欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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3.森の家族

 ノイと出会って十日ほど経つころ、岩陰の暮らしはそれなりに回るようになっていた。

 

 火のそばには草を広く敷き、竹筒は二本になった。ノイの熱は引き、裂けていた足裏にも新しい皮が張った。濡れた石ではまだ肩をこわばらせるが、沢の浅瀬までは自分で降りられる。

 

 元気になると、ノイは進んで手伝いを始めた。ロローリャが水を汲みに降りるあいだは火を見て、煙が弱れば枝を足す。雨が吹き込むと、乾いた草を岩陰の奥へ寄せ、寝床の端を小さな手でならした。ラオスの山村で長女として育った手つきは、痩せた身体よりずっとしっかりしており、ある意味、ロローリャも楽をさせてもらっている。

 

 ただ、暮らしが二人分になれば、食う口も二人分になる。タケノコ、野芭蕉、青い実、小魚、沢蟹、雨のあとの蛙。朽ち木の白い幼虫や、棒で仕留めた細い蛇まで火で炙った。ロローリャが先に噛んで見せると、ノイは眉を寄せながらも口を開けた。

 

 白猿は相変わらず高い枝から二人を見ていた。ロローリャが苦い実を齧って顔をしかめると、枝の上で甲高く鳴く。ノイは覚えたばかりの言葉で白猿を指した。

 

「わるい」

 

 ロローリャは吹き出した。白猿は枝を揺らして赤い実を落とし、岩の上で潰れた実から甘い汁が飛び散った。ノイは肩をすくめ、それから久しぶりに声を立てて笑った。

 

 

 ◇

 

 

 その日、二人は人里の近くまで降りていた。谷の向こうに低い屋根が見え、木々の間から細い煙が上がっている。道脇に落ちている麻袋や縄、竹籠から、ロローリャは使えそうなものだけ拾っていく。

 

 そうして畑の端を回って戻ろうとしたとき、ノイが黒く焼けた畑跡で足を止めた。灰を含んだ土からは若い芽が出ており、ノイは枯れた蔓をたどって、柔らかく盛り上がった場所へ棒を差した。

 

「ここ。イモ」

 

 土を掻くと、赤茶けた芋がのぞいた。

 

「ほんとうだ! すごい、ノイ。よく分かったね」

「村。ノイ、知ってる。焼いた畑。イモ、残る」

「ノイは賢いね。ちゃんとしたイモなんて久しぶりだよ」

 

 ノイは「賢い」という言葉に胸を張り、得意そうに笑った。

 

 岩陰へ戻ると、ロローリャは芋を灰に埋めた。皮が焦げ、甘い匂いが火の周りへ広がる。ノイは膝を抱え、火を見ながら小さな声で歌いはじめた。

 

 それはラオスの歌のようだった。ゆるい節が、同じところを何度も撫でるように続き、ロローリャにも、家、母、雨という言葉だけは拾えた。

 

 歌が終わると、今度はロローリャがハイフォンの女たちの流行歌を口ずさんだ。ところどころ歌詞が曖昧で、思い出せない部分は鼻歌でつないでいく。

 

 ノイはロローリャの口元をじっと見つめ、やがてサビの部分を真似始めた。ときおり言葉はラオス語になり、ところどころでロローリャの鼻歌が混じる。次第に音がめちゃくちゃに外れてロローリャが吹き出すと、ノイもつられて笑った。

 

 森の夜に二つの国の歌が混じり、沢の音と虫の声がその下に重なっていた。白猿は枝の上で尾を揺らしながら、二人の歌を聞いていた。

 

 

 ◇

 

 

 一か月が過ぎるころには、暮らしの言葉もかなり通じるようになった。

 

 ある朝、ノイが竹筒を抱えて沢から戻ってきた。水をこぼさないよう両手で押さえ、火のそばにいたロローリャへ差し出す。

 

「お姉ちゃん、ナーム」

 

 ロローリャの手が止まった。

 

 ノイは竹筒をもう少し前へ出した。

 

「お姉ちゃん」

 

 もう一度、そう呼んだ。

 

 ロローリャは竹筒を受け取った。胸の奥を、古い痛みと温かいものが一緒に通る。ミーが大きくなっていたら、どんな声で呼んだのだろう。そんな思いが一瞬浮かび、火の煙にまぎれた。

 

「うん、ありがと、ノイ」

 

 ノイはほっとしたように笑った。

 

 その日から、芋を掘り当てたときも、白猿に実を盗まれたときも、火の前で眠くなったときも、ノイは「お姉ちゃん」と呼んだ。ロローリャはそのたび少しだけ遅れて振り向き、やがて何でもないことのように返事をするようになった。

 

 

 ◇

 

 

 二か月目に入るころ、森が大きく騒いだ。

 

 高い枝で猿どもが叫び、鳥が低く飛ぶ。竹の奥から重い足音が響き、沢の上流で腹へ届く鳴き声が上がった。

 

「ゾウ!」

 

 ロローリャはとっさに鉈を手に取った。ゾウの群れには近づくなと、森での暮らしを通じて身に染みていたが、その日の鳴き声には何か切迫したものが感じられた。

 

 白猿が枝を走り、ほかの猿たちも騒ぎの中心へ向かっている。ロローリャはノイを後ろへ下がらせ、葉の陰から様子をうかがった。

 

 雨に削られた赤土の穴があり、底に溜まった泥水の中で子ゾウがもがいていた。前脚を斜面へかけるたびに柔らかな土が崩れ、穴の縁では親ゾウが鼻を高く上げて鳴いている。さらに奥には数頭の影が並び、群れ全体が穴を囲んでいた。

 

「お姉ちゃん、助ける?」

 

