誇れる新しさではなかった。
他の訓練生たちの服には、擦れた跡がある。転んだ土の跡。木剣で打たれた跡。武器を振り続けて肩の部分が薄くなった跡。失敗の跡も、挑んだ証として残っている。
カナメの服には、それが少なかった。
挑んでいないわけではない。
けれど、挑む前に遅れる。踏み出す前に周囲を見る。誰かにぶつからないか、誰の射線を塞がないか、倒れた時に退路を塞がないか。
そんなことばかりが先に頭へ浮かぶ。
そのせいで、彼の訓練服には、戦った痕よりも、立ち尽くした時間の白さが残っていた。
「あ、来たぞ」
訓練所の門が近づくと、声がした。
カナメは思わず足を止めかけた。
若い訓練生たちが、すでに広場に集まっている。木剣を肩に担ぐ者、槍を振り回す者、大剣を地面に立てて自慢げに寄りかかる者。皆、朝から声が大きい。
「今日こそ何か振れるのか?」
「昨日、片手剣で自分の足に引っかけてなかったか?」
「いや、あれは逆に器用だろ」
笑い声が弾けた。
ボンバーの耳がぴんと立つ。
「むっ」
ロクはカナメの横へ半歩寄った。言葉はない。ただ、身体を少しだけカナメの前へ出す。
カナメは、慌てて小さく首を振った。
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
そう言ってから、また謝りそうになって口を閉じた。
謝れば、ボンバーが怒る。
ロクが、もっと心配する。
だからカナメは、笑おうとした。
うまくいかなかった。
訓練所の広場は、朝露を踏まれて少し湿っていた。端には武器棚が並び、訓練用の片手剣、太刀、大剣、槍、ハンマー、双剣が整然と掛けられている。
そのどれもが、カナメには少し遠く見えた。
重い、というだけではない。
武器を持った瞬間、相手との距離が変わる。自分の身体が前に出る。誰かを押し返すためのものになる。
その感覚が、どうしても遅れてしまう。
カナメは武器棚の前で、手を伸ばしては止めた。
今日は何を持てばいいのか。
昨日は片手剣で転んだ。
一昨日は太刀を抜く前に足を滑らせた。
その前は大剣を持ち上げるだけで精一杯だった。
どれを選んでも、また笑われる気がした。
「早く選べよ」
背後から声がした。
カナメはびくりと肩を震わせた。
「す、すみま――」
そこまで言って、唇を噛む。
まただ。
何も悪いことをしていないのに、謝ろうとしてしまう。
訓練生の一人が鼻で笑った。
「謝る前に武器持てよ」
別の者が言う。
「白いままだな、お前の服」
カナメは自分の袖を見た。
白い布。
朝日を受けて、やけに目立つ。
「弾痕も傷もない。ほんと、何しに来てるんだろうな」
誰かがそう言った。
弾痕。
その言葉だけが、カナメの胸の奥に引っかかった。
訓練所の奥には、射撃用の板がある。厚い木で作られた的で、何度も弾を受けて黒く窪み、ところどころに焦げた跡が残っている。
カナメは、そこを見たことがあった。
まだ自分には関係のない場所だと思っていた。
いや、関係があると思ってはいけない気がしていた。
家の棚に眠るライトボウガン。
布に包まれた、母の武器。
自分にはまだ、あれを持つ資格がない。
そう思っていた。
「おい、聞いてんのか」
肩を押された。
カナメは一歩よろめき、慌てて踏みとどまる。
その瞬間、ロクが低く身を沈めた。
吠えはしない。
唸りもしない。
ただ、カナメの前に立った。
その細い背中を見たボンバーが、ふんと鼻を鳴らす。
「ロクは臆病じゃないニャ。危ないやつに気づいただけニャ」
「何だよ、アイルーまで偉そうに」
「偉そうじゃないニャ。偉いニャ」
「ボンバー」
カナメは慌てて呼んだ。
ボンバーは不満そうに頬を膨らませたが、それ以上は言わなかった。
その時、広場に明るい声が響いた。
「はいはい! 朝から元気なのはいいことだね!」
全員の視線がそちらへ向く。
ウツシ教官だった。
軽い足取りで広場へ入ってくると、彼は一人ひとりの顔を見るように歩いた。笑っている。いつものように明るく、声も大きい。
