ノイと出会ってから十日ほど経つころ、岩陰の暮らしは二人分の形に馴染みはじめていた。
火のそばには乾いた草が広く敷かれ、沢へ持っていく竹筒は二本になり、岩の隙間には湿気を避けた薪と樹皮が前より多く押し込まれている。ノイの熱はすっかり引き、裂けていた足裏にも新しい皮が張った。赤い筋だけがまだ薄く残り、濡れた石に足を置くと肩を小さくこわばらせたが、岩陰から沢の浅瀬までなら自分の足で降りられるようになっていた。
ラオス語は、暮らしの中で少しずつ増えていった。水、火、食べる、痛い、待つ、戻る。沢へ降り、火を起こし、食べ物を分けるたび、ロローリャはノイの声を真似た。舌がもつれるとノイが笑い、夜の火のそばで同じ音を繰り返すうちに、翌朝にはもうその言葉を使っていた。
ノイはなかなかに頼もしい子だった。ラオスの山村で長女として育った彼女は、岩陰の暮らしにもすぐ役目を見つけた。ロローリャが沢へ降りるあいだは火の番をし、煙が弱れば細い枝を足し、竹筒に大きな葉で蓋をする。それでも、ノイを岩陰に残して外へ出るたび、ロローリャの背中には森の気配が張りついた。沢の下流にはヒョウのものらしい古い足跡が残り、夜になると竹の奥で小さな獣を追う気配が走る。ロローリャは朝の食べ物探しへ出る前に、火の大きさを確かめ、ノイに岩陰から出る範囲と戻る場所を指で示し、白猿のいる枝を一度見上げてから森へ入った。
二人分の腹を満たそうとすると、森は一人で暮らしていたころよりずっと広く、ずっと渋くなった。
タケノコは若いものだけを選び、苦いところを火で炙って捨てる。山芋は蔓の枯れ跡を追って土を掘る。熟れた実は猿や鳥が先に見つけるから、ロローリャはまだ青いものまで布袋に入れ、灰の熱で柔らかくした。沢では小魚を浅瀬へ追い込み、蟹を棒で弾き出し、雨のあとには朽ち木を割って白い幼虫を拾った。細い蛇が岩の間を滑れば、棒を一閃し鋭く仕留めた。火の上で肉や虫の脂が弾けると、ノイは眉を寄せながらも、ロローリャが先に噛むのを見てから、小さく口を開いた。
白猿は相変わらず高い枝から二人を見ていた。ロローリャが苦い実を齧って顔をしかめると、枝の上で甲高く鳴く。ノイがそれを見上げ、覚えたばかりのロローリャの言葉で、白い猿を指して笑った。
「わるい」
ロローリャは吹き出した。白猿は枝を揺らし、赤い実を落とした。実は岩の上で潰れ、甘い汁が飛んだ。ノイは肩をすくめ、それから久しぶりに声を立てて笑った。
そうして、岩陰の暮らしは少しずつ日々の形を持ちはじめた。
その日、二人は人里近くまで降りていた。谷の向こうには低い屋根がいくつか見え、細い煙が木々の間から立っている。山の人間が薪や竹を運ぶ道の脇には、破れた麻袋、古い縄、割れた竹籠の端が落ちていた。ロローリャは人の気配へ耳を澄ませながら、使えそうなものだけを拾い、泥を払って布袋へ押し込んだ。
畑の端を回って戻ろうとしたとき、ノイが足を止めた。
斜面の一角に、黒く焼けた畑跡が残っていた。草はまだ低く、古い灰を含んだ土から若い芽が出ている。ノイはしゃがみ、指で土をこすった。灰の下を少し掻き、枯れた蔓の跡をたどり、柔らかく盛り上がった場所へ棒を差した。
「ここ。イモ」
ノイが棒で掻くと、黒い土が崩れ、その下から赤茶けた芋の腹がのぞいた。ロローリャが横から手を入れてさらに掘ると、丸々とした芋がひとつ、土を割って出てきた。
「そんなこと知ってるの?」
ノイは胸を少し張った。
「村。ノイ、知ってる。焼いた畑。イモ、残る」
ロローリャは芋を掲げた。土がぱらぱらと落ち、夕方の薄い光が芋の皮に乗る。
「ノイは賢いね。ちゃんとしたイモを食べるのは久しぶりだよ」
ノイは「賢い」という言葉に胸を張り、ロローリャの手の中の芋を見て、得意そうに笑った。
その夜、二人は芋を灰に埋めて焼いた。皮が焦げ、甘い香りが火の周りへ広がる。ノイは膝を抱え、火を見つめながら、小さな声で歌いはじめた。ラオスの言葉だった。旋律はゆるやかで、山の斜面を降りる水のように、同じところを何度も撫でていく。
