森の奥で鳥が羽ばたく音を背に、ロローリャはノイを隠した岩陰から離れていった。水音はすぐ横を走り、岩の隙間で息を殺しているノイの気配だけが、背後の木々の奥へ小さく残っている。
赤土の歩きやすい筋を避け、枯れ枝の重なる場所へ義足を置いた。枝が折れ、石が転がり、竹の葉が鳴る。棒の先で低い枝を叩き、自分の気配を沢の上手へ長く曳いた。振り返れば膝の力が抜ける。ロローリャは前だけを見た。
(こっちにきている)
沢向こうの竹が揺れた。重い体に似合わぬ静けさで、葉の震える間隔だけが距離を教えてくる。獣の気配は、目ではなく肌と耳の奥で測るものだと、この森で何度も思い知らされてきた。その感覚がいま、首筋から二の腕へかけて冷たく締めつけてくる。
(もっと、もっと向こうに行かないと——)
ノイのいる岩陰から、できる限り遠くへ。沢の曲がりをもうひとつ越え、竹の濃い赤土の斜面へ入る。足を止めれば、その瞬間に終わる。義足の継ぎ目が泥を噛むたび、軋む音が頭の奥で響いた。
竹藪を抜けかけたとき、空気がふいに変わった。葉擦れが低く沈み、沢沿いの湿った匂いの中に、獣の熱が混じる。来る、と身体が先に悟った。ロローリャは義足の先を赤土へ沈め、棒を低く引いた。
木漏れ日の端に、黄褐色の毛並みが滲むように現れる。前脚が地面を掴み、肩の筋肉が盛り上がり、低く構えた頭の奥で、金色の目がまっすぐにこちらを見据えていた。
虎の前脚が地を押した。
空気ごと重さが押し寄せる。白猿が枝を蹴る前に見せた、あのわずかな沈み。その何十倍もの質量が、いまロローリャへ跳んでくる。ロローリャは赤土を蹴って右へ流れ、腰をひねり、上体を斜めに沈めた。風が頬のすぐそばを抜け、太い爪が空を裂いた。
虎は外した勢いのまま、低く前脚を払った。爪が地を這ってロローリャの足元へ入り、義足の継ぎ目がぐらつく。転びかけた身体を、ロローリャは膝と棒で支えた。爪の先が義足の表面を削り、乾いた音が森に短く響いた。
(白爺さんはこれを教えてくれたのか!)
頭の隅で、場違いなほど冷静な声がした。枝の沈み、肩の起こり、跳ぶ前のわずかな重心の移り。あの白い猿が、毎日のように浴びせてきた小突きの一つ一つが、いま目の前にいる獣の動きと、同じ呼吸でできていた。遊びだと思っていたものは、命の取り合いの縮図だったのだと、爪の風を浴びて、ロローリャはようやくそれを悟った。
体勢を整える間もなく、足元の土が割れた。虎を避けて踏み込んだ一歩が、雨で緩んだ斜面を崩す。視界が回り、空と土と竹の幹が入れ替わった。肩を打ち、背を打ち、義足が根に引っかかってねじれる。ロローリャは葉と泥を巻き込みながら転がり落ち、口の中まで土が入り、肺の空気が一気に押し出された。
咳き込みながら身を起こすと、すぐ上の斜面に虎の輪郭が浮かんでいた。虎は逃げ場を塞ぐように、ゆっくり、ゆっくりと降りてくる。一歩ごとに赤土が沈み、森の音が沈んでいった。ロローリャは棒を握り直し、後ろへ一歩、また一歩とあとずさった。
肩が動き、毛皮の下で力が波打つ。喉の奥から漏れる唸りは、圧となって腹へ届いた。金色の目がロローリャを捉える。目を逸らした瞬間、喉を裂かれる。そう身体が知っていた。森の上に立つ獣が、いまロローリャひとりを選んでいた。
(こんな棒で、どうにかなる相手じゃない)
握った棒の先を見て、ロローリャは唇を噛んだ。打ち据えたところで、あの分厚い毛皮と筋肉には届かない。骨を折るどころか、皮一枚すら裂けないだろう。腕力でも、速さでも、重さでも、勝てる要素はひとつもない。
(目を突くしかない)
白猿との打ち合いで、何度も身体に叩き込まれたものがある。跳ぶ前の起こり、肩の沈み、足の踏みかえ、息を吸う一瞬の間。ロローリャは膝を緩め、棒を低く構えたまま、虎の肩の盛り上がりだけを見た。
(見えるよ…。ありがとう、白爺さん)
胸の奥でそう呟いた瞬間、虎の重心が沈んだ。肩が落ち、首が低く入り、金色の目がロローリャの喉へ据わる。牙も、爪も、前脚も、ひとつの線になってこちらへ伸びてくる。その線が見えた。白猿が何度も見せた、動く前にすでに動きが決まっている、あの一拍だった。
