ノイと出会って十日ほど経つころ、岩陰の暮らしはそれなりに回るようになっていた。
火のそばには草を広く敷き、竹筒は二本になった。ノイの熱は引き、裂けていた足裏にも新しい皮が張った。濡れた石ではまだ肩をこわばらせるが、沢の浅瀬までは自分で降りられる。
元気になると、ノイは進んで手伝いを始めた。ロローリャが水を汲みに降りるあいだは火を見て、煙が弱れば枝を足す。雨が吹き込むと、乾いた草を岩陰の奥へ寄せ、寝床の端を小さな手でならした。ラオスの山村で長女として育った手つきは、痩せた身体よりずっとしっかりしており、ある意味、ロローリャも楽をさせてもらっている。
ただ、暮らしが二人分になれば、食う口も二人分になる。タケノコ、野芭蕉、青い実、小魚、沢蟹、雨のあとの蛙。朽ち木の白い幼虫や、棒で仕留めた細い蛇まで火で炙った。ロローリャが先に噛んで見せると、ノイは眉を寄せながらも口を開けた。
白猿は相変わらず高い枝から二人を見ていた。ロローリャが苦い実を齧って顔をしかめると、枝の上で甲高く鳴く。ノイは覚えたばかりの言葉で白猿を指した。
「わるい」
ロローリャは吹き出した。白猿は枝を揺らして赤い実を落とし、岩の上で潰れた実から甘い汁が飛び散った。ノイは肩をすくめ、それから久しぶりに声を立てて笑った。
◇
その日、二人は人里の近くまで降りていた。谷の向こうに低い屋根が見え、木々の間から細い煙が上がっている。道脇に落ちている麻袋や縄、竹籠から、ロローリャは使えそうなものだけ拾っていく。
そうして畑の端を回って戻ろうとしたとき、ノイが黒く焼けた畑跡で足を止めた。灰を含んだ土からは若い芽が出ており、ノイは枯れた蔓をたどって、柔らかく盛り上がった場所へ棒を差した。
「ここ。イモ」
土を掻くと、赤茶けた芋がのぞいた。
「ほんとうだ! すごい、ノイ。よく分かったね」
「村。ノイ、知ってる。焼いた畑。イモ、残る」
「ノイは賢いね。ちゃんとしたイモなんて久しぶりだよ」
ノイは「賢い」という言葉に胸を張り、得意そうに笑った。
岩陰へ戻ると、ロローリャは芋を灰に埋めた。皮が焦げ、甘い匂いが火の周りへ広がる。ノイは膝を抱え、火を見ながら小さな声で歌いはじめた。
それはラオスの歌のようだった。ゆるい節が、同じところを何度も撫でるように続き、ロローリャにも、家、母、雨という言葉だけは拾えた。
歌が終わると、今度はロローリャがハイフォンの女たちの流行歌を口ずさんだ。ところどころ歌詞が曖昧で、思い出せない部分は鼻歌でつないでいく。
ノイはロローリャの口元をじっと見つめ、やがてサビの部分を真似始めた。ときおり言葉はラオス語になり、ところどころでロローリャの鼻歌が混じる。次第に音がめちゃくちゃに外れてロローリャが吹き出すと、ノイもつられて笑った。
森の夜に二つの国の歌が混じり、沢の音と虫の声がその下に重なっていた。白猿は枝の上で尾を揺らしながら、二人の歌を聞いていた。
◇
一か月が過ぎるころには、暮らしの言葉もかなり通じるようになった。
ある朝、ノイが竹筒を抱えて沢から戻ってきた。水をこぼさないよう両手で押さえ、火のそばにいたロローリャへ差し出す。
「お姉ちゃん、ナーム」
ロローリャの手が止まった。
ノイは竹筒をもう少し前へ出した。
「お姉ちゃん」
もう一度、そう呼んだ。
ロローリャは竹筒を受け取った。胸の奥を、古い痛みと温かいものが一緒に通る。ミーが大きくなっていたら、どんな声で呼んだのだろう。そんな思いが一瞬浮かび、火の煙にまぎれた。
「うん、ありがと、ノイ」
ノイはほっとしたように笑った。
その日から、芋を掘り当てたときも、白猿に実を盗まれたときも、火の前で眠くなったときも、ノイは「お姉ちゃん」と呼んだ。ロローリャはそのたび少しだけ遅れて振り向き、やがて何でもないことのように返事をするようになった。
◇
二か月目に入るころ、森が大きく騒いだ。
高い枝で猿どもが叫び、鳥が低く飛ぶ。竹の奥から重い足音が響き、沢の上流で腹へ届く鳴き声が上がった。
「ゾウ!」
ロローリャはとっさに鉈を手に取った。ゾウの群れには近づくなと、森での暮らしを通じて身に染みていたが、その日の鳴き声には何か切迫したものが感じられた。
白猿が枝を走り、ほかの猿たちも騒ぎの中心へ向かっている。ロローリャはノイを後ろへ下がらせ、葉の陰から様子をうかがった。
雨に削られた赤土の穴があり、底に溜まった泥水の中で子ゾウがもがいていた。前脚を斜面へかけるたびに柔らかな土が崩れ、穴の縁では親ゾウが鼻を高く上げて鳴いている。さらに奥には数頭の影が並び、群れ全体が穴を囲んでいた。
「お姉ちゃん、助ける?」