ロローリャは意味を半分ほど追えるようになっていた。家、母、畑、雨、米。耳に残った言葉が、火の赤と一緒に胸へ入ってくる。ノイの歌には村の土の匂いがあった。遠くにある小さな家の灯り、濡れた畑の畦、母親の背中。そんなものが、ロローリャの知らない土地からこちらへ伸びてくる。
ノイが歌い終えると、ロローリャはしばらく火を見ていた。やがて、ハイフォンの夜に聞いた歌を思い出した。女たちが仕事帰りの廊下で煙草を吸いながら口ずさんでいたベトナムの流行歌だ。もう何年も耳にしておらず、歌詞はところどころ崩れていたが、節だけは身体に残っていた。
ロローリャが低く歌うと、ノイは顔を上げた。知らない言葉を聞くときの真剣な目で、ロローリャの口元を見つめる。ロローリャは少し照れ、声を大きくすると、ノイは節だけを真似た。言葉はラオス語になり、ところどころロローリャの音が混じる。二人の歌は妙な形で絡まり、途中で音が外れた。ロローリャが吹き出し、ノイもつられて笑った。森の夜に、異なる国の歌が流れる。沢の音と虫の声がその下へ重なり、白猿が枝の上で尾を揺らした。
一か月が過ぎるころには、暮らしの会話はかなり通じるようになっていた。
そ ある朝、ノイが竹筒を抱えて沢から戻ってきた。水が半分ほど入り、細い腕には少し重そうだったが、こぼさないように両手でしっかり押さえている。ロローリャが火のそばで芋を返していると、ノイは竹筒を差し出し、覚えたばかりの言葉をゆっくり口にした。
「お姉ちゃん、ナーム」
ロローリャの手が止まった。
火のそばで白い煙が立ち、岩陰の外では白猿が枝を揺らしていた。ノイは自分の言葉が届いたか確かめるように、竹筒をもう少し前へ出す。
「お姉ちゃん」
もう一度、そう呼んだ。
ロローリャは竹筒を受け取った。胸の奥を、古い痛みと温かいものが一緒に通った。ミーが大きくなっていたら、どんな声で呼んだのだろう。そんな思いが一瞬だけ火の煙のように浮かび、沢の湿気へ溶けていく。
「うん」
ロローリャは短く答えた。
「ありがと、ノイ」
ノイはほっとしたように笑った。その日から、その呼び名は岩陰の暮らしに混じっていった。水を渡すとき、芋を掘り当てたとき、白猿に実を盗まれたとき、ノイはときどき「お姉ちゃん」と呼んだ。ロローリャはそのたびに少しだけ間を置き、やがて自然に返事をするようになった。
二か月目に入るころ、森が大きく騒いだ。
高い枝で猿どもが叫び、鳥が低く飛び、竹の奥から重い足音が響いた。土を踏む音が太い。枝を折る音が深い。沢の上流から、腹の底へ届くような鳴き声が上がった。
ノイが顔を上げた。
「ゾウ!」
声には怯えと驚きが混じっていた。ロローリャも立ち上がり、棒を手に取った。ゾウの群れには近づくな、と森で何度も身体が覚えている。大きな影が木々の間を動き、地面そのものが歩いてくるような重さを持つ。けれど、その日の鳴き声には、どことなく焦りが混じっていた。
白猿が枝を走った。猿の群れが騒ぎの中心へ向かう。ロローリャはノイを後ろへ下がらせながら、葉の陰からそっと覗いた。
大きな穴があった。
雨に削られた赤土の窪みで、古い根が側面から突き出し、底には泥水が溜まっている。その中で、子ゾウがもがいていた。まだ小さいとはいえ、ロローリャよりずっと大きい。泥まみれの鼻を振り、前脚を斜面へかけようとするたび、柔らかい土が崩れて底へ落ちた。穴の縁には親ゾウが立ち、耳を広げ、鼻を高く上げて鳴いている。さらに奥には数頭の影が並び、群れ全体が穴を囲むように揺れていた。
ロローリャの喉が鳴った。
親ゾウが一歩踏み出すたび、地面が震える。鼻の先が土を探り、子ゾウの背へ伸びるが、穴の深さがそれを阻む。ノイはロローリャの服を掴み、息を浅くした。
「お姉ちゃん、助ける?」
ノイが小さく言った。
ロローリャは穴を見た。縁の土は柔らかく、片側が少し低い。そこを崩せば、斜面ができるかもしれない。親ゾウが興奮したまま近くにいる。間合いを誤れば、ひと踏みで身体が潰れる。
「近づきすぎたら危ない。親の様子に注意して助けよう」
ノイは真剣な顔で頷いた。二か月前なら手振りだけで伝えるしかなかった言葉が、いまは二人のあいだを渡っていく。ロローリャは長い竹を探した。倒れた竹の中から太くて硬いものを選び、先を鉈で斜めに削る。ノイも小さな竹を持った。
