欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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2.小さなノイ

 その日の朝、森の声はいつもと少し違っていた。

 

 ロローリャは灰の中から掘り出した細いタケノコの焦げた皮を剥いていた。指先についた煤を舌でぬぐい、柔らかい芯を布の上へ置く。右膝下の義足には朝露がつき、継ぎ目へ巻いた布が湿っている。左の前腕を失った肩には夜の冷えが残り、右手のそばには白猿と打ち合い続けた棒が転がっていた。

 

 猿どもが騒いでいた。森の朝に猿の声はつきものだったが、その日の声には遊びの軽さが混じっておらず、高い梢で鳴き交わしていた猿の群れが、同じ方角へ寄っては退き、細い枝が次々と跳ね、遠くの鳥が急に羽ばたいた。森の奥へ流れるざわめきは、獣に追われたときの逃げ方とも、仲間同士で争うときの荒さとも違っている。近づくにも退くにも迷い、けれど放っておくこともできず、梢の上で輪を作って騒いでいるような声だった。

 

 ロローリャはタケノコの柔らかい芯を布袋へ落とし、棒を握り直した。

 

「朝っぱらから、うるさいな」

 

 そう呟いたとき、白い影が頭上を横切った。

 

 白猿だった。いつもならロローリャの真上で枝を振り、わざと葉を浴びせてくるくせに、その日は木の幹を蹴って少し先の枝へ移り、短く鳴いた。ロローリャが睨むと、白猿はもう一度鳴き、体を低くして森の奥へ飛んだ。数本先の枝で振り返る。細い指が樹皮を掴み、長い尾が揺れ、金色がかった目がこちらを捉えていた。

 

「今度は何なの?」

 

 ロローリャは腰の鉈を確かめ、足もとを選びながら進んだ。岩陰から少し下ったところに、山の人間が薪や竹を運ぶために使う細い道が走っている。雨で削れた赤土の道は、人の足と荷車の跡で浅く窪み、ところどころに切られた竹の根と古い轍が覗いていた。白猿はその道の上をしばらく先へ進み、やがて道端の藪へ飛び込むと、低い枝に降りて振り返った。枝を伝うたびに体の向きが鋭く、尾の先まで急いた気配を帯びている。

 

 竹の密な斜面へ入ると、湿った空気の中に、人の汗の匂いがまじった。ロローリャは歩みを落とし、棒を前へ出した。山道の赤土から、小さな裸足の跡が藪の中へ逸れている。足跡は斜面を斜めに滑り、泥の中で深く沈み、倒れた竹へ向かって膝と手の痕を刻んでいた。折れた草の茎、めくれた腐葉土、竹の葉に残る血の筋が、その小さな身体のたどった道を細く示している。

 

 白猿が低い枝に降り、下を覗き込む。その先で草が押し潰され、窪みの中に小さな身体が横たわっていた。細い指が草を掴み、肩がわずかに上下している。髪は濡れて頬に貼りつき、足の裏には裂けた痕が走り、膝から下は泥と小さな血の筋でまだらになっていた。

 

 子どものまぶたが震えた。

 

 黒い瞳が開き、ロローリャの顔を捉え、棒へ落ち、義足へ移り、また顔へ戻った。喉の奥で息が跳ねる。少女は肘を泥へ突き、身体を後ろへ逃がそうとした。細い腕が滑り、肩が草へ落ちる。

 

「待って。叩いたりしないよ」

 

 ロローリャは棒を地面へ置き、右手のひらを見せた。声を低くし、自分の胸を指す。

 

「ロローリャ。私は、ロローリャ」

 

 子どもは震えながら何かを言った。

 

「……ນ້ຳ……」

 

 ロローリャには少女の言葉の意味は分からなかったが、唇の乾き、舌の動き、ひきつるような息で、水を求めていることは分かった。ロローリャは布袋から竹筒を取り出し、少しだけ口元へ近づけた。子どもは両手で竹筒に縋りつこうとしたが、ロローリャはそれを強く持ったまま、ひと口ずつ飲ませた。一度に飲ませれば吐く。森で飢えた犬に水をやったとき、そう覚えた。

 

 子どもの喉が小さく動く。水が唇の端からこぼれ、泥の上に落ちた。数口飲むと、子どもの目に少しだけ光が戻った。

 

 ロローリャは自分の胸を叩いた。

 