ロローリャの喉から、猿叫が裂けた。
声に合わせて腹が締まり、左脚から腰へ、背中へ、右肩へ、右手へ、欠け身の身体に残ったばねが一気に走る。棒は下から斜めに跳ね上がった。胸も前脚も狙わない。狙うのは、喉を取りにくる顔の線、その目元だけである。
棒の先が鼻梁をかすめ、濡れた毛を割り、虎の目元へ入った。湿った音がして、虎の顔が横へ振れる。爪はロローリャの肩口をかすめ、赤土を裂いた。血と泥が跳ね、獣臭が頬を打つ。ロローリャは転がりながら根に絡み、泥を噛み、なお棒を離さなかった。
──後年、ロローリャから剣を教わったサオ・ラ・ミンは、己の必殺がなぜ師にことごとく潰されるのかを問うた夜、虎との一戦を聞き、この絶技を「申寅点睛」と名づけた。巨獣が命を奪わんと跳ぶ一瞬、その身体はひとつの避けがたい死線となる。その致死の軌道の下へ身を沈め、獣の力が伸びきる一点へ、ただ人の一撃を先に置く。人と獣、生と死の極限の隙間を縫う、白猿由来の至境がそこにあった。
白猿の弔いは届いた。
だが、虎は退かなかった。目元から血を流し、怒りに濡れた顔を低くして、なおロローリャへ向かってくる。片目を裂かれたせいで、踏み込みはわずかに荒れた。距離を測る金色の光が片側で揺れ、前脚の置き方が一拍だけ乱れる。
その一拍が、ロローリャに残された最後の道だった。
肩口から流れた血が胸を濡らし、義足は泥を引いて思うように返らない。けれど、虎は来る。ロローリャは棒を支えに身を起こし、沢の曲がりの先へ後ずさった。虎の前脚が赤土を裂き、咆哮が背中を押す。
ロローリャは最後の一歩で、根の張った固い縁だけを踏み、身を横へ逃がした。
その直後、虎の前脚の下で、落ち葉に覆われた赤土が抜けた。
薄くかぶせてあった竹の葉と腐った枝が砕け、片目を裂かれた虎の前脚が沈む。後ろ脚が滑り、巨体が下へ落ちた。泥水が爆ぜ、底で斜めに立っていた竹がしなり、太い身体へ突き立った。
そこは、雨の日にノイと二人で子ゾウを助けた、赤土の窪みだった。側面には古い根がむき出しになり、底にはまだ濁った水が残り、ロローリャが落とし穴にするつもりで泥へ差しておいた竹の先が、底から斜めに突き出していた。
穴の底で虎が吠えた。咆哮は赤土の壁に跳ね返り、濁った水を震わせる。ロローリャは縁に張った根へ身体を預け、棒を握ったまま肩で息をした。
底では虎が身体をひねり、竹を押し倒し、脇腹から血の混じった泥を流しながら立ち上がろうとしていた。崩れた斜面に前脚がかかり、爪が赤土を裂いた。竹の傷を受けたせいで、片方の前脚の動きはわずかに遅れている。それでも筋肉はまだ盛り上がり、残った金色の目はロローリャの喉から外れない。
ロローリャはその場で棒を握りなおした。
(くっ、ダメだった……もう、何も残ってない)
義足はぐらつき、肩は熱を持ち、右手は震えている。白猿が残したものも、森が与えたものも、すべて使い果たした。それでも虎は穴の縁へ上がる。泥と血に濡れた巨体が、なおロローリャへ迫ってくる。
腕に力が入らない。義足の継ぎ目から伝わる痛みが、もう立つことさえ難しいと告げていた。それでも棒を握り、足を踏ん張り、もう一度構えを作る。次の一撃をしのげるとは、自分でも思えなかった。それでも、退くという選択肢は、姉である自分の中には微塵もない。
喉の奥から、声が込み上げた。
「アアアアアアアッ!」
虎が応えるように吠えた。人の声と獣の声が、濡れた森の中でぶつかる。ロローリャは棒を前へ出し、虎は前脚を沈める。血と泥をまとった虎は、なお死の圧をそこに置いていた。
そのとき、森全体が低く震えた。
葉が鳴り、竹がしなり、湿った土の奥から太い響きが押し上がってくる。声とも地鳴りともつかない振動が、ロローリャの膝を通って胸へ届いた。
虎の耳が動いた。跳びかけた体が、わずかに横へ流れる。
木々の間から、灰色の巨体の群れが押し出されてきた。
先頭の一頭は耳を広げ、長い鼻を高く上げた。森そのものを押すような声が、もう一度低く響く。その背後から、大きな影がいくつも続いた。太い足音が重なり、竹がまとめてへし折れる音が窪地を包む。泥の匂いを含んだ風が、ロローリャの頬を打った。
