ロクの耳は、よく伏せられた。
大きな音がした時。
知らない足音が近づいた時。
誰かが笑い声を上げた時。
訓練所で木剣が強く打ち合わされた時。
そのたびに、ロクの耳はすっと下がった。
だから皆、ロクを臆病だと言った。
カナメも、最初はそうなのかもしれないと思っていた。
怖がりなのだと。
強くないのだと。
ガルクとしては頼りないのだと。
けれど、一緒に朝を過ごし、一緒に訓練所へ通い、一緒に笑われるようになってから、カナメは少しずつ分かり始めていた。
ロクは、ただ怖がっているのではない。
ロクの耳は、先に聞いている。
危ない音を。
見落とされた変化を。
誰かがまだ気づいていない小さな歪みを。
その日、朝から空気が湿っていた。
雲は低く、山の上に薄く垂れ込めている。里の屋根には細かな水滴が残り、地面はところどころ柔らかい。雨は降っていないが、風の匂いに水気が混ざっていた。
ロクは家を出る前から、落ち着かなかった。
戸口で立ち止まり、耳を動かす。右を見る。左を見る。足元の土を嗅ぐ。軒先の鈴が風で鳴ると、いつもより長くそちらを見た。
「ロク?」
カナメが声をかけると、ロクは振り返った。
耳は少し伏せられている。
怖がっているようにも見える。
でも、目は逃げていなかった。
「何か、ある?」
ロクは答えない。
ただ、家の外へ出て、道の先を見た。
ボンバーが道具袋を背負いながら言った。
「雨の匂いニャ?」
ロクは鼻を鳴らした。
「雨じゃないニャ?」
もう一度、鼻を鳴らす。
ボンバーは腕を組んだ。
「分からんニャ」
カナメはしゃがみ、ロクの首筋に手を置いた。
ロクの体は、わずかに緊張していた。
「ゆっくり行こう」
そう言うと、ロクの耳が少しだけ動いた。
三人は訓練所へ向かった。
里の道は、いつもより静かだった。湿った空気が音を吸い、遠くの槌音も鈍く聞こえる。団子屋の湯気は白く濃く、屋根の上の野良アイルーたちは丸くなっていた。
訓練所に着くと、すでに訓練生たちが集まっていた。
昨日の近接武器全滅のことは、まだ皆の中に残っているらしかった。
カナメが広場に入ると、何人かがこちらを見る。
「今日も来たぞ」
「よく来られるな」
「俺なら休む」
笑い声が低く広がる。
カナメは足を止めかけたが、ボンバーが横から肘で軽く膝を押した。
「行くニャ」
「……うん」
ロクは何も言わず、カナメの少し前を歩いた。
その耳は、また伏せられている。
笑い声のせいだと思った。
カナメは胸が痛んだ。
ロクまで、また嫌な思いをしている。
しかし、ロクの視線は訓練生たちには向いていなかった。
広場の奥。
昨日使った丸太置き場。
そのさらに先の、柵の一部。
ロクはそこを見ていた。
ウツシ教官の号令が響く。
「全員、整列!」
訓練が始まった。
午前は基礎体力と走行訓練だった。ぬかるんだ地面を避けながら、決められた位置を走る。武器を持たず、足運びと姿勢を確認する訓練。
カナメにとっては、武器を持つより少しだけ楽なはずだった。
けれど、その日は集中できなかった。
ロクの耳が、ずっと伏せられていたからだ。
走る前も、走っている最中も、休憩の時も。
ロクは時折、同じ方向を見る。
丸太置き場。
柵。
その下の土。
「ロク、どうしたの?」
カナメが小さく尋ねても、ロクは返事をしない。
鼻を低くして地面を嗅ぐ。
そしてまた耳を伏せる。
近くにいた訓練生が笑った。
「また怖がってる」
「今日は何が怖いんだよ。雨か?」
「ガルクなのに繊細だな」
ロクの耳がさらに下がった。
カナメは胸が詰まった。
言い返したかった。
けれど、言葉が出ない。
自分のためには怒れない。
ロクのためでも、まだうまく声が出せない。
喉の奥で何かが固まる。
ボンバーが代わりに言った。
「ロクは何か見てるニャ」
「何を?」
「知らんニャ。でも見てるニャ」
「分かってないじゃん」
笑い声。
ボンバーの毛が逆立つ。
カナメは慌てて手を伸ばした。
「ボンバー」
「むう」
ボンバーは不満そうに引いた。
その時、ロクが低く身をかがめた。
耳が完全に伏せられる。
尾が下がる。
だが、逃げない。
ロクの目は、柵の向こう側を見ていた。
カナメもそちらを見る。
最初は何も分からなかった。
丸太置き場。湿った土。古い柵。昨日の訓練で使った荷車。端に積まれた予備の杭。
それだけだ。
だが、よく見ると、柵の根元の土が少し崩れている。
雨が降ったわけではない。
けれど湿気を含んだ土が緩み、昨日の荷車の重みで押されたのか、支えの杭がわずかに傾いていた。
その上に、丸太が数本もたれかかっている。
カナメの背筋が冷えた。
「……あそこ」
声が出た。
小さかった。
誰にも届かないかと思った。
だが、ロクが顔を上げた。
ボンバーも振り向く。
「何ニャ?」
「杭が……緩んでる」
カナメの声は震えていた。
「丸太、倒れるかもしれない」
近くの訓練生が笑った。
「また周り見すぎ病か?」
「怖いなら近づかなきゃいいだろ」
その瞬間、丸太置き場の奥で、ぎし、と音がした。
ロクが飛び出した。
吠えなかった。
ただ、一直線に走った。
