欠月剣娘百越譚   作:宙うし

10 / 29
2.小さなノイ

 その日の朝、森は妙にうわずっていた。

 

 ロローリャは灰から掘り出した細いタケノコの焦げ皮を剥いていた。義足の継ぎ目には朝露が染み込み、そばには白猿との打ち合いで使ってきた棒が転がっている。

 

 高い梢では猿どもが鳴き交わし、枝が揺れ、葉が散り、鳴き声だけが先へ先へと移っていく。近くの藪でも何かが走った。

 

「朝っぱらから、うるさいな」

 

 ロローリャがタケノコの芯を布袋へ落としたとき、白猿が頭上を横切った。

 

 白猿は幹を蹴り、少し先の枝で短く鳴いた。ふだんのように葉を浴びせてからかう素振りもなく、身体を低くして森の奥へ飛ぶ。数本先で振り返り、金色がかった目でロローリャを見た。

 

「今度は何なの?」

 

 ロローリャは棒を拾い、腰の鉈を確かめて後を追った。

 

 岩陰を下ると、薪や竹を運ぶ赤土の道に出た。雨に削られた窪みには古い轍が残り、切られた竹の根が土から覗いている。白猿は道端の藪へ飛び込むと、何度も振り返りながら竹の密な斜面へロローリャを導いていった。

 

 赤土の道から、小さな裸足の跡が藪へ逸れている。斜面を滑り、泥に深く沈んだ足跡は、倒れた竹のそばで膝と手の痕に変わっていた。折れた草や竹の葉には血がつき、その跡は藪の奥まで続いている。

 

 草の潰れた窪みに、小さな身体が横たわっていた。

 

 濡れた髪が頬に貼りつき、足の裏は裂け、膝から下は泥と血でまだらになっている。草を掴んだ細い指がかすかに動き、やがて子どものまぶたが震えた。

 

 黒い瞳が開き、ロローリャの顔から棒へ、そして義足へと移った。少女は肘を泥について後ずさろうとしたが、細い腕が滑り、肩から草の上へ崩れ落ちた。

 

「待って。叩いたりしないよ」

 

 ロローリャは棒を地面へ置き、右手のひらを見せた。

 

「ロローリャ。私は、ロローリャ」

 

 自分の胸を指してゆっくり言うと、子どもが震える唇を動かした。

 

「……ນ້ຳ……」

 

 言葉の意味は分からない。けれど、ひび割れた唇と乾いた舌を見れば、水を求めていることは分かった。ロローリャは布袋から竹筒を出し、口元へ寄せた。子どもは両手で縋りつこうとしたが、竹筒を支えたまま、ひと口ずつ飲ませてやる。飢えと渇きに苦しんだとき、慌てて水を飲んで吐き戻した経験があった。

 

 数口飲むと、子どもの目に少しだけ光が戻った。

 

「名前。私、ロローリャ。わ、た、し、ロローリャ」

 

 もう一度自分の胸を指し、それから子どもを指す。

 

「あなたは?」

 

 子どもは荒い息の合間に、細い声で答えた。

 

「……ນ້ອຍ」

「ノイ?」

 

 ロローリャが繰り返すと、少女はかすかに頷きそのまま身体を傾けた。慌てて肩を受けると、驚くほど軽い。十二歳ほどの背丈があるのに、抱えた感触は空っぽの籠に近かった。

 

 白猿が頭上で短く鳴いた。

 

「分かってるって。連れていくわ」

 

 ロローリャはノイの腕を首に掛けさせ、棒を杖にして歩き出した。ノイの膝は何度も折れ、義足も泥に沈む。左腕の断端で少女の身体を支えながら、ようやく沢の上の岩陰まで戻った。

 

 岩陰には倒木と広い葉で作った雨よけがあり、奥には草が敷いてあった。ロローリャはノイを寝かせ、乾いた布で冷えた身体を包むと、岩の隙間にしまっていた枯れ竹と樹皮を取り出して火を起こした。

