欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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4.チドリ

 雨の夜から数日が過ぎると、岩陰の朝から白い影が遠のきはじめた。

 

 火を起こす前から葉を揺らし、細い枝を落とし、白い尾をちらつかせていた猿が、このごろは谷の奥で声だけを残した。ロローリャが顔を上げても、近くの枝には露を含んだ葉が重く垂れているばかりで、白い尾は遠い梢の奥でちらりと揺れるだけだった。

 

 ノイもそれに気づいたらしく、竹筒を抱えたまま梢を見上げた。

 

「白い猿、あまり、来ないね」

「どこかで悪さでもしてるんでしょ」

 

 ロローリャはそう言って、灰の中の芋を掘り出した。けれど、胸の奥に小さな棘が残った。白猿は気まぐれで、意地が悪く、妙にしつこい。姿を見せる日はうんざりするほど付きまとい、芋へ手を伸ばし、枝からロローリャの頭を叩き、踏み荒らした灰や折った枝を土産のように残していく。そういう騒がしさが、いつのまにか二人のそばから遠のいていた。

 

 ロローリャの右手が、そばに置いた棒へ伸びた。

 

 棒を握ると、白猿と打ち合ったときの感触が戻ってくる。枝を蹴る前の重さ、肩の沈み、尾の揺れ、金色の目に宿る強い意志。あの猿が、何のわけもなくロローリャへのちょっかいをやめるはずがなかった。騒がしい因縁の途切れたところに、森のどこかで起きている変化の匂いがあった。

 

 猿どもの声も、日を追うごとに谷の奥へ移っていった。群れは高い枝の上で短く鳴き、葉の波を揺らしながら遠い斜面へ渡っていく。沢の近くへ降りてくる小鳥たちも、低い枝をかすめ、葉の間を素早く抜けるようになった。

 

 水を汲みに降りたロローリャは、沢の泥に目を止めた。鹿の細い足跡、猪の蹄、蛇の腹が這った跡。その上から、ひときわ大きな肉球の跡が押されていた。

 

 丸い跡は深く、ぬかるみの底まで重さが入っている。指の開きも広く、ヒョウにしては大きい。爪の痕が泥に薄く刻まれ、足跡は沢の縁から竹の奥へ向かっていた。ロローリャは棒の先で自分の手幅と比べ、喉の奥に重い息を落とした。

 

「お姉ちゃん?」

 

 ノイが後ろから覗き込むと、足跡を見て、顔を強張らせた。

 

 ロローリャはすぐにノイの肩へ手を置き、岩陰のほうを指した。

 

「ノイ、今日は遠くへ行かないでおこう。水だけ汲んだら、すぐに戻るよ」

「ヒョウ?」

「たぶん。でも、かなり大きいね」

 

 ロローリャはそう答え、足跡の向かう先を見た。竹の葉が一枚、泥の上で折れている。その端に、乾きかけた赤黒いシミがついていた。獲物の血か、怪我をした獣の血か。森ではどちらも危険の匂いになる。

 

 その日、ロローリャは岩陰の火を少し大きく保った。煙が立ちすぎると人に見つかる。火が弱ければ獣が寄る。薪を選び、湿った葉を避け、煙の流れを見ながら、その中間を探った。ノイには一人で沢へ降りないよう強く言いつけた。

 

 翌朝、沢へ降りる道の外れで、ロローリャは血の匂いを拾った。

 

 草の葉が折れ、竹の皮が剥がれ、低い枝が何本も裂けている。ロローリャはノイを背中の後ろへ下げ、棒を前へ出した。ノイの手が服を掴む。

 

 泥の上に、白い毛が散っていた。

 

 胸が一度だけ強く鳴った。ロローリャは足を進めた。倒れた竹の陰、太い根の間に、白猿が倒れ伏していた。

 

 白い毛は泥と血に汚れ、片方の腕が不自然な角度で折れている。肩から脇腹にかけて深い裂け目が走り、息をするたびに細い身体がわずかに震えた。枝の上であれほど軽かった猿が、地面へ縫い止められたように伏している。尾だけが泥の上に投げ出され、先端に赤い土がこびりついていた。

 

 ノイが息を呑んだ。

 

「白猿が……」

 

 ロローリャが片膝をつくと、白猿の目がゆっくりと動き、彼女を捉えた。いつもの意地の悪い光は薄れ、奥のほうに澄んだ金色だけがかすかに残っている。やがて白猿は、喉の奥で短く鳴いた。

 

 ロローリャが手を伸ばすと、白猿は弱々しく歯を見せた。最後まで威嚇するつもりらしいその仕草に、ロローリャは指先を宙で止め、少しだけ笑った。

 

「こんな時まで、それか」

 

