欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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5.申寅点睛

 森の奥で鳥が羽ばたく音を背に、ロローリャはノイを隠した岩陰から離れていった。沢の音は背中から横へ回り、水音の向こうに、岩の隙間で息を殺しているノイの気配だけが小さく残っている。赤土の歩きやすいところを避け、わざと枯れ枝の重なる場所、踏めば音の立つ場所を選んだ。岩を蹴り、竹を揺らし、自分の気配を後ろへ長く曳く。振り返れば膝の力が抜ける気がして、ロローリャは前だけを見た。

 

(ついてきている)

 

 足音はほとんど聞こえない。重い体躯に似合わぬ静けさで、竹の葉が揺れる間隔だけが、その距離を教えてくれる。獣の気配というものは、目で追うものではなく、肌の産毛と耳の奥で測るものだと、この森で何度も思い知らされてきた。いまその感覚が、首筋から二の腕へかけて、ぎりぎりと冷たく締めつけてくる。

 

(もっと、もっと向こうに行かないと——)

 

 胸の中で繰り返す。ノイのいる岩陰から、できる限り遠くへ。沢の曲がりをもうひとつ越え、竹の濃い赤土の斜面へ入る。足を止めれば、その瞬間に終わる。義足の継ぎ目が泥を噛むたび、軋む音が頭の奥で響いた。

 

 竹の密生する場所を抜けたとき、空気がふいに変わった。葉擦れが低く沈み、沢沿いの湿った匂いの中に、獣の熱が濃く混じる。来る、と身体が先に悟った。ロローリャは、義足の先を泥へ噛ませ、棒を低く引いた。視界の端に差し込んだ木漏れ日の中、黄褐色の毛並みが滲むように現れる。前脚が地面を噛み、肩の筋肉が盛り上がり、低く構えた頭の奥で、金色の目がまっすぐにこちらを見据えていた。

 

 前脚が地を押した瞬間、その圧は空気を通ってロローリャの肌へ届いた。白猿が枝を蹴る前にわずかに沈んだ重さ、その何十倍もの質量が、いま地を蹴って弧を描こうとしている。ロローリャは右へ流れた。左脚が赤土を蹴り、腰がひねれ、上体が斜めに沈む。風を切る音が頬のすぐ側を抜け、太い爪が空を裂いた。

 

 虎は逃した獲物へ、苛立ちをそのまま次の一打へ叩きつけた。低く払うような前脚が地を這い、ロローリャの足元へ入ってくる。義足の継ぎ目がぐらつき、転びかけた身体を、ロローリャは膝と棒で支えた。爪先が義足の表面をかすめ、木の削れる乾いた音が森の中へ短く響く。

 

(白爺さんはこれを教えてくれたのか!)

 

 頭の隅で、場違いなほど冷静な声がした。枝の沈み、肩の起こり、跳ぶ前のわずかな重心の移動。あの白い猿が、毎日のように仕掛けてきた小突きの一つ一つが、いま目の前にいる王者の動きと、同じ呼吸でできていた。遊びだと思っていたものが、命の取り合いの縮図だったのだと、爪の風を浴びてようやく腑に落ちた。

 

 体勢を整える間もなく、足元の土が崩れた。虎を避けようとした拍子に踏み込んだ斜面が、雨で緩んでいた赤土ごとロローリャの体重を呑み込む。視界が回り、空と土と竹の幹が入れ替わりながら過ぎていく。肩を打ち、背を打ち、義足が何かに引っかかってねじれ、ロローリャはそのまま斜面を転がり落ちた。葉と泥が口の中まで入り込み、肺の中の空気が一度に押し出される。

 

 咳き込みながら身を起こすと、すぐ上の斜面に、虎の輪郭が浮かんでいた。獲物が自ら退路を断ったことを、確かめるようにゆっくりと間合いを詰めてくる。ロローリャは棒を握り直し、後ろへ一歩、また一歩とあとずさった。

 