 

 煙が細く立ち、小さな火が灯ると、ノイの身体から少しずつこわばりがほぐれていった。

 

 ロローリャは朝のタケノコを裂いて柔らかい芯を潰し、口元へ運んだ。

 

「少しずつ。ほら、しっかりして」

 

 ひと口を飲み込むまでに時間がかかった。二口目でようやく喉が動き、三口目には小さく息をつく。

 

 その顔を見ているうちに、ロローリャの胸に懐かしい光景がよみがえった。小鍋で煮た粥、南瓜の匂い、膝の上の小さな頭。ハイフォンでミーに食べさせていたころのことだった。

 

 食べ物の匂いに目ざとい白猿も、この日は枝に座り、尻尾を垂らしてノイを見ていた。ノイが怯えて見上げたので、ロローリャは白猿を指さした。

 

「あいつは性格が悪いけど、たぶん噛みついたりはしないよ。それに何かしても、この棒でぶっ叩くから大丈夫」

 

 言葉は通じなくても声の調子で伝わったのか、ノイは少し肩の力を抜いた。

 

 結局その日は、名前以外のことはほとんど分からなかった。二人は火を挟んで座り、指を差し、手を動かし、顔を見て、また首を傾げた。水は竹筒を見せれば伝わる。食べることは口元へ指を持っていけば伝わる。眠ることは頬に手を当てれば伝わる。

 

 夜になると、森は黒い湿気で満たされた。ノイは火のそばで丸まり、夢の中で何度か肩を跳ねさせた。

 

 ロローリャは岩陰の入口に座り、棒を膝に置いて沢の音に耳を澄ませた。白猿は少し離れた枝に座り、月の光を受けた毛が闇の中で薄く浮いている。

 

「連れてきたのは、あんただからね」

 

 白猿は夜の葉の奥を見つめていた。

 

 やがてノイが寝返りを打ち、か細い声で何かを呟いた。言葉は分からなかったが、母親を呼んでいるように聞こえた。

 

 ロローリャは火のそばへ戻り、ノイの額にかかった髪を払った。まだ熱がある。朝になれば水も食べ物も必要になるし、寝床や布も増やさなければならない。寝ている間は獣にも気を配る必要がある。

 

 一人なら、どうにでもなった。

 

 二人になると、森は急に広く見えた。

 

 ロローリャは灰の中の火を起こし、細い枝を一本くべた。赤い火が戻り、ノイの頬を照らす。泥で汚れた小さな手は、いつのまにかロローリャの服の端を握っていた。

 

「ノイ」

 

 眠ったまま、ノイの指が少し動いた。

 

 森の奥で、白猿が一度だけ短く鳴いた。

 

 

 ◇

 

 

 数日が過ぎると、二人は少しずつ言葉を覚えた。

 

 水は「ナーム」。火は「ファイ」。食べるは「キン」。ロローリャが発音を外すたびに、ノイは肩を揺らして笑った。

 

「ナーム」

「……ナム」

 

 ノイが首を振る。

 

「ナーム」

「ナーム」

 

 今度は、ノイの目がぱっと開いた。ロローリャは竹筒を振ってみせた。

 

「水は、ナーム。よし、分かった。わたしはけっこう賢いんだ!」

 

 意味は通じなくても、得意そうな顔は通じたらしい。ノイは膝を抱えたまま、口元をゆるめた。

 

 そのころ、ノイにはもう一つ名前があることも分かった。

 

 火のそばでタケノコを裂きながら、ノイは自分の胸を指した。

 

「ນ້ອຍ。ノイ」

 

 ロローリャも自分の胸を指す。

 

「ロローリャ」

 

 ノイは頷き、それから少し考えて、もう一度自分の胸に指を当てた。

 

「ຣັດທະນາ。ラタナ」

「ラタナ」

 

