雨の夜から数日が過ぎたころ、森の朝は少しずつ形を変えはじめた。
白猿が岩陰まで来る朝が減った。
火を起こす前から葉を揺らし、細い枝を落とし、白い尾をちらつかせていたあの猿が、このごろは谷の奥の高い枝で声だけを残す日を増やしていた。ロローリャが顔を上げると、近くの枝には露を含んだ葉が重く垂れ、白い尾は遠い梢の奥でちらりと揺れるだけだった。
ノイもそれに気づいたらしく、竹筒を抱えたまま梢を見上げた。
「白い猿、あまり、来ないね」
「どこかで悪さでもしてるんでしょ」
ロローリャはそう言って、灰の中の芋を掘り出した。けれど、胸の奥に小さな棘が残った。白猿は気まぐれで、意地が悪く、妙にしつこい。姿を見せる日はうんざりするほど付きまとい、芋へ手を伸ばし、枝からロローリャの頭を叩き、踏み荒らした灰や折った枝を土産のように残していく。そういう騒がしさが、いつのまにか二人のそばから遠のいていた。
ロローリャの手が、そばに置いた棒へ伸びた。
右手が棒を握ると、白猿と打ち合ったときの感触が戻ってくる。枝を蹴る前の重さ、肩の沈み、尻尾の揺れ、金色の目に宿る強い意志。あの白猿が、何のわけもなくロローリャへのちょっかいをやめるはずがない。騒がしい因縁が途切れたところに、森のどこかで起きている変化の匂いがあった。
猿どもの声も、日を追うごとに谷の奥へ移っていった。群れは高い枝の上で短く鳴き、葉の波を揺らしながら遠い斜面へ渡っていく。鳥の声も変わった。沢の近くへ降りてくる小鳥たちは低い枝をかすめ、葉の間を素早く抜けていく。
ロローリャは水を汲みながら、沢の泥を見た。鹿の細い足跡、猪の蹄、蛇の腹が這った跡。その上へ、ひときわ大きな肉球の跡が押されていた。
丸い跡は深く、ぬかるみの底まで重さが入っている。指の開きも広く、ヒョウにしては大きい。爪の痕は泥に薄く刻まれ、足跡は沢の縁から竹の奥へ向かっていた。ロローリャは棒の先で自分の手の幅と比べ、喉の奥に重い息を落とした。
「お姉ちゃん?」
ノイが後ろから覗き込むと、足跡を見て、顔を強張らせた。
ロローリャはすぐにノイの肩へ手を置き、岩陰のほうを指した。
「ノイ、今日は遠くへ行かないでおこう。水だけ汲んだら、すぐに戻るよ」
「ヒョウ?」
「たぶん。でも、かなり大きいね」
ロローリャはそう答え、足跡の向かう先を見た。竹の葉が一枚、泥の上で折れている。その葉の端に、乾きかけた赤黒いシミがついていた。獲物の血か、怪我をした獣の血か。森ではどちらも危険の匂いになる。
その日は、ロローリャは岩陰の火を少し大きく保った。煙が立ちすぎると人に見つかる。火が弱いと獣が近づく。その中間を探りながら、薪を選び、湿った葉を避け、煙の流れを見る。ノイには一人で沢へ降りないように強く言いつけた。
そして翌朝、ロローリャは沢の上流で血の匂いを拾った。草の葉が折れ、竹の皮が剥がれ、細い枝が低いところで何本も裂けている。ロローリャはノイを背中の後ろへ下げ、棒を前へ出した。ノイの手がロローリャの服を掴む。
白い毛が、泥の上に散っていた。
ロローリャの胸が一度だけ強く鳴った。足を進める。倒れた竹の陰、太い根の間に、白猿が倒れ伏していた。
白い毛は泥と血に汚れ、片方の腕が不自然な角度で折れている。肩から脇腹にかけて深い裂け目が走り、息をするたびに細い身体がわずかに震えた。枝の上であれほど軽かった猿が、地面へ縫い止められたように動かない。尾だけが泥の上に投げ出され、先端に赤い土がこびりついていた。
ノイが息を呑んだ。
「白猿が……」
ロローリャが片膝をつくと、白猿の目がゆっくりと動いて彼女を捉えた。そこには、いつもの意地の悪い光はもう薄く、奥のほうに澄んだ金色だけがかすかに残っていた。やがて白猿は、喉の奥で短く鳴いた。
ロローリャが手を伸ばすと、白猿は弱々しく歯を見せた。最後まで威嚇するつもりらしいその仕草に、ロローリャは指先を宙で止め、少しだけ笑った。
「こんな時まで、それか」
すると白猿の目が、ロローリャの背後を越え、さらに奥で青く茂る竹林へと流れた。
