その日の朝、森は妙にうわずっていた。
ロローリャは灰から掘り出した細いタケノコの焦げ皮を剥いていた。義足の継ぎ目には朝露が染み込み、そばには白猿との打ち合いで使ってきた棒が転がっている。
高い梢では猿どもが鳴き交わし、枝が揺れ、葉が散り、鳴き声だけが先へ先へと移っていく。近くの藪でも何かが走った。
「朝っぱらから、うるさいな」
ロローリャがタケノコの芯を布袋へ落としたとき、白猿が頭上を横切った。
白猿は幹を蹴り、少し先の枝で短く鳴いた。ふだんのように葉を浴びせてからかう素振りもなく、身体を低くして森の奥へ飛ぶ。数本先で振り返り、金色がかった目でロローリャを見た。
「今度は何なの?」
ロローリャは棒を拾い、腰の鉈を確かめて後を追った。
岩陰を下ると、薪や竹を運ぶ赤土の道に出た。雨に削られた窪みには古い轍が残り、切られた竹の根が土から覗いている。白猿は道端の藪へ飛び込むと、何度も振り返りながら竹の密な斜面へロローリャを導いていった。
赤土の道から、小さな裸足の跡が藪へ逸れている。斜面を滑り、泥に深く沈んだ足跡は、倒れた竹のそばで膝と手の痕に変わっていた。折れた草や竹の葉には血がつき、その跡は藪の奥まで続いている。
草の潰れた窪みに、小さな身体が横たわっていた。
濡れた髪が頬に貼りつき、足の裏は裂け、膝から下は泥と血でまだらになっている。草を掴んだ細い指がかすかに動き、やがて子どものまぶたが震えた。
黒い瞳が開き、ロローリャの顔から棒へ、そして義足へと移った。少女は肘を泥について後ずさろうとしたが、細い腕が滑り、肩から草の上へ崩れ落ちた。
「待って。叩いたりしないよ」
ロローリャは棒を地面へ置き、右手のひらを見せた。
「ロローリャ。私は、ロローリャ」
自分の胸を指してゆっくり言うと、子どもが震える唇を動かした。
「……ນ້ຳ……」
言葉の意味は分からない。けれど、ひび割れた唇と乾いた舌を見れば、水を求めていることは分かった。ロローリャは布袋から竹筒を出し、口元へ寄せた。子どもは両手で縋りつこうとしたが、竹筒を支えたまま、ひと口ずつ飲ませてやる。飢えと渇きに苦しんだとき、慌てて水を飲んで吐き戻した経験があった。
数口飲むと、子どもの目に少しだけ光が戻った。
「名前。私、ロローリャ。わ、た、し、ロローリャ」
もう一度自分の胸を指し、それから子どもを指す。
「あなたは?」
子どもは荒い息の合間に、細い声で答えた。
「……ນ້ອຍ」
「ノイ?」
ロローリャが繰り返すと、少女はかすかに頷きそのまま身体を傾けた。慌てて肩を受けると、驚くほど軽い。十二歳ほどの背丈があるのに、抱えた感触は空っぽの籠に近かった。
白猿が頭上で短く鳴いた。
「分かってるって。連れていくわ」
ロローリャはノイの腕を首に掛けさせ、棒を杖にして歩き出した。ノイの膝は何度も折れ、義足も泥に沈む。左腕の断端で少女の身体を支えながら、ようやく沢の上の岩陰まで戻った。
岩陰には倒木と広い葉で作った雨よけがあり、奥には草が敷いてあった。ロローリャはノイを寝かせ、乾いた布で冷えた身体を包むと、岩の隙間にしまっていた枯れ竹と樹皮を取り出して火を起こした。
煙が細く立ち、小さな火が灯ると、ノイの身体から少しずつこわばりがほぐれていった。
ロローリャは朝のタケノコを裂いて柔らかい芯を潰し、口元へ運んだ。
「少しずつ。ほら、しっかりして」
ひと口を飲み込むまでに時間がかかった。二口目でようやく喉が動き、三口目には小さく息をつく。
その顔を見ているうちに、ロローリャの胸に懐かしい光景がよみがえった。小鍋で煮た粥、南瓜の匂い、膝の上の小さな頭。ハイフォンでミーに食べさせていたころのことだった。
食べ物の匂いに目ざとい白猿も、この日は枝に座り、尻尾を垂らしてノイを見ていた。ノイが怯えて見上げたので、ロローリャは白猿を指さした。
「あいつは性格が悪いけど、たぶん噛みついたりはしないよ。それに何かしても、この棒でぶっ叩くから大丈夫」
言葉は通じなくても声の調子で伝わったのか、ノイは少し肩の力を抜いた。
結局その日は、名前以外のことはほとんど分からなかった。二人は火を挟んで座り、指を差し、手を動かし、顔を見て、また首を傾げた。水は竹筒を見せれば伝わる。食べることは口元へ指を持っていけば伝わる。眠ることは頬に手を当てれば伝わる。
夜になると、森は黒い湿気で満たされた。ノイは火のそばで丸まり、夢の中で何度か肩を跳ねさせた。
ロローリャは岩陰の入口に座り、棒を膝に置いて沢の音に耳を澄ませた。白猿は少し離れた枝に座り、月の光を受けた毛が闇の中で薄く浮いている。
「連れてきたのは、あんただからね」
白猿は夜の葉の奥を見つめていた。
やがてノイが寝返りを打ち、か細い声で何かを呟いた。言葉は分からなかったが、母親を呼んでいるように聞こえた。