 ロローリャは穴の形を確かめた。片側だけ少し低く、そこを崩せば子ゾウが登れる斜面を作れそうだった。

 

「近づきすぎたら危ない。親を見てて」

 

 ロローリャは倒れた竹を拾い、先を鉈で斜めに削った。ノイにも小さな竹を持たせ、親ゾウの正面を避けて穴の低い側へ回る。

 

 親ゾウが鼻を上げた。

 

 ロローリャは竹を置いて身体を低くし、親ゾウの様子をうかがいながら穴の縁へ近づいた。

 

「ここ崩そう。ノイ、柔らかい土をお願い」

 

 二人は竹で赤土を削りはじめた。湿った土には根が絡み、ロローリャは右手と体重を使って竹を押し込み、義足の先で土を踏み崩した。ノイも小さな手で泥を掻き、崩れた土を横へ払う。

 

 子ゾウが前脚をかけたものの、土が崩れて再び滑り落ちた。親ゾウが低く鳴き、群れの一頭が近づいてくる。

 

「もう少し。そこ、掻いて!」

 

 ノイは歯を食いしばり、泥まみれの手を動かした。ロローリャも竹を根の下へ差し込み、赤土を大きく抉る。

 

 やがて親ゾウの鼻が伸び、泥まみれの子ゾウの背を押した。子ゾウは大きく身体を揺らし、二人が崩した斜面へ前脚を乗せる。

 

 腹が土を滑り、後脚が底を蹴ると、子ゾウの身体が穴の縁へずるりと乗り上がった。

 

 よろめきながら親の腹へ鼻を伸ばす子ゾウを、群れの仲間たちが取り囲んだ。何本もの鼻が泥だらけの背中や頭に触れ、親ゾウは長い鼻をその身体へ巻きつけるようにしていた。

 

 二人は竹にすがり、泥の上でぜえぜえと息を切らしながらその光景を眺めていた。

 

 やがて群れは子ゾウを真ん中に入れ、森の奥へ歩き出した。最後尾の一頭が長い鼻を少し持ち上げたので、ロローリャとノイも小さく手を振った。

 

 ゾウたちが去ると、ロローリャは穴の縁に腰を下ろした。腕は痺れ、義足の継ぎ目には泥が詰まっている。ノイも隣へ座り、赤土だらけの手を膝に置いた。

 

「この穴、落とし穴にしてみようかな。いいお肉が食べられるかもしれないよ」

 

 ノイは目を丸くした。

 

「ゾウ、また落ちたら?」

「ゾウは賢いから、もう落ちないでしょ」

 

 ノイは少し考え、真面目な顔で穴を見た。

 

「お姉ちゃんが落ちる」

「私?」

 

 ノイはこくりと頷き、ロローリャの義足を指した。

 

「お姉ちゃん、ここ、落ちる」

 

 ロローリャは一瞬だけ口を開け、それから笑った。

 

「それは、ありそう」

 

 ノイも笑った。白猿が同意するように甲高く鳴き、枝を揺らす。ロローリャは上を睨んだ。

 

「あんたが一番落ちればいい」

 

 白猿は枝から枝へ逃げ、赤い実をひとつ落とした。実は穴の底で潰れ、ノイがまた笑った。

 

 

 ◇

 

 

 その夜、雨が戻ってきた。

 

 倒木にかけた葉を雨粒が叩き、岩の端から雫が落ちている。火の中では、昼に掘った芋の皮が黒く裂け、甘い匂いが岩陰にこもっていた。

 

「ゾウの親子、よかったね」

 

 ロローリャが言うと、ノイは小さく頷いた。火の赤が黒い瞳の奥で揺れ、その横顔が、ふと寂しげに見えた。

 

「ノイも、家の人に会いたい?」

「会いたい。母。父。大きい弟、小さい弟、妹」

 

 それから、唇を少し噛んだ。

 

「でも、怖い」

「何が怖いの?」

 

 ノイはすぐには答えなかった。雨音が葉を叩き、岩陰の外で細く跳ねている。

 

「男、言った。父、母、金もらった。ノイ、売った。逃げる、悪い。警察、行く、だめ。警察、父、母、捕まえる。金、返せない。みんな、不幸、なる」

 

 雨音が強くなった。葉の上で弾けた水が、細かく霧のように落ちてくる。

 

「でも、仕事、違った。親切な家、ない。学校、ない。途中の男、怖い。逃げる子、殴る。泣く子、水かける。ノイ、分かった。あそこ、仕事じゃない」

 

 ノイはそこまで言うと、顔を伏せた。

 

「帰りたい。でも、怖い」

 

 ロローリャは火を見た。

 

 男たちの言葉が嘘か、本当か、分からない。ノイの父と母がどこまで知っていたのかも分からない。警察へ行けば助かるのか、父母まで罪に問われるのか、借金だけが残るのか。ロローリャには何ひとつ分からなかった。

 

 分からないまま、簡単に「大丈夫」とは言えなかった。

 

 ロローリャは灰の中から芋を掘り出し、半分をノイへ渡した。

 

「お姉ちゃん……ノイ、逃げた。悪い?」

 

 ロローリャは首を振った。

 

「ノイは悪くない」

 

 それだけは、分かった。

 

 ノイは芋を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。指の影が、膝の上で小さく揺れている。

 

 岩陰で火を囲み、芋を分け、白猿に怒る暮らしは、いつのまにか二人の日常になっていた。

 けれど、それだけをノイの行き場にしてしまうのは違う。ノイには生まれ育った村があり、会いたいと願う家族がいる。

 

 ロローリャは火へ細い枝を一本くべた。

 

「考える」

 

 そう言うのが精一杯だった。

 

 雨は岩の外で降り続き、火だけが二人の膝を赤く照らしていた。 

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