1.宝くじ売りの少女
ハイフォンの朝は、ラックチャイ川から這い上がる重たい霧とともに始まる。夜の湿気を吸った霧は、港の鉄骨やクレーンに絡みつき、低い屋根や錆びたトタン板をなめるように街へ広がっていった。停泊する貨物船が低く汽笛を鳴らす。その震えが水面を渡り、古いアパートの窓をガタガタと揺らした。
「……ん」
カビの匂いが染みついた薄い布団の中で、ロローリャは目を開けた。湿った空気が肌にまとわりつき、寝汗が首筋に冷たく残っている。天井の内装はところどころ剥がれ、埃をかぶった扇風機が止まったままぶら下がっていた。
左の前腕はなく、右の膝から下もない。生まれたときからそうだった。杖は古い金属製で、握り手には布を巻いてある。
窓の外から、バイクの音が波のように押し寄せてきた。
ロローリャはしばらく天井の染みを見つめていた。黒い髪が枕に広がり、窓から差し込む灰色の光を鈍く吸っている。切れ長の目、細い顎の線。女たちはよく、「五体満足だったら稼げたろうにねえ」と言った。
十二歳。もうすぐ十三になるはずだったが、誕生日は知らない。自分がどこの生まれなのかも分からなかった。身内と呼べるのは、四つ上の姉がひとりだけ。その姉とも、ずっと前に別れ別れになった。それでも、どこかで生きているという気持ちだけは、いまも消えずに残っていた。
「ロローリャ、起きてるなら来な!」
隣の部屋から、しわがれた声が飛んだ。年かさの色按摩、ジウである。このアパートでは半ば世話役のような存在で、夜の仕事を終えた女たちを叱ったり笑ったりしながらまとめていた。
「今行く!」
ロローリャは枕元の杖を掴み、慣れた動きで身を起こした。片足で身体を支え、右脚の断端に粗末な義足をあてがってベルトを締める。スラムで誰かに拵えてもらった代物で、義足と呼ぶには粗かったが、長く使い込んだぶん、身体にはなじんでいた。杖へ重心を移して立ち上がると、眠りのぬくもりはそこで切れ、身体が今日の重さを引き受けた。
廊下へ出ると、湿気を吸った壁のペンキが浮き、剥げた下から灰色のコンクリートがのぞいていた。狭い通路には女たちが集まり、プラスチック椅子に腰をかけたり、壁にもたれたりして、買ってきたばかりのバインミーをかじっている。煙草、安い香水、寝汗、湿気の匂いがまじり、廊下の空気は朝から重たかった。
ロローリャは住人というより、半ば居候だった。ここに転がり込んできた少女を女たちは追い出さず、その代わり、夜の子守、洗濯、掃除、簡単な炊事を任せた。それで彼女には、この建物で寝る場所が与えられていた。
「ほら、食いな。バインミークエだよ」
若い商売女のリエンが、油の染みた包み紙を放ってよこした。ロローリャは片手でそれを受け止める。
「……ありがとう、
細長いパンに、なめらかな豚レバーのパテと真っ赤なチーチュオンがたっぷり塗ってある。噛むと皮がぱりりと割れ、濃い味が口いっぱいに広がる。腹の底が、ようやく少し落ち着いた。
「ほら、今日の分。売れ残らせるんじゃないよ」
リエンは煙草をくわえたまま、輪ゴムで留めた宝くじの束を投げた。
「まかせといて。今日もきれいに捌いてくるから」
リエンは仲介人から宝くじを受け取り、それをロローリャに持たせて日中の通りに立たせていた。売上はいったんリエンの手に戻る。そこから仲介人へ返す分を除き、残りのいくらかがロローリャの小遣いになった。路上でただ手を差し出すよりは、自分で稼いでいる気がした。
「上手くやりな、スター」
煙草の煙を吐きながらリエンが笑う。
ロローリャは苦笑して、廊下の窓から外を見た。霧の向こうで街が動き出している。バイクの音が増え、屋台の鍋から白い湯気が上がる。港へ向かう労働者がフォーの屋台に集まり、学生服の子どもたちが笑いながら通りを駆けていった。
残りのパンを食べ終え、包み紙を丸めて窓の外のゴミ箱へ投げる。それから杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
今日も通りに立つ。生き延びて、いつか姉に会うために。
◇ ◇ ◇
昼下がりのカウダット通りは、ハイフォンでもひときわ賑わっていた。線路をまたぐ煉瓦色の歩行者跨線橋の麓には、人波が自然と淀む。食堂、衣料品店、バイク部品屋、果物屋台、ネイルサロンが軒を接し、人とバイクと荷車が絶えず行き交っていた。スピーカーからはV-popが流れ、揚げ物の匂いが漂い、老人がプラスチック椅子で煙草をくゆらせている。
