雨の夜から数日が過ぎると、岩陰の朝から白い影が遠のきはじめた。
火を起こす前から葉を揺らし、細い枝を落としていた白猿が、このごろは谷の奥で声を響かせるばかりになった。たまに姿を見せても、遠い梢で白い尾をちらつかせ、すぐに森の奥へ消えてしまう。
ノイもそのことに気づいたらしく、竹筒を抱えたまま梢を見上げた。
「白い猿、あまり、来ないね」
「どこかで悪さでもしてるんでしょ」
ロローリャは灰の中の芋を掘り出した。白猿は気まぐれで、意地が悪く、妙にしつこい。姿を見せる日はうんざりするほど付きまとい、芋へ手を伸ばし、枝からロローリャの頭を叩き、踏み荒らした灰や折った枝を土産のように残していく。そんな騒がしい相手が急に遠ざかってしまい、胸の奥には小さな棘のようなものが残っていた。
そばに置いた棒を握ると、白猿との打ち合いが思い出された。枝を蹴る前の重心の沈み、尾の揺れ、金色の目に宿る強い意志。あの猿が、何のわけもなくロローリャへのちょっかいをやめるとも思えなかった。
ほかの猿たちも日を追うごとに谷の奥へ移り、沢へ降りてくる小鳥の姿も少なくなっていた。
水を汲みに降りたある朝、ロローリャは沢の泥に大きな足跡を見つけた。
鹿や猪の足跡を踏み潰すように、丸い肉球の跡が深く刻まれている。指の開きも広く、ヒョウにしては大きい。ロローリャは棒の先で自分の手幅と比べ、その大きさに眉をひそめた。
「お姉ちゃん?」
後ろから覗き込んだノイも、足跡を見るなり顔を強張らせた。
「ノイ、今日は遠くへ行かないでおこう。水だけ汲んだら、すぐに戻るよ」
「ヒョウ?」
「たぶん。でも、かなり大きいね」
足跡は沢の縁から竹林へ続いていた。その途中には折れた竹の葉があり、乾きかけた赤黒い血がついている。獲物の血か、怪我をした獣の血か。森ではどちらも危険の匂いになる。
その日、ロローリャは岩陰の火をいつもより大きく保ち、ノイにも一人で沢へ降りないよう言いつけた。煙が目立つのは気がかりだったが、近くに大型の獣がいる以上、夜の火は頼みの綱だった。
翌朝、沢へ降りる道の外れで、ロローリャは血の匂いを拾った。
草が踏み荒らされ、低い枝が何本も裂けている。ノイを後ろへ下がらせ、棒を構えて進んだロローリャは、泥に散った白い毛を見つけた。
胸が強く鳴った。
倒れた竹の陰、太い根の間に、白猿が伏していた。
白い毛は泥と血に汚れ、片方の腕が不自然な角度で折れている。肩から脇腹にかけて深い傷が走り、息をするたびに細い身体が震えた。枝の上をあれほど軽々と飛び回っていた猿が、いまは尾を泥に投げ出し、身を起こす力さえ失っていた。
「白猿が……」
ロローリャが片膝をつくと、白猿の目がゆっくりと動いた。いつもの意地悪な光は薄れ、澄んだ金色がかすかに残っている。
ロローリャが手を伸ばすと、白猿は弱々しく歯を見せた。最後まで威嚇するつもりらしいその仕草に、ロローリャは指先を宙で止め、少しだけ笑った。
「こんな時まで、それか」
そのとき、白猿の目が彼女の背後を越え、竹林の奥へ向けられた。
沢向こうの竹が、かすかに揺れている。鳥や猿たちの声は遠く、泥の上には昨日見つけた大きな足跡と、白猿の血が点々と続いていた。
何かいる。
ロローリャはノイの手首を掴んだ。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「しっ、静かに」
ノイが唇を結んだ、そのときだった。
遠い斜面で竹の葉がひとすじ揺れ、黄褐色の背が幹と幹の間を滑るように移った。木漏れ日が差し込んだ瞬間、濡れた毛並みに黒い縞が浮かび上がる。
──虎は古来より、中国の山に棲む災いとして恐れられてきた。「苛政は虎よりも猛し」と語られるほど、人を食い、家畜を奪い、村の暮らしを沈めるものとして、人々の記憶の奥に牙を残してきた。だが西双版納では二〇〇九年、
いま、その記録の外から、死を運ぶものが戻ってきた。
虎が足を止め、こちらへ頭を向けた。
沢を隔てた遠い斜面に、金色の目が二つ光っている。虎はしばらくこちらを見据えたあと、竹の陰へ姿を沈めた。
ロローリャはノイの手を握り直した。
「音、立てないで、急ごう!」
白猿が喉の奥で短く鳴いた。
ロローリャは一度だけ振り返った。泥と血に伏した白い身体、かすかに光る金色の目。枝を投げ、実を盗み、何度もロローリャの頭を叩いた白猿は、森でひとりだったころから、ずっと彼女のそばにいてくれた友達だった。
「教えてくれたんだね。ありがとう白爺さん」
白猿の尾が、泥の上でかすかに動いた。
ロローリャはノイの手を引き、木の根や茂みを利用して斜面を下った。沢の音に紛れるように進んだが、背後ではときおり竹が揺れ、鳥の群れが枝から飛び立っている。虎は少しずつ距離を詰めてきているようだった。
沢の近くまで下りたところで、ロローリャは積み重なった大きな岩に目を留めた。以前、雨宿りに使った場所で、二つの岩の隙間は羊歯と落ち葉に覆われている。子ども一人なら、奥に身を縮めて隠れられそうだった。
「あそこ」
ロローリャはノイを岩の隙間へ押し入れ、入口に葉を寄せて外からの視線を遮った。
「ここ。動かない。声、出さないで、隠れる。いいね」
「お姉ちゃんは?」
「私は向こうへ行くよ」
ノイの顔が歪んだ。
「いや。お姉ちゃん」
ロローリャはノイの頬についた泥を優しく親指で拭った。
「ノイは小さいけど、足は速い。私といたら、二人とも虎に追いつかれちゃう。だから、ここで隠れてて」
「だめ……、お姉ちゃん」
「私は足が悪いからね。虎から見たら、ちょうどいい餌に見えるかも」
ロローリャは少し笑ったが、ノイは必死に首を振り、服を掴んで離そうとしなかった。言葉は十分に通じなくても、ロローリャが何をしようとしているのか、幼いノイにも伝わっていた。
ロローリャはその指を一本ずつほどいた。
「戻る。必ず」
口にした瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。約束はいつも簡単に口から出て、いつも呆気なく奪われる。
「絶対、戻るから」
もう一度言うと、ノイは唇を噛み、声を殺して頷いた。
ロローリャはもう一度岩陰の入口を整え、葉の奥にノイの姿が隠れたことを確かめた。
「もう行くね。私はノイのお姉ちゃんだから」
ロローリャはノイを岩陰に残し、沢の音を背に赤土へ踏み出した。
姉というものは、妹のために命を張る。
かつて濁流の中で差し出された腕が、欠けた身体の奥に、そういう生き方を刻んでいた。