二人は風下へ回り、親ゾウの正面を避け、穴の低い側へ少しずつ近づいた。
親ゾウが鼻を上げた。
大きな耳が広がり、黒い目がこちらを見た。ロローリャはすぐに膝を沈め、身体を低くした。ノイもそれに倣う。ロローリャは竹を地面へ置き、右手をゆっくり下げた。急な動きを避け、目を伏せ、穴の縁へ少しずつ進む。
子ゾウがまた鳴いた。泥の中で鼻を振り、前脚を斜面へ打ちつける。親ゾウの視線が子へ戻った。その一瞬を使い、ロローリャは竹の先を穴の縁へ突き立てた。
「ここ。崩す。ノイ、こっちの柔らかい土」
ノイは頷いた。二人は竹で土を削った。赤土は湿って重く、根が絡み、少し削るたびに手のひらへ衝撃が返る。ロローリャは右手と体重で竹を押し込み、義足の先で土を踏み崩した。ノイは小さな竹で柔らかいところを掻き、崩れた土を横へ払う。
子ゾウが鼻を伸ばした。泥まみれの鼻先が斜面へ触れる。親ゾウが低く鳴き、群れの中の一頭が一歩寄った。ロローリャの背に冷たい汗が流れる。それでも竹を押し込み、根の下の土を削る。土が崩れ、穴の一辺が少しずつ低くなった。
「もう少しだよ!がんばれ」
ロローリャは息を吐いた。
「そこを掻いて。そう、そこ」
ノイは歯を食いしばり、細い腕に力を込めた。泥が跳ね、頬に赤い筋がつく。子ゾウは前脚をかけ、斜面へ胸を押しつけた。滑る。土が崩れる。ロローリャは竹を斜めに差し込み、足場になるよう根の近くを抉った。
親ゾウが鼻を伸ばした。
長い鼻が子ゾウの背を押す。群れの中から低い声が重なった。子ゾウは泥の中で大きく身体を揺らし、前脚を斜面へ乗せた。赤土が崩れ、また踏ん張る。ノイが息を呑み、ロローリャが竹をさらに押し込む。
子ゾウの身体が穴の縁へ乗り上がった。
泥まみれの腹が土を滑り、後脚が底を蹴る。大きな身体がずるりと上へ出た。子ゾウはよろめきながら立ち、すぐに親ゾウの腹の下へ鼻を伸ばした。親ゾウがその背へ鼻を置く。群れがゆっくりと寄り、何本もの鼻が子ゾウの身体に触れた。泥を払い、匂いを確かめ、励ますように低く鳴く。
ロローリャとノイは、竹を握ったままその場にしゃがんでいた。
ゾウの家族は大きかった。体の重さだけでなく、寄り添う気配が森の空気を押し広げるほど大きい。子ゾウは親の腹へ顔を押しつけ、親ゾウは耳を揺らしながら、その背中を包みこむように立っていた。ノイはその光景をじっと見つめ、手の中の竹を握りしめた。
群れはしばらく穴のそばに留まると、やがて親ゾウがゆっくり向きを変え、子ゾウを真ん中に入れて森の奥へ歩き出す。重い足音が湿った土を踏み、木々が押され、葉が大きく揺れる。最後尾の一頭がこちらへ顔を向け、長い鼻を少し持ち上げた。風が流れ、土と草と獣の匂いが二人のところへ届いた。
ノイが小さく手を振ると、そのままゾウ達は森の奥へ消えていった。葉の揺れがしばらく残り、やがて沢の音が戻ってくる。
ロローリャは穴の縁に腰を下ろした。腕が痺れ、義足の継ぎ目が泥で重い。ノイも隣へ座り、赤土だらけの手を膝に置いた。二人はしばらく、子ゾウが這い上がった斜面を見つめていた。
「この穴、すごく大きいね。落とし穴にしてみようかな。何かいいお肉が食べられるかもしれないよ」
ノイは目を丸くした。
「またゾウが落ちたらどうするの?」
「ゾウは賢いから、もう落ちないでしょ」
ロローリャがそう言うと、ノイは少し考え、真面目な顔で穴を見た。
「お姉ちゃんが落ちる」
「私?」
ノイはこくりと頷き、ロローリャの義足を指した。
「お姉ちゃん、ここ、落ちる」
ロローリャは一瞬だけ口を開け、それから笑った。
「それは、ありそう」
ノイも笑った。白猿が頭上で甲高く鳴き、まるで同意するように枝を揺らした。ロローリャは上を睨む。
「あんたが一番落ちればいい」
白猿は枝から枝へひらりと逃げ、赤い実をひとつ落とした。実は穴の底へ転がり、泥の中で潰れた。ノイがまた笑った。ロローリャも、泥だらけの手で顔をこすりながら笑った。
その夜、雨が戻ってきた。