 迫る気配は、森そのものが息を止めたような重さを孕んでいた。肩の筋肉が動くたび、毛皮の下で力の塊が波打つ。低く絞られた喉から漏れる唸りは、音というより圧として腹の底へ届き、内臓を直接握られているような感覚を呼び起こす。視線が合うと、目を逸らした瞬間に喉笛が裂かれる、そんな確信だけが頭を占めた。獣としての格が違う。森にいるすべてのものの上に立つ存在が、いまロローリャだけを見ていた。

 

(こんな棒で、どうにかなる相手じゃない)

 

 握った棒の先を見て、ロローリャは唇を噛んだ。打ち据えたところで、あの分厚い毛皮と筋肉には届かない。骨を折るどころか、皮一枚すら裂けないだろう。腕力でも、速さでも、重さでも、勝てる要素はひとつもなかった。

 

(目を突くしかない)

 

 白猿との打ち合いの中で、何より先に覚えさせられたもの。跳ぶ前の起こり、肩の沈み、足の踏みかえ、息を吸う一瞬の間。ロローリャは膝を緩め、棒を低く構えたまま、虎の前脚の付け根、肩の筋肉の盛り上がりだけを見つめた。

 

(見えるよ…。ありがとう、白爺さん)

 

 胸の奥でそう呟いた瞬間、虎の重心がふっと沈んだ。肩が落ち、首が低く入り、金色の目がロローリャの喉へ据わる。牙も、爪も、前脚も、ひとつの線になってこちらへ伸びてくる。その線が見えた。白猿が枝の上から何度も見せた、動く前にすでに動きが決まっている、あの一拍だった。

 

 ロローリャの喉から、猿叫が裂けた。声に合わせて腹が締まり、左脚から腰へ、背中へ、右肩へ、右手へ、欠け身の身体に残ったばねが一気に走る。棒は下から斜めに跳ね上がった。胸も前脚も狙わない。狙うのは、喉を取りにくる顔の線、その目元だけである。

 

 棒の先が鼻梁をかすめ、濡れた毛を割り、虎の目元へ入った。湿った音がして、虎の顔が横へ振れる。爪はロローリャの肩口をかすめ、赤土を裂いた。血と泥が跳ね、獣臭が頬を打つ。ロローリャは転がりながら根に絡み、泥を噛み、なお棒を離さなかった。

 

 

 後年、ロローリャから剣を教わったサオ・ラ・ミンは、己の必殺がなぜ師にことごとく潰されるのかを問うた夜、虎との一戦を聞き、この絶技を「申寅点睛」と名づけた。巨獣が命を奪わんと跳ぶ一瞬、その身体はひとつの避けがたい死線となる。その致死の軌道の下へ身を沈め、獣の力が伸びきる一点へ、ただ人の一撃を先に置く。人と獣、生と死の極限の隙間を縫う、白猿由来の至境がそこにあった。

 

 

 白猿の弔いは届いた。

 

 だが、虎は退かなかった。目元から血を流し、怒りに濡れた顔を低くして、なおロローリャへ向かってくる。片目を裂かれたせいで、踏み込みはわずかに荒れた。距離を測る金色の光が片側で揺れ、前脚の置き方が一拍だけ乱れる。その一拍が、ロローリャに残された最後の道だった。

 

 肩口から流れた血が胸を濡らし、義足は泥を引いて思うように返らない。けれど、虎は来る。ロローリャは棒を支えに身を起こし、沢の曲がりの先へ後ずさった。虎の前脚が赤土を裂き、咆哮が背中を押す。ロローリャは最後の一歩で身を横へ逃がした。

 

 その直後、虎の前脚の下で赤土が抜けた。

 

 片目を裂かれた虎の前脚が沈み、後ろ脚が滑り、巨体が下へ落ちる。泥水が爆ぜ、底で斜めに立っていた竹がしなり、太い身体へ突き立った。

 