その視線を追った瞬間、ロローリャの身体がこわばった。竹の奥の空気が濃く沈み、その一帯だけ、鳥の声も猿の声も虫の羽音も、森の息づかいから抜け落ちていた。泥の上には、あの大きな足跡が続いており、白猿の血が点々とそこへ向かっている。
近くにいる。
ロローリャは音を立てないように立ち上がり、ノイの手首を掴んだ。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「しっ、静かに」
ロローリャの低く落とした声に、ノイは唇を結んだ。白猿は泥の上で息を震わせ、また竹林の奥へ目を向けた。ロローリャはその目を見つめ、言葉の代わりに、白猿が最後に示そうとしているものを受け取った。
森の奥、遠い斜面で、竹の葉がひとすじ揺れた。
黄褐色の背が、幹と幹の間をすべるように移り、差し込んだ光が黒い縞を一瞬だけ浮かび上がらせる。
虎は古来より、中国の山に棲む災いとして恐れられてきた。「苛政は虎よりも猛し」と語られるほど、人を食い、家畜を奪い、村の暮らしを沈めるものとして、人々の記憶の奥に牙を残してきた。だが西双版納では二〇〇九年、勐臘の山中で村人に撃たれた一頭を境に確かな報告が途絶え、山の王は記録の上から姿を消したとされている。
いま、その記録の外から、死を運ぶものが戻ってきた。
遠い斜面で虎が足を止め、こちら側へ頭を向ける。沢をひとつ隔て、竹と木々を挟んだ距離の向こうで、白猿の血を流した獣と、白猿に救われた二人の気配がぶつかった。
ロローリャはノイの手を握った。
「音、立てないで、急ごう!」
白猿がまた喉を鳴らした。ロローリャは一度だけ振り返り、泥と血に伏した白い体の中で、まだ開いている金色の目を見た。枝を投げ、実を盗み、何度もロローリャの頭を叩いた白猿――森でひとりだった時間、いちばん近くにいてくれた友達。
ロローリャは棒を握り直した。
「教えてくれたんだね。ありがとう白爺さん」
白猿の尾が、泥の上でかすかに動いた。
ロローリャはノイの手を引き、腰を落としたまま木の根の陰へ入った。そこから沢の音へ向かい、葉の下に足を差し入れ、赤土の滑る場所を避けながら斜面を下った。背後では、木々の葉が揺れ、森の奥が騒ぎ、鳥の羽音が斜面の上へ飛び立っていく。遠い。けれど、虎は少しずつこちらへずれてきている。
ロローリャは足を止め、沢の横に積み重なった岩を見た。前に雨を避けて一度使った場所で、大きな石が二つ重なり、羊歯と落ち葉が入口を覆っていて、子ども一人なら奥に身を縮めて入れる。
「あそこ」
ロローリャはノイを岩の隙間へ押し入れた。ノイは竹筒を抱え、膝を胸に寄せる。ロローリャは入口へ葉を寄せ、外から黒い影に見えるように整えた。
「ここ。動かない。声、出さないで、隠れる。いいね」
「お姉ちゃんは?」
「私は向こうへ行くよ」
ノイの顔が歪んだ。
「いや。お姉ちゃん」
ロローリャはノイの頬についた泥を優しく親指で拭った。
「ノイは小さいけど、足は速い。私といたら、二人とも虎に追いつかれちゃう。だから、ここで隠れてて」
「だめ……、お姉ちゃん」
「私は足が悪いからね。虎から見たら、ちょうどいい餌に見えるかも」
ロローリャは少し笑うと、ノイは首を振った。意味を全部追えたかどうかは分からない。それでも、ロローリャが何をしようとしているのかは伝わっていた。ノイの指がロローリャの服を掴む。
ロローリャはその指を一本ずつほどいた。
「戻る。必ず」
その言葉を言いながら、胸の奥で何かがきしんだ。約束は、いつも簡単に口から出るけれど、いつも呆気なく裏切ってくる。
「絶対、戻るから」
もう一度言うと、ノイは唇を噛み、声を殺して頷いた。ロローリャは入口の葉をもう一度整え、岩の暗がりにノイの顔が沈むのを確かめた。
「もう行くね。私はノイのお姉ちゃんだから」
ロローリャはノイを岩陰に残し、沢の音を背に赤土へ踏み出した。姉というものは、妹のために命を張る。その覚悟は、かつて濁流の中で差し出された腕により、欠けた身体の奥に刻まれたものであった。