けれど、カナメは知っていた。
ウツシ教官は、ただ騒がしいだけの人ではない。
誰がどこで足を止めたか。誰が武器を乱暴に置いたか。誰が笑い、誰が笑われたか。そういうものを、見ていないようで見ている。
ウツシ教官の視線が、カナメの袖に落ちた。
白い訓練服。
汚れの少ない袖。
そして、武器棚の前で止まったままの手。
「カナメ」
「は、はい」
「今日は太刀にしてみようか」
ざわ、と小さな笑いが広がる。
カナメの指が震えた。
太刀。
抜く動作だけでも遅れる。鞘から刃を出した時点で、もう相手は動いている。斬り込む距離まで入るのが怖い。怖いというより、見えすぎる。
相手の足。
左右の逃げ場。
後ろにいる仲間。
転倒した時の危険。
全部が一度に見えて、身体が止まる。
「……はい」
それでも、カナメは太刀を取った。
訓練用とはいえ、重みはある。
柄を握ると、手の中に木と革の感触が伝わってきた。
ウツシ教官は何も言わなかった。
ただ、カナメの立ち方を見ていた。
「構えて」
カナメは構えた。
構えたつもりだった。
だが、足が半歩引けている。腰が逃げている。視線が相手ではなく、相手の横を見ている。
相手役の訓練生が、にやりと笑った。
「行くぞ」
木剣が振られる。
カナメは反応した。
避けるべき方向は見えた。相手の踏み込みも、腕の角度も、次に足が止まる位置も、見えた。
だからこそ、身体が遅れた。
避けるなら右。
でも右には別の訓練生がいる。
左へ下がれば武器棚に近い。
後ろへ下がればロクの位置を塞ぐ。
一瞬の迷い。
木剣が肩を叩いた。
「っ」
痛みより先に、息が詰まった。
太刀を抜く前だった。
広場に笑いが起きる。
「また抜く前に終わったぞ」
「白いままだな、本当に」
「弾痕どころか斬り跡もつかないな」
カナメは太刀を握ったまま、俯いた。
視界の端で、自分の白い袖が揺れている。
白い。
まるで、何も始まっていないように。
ボンバーが一歩前に出ようとした。
ロクも耳を伏せたまま、カナメを見上げている。
カナメは、二人を止めるように小さく首を振った。
大丈夫。
そう言いたかった。
けれど、声にならなかった。
ウツシ教官が、ゆっくりと近づいてきた。
怒鳴られると思った。
もっと前に出ろ。
怖がるな。
相手を見ろ。
迷うな。
きっと、そう言われると思った。
だが、ウツシ教官は少しだけ屈み、カナメの目線に合わせた。
「カナメ」
「……はい」
「今、何を見てた?」
カナメは答えられなかった。
相手を見ていなかった。
だから失敗した。
そう言えばいいのだと思った。
けれど、ウツシ教官の声は、責めていなかった。
「相手の剣だけじゃなかったね」
カナメは顔を上げた。
「右にいた子。左の武器棚。後ろのロク。全部見てた」
広場の笑い声が、少しだけ遠くなった。
ウツシ教官は、カナメの手元の太刀を見て、それから訓練所の奥にある射撃場へ視線を向けた。
「近すぎるのかもしれないね」
「……え?」
「君が見ているものと、手に持っている武器の距離が」
カナメには、その意味がすぐには分からなかった。
ウツシ教官は笑った。
いつものように明るく。
けれどその目は、まっすぐだった。
「今日は続けよう。失敗していい。白い服は、汚すためにある」
カナメは袖を見た。
白い布。
何も刻まれていない服。
弾痕のない少年。
笑われるための白ではない。
まだ何も撃っていないだけの白。
そう思えたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬だけで、カナメは太刀を握り直した。
「……はい」
声は小さい。
震えてもいた。
それでも、さっきよりは前を向いていた。
ボンバーがにっと笑う。
「汚すなら、火薬の焦げ跡も悪くないニャ」
ロクが鼻を鳴らす。
それは、静かな同意のようだった。
朝の訓練所に、また号令が響く。
カナメの白い袖は、まだ白いままだった。
けれど、その白さの奥で、誰にも見えない小さな何かが、ほんの少しだけ動き始めていた。