 そこは、雨の日にノイと子ゾウを助けた、赤土の窪みだった。側面には古い根がむき出しになり、底にはまだ濁った水が残り、ロローリャが落とし穴にするつもりで泥へ差しておいた竹の先が、底から斜めに突き出していた。

 

 穴の底で虎が吠えた。咆哮は赤土の壁に跳ね返り、濁った水を震わせた。ロローリャは縁に張った根へ身体を預け、右手の棒を握ったまま肩で息をした。底では虎が身体をひねり、竹を押し倒し、脇腹から血の混じった泥を流しながら立ち上がろうとしていた。

 

 崩れた斜面に前脚がかかり、爪が赤土を裂き、泥水が跳ねる。脇腹に竹の傷を受け、片方の前脚の動きがわずかに遅れているが、筋肉はまだ盛り上がり、頭は低く、残った金色の目はロローリャの喉から外れない。

 

 ロローリャはその場で棒を握りなおした。

 

(……もう何も残ってない)

 

 義足はぐらつき、肩は熱を持ち、右手は震えている。白猿が残したものも、森が与えたものも、すべて使い果たした。それでも虎は穴の縁へ上がる。泥と血に濡れたその体が、なお前へ来る。

 

 腕に力が入らない。義足の継ぎ目から伝わる痛みが、もう立つことさえ難しいと告げていた。それでも棒を握り、足を踏ん張り、もう一度構えを作る。次の一撃をしのげるとは、自分でも思えなかった。それでも、退くという選択肢は、姉である自分の中には微塵もない。

 

 喉の奥から、声が込み上げた。

 

「アアアアアアアッ!」

 

 虎が応えるように吠えた。人の声と獣の声が、濡れた森の中でぶつかる。ロローリャは棒を前に出し、虎は前脚を沈める。血と泥をまとった虎は、なお死の圧をそこに置いていた。

 

 そのとき、森全体が低く震えた。

 

 葉が鳴り、竹がしなり、湿った土の奥から太い響きが押し上がってくる。声とも地鳴りともつかない振動が、ロローリャの膝を通って胸まで届いた。虎の耳が動いた。跳びかけた体がわずかに横へ流れる。太い足音が幾つも重なり、竹がまとめてへし折れる音が窪地を包む。木々の間から押し出されるように現れたのは、灰色の巨体の群れだった。

 

 先頭の一頭は耳を広げ、長い鼻を高く上げ、もう一度、森全体を押すような声を放った。後ろには大きな影がいくつも続き、湿った土が鳴り、竹が押し分けられ、泥の匂いを含んだ風がロローリャの頬を打った。

 

 虎の唸りに怯えがまじり、ロローリャへ向いていた残った金色の目が、ゾウの群れへ移る。先頭のゾウがさらに一歩踏み出した。湿った土が鳴り、泥が震え、虎の耳が伏せられる。濡れた縞の背がしなった次の瞬間、虎は身をひねり、黄褐色の体を竹の間へ滑り込ませ、黒い縞だけを一瞬残して、森の奥へ消えていった。

 

 ロローリャは棒を構えたまま、長いあいだ動けなかった。さっき放った猿叫の余韻が喉の奥で焼け、右手は震え、肩から血が流れ、膝は泥の中で力を失い、やがてロローリャは、その場に座り込んだ。

 

 ゾウの群れは、虎の消えた竹の奥へ向きをそろえた。先頭の一頭が長い鼻を低く垂らし、泥と血と獣の匂いを探る。大きな耳がゆっくり揺れ、太い脚が赤土を踏みしめるたび、穴の縁に溜まった泥水が小さく震えた。

 

 やがて群れの奥で、守られていた小さな影が動いた。親の腹の下から、まだ丸みの残る顔がのぞく。泥の残る背、短く持ち上がる鼻。あの日、穴の底で泥にまみれ、ノイが手を振った子ゾウは、またすぐに大きな体の陰へ押し戻され、群れの奥へ包まれた。