虎の唸りに怯えがまじり、ロローリャへ向いていた残った金色の目が、ゾウの群れへ移る。先頭のゾウがさらに一歩踏み出した。湿った土が鳴り、泥が震え、虎の耳が伏せられる。
濡れた縞の背がしなった次の瞬間、虎は身をひねった。黄褐色の体が竹の間へ滑り込み、黒い縞だけを一瞬残して、森の奥へ消えていった。
ロローリャは棒を構えたまま、しばらく動けなかった。猿叫の余韻が喉の奥で焼け、右手は震え、肩から血が流れている。膝が泥の中で力を失い、やがてその場に座り込んだ。
ゾウの群れは、虎の消えた竹の奥へ向きをそろえた。先頭の一頭が長い鼻を低く垂らし、泥と血と獣の匂いを探る。大きな耳がゆっくり揺れ、太い脚が赤土を踏みしめるたび、穴の縁に溜まった泥水が小さく震えた。
やがて群れの奥で、小さな影が動いた。
親の腹の下から、まだ丸みの残る顔がのぞく。泥の残る背、短く持ち上がる鼻。あの日、穴の底で泥にまみれ、ノイが手を振った子ゾウだった。
ロローリャは泥の上に手をついた。
「……ありがとう」
先頭のゾウは鼻を少し持ち上げ、濡れた葉を揺らして森の奥へ向きを変えた。群れの大きな影がそのあとに続き、湿った土を踏む音が少しずつ遠ざかっていった。
ロローリャはしばらく座ったまま、息を整えた。
ノイ。
その名が胸の中で跳ねると、ロローリャは泥に手をついて立った。肩の傷が熱を持ち、身体が泥のように重い。なんとか棒を杖代わりに、沢の音をたどって戻った。急ごうとするほど膝が笑い、息が喉に絡む。岩場の隙間が見えたとき、葉の陰から小さな影が飛び出した。
「お姉ちゃん!」
ノイはロローリャに抱きつき、すぐに肩の血を見て顔を青くした。ロローリャは片膝をつき、ノイの頬に触れた。
「虎は追い払ったよ」
ノイは泣きながら首を振った。
「お姉ちゃん……!血、血が」
「大丈夫。これくらいなら平気だよ」
ロローリャはそう言いながら、ノイの背を抱いた。ノイの身体は震えていた。岩の隙間でどれほど長く息を殺していたのか、その細い肩が伝えている。ロローリャは火の匂いのする髪へ頬を寄せ、目を閉じた。
森は二人を生かした。けれど、同じ森が白猿を裂き、虎を岩陰の近くまで呼び寄せた。もう、あの場所へ戻って同じように火を焚くことはできない。
「ノイ。ここには、もういられない」
「別の穴、探すの?」
「ちがう。ノイの村、帰る道、探す」
ノイは唇を震わせた。国境を越えること、村へ戻ること、借金のこと、両親に会うこと。そのどれもがまだ答えを持たないまま、二人の前に広がっている。
ロローリャはノイの手を握った。
「帰る、家に……」
ノイは小さく頷いた。
沢の向こうで、遠くの空が低く鳴った。雨がまた来る。
ロローリャはノイを連れて岩陰へ戻り、奥に押し込んでいたものを出した。竹筒、鉈、棒、残った芋、樹皮、拾った縄と麻袋の切れ端。持てるものは少ない。火を消し、灰を均し、濡れた葉をかぶせると、ここで二人分の暮らしを作ろうとしていた跡が、ひとつずつ消えていった。
荷をまとめ終えると、ロローリャは白猿の倒れていた竹の陰へ向かった。ノイも黙ってついてくる。
太い根の間で、白猿はすでに息をひきとっていた。あれほど意地悪く光っていた目は閉じ、細い尾は赤土の上に力なく伸びていた。
二人は白猿のそばに膝をついて赤土を掘り、底に乾いた葉を敷いて、白猿をそっと寝かせた。
「うるさくて、意地悪で、最悪な猿だったよ」
土を被せながら、声が震えた。
「でも、ずっとそばにいてくれた……優しい奴だったよ」
ノイは黙って赤い実をひとつ置いた。ロローリャはそれを見て、小さく息を吐いた。森の風が葉を揺らし、どこか遠くで鳥が鳴いた。
埋め終えると、ロローリャは立ち上がった。二人で暮らした岩陰の方を振り返り、もう戻らない場所の輪郭を、最後にもう一度だけ目に焼きつける。
「行くよ。ラオスに帰ろう」
ノイは不安そうにロローリャを見上げ、唇をぎゅっと結び、胸に抱えた竹筒へ力を込めた。空は低く、湿った風が山を下りてくる。国境の方角に向かって、森の道は薄暗く伸びていた。
二人は、雨の匂いのする森へ歩き出した。