ロローリャは穴の形を確かめた。片側だけ少し低く、そこを崩せば子ゾウが登れる斜面を作れそうだった。
「近づきすぎたら危ない。親を見てて」
ロローリャは倒れた竹を拾い、先を鉈で斜めに削った。ノイにも小さな竹を持たせ、親ゾウの正面を避けて穴の低い側へ回る。
親ゾウが鼻を上げた。
ロローリャは竹を置いて身体を低くし、親ゾウの様子をうかがいながら穴の縁へ近づいた。
「ここ崩そう。ノイ、柔らかい土をお願い」
二人は竹で赤土を削りはじめた。湿った土には根が絡み、ロローリャは右手と体重を使って竹を押し込み、義足の先で土を踏み崩した。ノイも小さな手で泥を掻き、崩れた土を横へ払う。
子ゾウが前脚をかけたものの、土が崩れて再び滑り落ちた。親ゾウが低く鳴き、群れの一頭が近づいてくる。
「もう少し。そこ、掻いて!」
ノイは歯を食いしばり、泥まみれの手を動かした。ロローリャも竹を根の下へ差し込み、赤土を大きく抉る。
やがて親ゾウの鼻が伸び、泥まみれの子ゾウの背を押した。子ゾウは大きく身体を揺らし、二人が崩した斜面へ前脚を乗せる。
腹が土を滑り、後脚が底を蹴ると、子ゾウの身体が穴の縁へずるりと乗り上がった。
よろめきながら親の腹へ鼻を伸ばす子ゾウを、群れの仲間たちが取り囲んだ。何本もの鼻が泥だらけの背中や頭に触れ、親ゾウは長い鼻をその身体へ巻きつけるようにしていた。
二人は竹にすがり、泥の上でぜえぜえと息を切らしながらその光景を眺めていた。
やがて群れは子ゾウを真ん中に入れ、森の奥へ歩き出した。最後尾の一頭が長い鼻を少し持ち上げたので、ロローリャとノイも小さく手を振った。
ゾウたちが去ると、ロローリャは穴の縁に腰を下ろした。腕は痺れ、義足の継ぎ目には泥が詰まっている。ノイも隣へ座り、赤土だらけの手を膝に置いた。
「この穴、落とし穴にしてみようかな。いいお肉が食べられるかもしれないよ」
ノイは目を丸くした。
「ゾウ、また落ちたら?」
「ゾウは賢いから、もう落ちないでしょ」
ノイは少し考え、真面目な顔で穴を見た。
「お姉ちゃんが落ちる」
「私?」
ノイはこくりと頷き、ロローリャの義足を指した。
「お姉ちゃん、ここ、落ちる」
ロローリャは一瞬だけ口を開け、それから笑った。
「それは、ありそう」
ノイも笑った。白猿が同意するように甲高く鳴き、枝を揺らす。ロローリャは上を睨んだ。
「あんたが一番落ちればいい」
白猿は枝から枝へ逃げ、赤い実をひとつ落とした。実は穴の底で潰れ、ノイがまた笑った。
◇
その夜、雨が戻ってきた。
倒木にかけた葉を雨粒が叩き、岩の端から雫が落ちている。火の中では、昼に掘った芋の皮が黒く裂け、甘い匂いが岩陰にこもっていた。
「ゾウの親子、よかったね」
ロローリャが言うと、ノイは小さく頷いた。火の赤が黒い瞳の奥で揺れ、その横顔が、ふと寂しげに見えた。
「ノイも、家の人に会いたい?」
「会いたい。母。父。大きい弟、小さい弟、妹」
それから、唇を少し噛んだ。
「でも、怖い」
「何が怖いの?」
ノイはすぐには答えなかった。雨音が葉を叩き、岩陰の外で細く跳ねている。
「男、言った。父、母、金もらった。ノイ、売った。逃げる、悪い。警察、行く、だめ。警察、父、母、捕まえる。金、返せない。みんな、不幸、なる」
雨音が強くなった。葉の上で弾けた水が、細かく霧のように落ちてくる。
「でも、仕事、違った。親切な家、ない。学校、ない。途中の男、怖い。逃げる子、殴る。泣く子、水かける。ノイ、分かった。あそこ、仕事じゃない」
ノイはそこまで言うと、顔を伏せた。
「帰りたい。でも、怖い」
ロローリャは火を見た。
男たちの言葉が嘘か、本当か、分からない。ノイの父と母がどこまで知っていたのかも分からない。警察へ行けば助かるのか、父母まで罪に問われるのか、借金だけが残るのか。ロローリャには何ひとつ分からなかった。
分からないまま、簡単に「大丈夫」とは言えなかった。
ロローリャは灰の中から芋を掘り出し、半分をノイへ渡した。
「お姉ちゃん……ノイ、逃げた。悪い?」
ロローリャは首を振った。
「ノイは悪くない」
それだけは、分かった。
ノイは芋を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。指の影が、膝の上で小さく揺れている。
岩陰で火を囲み、芋を分け、白猿に怒る暮らしは、いつのまにか二人の日常になっていた。
けれど、それだけをノイの行き場にしてしまうのは違う。ノイには生まれ育った村があり、会いたいと願う家族がいる。
ロローリャは火へ細い枝を一本くべた。
「考える」
そう言うのが精一杯だった。
雨は岩の外で降り続き、火だけが二人の膝を赤く照らしていた。