ロローリャは火のそばへ戻り、ノイの額にかかった髪を払った。まだ熱がある。朝になれば水も食べ物も必要になるし、寝床や布も増やさなければならない。寝ている間は獣にも気を配る必要がある。
一人なら、どうにでもなった。
二人になると、森は急に広く見えた。
ロローリャは灰の中の火を起こし、細い枝を一本くべた。赤い火が戻り、ノイの頬を照らす。泥で汚れた小さな手は、いつのまにかロローリャの服の端を握っていた。
「ノイ」
眠ったまま、ノイの指が少し動いた。
森の奥で、白猿が一度だけ短く鳴いた。
◇
数日が過ぎると、二人は少しずつ言葉を覚えた。
水は「ナーム」。火は「ファイ」。食べるは「キン」。ロローリャが発音を外すたびに、ノイは肩を揺らして笑った。
「ナーム」
「……ナム」
ノイが首を振る。
「ナーム」
「ナーム」
今度は、ノイの目がぱっと開いた。ロローリャは竹筒を振ってみせた。
「水は、ナーム。よし、分かった。わたしはけっこう賢いんだ!」
意味は通じなくても、得意そうな顔は通じたらしい。ノイは膝を抱えたまま、口元をゆるめた。
そのころ、ノイにはもう一つ名前があることも分かった。
火のそばでタケノコを裂きながら、ノイは自分の胸を指した。
「ນ້ອຍ。ノイ」
ロローリャも自分の胸を指す。
「ロローリャ」
ノイは頷き、それから少し考えて、もう一度自分の胸に指を当てた。
「ຣັດທະນາ。ラタナ」
「ラタナ」
ロローリャが繰り返すと、ノイは「ノイ」と「ラタナ」を指で分けるように示した。普段呼ばれる名と、きちんとした名。どうやら、そういうことらしかった。
──ラオスでは、家や村の中で使う短い呼び名を持つ者が多い。公式書類に書かれる名とは別に、幼いころの特徴や親の願い、古いまじないの名残を受けた呼び名が日々の暮らしで使われる。ノイ、つまり「小さい」という呼び名は、ラオスでは非常にポピュラーである。
もっとも、ロローリャはその事情をまだ知らず、しばらくのあいだ「ノイ」が名前で、「ラタナ」が姓なのだと思っていた。
「ノイ・ラタナ」
「ノイ」
「ラタナ」
「ノイ」
「……ラタナ?」
ノイは困ったように眉を下げた。ロローリャも首を傾げて唸る。
「むむっ……、なんだか、難しいね」
その顔を見て、ノイはまた小さく笑った。
さらに日が過ぎ、熱が下がって少し歩けるようになったころ、ロローリャはノイがどこから来たのかを尋ねた。
聞く、といっても、まともな会話にはほど遠く、ロローリャにわかるラオス語は水、火、食べる、痛い、眠る、母、家、山、その程度である。ノイのほうも、ロローリャの言葉をいくつか拾うようになっただけで、長い話になれば互いの目と手が頼りになる。
その夜、火のそばで、ノイは両手の指を合わせて屋根の形を作った。
「家?」
「フアン」
ノイは山のほうを指し、子どもを抱く仕草や畑を耕す真似をした。
「ノイの家。山。お母さんとお父さん。畑」
ロローリャがゆっくり言うと、ノイは頷いた。
ノイはそこから早口で話し始めたが、ロローリャには分からない。ノイはもどかしそうに唇を噛み、自分の胸を指し、山を指し、また胸へ戻す。手首を掴まれる仕草。腕を引っ張られる仕草。歩かされる。戸を閉められる。鍵をかけられる。誰かの低い声を真似ようとして、ノイの喉が詰まった。
今度は紙を渡すような仕草をして、山のほうを指し、母親と父親らしい動作を繰り返す。それから自分の胸を指して、遠い場所へ腕を伸ばした。
家。金。男。鍵のある場所。
ばらばらの欠片が、火のそばでゆっくりつながっていった。
ロローリャはタケノコを裂く手を止めた。
フオンの声が、頭の奥によみがえる。
まとまった金が入るって。向こうでの生活はしっかり手配してくれるし、人気の仕事だから、受けるなら急いでくれって。
裸電球の光、煙草の匂い、震える指。戻ってきたあとの、目の底の濁り。ミーの小さな手。そして、火の赤。
「売られたの……」
ノイはその言葉を知らない。ただ、ロローリャの顔を見て、火の向こうで膝を抱えた。小さく丸まった背中が震えている。ロローリャはそれ以上の言葉を探したが、ラオス語にも、自分の言葉にも、うまいものがなかった。
だからノイの隣へ移り、その背に右手を添えた。
「ここにいればいいよ」
意味は届いていない。ロローリャは岩陰を指し、火を指し、自分を指し、最後にノイを指した。
「ここ。ロローリャ。ノイ。いる」
ノイはロローリャの指の動きをじっと追った。
「ここ」
ロローリャは地面を叩いた。
「いる」
自分の胸を叩き、ノイの胸をそっと指した。
「ロローリャ。ノイ。いる」
ノイは唇を震わせた。しばらくして、かすかな音で言った。
「……ここ」
「そう。ここ」
涙がひとつ、頬の泥の跡を伝って落ちた。ロローリャはノイの背中に置いた手を少しだけ強くした。