「名前。私、ロローリャ。わ、た、し、ロローリャ」

 

 それから子どもを指す。

 

「あなたは?」

 

 子どもは荒い息の合間に、細い声で答えた。

 

「……ນ້ອຍ」

「ノイ?」

 

 ロローリャが繰り返すと、少女はかすかに頷いた。頷いた拍子に身体が傾く。ロローリャは右手で肩を受けた。軽い。十二歳ほどの背丈があるのに、抱えた感触は空っぽの籠に近かった。

 

 白猿が頭上で短く鳴いた。

 

「分かってるって。連れていくわ」

 

 ロローリャはノイの脇へ肩を入れ、立たせようとした。ノイの足は泥の中で震え、膝がすぐに折れる。ロローリャは自分の布袋を前へ回し、ノイの片腕を首の後ろへ掛けさせると、棒を杖のように突いて少しずつ進んだ。義足は泥に取られ、右手はノイの腰を支え、左の断端は布と身体の間へ押し込んで、落ちそうになる少女を必死に留めた。

 

 一人で歩く森と、子どもを抱えて歩く森では勝手が違った。低い枝はノイの目の高さへ伸び、石は少女の足先を弾き、斜面の泥は二人分の重さを腰ごと下へ引く。ロローリャは義足の先で足場を探り、棒で土を押さえながら、何度も立ち止まってノイの顔を覗き込んだ。ノイは半分眠りながら、時折びくりと震え、そのたびにロローリャの服を掴んだ。

 

 いまの隠れ家は沢から少し上がった岩陰にあった。倒木と広い葉で雨を避け、奥には乾いた草を敷き、火を焚く場所を石で囲ってある。白猿と打ち合っていたころ、雨季の水を避けるために何度も場所を変え、ようやく見つけた場所だった。

 

 ロローリャはノイを草の上へ横たえ、濡れた外布をはがして乾いた布で包んだ。子どもの身体は冷えていた。火を起こすには、まず乾いた芯がいる。ロローリャは岩の隙間に隠していた枯れ竹と樹皮を取り出し、石で火花を落とした。煙が細く立ち、やがて小さな火が葉の陰へ赤く灯る。火が育つまでのわずかな時間が、やけに長かった。

 

 ノイは火を見ると、少しだけ目を見開いた。暖かさが肌へ届くと、こわばっていた肩がゆるむ。ロローリャは灰の中へ埋めていたタケノコを掘り出し、焦げた皮を剥いて、内側の柔らかいところを指で裂いた。熱を冷ましてから、細かく潰し、ノイの口元へ運ぶ。

 

「少しずつ。ほら、しっかりして」

 

 ノイの唇が開いた。ひと口を飲み込むまでに時間がかかる。二口目で喉が動き、三口目で胸の奥から小さな音が漏れた。ロローリャは黙って食べさせた。食べ物を欲しがる子どもの顔を見ていると、胸の奥に古い湯気が立つ。小鍋で煮た粥、南瓜の匂い、膝の上の小さな頭。それらは火の煙と一緒に浮かび、すぐ森の湿気に溶けた。ロローリャは指についたタケノコの繊維を自分の舌でぬぐい、残りを薄く裂いて自分の口へ入れた。

 

 食べ物の匂いに目ざとい白猿が、この日は枝に腰を下ろし、尻尾を垂らし、ノイのほうをじっと見ている。ノイが上を見て怯えたので、ロローリャは白猿を指差して言った。

 

「あいつは性格が悪いけど、たぶん食べたりはしないし、もし何かしたらこの棒でぶっ叩くから大丈夫」

 

 たぶん言葉の意味は届かなかったが、それでもロローリャの声を聞いて、ノイは少しだけ肩の力を抜いた。

 

 その日は、名前以外のことはほとんど分からなかった。

 

 ノイが何を言っても、ロローリャには音の流れだけが耳に残った。ロローリャが何を言っても、ノイは目を丸くし、首を傾げ、唇を噛んだ。二人は火を挟んで座り、指を差し、手を動かし、顔を見て、また首を傾げた。水は竹筒を見せれば伝わる。食べることは口元へ指を持っていけば伝わる。眠ることは頬を両手で挟めば伝わる。痛みは、ノイが膝を押さえて顔を歪めることで伝わった。

 

