ロクは、吠えないガルクだった。
訓練所のガルクたちは、よく吠えた。
号令に応じて吠える。走り出す前に吠える。主人に褒められると尾を振り、他のガルクと競うように声を上げる。若い訓練生たちは、その声を頼もしさの証のように受け取った。
けれどロクは、ほとんど吠えなかった。
大きな音がすれば耳を伏せる。
知らない相手が近づけば半歩下がる。
訓練場の中央より、外れの柵際を好む。
誰かが勢いよく駆け出すと、まず進行方向ではなく、転びそうな場所や、ぶつかりそうな相手の方を見る。
その姿は、強そうには見えなかった。
「また隅にいるぞ」
「ガルクなのに腰が引けてる」
「臆病ガルク」
そう呼ばれても、ロクは吠え返さない。
ただ、耳を少し伏せるだけだった。
カナメは、そのたびに胸の奥が重くなった。
ボンバーの時は、まだ分かりやすい。ボンバーは怒る。言い返す。胸を張る。強がりでも、強がる形がある。
ロクは違う。
傷ついたかどうかすら、周りには分かりにくい。
けれどカナメには分かった。
ロクは何も感じていないのではない。
言葉にできないだけだ。
吠え返さないだけだ。
ロクはいつも、誰より先に危ないものを見ている。
訓練所の午後は、土の匂いが強かった。
午前中の訓練で踏み荒らされた広場に、ところどころ深い足跡ができている。丸太を積んだ荷車の跡、訓練生が転んだ跡、ガルクたちが走った跡。それらが混ざり合い、地面は均一ではなくなっていた。
ウツシ教官は、広場の端に立って声を張った。
「次はガルクとの走行訓練! 速度だけじゃなく、合図、姿勢、周囲を見ること。みんな、いいね!」
「はい!」
訓練生たちの声が揃う。
カナメはロクの横に立ち、そっと背中に手を置いた。
ロクの体が少し震えている。
怖がっている。
そう見えるかもしれない。
だがカナメには、ただ怖いだけではないと感じられた。
ロクの鼻先は、地面へ向いている。湿った土の匂い、踏み荒らされた跡、柵際の緩み。耳は左右に忙しく動き、人の声だけでなく、遠くの荷車のきしみまで拾っている。
臆病なのではない。
情報が多すぎるのだ。
ロクは、全部を拾ってしまう。
「大丈夫」
カナメは小さく言った。
ロクはカナメを見上げた。
返事はない。
ただ、尾の先がほんの少し動いた。
「お前らも走るのか?」
近くの訓練生が笑った。
「カナメが乗ったら、ロクの方が逃げ出すんじゃないか」
「いや、カナメも怖がるからちょうどいいだろ」
笑い声。
カナメは視線を落とした。
ロクの背に置いた手が、無意識に縮こまる。
すると、ロクが鼻先をカナメの指に押し当てた。
強くではない。
ただ、そこにいると伝えるように。
カナメは息を吐いた。
「……うん」
ウツシ教官が手を上げる。
「一組ずつ行こう!」
最初の訓練生が勢いよく飛び出した。ガルクは力強く地面を蹴り、広場を大きく回る。速い。見ていた者たちから歓声が上がった。
次の組も速かった。
その次も。
皆、速度を競っているようだった。
カナメの番が近づくにつれ、胸が苦しくなる。
ロクの背にまたがると、周囲の視線が刺さった。
笑われている気がする。
失敗を待たれている気がする。
転ぶ前から、もう転んだ後の空気が見える気がする。
ロクの首筋に触れると、細かな震えが伝わってきた。
カナメは囁いた。
「速くなくていい」
ロクの耳が動く。
「危ないところ、見てくれればいい」
その言葉に、ロクの震えが少しだけ変わった。
弱まったのではない。
向きが変わった。
怯えではなく、集中に近い震え。
ウツシ教官の手が振り下ろされる。
「行って!」
ロクは飛び出さなかった。
他のガルクのように、最初から全力で駆けることはしなかった。
一歩目は浅く。
二歩目で地面を確かめ。
三歩目で速度を少しだけ上げる。
広場に、すぐ笑いが起きた。
「遅いぞ!」
「散歩かよ!」
「やっぱり臆病だ!」
カナメの頬が熱くなる。
けれど、ロクは速度を上げなかった。
左へ寄る。
カナメは一瞬、なぜだと思った。
すぐに分かった。
右側の土が緩い。
午前中、荷車の車輪が沈んだ跡だ。表面は乾いて見えるが、下がぬかるんでいる。勢いよく踏めば、足を取られる。