ロローリャは、跨線橋の影が落ちる少し広い場所を選んだ。
足の間に挟んだのは、古びたノコギリである。ハイフォンへ流れ着く前、転々としたスラムの一つで老いた路上芸人に教わった奏法だった。弓は廃材の棒に化学繊維の糸を張っただけの代物で、楽器屋の品とは似ても似つかない。それでも音は出た。
腰をゆっくりひねり、ノコギリの角度を変えながら弓を走らせる。
ぎし、と金属が軋む。次の瞬間、その音が人の声のような震えに変わった。低く濡れた響きには哀愁があり、呻き声にも似て、なぜか耳を離さない。配達途中のバイクが速度を落とし、露天商のおばさんが首を伸ばし、店先の工員たちが足を止めた。
──ベトナムの街では、宝くじ売りは見慣れた光景だ。国営の宝くじは一枚一万ドンほどで、券にはあらかじめ番号が印刷されている。売り子はそれを束で仕入れ、市場や港、屋台の周りを歩いて売る。売れ残れば自分の損になるから、通りすがりの客に声をかけ、夕方の抽選までに一枚でも多くさばこうとする。大当たりすれば家が建つほどの金になるとも言われるが、そんな幸運はめったにない。それでも人は、ほんのわずかな希望を買うように、その紙切れを手に取る。
売り子の姿は、たいてい似通っており、年老いた者、身体に障害のある者、故郷を離れてきた出稼ぎの者。社会の底で生きる人間たちが宝くじの束を持ち、歩道や市場を一枚ずつ売って歩く。
身体に欠損を抱えたロローリャもまた、その風景の一部であったが、彼女には、そこへさらに人目を引くものがあった。まだ少女で、妙に整った顔立ちをしており、そのうえ欠けた身体を晒して古びたノコギリを鳴らす。通りの人間は、哀れみと好奇心と後ろめたい興味が混ざった目で彼女を見た。
ロローリャは、それが金になることを知っていた。
両脚の間にノコギリを挟み、左腕の断端に括りつけた弓を、身体ごとこじるようにして引く。視線は宙に向けたまま、そのたびに上半身が大きくねじれ、胸元がのぞき、脚の間の布地がちらりとめくれた。彼女に羞恥心がないわけではなかったが、視線を集めることと、宝くじを売ることは、分けて考えることができなかった。見てもらわなければ、立ち止まってもらえないし、立ち止まらなければ、財布は開かない。そういう理屈は、女たちの生きざまをそばで見るうち、ロローリャにも自然とわかるようになっていた。
通りすがりの会社員も、制服姿の学生も、建設作業員ふうの男も、見えそうで見えないスカートの奥へつい目を引かれ、あからさまには眺めまいとしながら、結局は視線を離せずにいた。ロローリャはそのいやらしくも頼もしい重みを受けとめつつ、最後の一音を細く曳いた。
弓が止まり、音が消える。すると、さっきまで足もとや脚のあたりを這っていた目が、こんどはそろって顔へ上がってきた。ロローリャはそこで黒髪を耳へかき上げ、宝くじの束を高々と掲げた。
「運試しはいかが?」
声が通ると、周りの客たちのあいだから、すぐに細かいドン札が差し出された。ロローリャの手から薄紙の束はみるみる消えてゆき、十分もしないうちに、持ってきた宝くじはきれいに売り切れた。
札を指先でそろえながら、ロローリャは少し得意になった。今日は客を引き止める音も声も、いつもよりうまくはまったらしい。
そうして釣り銭をしまってふと顔を上げると、人混みの中から一人の男が静かに歩み出てきた。
背が高く、ベトナム人にしては肩幅があった。顔立ちのどこかに、ラオスかミャンマーの血を思わせるものがある。三十代か四十代か、それもはっきりしない。地味な身なりなのに妙に目を引く男で、雑踏の中を歩いてくるだけで、その周りの空気が変わるように見えた。
男はロローリャの前に立つと、無言で盆に紙幣を滑らせた。
「……悪くない」
低くそれだけ言い、踵を返して雑踏へ消えていく。残された紙幣を見て、ロローリャは目を丸くした。
五十万ドン札だった。
「やった!」
思わず声がこぼれた。ロローリャはすぐにあたりへ目を走らせる。通りは相変わらずざわめいており、こちらを気にした者はいない。彼女は札を素早く折りたたみ、スカートの内側のポケットへ押し込んだ。