 

 ロローリャは泥の上に手をついた。

 

「……ありがとう」

 

 先頭のゾウは鼻を少し持ち上げ、濡れた葉を揺らして森の奥へ向きを変えた。群れの大きな影がそのあとに続き、湿った土を踏む音が少しずつ遠ざかっていった。

 

 ロローリャはしばらく座ったまま、息を整えた。

 

 ノイ。

 

 その名が胸の中で跳ねると、ロローリャは泥に手をついて立った。肩の傷が熱を持ち、義足の継ぎ目に泥が噛んでいる。棒を拾い、沢の音をたどって斜面を戻る。急ごうとするほど膝が笑い、息が喉に絡んだ。岩場の隙間が見えたとき、葉の陰から小さな影が飛び出した。

 

「お姉ちゃん!」

 

 ノイはロローリャに抱きつき、すぐに肩の血を見て顔を青くした。ロローリャは片膝をつき、ノイの頭へ右手を置いた。

 

「平気」

 

 ノイは泣きながら首を振った。

 

「お姉ちゃん……!血、血が」

「大丈夫。追い払ったよ」

 

 ロローリャはそう言いながら、ノイの背を抱いた。ノイの身体は震えていた。岩の隙間でどれほど長く息を殺していたのか、その細い肩が伝えている。ロローリャは火の匂いのする髪へ頬を寄せ、目を閉じた。

 

 森は二人を生かした。けれど、同じ森が白猿を裂き、虎を岩陰の近くまで呼び寄せた。もう、あの場所へ戻って同じように火を焚くことはできない。

 

「ノイ。ここには、もういられない」

 

 ロローリャは静かに言った。ノイがロローリャの服を強く握った。

 

「別の穴、探すの?」

「ちがう。ノイの村、帰る道、探す」

 

 ノイは唇を震わせた。国境を越えること、村へ戻ること、借金のこと、自分を売った両親に会うこと。そのどれもがまだ答えを持たないまま、二人の前に広がっている。

 

 ロローリャはノイの手を握った。

 

「帰る、家に……」

 

 ノイは小さく頷いた。

 

 沢の向こうで、遠くの空が低く鳴った。雨がまた来る。ロローリャはノイを連れて岩陰へ戻り、奥に押し込んでいたものを出した。竹筒、鉈、棒、残った芋、樹皮、拾った縄と麻袋の切れ端。持てるものは少ない。火を消し、灰を均し、濡れた葉をかぶせると、ここで二人分の暮らしを作ろうとしていた跡が、ひとつずつ消えていった。

 

 荷をまとめ終えると、ロローリャは白猿のいた竹林へ向かった。ノイも黙ってついてくる。沢へ降りる道の外れ、泥に白い毛がまだ散ったままの場所で、白猿の身体はすでに息をしていなかった。あれほど意地悪く光っていた目は閉じ、細い尾は赤土の上に力なく伸びていた。

 

 二人は白猿のそばに膝をついて赤土を掘り、底に乾いた葉を敷いて、白猿をそっと寝かせた。

 

「うるさくて、意地悪で、最悪な猿だったよ」

 

 土を被せながら、声が震えた。

 

「でも、ずっとそばにいてくれた……優しい奴だったよ」

 

 ノイは黙って赤い実をひとつ置いた。ロローリャはそれを見て、小さく息を吐いた。森の風が葉を揺らし、どこか遠くで鳥が鳴いた。

 

 埋め終えると、ロローリャは立ち上がった。岩陰へ戻る道を振り返り、もう戻らない場所の輪郭を、最後にもう一度だけ目に焼きつける。それから、ノイの手を取った。

 

「行くよ。ラオスに帰ろう」

 

 ノイは不安そうにロローリャを見上げたが、その手を離さなかった。空は低く、湿った風が山を下りてくる。国境の方角に向かって、森の道は薄暗く伸びていた。

 

 二人は、雨の匂いのする森へ歩き出した。

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