 すると白猿の目が、ロローリャの背後を越え、さらに奥の竹林へ流れた。

 

 その視線を追った瞬間、ロローリャの身体がこわばった。竹の奥の空気が重く沈んでいる。その一帯だけ、鳥の声も猿の声も虫の羽音も、森の息づかいから抜け落ちていた。泥の上には、あの大きな足跡が続き、白猿の血が点々と竹の奥へ向かっている。

 

 何かいる。

 

 ロローリャは音を立てないように立ち上がり、ノイの手首を掴んだ。

 

「お姉ちゃん、どうしたの?」

「しっ、静かに」

 

 ノイは唇を結んだ。白猿は泥の上で息を震わせ、また竹林の奥へ目を向けた。ロローリャはその目を見つめ、言葉の代わりに、白猿が最後に示しているものを受け取った。

 

 森の奥、遠い斜面で、竹の葉がひとすじ揺れた。

 

 黄褐色の背が、幹と幹の間をすべるように移り、差し込んだ光が黒い縞を一瞬だけ浮かび上がらせる。

 

──虎は古来より、中国の山に棲む災いとして恐れられてきた。「苛政は虎よりも猛し」と語られるほど、人を食い、家畜を奪い、村の暮らしを沈めるものとして、人々の記憶の奥に牙を残してきた。だが西双版納では二〇〇九年、勐臘(モンラー)の山中で村人に撃たれた一頭を境に確かな報告が途絶え、山の王は記録の上から姿を消したとされている。

 

 いま、その記録の外から、死を運ぶものが戻ってきた。

 

 遠い斜面で虎が足を止め、こちら側へ頭を向ける。沢をひとつ隔て、竹と木々を挟んだ距離の向こうで、白猿の血を流した獣と、白猿に救われた二人の気配がぶつかった。

 

 ロローリャはノイの手を握った。

 

「音、立てないで、急ごう!」

 

 白猿がまた喉を鳴らした。ロローリャは一度だけ振り返り、泥と血に伏した白い体の中で、まだ開いている金色の目を見た。枝を投げ、実を盗み、何度もロローリャの頭を叩いた白猿――森でひとりだった時間、いちばん近くにいてくれた友達。

 

 ロローリャは棒を握り直した。

 

「教えてくれたんだね。ありがとう白爺さん」

 

 白猿の尾が、泥の上でかすかに動いた。

 

 ロローリャはノイの手を引き、腰を落としたまま木の根の陰へ入った。そこから沢の音へ向かい、葉の下に足を差し入れ、赤土の滑る場所を避けながら斜面を下る。背後では木々の葉が揺れ、森の奥が騒ぎ、鳥の羽音が斜面の上へ飛び立っていく。まだ遠い。けれど虎は、少しずつこちらへずれてきている。

 

 ロローリャは足を止め、沢の横に積み重なった岩を見た。前に雨を避けて一度使った場所で、大きな石が二つ重なり、羊歯と落ち葉が入口を覆っていて、子ども一人なら奥に身を縮めて入れる。

 

「あそこ」

 

 ロローリャはノイを岩の隙間へ押し入れた。ノイは竹筒を抱え、膝を胸に寄せる。ロローリャは入口へ葉を寄せ、外から黒い影に見えるように整えた。

 

「ここ。動かない。声、出さないで、隠れる。いいね」

「お姉ちゃんは?」

「私は向こうへ行くよ」

 

 ノイの顔が歪んだ。

 

「いや。お姉ちゃん」

 

 ロローリャはノイの頬についた泥を優しく親指で拭った。

 

「ノイは小さいけど、足は速い。私といたら、二人とも虎に追いつかれちゃう。だから、ここで隠れてて」

「だめ……、お姉ちゃん」

「私は足が悪いからね。虎から見たら、ちょうどいい餌に見えるかも」

 

 ロローリャは少し笑うと、ノイは首を振った。意味を全部追えたかどうかは分からない。それでも、ロローリャが何をしようとしているのかは伝わっていた。ノイの指がロローリャの服を掴む。

 

 ロローリャはその指を一本ずつほどいた。

 

「戻る。必ず」

 

 口にした瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。約束はいつも簡単に口から出て、いつも呆気なく奪われる。

 

「絶対、戻るから」

 

 もう一度言うと、ノイは唇を噛み、声を殺して頷いた。ロローリャは入口の葉をもう一度整え、岩の暗がりにノイの顔が沈むのを確かめた。

 

「もう行くね。私はノイのお姉ちゃんだから」

 

 ロローリャはノイを岩陰に残し、沢の音を背に赤土へ踏み出した。

 

 姉というものは、妹のために命を張る。

 

 かつて濁流の中で差し出された腕が、欠けた身体の奥に、そういう生き方を刻んでいた。

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