二人は岩陰の奥で火を囲んでいた。倒木にかけた葉を雨粒が叩き、岩の端から落ちる雫が火の外側へ細い糸のように垂れている。濡れた薪の端が白く煙り、ノイは膝を抱えたまま、火の赤をじっと見つめていた。
ロローリャは灰の中の芋を棒で転がしながら、ノイの横顔を見た。ゾウの親子を見送ってから、ノイは何度も森の奥を振り返り、そのたびに火のそばで歌った村の歌が、ロローリャの耳へ戻ってきた。
「家、思い出した?」
ロローリャが聞くと、ノイは小さく頷いた。
「母。父。大きい弟、小さい弟、妹」
火の赤がノイの頬を照らす。ノイは膝を抱えたまま、少しずつ話した。村を訪ねてきた綺麗な服の男のこと。遠くの町で働けば金が入ると言われたこと。食べ物も寝る場所もある、親切な家で家事の手伝いをする仕事のはずだったこと。もしかしたら学校へ行けるかもしれないと言われたこと。家には金が必要で、父も母も、その言葉を信じたこと。
「父、母、知らない」
ノイは火を見たまま言った。
「ほんとうの仕事、知らない。ノイも、知らない」
ロローリャは芋を掘り出す手を止めた。
「騙されたの?」
ノイは少し考えてから、頷いた。火の中で芋の皮が裂け、甘い湯気が上がる。ノイは指先で膝の布を握っている。
「途中の男、違う。怖い。逃げる女の子、殴る。泣く女の子、水かける。そこ、仕事、違う」
ロローリャは黙って聞いた。フオンの声が、雨音の奥から戻ってくる。まとまった金が入る。向こうでの生活はしっかり手配してくれる。三か月で帰れる。人気の仕事だから急いだほうがいい。あのときも、言葉だけは優しかった。
「ノイ、帰ったら」
ロローリャはゆっくり言葉を選んだ。
「父と母、分かるかも。騙されたって」
ノイは火の赤を見つめた。揺れる光が頬に映り、黒い目の中で小さく動いた。
「分かる。たぶん。母、泣く。父、怒る。でも、男、言った。逃げる、不幸。父、母、お前売った。悪い。警察、父、母、捕まえる。金、返せない。みんな、不幸、なる」
ロローリャは火を見つめた。中国の警察へ行く。どこかの村へ連れていく。国境の町で助けを求める。考えはひとつずつ浮かび、そのたびにノイの父と母、受け取られた金、逃げた少女を殴った男たち、ハイフォンの警察署の古い扇風機が重なった。
国境の向こう。
その言葉が、ロローリャの胸の中で重く沈んだ。
金を用意する。密かに村へ返す。父と母に会わせる。男たちに知られず、警察や役人にも触れず、ノイだけを家の戸口へ立たせる。
どうやって。
ロローリャはその問いを火の中へ落とした。火は答えず、芋の皮だけが黒く裂けた。相談できる相手は、リエンも、タオも、ジウも、ここには誰もいない。白猿は枝の上で尾を垂らし、人間の金も国境も知らない顔で雨を見ていた。
ノイは小さく言った。
「帰りたい」
ロローリャは顔を上げた。
「うん」
「でも、怖い」
「うん」
それ以上の言葉は、雨の中で形にならなかった。ロローリャは焼けた芋を半分に割り、熱を冷ましてノイへ渡した。ノイは両手で受け取り、湯気の向こうからロローリャを見た。
「お姉ちゃん?」
ロローリャは火を見た。国境、金、村、警察、男たち。どれも細い糸のようで、手に取るたび切れそうだった。けれど、火の向こうにいるノイを見ていると、別の思いも胸の底から上がってくる。この子を、いつまでもこの山の岩陰に置いておくわけにはいかない。朝になれば虫を探し、昼になれば蛇を焼き、雨の夜には獣の気配に息を潜める。そんな暮らしに慣れていくことを、助かったことと呼んでいいのか、ロローリャには分からなかった。
ノイには村がある。母がいて、父がいて、弟や妹がいて、歌の中に戻る場所がある。たとえそこへ向かう道が細く、泥に沈み、男たちの声や警察の影で塞がれていても、ここで小さな体を森の一部にしてしまうより、まだ探すべき道があるように思えた。
「考える」
雨は岩の外で降り続き、火の赤だけが二人の膝を照らしていた。金をどうするのか、誰に頼るのか、どの道を通るのか、答えはひとつも見えなかった。それでも、この山で二人だけの暮らしを続ける時間が、いつか終わりを迎えることだけは、火の熱よりはっきりと胸に残った。