 夜になると、森は黒い湿気で満たされた。ノイは火のそばで丸まり、時折夢の中で怯えるように肩を跳ねさせた。ロローリャは眠らず、岩陰の入口に座った。棒を膝に置き、耳を澄まし、沢の音の向こうに混じる獣の気配を探した。

 

 白猿は、まだ少し離れた枝に座っていた。月の光を受けた毛が、闇の中で薄く浮かぶ。白猿はロローリャを見下ろし、ノイを見て、尻尾を枝から垂らした。

 

「連れてきたのは、あんただからね」

 

 ロローリャは小さく言った。

 

 白猿は答えず、夜の葉の奥へ視線を移した。

 

 ノイが寝返りを打ち、か細い声で何かを呟いた。ロローリャには分からない言葉だった。けれど、その声に母親を呼ぶ響きがあった。ロローリャは火のそばへ戻り、ノイの額にかかった髪を払った。泥が乾いて頬に白く残っている。まだ熱はある。食べたものも少ない。朝になれば、もっと水と食べ物がいる。寝床も、布も、見張りもいる。

 

 一人で生き延びる森なら、どうにでもなった。

 

 二人で生きる森は、急に広く、険しく、腹を空かせているように見えた。

 

 ロローリャは灰の中の火を起こし、細い枝を一本くべた。赤い火がまた息を吹き返し、ノイの頬を淡く照らした。その光の中で、ロローリャはノイの手を見た。泥に汚れ、爪の間に土が詰まり、細い指がそれでもロローリャの服の端を離さずにいる。

 

「ノイ」

 

 ロローリャは覚えたばかりの名を呼んだ。

 

 眠ったまま、ノイの指がわずかに動いた。

 

 森の奥で、白猿が一度だけ短く鳴いた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 数日が過ぎると、二人のあいだに少しずつ言葉の橋がかかりはじめた。

 

 橋と呼ぶには細く、雨に濡れた蔓を何本か結んだような頼りないものだったが、それでも、昨日よりは今日のほうが通じた。水は「ナーム」。火は「ファイ」。食べるは、ノイが口元へ指を運びながら「キン」と言った。ロローリャは何度も繰り返し、そのたびに発音がずれて、ノイが弱々しく笑った。

 

「ナーム」

「……ナム」

「ナーム」

「ナーム」

 

 ノイはそこで初めて、ほんの少しだけ声を立てて笑った。ロローリャは眉を上げ、竹筒を振ってみせる。

 

「水は、ナーム。よし、分かった。わたしはけっこう賢いんだ!」

 

 ノイにはその言葉も通じなかったが、ロローリャの得意そうな顔は通じたらしく、膝を抱えたまま口元をゆるめた。

 

 名前のことを聞けたのも、そのころだった。

 

 火のそばでタケノコの細い繊維を裂きながら、ノイは自分の胸を指した。

 

「ນ້ອຍ。ノイ」

 

 ロローリャも自分の胸を指す。

 

「ロローリャ」

 

 ノイは頷き、それから少し考えて、もう一度自分の胸に指を当てた。

 

「ຣັດທະນາ。ラタナ」

「ラタナ」

 

 ロローリャが繰り返すと、ノイは「ノイ」と「ラタナ」を指で分けるように示した。呼ばれる名と、きちんとした名。そういうことらしかった。

 

 ラオスでは、家や村の中で使う短い呼び名を持つ者が多い。紙に書かれる名、僧侶や役所や学校の前で口にされる名とは別に、幼いころの特徴や親の願い、古いまじないの名残を受けた小さな名が日々の暮らしを歩く。ノイ、つまり「小さい」という呼び名も、その一つだった。

 

 もっとも、ロローリャはその事情をまだ知らなかった。

 

 だからしばらくのあいだ、ロローリャは「ノイ」が名前で、「ラタナ」が姓なのだと思っていた。ノイ・ラタナ。そう呼ぶと、ノイは困った顔をし、胸を指して「ノイ」と言い、少し背筋を伸ばして「ラタナ」と言った。ロローリャはその違いを何度も取り違え、そのたびにノイが火のそばで小さく首を振った。

 

「ノイ・ラタナ」

「ノイ」

「ラタナ」

「ノイ」

「……ラタナ?」

 

 ノイは困り果てたように眉を下げ、それから自分を指して「ノイ」と言い、両手をきちんと膝に置いて「ラタナ」と言った。ロローリャは腕を組むようにして唸った。

 