今日はもう切り上げよう。
そう決めると、大通りを離れ、近道の裏路地へ足を踏み入れた。
昼間でもそこは薄暗かった。排水溝から腐った水の匂いが立ち上り、魚の骨や空き缶が泥の中に転がっている。ロローリャが杖を突いて進むと、壁際に貼りついていた三つの影が、ゆっくりと剥がれた。
──物乞いには縄張りがある。大きな街では、足の悪い老人や盲目を装う若者、赤ん坊を抱えた女を通りへ立たせ、日銭を集める者たちがいる。配置を決める手配師がいて、夕方には回収役が来る。ノルマを満たせなければ殴られる。東南アジアでは特に珍しくもない仕組みである。
誰の庇護にも入らず、ひとりで路上に立つロローリャは、彼らにとって目障りな存在だった。宝くじ売りの稼ぎなど小さいから、これまでは見逃されてきた。だが今日の高額なチップは、どうやら見逃されなかったらしい。
「おい、小娘。大層な金をもらってたじゃねえか」
先頭の男が煙草の煙を吐きながら薄笑いを浮かべ、道を塞いだ。
「大金を手にしたなら分け前をよこせ。ここじゃそれが筋だ」
ロローリャは眉ひとつ動かさず男を見返した。怖くないといえば嘘になる。だが、弱みを見せた者から食われることくらい、もう知り抜いている。彼女が杖を握り直して睨み上げると、苛立った一人が懐から錆びたナイフを抜き、刃をロローリャの喉もとへ寄せた。
「ほら、出せよ」
「いやだ!」
ロローリャの右手は、杖を握ったまま腰の脇へ滑っていた。スカートの内側に縫い込んだ鉄片を、指先が探る。細い釘を削ったものだ。ここまで近ければ、目でも喉でも狙える。男がもう半歩踏み込めば、肩ごと身体をひねって放つ。
だがそのとき、路地の奥の薄暗がりがふっと揺れた。
五十万ドン札の男が、すっと歩み出てくる。
「その子から離れろ」
低い声が路地に落ちた。そのひとことで空気が変わり、ロローリャの喉もとへ刃を寄せていた男の腕が止まる。残る二人も、揃ってその男へ目を向けた。
「なんだてめぇ……関係ねぇだろ!」
ナイフの男が声を張り上げる。だが腰は浮いていた。喉だけがいきり立ち、足もとの気勢はその声に追いついていない。
男がひとつ踏み込む。
それだけで間合いが消えた。
下から跳ね上がった拳が、ナイフの男の顎を打つ。鈍い音がして、男の膝が崩れた。横から飛びかかろうとしたもう一人にも返す手が走り、掌底をまともに食らった身体が路地の壁へ叩きつけられる。
残った一人はそこで顔色を変え、懐へ手を入れて拳銃を抜いた。震える指が引き金にかかる。
ロローリャの胸がひやりと縮んだ。
乾いた銃声が、裏路地を鋭く裂いた。
銃口の火花が弾けるのとほとんど同時に、男の手もとでも銀の線がひらめいた。甲高い金属音が跳ね、弾は横へ逸れて壁へめりこむ。砕けた石片がぱっと散った。
男の手にはいつのまにか細身の直剣があった。刃は受けた衝撃をわずかに震えとして残し、薄い光の中に銀の余韻を曳いている。
「なっ……弾を、切った!?」
銃を持っていた男の声が裏返った。
ロローリャの胸にも、ぞくりとしたものが走る。銃で人を殺す時代になってなお、剣一本でそれに対する者がいる。そんな噂を、彼女は路地で聞いたことがあった。軍、警察、あるいは裏の組織。古い武の極致を身に棲まわせた者たちの話を、人は半ば伝説のように語っていた。
与太話だと思っていた。
その噂がいま、銀の刃を携えた現実となって、目の前に立っている。
「ひ、ひぃぃっ!」
男は銃を投げ捨てるようにして背を向け、一目散に逃げ出した。壁に叩きつけられた男も這うように後を追い、最初に顎を打たれた男も、恐怖に顔を歪めながら路地の闇へ転がるように消えた。
すべてが、ほんの数秒の出来事だった。
男はゆっくりと剣を鞘に収めた。倒れていた連中が消えた方を一瞥し、それからぼそりと呟く。
「……子どもに渡す額じゃなかったな」
「あんたが渡したんでしょ」
男の口元がわずかに歪んだ。
「ああ。俺の失敗だ」
「なら、もうちょっと責任とって守ってよ」
男は一瞬だけロローリャを見たが、その視線は冷たかった。
「……自分で立て。でなければ死ぬ」
それだけ言い残すと、男は背を向け、路地の出口へ向かい、雑踏の中へ消えていった。
ロローリャは、しばらくその背中を見ていた。腹は立っていた。だが、あの動きだけは、どうしても目から離れなかった。