カナメが息を呑む。
丸太置き場の横には、片づけをしていた小さなアイルーがいた。まだ崩れに気づいていない。両手で縄をまとめ、背を向けている。
杭が、さらに傾いた。
丸太がずれる。
「危ない!」
今度はカナメも叫んでいた。
ロクはアイルーの首元の服をくわえ、横へ引いた。
次の瞬間、丸太が崩れた。
重い音が広場に響く。
湿った土が跳ね、柵の一部が砕け、丸太がさっきまでアイルーのいた場所を塞いだ。
広場が凍りついた。
誰も笑わなかった。
ロクは、アイルーを少し離れた場所へ下ろした。
その耳は、まだ伏せられている。
けれど、今度は誰もそれを臆病とは言えなかった。
ウツシ教官が駆け寄ってくる。
「怪我は!?」
アイルーは震えながらも、首を横に振った。
ロクの鼻先に、少し土がついていた。
カナメも走ってきて、膝をつく。
「ロク……!」
ロクはカナメを見た。
何も言わない。
ただ、まだ崩れるものがないか確認するように、丸太の方へ目を向けた。
その耳は伏せられたままだった。
カナメは、その耳を見た。
怖がっていた。
きっと本当に怖かった。
丸太が崩れる音も、湿った土の匂いも、誰かが怪我をするかもしれない気配も、ロクには全部早く届いていた。
だから耳を伏せた。
逃げるためではなく。
危険を受け止めるために。
ウツシ教官は、ゆっくりとロクの前にしゃがんだ。
「ロク」
ロクが顔を向ける。
「よく知らせた。よく動いた」
ロクの耳が、ほんの少しだけ持ち上がった。
ほんの少し。
それでもカナメには分かった。
ロクは、その言葉を受け取った。
ボンバーが胸を張る。
「だから言ったニャ。ロクは見てるニャ」
さっき笑っていた訓練生たちは、何も言えなかった。
一人が小さく、崩れた丸太を見つめる。
「……本当に、倒れた」
その声には、もう笑いがなかった。
カナメはロクの首筋に手を添えた。
「ありがとう」
ロクは鼻先でカナメの手に触れる。
カナメの手も、少し震えていた。
自分は、まだ叫ぶのが遅かった。
ロクの方が早かった。
ロクの耳がなければ、あのアイルーは怪我をしていたかもしれない。
臆病と呼ばれた耳。
伏せられるたびに笑われた耳。
その耳が、命を一つ守った。
ウツシ教官は立ち上がり、広場全体へ向き直った。
「今のを覚えておくように」
声は静かだった。
だからこそ、よく通った。
「危険を感じて耳を伏せることは、恥じゃない。怖いと感じることも、恥じゃない。大事なのは、その怖さから何を読み取るかだ」
訓練生たちは黙って聞いていた。
「ロクは逃げなかった。怖さを使って、危険を見つけた。動いて、助けた」
ロクはウツシ教官の声を聞きながら、カナメの横に座っていた。
耳はまだ少し伏せている。
でも、さっきまでとは違って見えた。
カナメには、その耳が弱さではなく、広場の誰よりも遠くの危険を拾うためのものに見えた。
その後、訓練は一時中断された。
丸太置き場の安全確認が行われ、杭が打ち直される。ボンバーは興味津々で支点を見ていたが、ウツシ教官に「火薬は使わないよ」と先に言われてしょんぼりした。
カナメはロクのそばに座り、耳の後ろをそっと撫でた。
「痛くない?」
ロクは目を細める。
「怖かった?」
返事はない。
けれど、ロクはカナメの膝に頭を軽く預けた。
カナメはその重みを受け止めた。
「……怖くても、動いたんだね」
ロクの耳が、かすかに揺れた。
カナメは静かに息を吸った。
自分も、怖い。
笑われるのが怖い。
失敗するのが怖い。
武器を持つのが怖い。
期待されるのも怖い。
けれど、怖いから全部駄目なのではないのかもしれない。
怖いから見えるものがある。
ロクが教えてくれた。
夕方、訓練所を出る時、崩れた丸太置き場はきれいに直されていた。
杭は新しく打たれ、土は固められ、周囲には目印の縄が張られている。
救われたアイルーが、戸口の近くで待っていた。
ロクを見ると、少し緊張したように頭を下げた。
「あ、ありがとう……」
ロクは少し戸惑ったように耳を伏せた。
今度は、誰も笑わなかった。
ボンバーがにやりと笑う。
「褒められて耳が伏せたニャ」
カナメも小さく笑った。
「そうかもしれない」
ロクは二人から顔をそむけた。
尾だけが、少し揺れていた。
三人は家へ帰った。
道の途中で、風が吹く。
ロクの耳がまた伏せられる。
カナメはもう、それを見て胸を痛めるだけではなかった。
何を聞いたのだろう。
何に気づいたのだろう。
そう思うようになっていた。
小さな家に着くと、軒先の鈴が鳴った。
ちりん。
ロクはその音にも耳を伏せた。
けれど、怖がっているようには見えなかった。
カナメは戸を開けながら言った。
「ただいま」
ボンバーが続く。
「ただいまニャ!」
ロクは静かに家へ入り、いつもの場所に伏せた。
その耳は、まだ少し下がっている。
カナメは囲炉裏に火を入れながら、ふと思った。
この耳が、いつかもっと多くの命を救うのかもしれない。
まだ名前はない。
まだ隊もない。
けれど、ロクの伏せた耳は、もうただの弱さではなかった。
帰る道を探すための、最初のしるしだった。