「むむっ……、なんだか、難しいね」

 

 ノイはその言葉を知らないはずだったが、ロローリャの顔を見て笑った。

 

 それからさらに日が過ぎ、ノイの熱が下がり、歩く力が少し戻ったころ、ロローリャはようやく、この子がどこから来たのかを聞けるようになった。

 

 聞ける、といっても、まともな会話にはほど遠かった。ロローリャが知っているラオス語は水、火、食べる、痛い、眠る、母、家、山、その程度だった。ノイのほうも、ロローリャの言葉をいくつか拾うようになっただけで、長い話になれば互いの目と手が頼りになる。

 

 その夜、火のそばで、ノイは両手の指を合わせて屋根の形を作った。

 

「家?」

「フアン」

 

 ノイはそう言い、山のほうを指した。次に、子供を抱くような仕草をし、畑を耕すように手を動かした。小さな家。山。母。父。畑。そこまではロローリャにも分かった。

 

「ノイの家。山。お母さんとお父さん。畑」

 

 ロローリャがゆっくり言うと、ノイは頷いた。

 

 次に、ノイは腕を引っ張られる仕草をした。

 

 手首を掴まれる。歩かされる。荷台らしい四角を指で描く。車輪の形を何度も回す。身体を小さく丸め、箱の中へ押し込まれるように膝を抱える。指を三本立て、また一本足し、少女たちの数を示す。戸を閉める。鍵をかける。男の低い声を真似ようとして、そこで喉が詰まった。

 

 ロローリャは火に薪を足した。煙が一筋上がり、岩の天井を舐めて外へ流れる。

 

「仕事?」

 

 ロローリャはハイフォンで聞いた中国語混じりの言葉を思い出し、身振りで酒を注ぐ真似をした。歌う真似もした。ノイは少し考え、それから何度も頷いた。頷いたあと、首をすくめ、怯えた目で火の向こうを見た。

 

「お金?」

 

 ロローリャは指で紙幣の形を作った。

 

 ノイは頷き、山のほうを指し、母親と父親らしい仕草をした。家。金。男。車。国境。鍵のある家。

 

 ばらばらの欠片が、火のそばでゆっくりつながっていった。

 

 ロローリャは、フオンの声を思い出した。

 

 まとまった金が入るって。向こうでの生活はしっかり手配してくれるし、期間は三か月だって。人気の仕事だから、受けるなら急いでくれって。

 

 あの夜の廊下、裸電球の光、煙草の匂い、フオンの震える指。戻ってきたあと、目の底に溜まっていた濁り。火の赤。ミーの小さな手。

 

 ロローリャはタケノコの芯を裂く手を止めた。

 

「売られたの」

 

 ノイはその言葉を知らない。ただ、ロローリャの顔を見て、火の向こうで膝を抱えた。小さく丸まった背中が震えている。ロローリャはそれ以上の言葉を探したが、ラオス語にも、自分の言葉にも、うまく掴めるものが出てこなかった。

 

 だから、ノイの隣へ移った。

 

 ノイはびくりと肩を跳ねさせた。ロローリャはゆっくり右手を伸ばし、触れてもいいかと目で尋ねた。ノイはしばらくロローリャを見つめ、それから額を膝に押しつけたまま、小さく頷いた。

 

 ロローリャはノイの背中に手を置いた。

 

 骨の細い背中だった。熱が下がったあとも、まだ肉は戻っていない。呼吸のたびに肩甲骨が動き、そのたびにロローリャの手のひらへ震えが伝わった。

 

「ここにいればいいよ」

 

 ノイは顔を上げた。意味は届いていない。ロローリャは岩陰を指し、火を指し、自分を指し、最後にノイを指した。

 

「ここ。ロローリャ。ノイ。いる」

 

 ノイはロローリャの指の動きをじっと追った。

 

「ここ」

 

 ロローリャは地面を叩いた。

 

「いる」

 

 自分の胸を叩き、ノイの胸をそっと指した。

 

「ロローリャ。ノイ。いる」

 

 ノイは唇を震わせた。しばらく声にならず、やがてかすかな息のような音で言った。

 

「……ここ」

「そう。ここ」

 

 ノイは火を見て、ロローリャを見て、また火を見た。涙がひとつ、頬の泥の跡を伝って落ちた。ロローリャは涙の筋を見つめ、背中に置いた手を少しだけ強くした。

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