ロクはそこを避けた。
次に、柵際へ寄りすぎない。
昨日の訓練で、柵の杭が一本少し浮いていた。カナメも見た覚えがある。だが、今の速度なら問題ないと思っていた。
ロクは違った。
その杭の前で、わずかに進路を変える。
背中の上で、カナメは目を見開いた。
ロクは、覚えている。
危ない場所を。
人が見落とした小さな変化を。
自分が怖がった音の正体を。
臆病だから止まるのではない。
気づいているから、止まれるのだ。
半周を過ぎたところで、広場の反対側から別のガルクが走り込んできた。
次の組が、早めに出てしまったのだ。
乗っている訓練生は、勢いに乗って笑っている。前を見ているようで、横から来るロクたちを見ていない。
このままでは交差する。
カナメは息を呑んだ。
声を出そうとした。
その前に、ロクが動いた。
急停止ではなかった。
前脚を深く沈め、身体を低くし、右後ろへ滑るようにずれる。カナメの身体が傾く。落ちる、と思った瞬間、ロクが首を少し上げ、背中の角度を変えた。
カナメはしがみついた。
すぐ横を、別のガルクが駆け抜けていく。
風が頬を打った。
もしロクがそのまま走っていたら、正面からぶつかっていた。
広場の笑い声が消えた。
遅れて、ウツシ教官の鋭い声が飛ぶ。
「止まって!」
全員が止まった。
砂ぼこりだけが、しばらく空に残った。
カナメはロクの背から降りようとして、足が震えていることに気づいた。怖かった。心臓が強く打っている。
だが、ロクはもっと震えていた。
それでも逃げてはいなかった。
カナメの前に立ち、通り過ぎたガルクと訓練生の方を見ている。怒っているのではない。責めているのでもない。ただ、まだ危なくないかを確認している。
ウツシ教官が駆け寄ってきた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です」
カナメは慌てて答えた。
ウツシ教官はロクを見た。
いつもの明るい笑顔は少しだけ消えていた。
「ロク」
ロクは顔を上げる。
「よく避けた」
その一言で、ロクの耳がわずかに立った。
訓練生たちは黙っていた。
さっきまで臆病だと笑っていた者たちも、何も言わない。
ぶつかりかけた訓練生が、顔を青くして下を向いていた。
「……悪かった」
小さな声だった。
ロクはその声に吠え返さなかった。
ただ、鼻を鳴らしてから、カナメの横へ戻った。
ボンバーが走ってくる。
「ロク! すごいニャ! 今の動き、ぬるっとしてたニャ!」
褒め言葉なのか分かりにくい。
それでもロクは、少しだけ尾を振った。
カナメは膝をつき、ロクの首筋を撫でた。
「ありがとう」
ロクはカナメの頬を一度だけ舐めた。
言葉はない。
でも、それで十分だった。
ウツシ教官は広場全体を見回した。
「速いことは大事だよ。でも、速いだけじゃ帰れない時がある」
誰も声を出さなかった。
「危ないものに気づけること。止まれること。避けられること。仲間を落とさないこと。それも、立派な力だ」
カナメはロクを見た。
臆病と呼ばれたガルク。
吠えないガルク。
誰より先に耳を伏せ、誰より先に危険を拾う脚。
その背中は、さっきまでより少しだけ大きく見えた。
ロクは強くなったわけではない。
何かが突然変わったわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ、見えていたものを誰かに分かってもらえた。
それだけだった。
けれどカナメには、それがとても大きなことに思えた。
訓練所の隅で、風が土の匂いを運んでいく。
ロクはもう一度、広場の地面を見た。
ぬかるみ。浮いた杭。交差する足跡。誰かが落とした木片。
そのすべてを、静かに見ていた。
カナメは思った。
ロクは、逃げるために見ているのではない。
誰かが帰れる道を、誰より先に探しているのだ。
まだ、その言葉は形にならない。
まだ、救助隊という名もない。
けれどこの日、カナメの中で、ロクの伏せた耳は弱さではなくなった。
それは、危険を聞く耳だった。
命を帰すための、最初の耳だった。