 ロローリャが繰り返すと、ノイは「ノイ」と「ラタナ」を指で分けるように示した。普段呼ばれる名と、きちんとした名。どうやら、そういうことらしかった。

 

──ラオスでは、家や村の中で使う短い呼び名を持つ者が多い。公式書類に書かれる名とは別に、幼いころの特徴や親の願い、古いまじないの名残を受けた呼び名が日々の暮らしで使われる。ノイ、つまり「小さい」という呼び名は、ラオスでは非常にポピュラーである。

 

 もっとも、ロローリャはその事情をまだ知らず、しばらくのあいだ「ノイ」が名前で、「ラタナ」が姓なのだと思っていた。

 

「ノイ・ラタナ」

「ノイ」

「ラタナ」

「ノイ」

「……ラタナ?」

 

 ノイは困ったように眉を下げた。ロローリャも首を傾げて唸る。

 

「むむっ……、なんだか、難しいね」

 

 その顔を見て、ノイはまた小さく笑った。

 

 さらに日が過ぎ、熱が下がって少し歩けるようになったころ、ロローリャはノイがどこから来たのかを尋ねた。

 

 聞く、といっても、まともな会話にはほど遠く、ロローリャにわかるラオス語は水、火、食べる、痛い、眠る、母、家、山、その程度である。ノイのほうも、ロローリャの言葉をいくつか拾うようになっただけで、長い話になれば互いの目と手が頼りになる。

 

 その夜、火のそばで、ノイは両手の指を合わせて屋根の形を作った。

 

「家?」

「フアン」

 

 ノイは山のほうを指し、子どもを抱く仕草や畑を耕す真似をした。

 

「ノイの家。山。お母さんとお父さん。畑」

 

 ロローリャがゆっくり言うと、ノイは頷いた。

 

 ノイはそこから早口で話し始めたが、ロローリャには分からない。ノイはもどかしそうに唇を噛み、自分の胸を指し、山を指し、また胸へ戻す。手首を掴まれる仕草。腕を引っ張られる仕草。歩かされる。戸を閉められる。鍵をかけられる。誰かの低い声を真似ようとして、ノイの喉が詰まった。

 

 今度は紙を渡すような仕草をして、山のほうを指し、母親と父親らしい動作を繰り返す。それから自分の胸を指して、遠い場所へ腕を伸ばした。

 

 家。金。男。鍵のある場所。

 

 ばらばらの欠片が、火のそばでゆっくりつながっていった。

 

 ロローリャはタケノコを裂く手を止めた。

 

 フオンの声が、頭の奥によみがえる。

 

 まとまった金が入るって。向こうでの生活はしっかり手配してくれるし、人気の仕事だから、受けるなら急いでくれって。

 

 裸電球の光、煙草の匂い、震える指。戻ってきたあとの、目の底の濁り。ミーの小さな手。そして、火の赤。

 

「売られたの……」

 

 ノイはその言葉を知らない。ただ、ロローリャの顔を見て、火の向こうで膝を抱えた。小さく丸まった背中が震えている。ロローリャはそれ以上の言葉を探したが、ラオス語にも、自分の言葉にも、うまいものがなかった。

 

 だからノイの隣へ移り、その背に右手を添えた。

 

「ここにいればいいよ」

 

 意味は届いていない。ロローリャは岩陰を指し、火を指し、自分を指し、最後にノイを指した。

 

「ここ。ロローリャ。ノイ。いる」

 

 ノイはロローリャの指の動きをじっと追った。

 

「ここ」

 

 ロローリャは地面を叩いた。

 

「いる」

 

 自分の胸を叩き、ノイの胸をそっと指した。

 

「ロローリャ。ノイ。いる」

 

 ノイは唇を震わせた。しばらくして、かすかな音で言った。

 

「……ここ」

「そう。ここ」

 

 涙がひとつ、頬の泥の跡を伝って落ちた。ロローリャはノイの背中に置いた手を少しだけ強くした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。