雨は、森の奥から追いかけてくるように降り出した。
はじめは遠い葉擦れのような音だったが、沢へ下るころには竹の葉を叩く雨粒が増え、森全体が白く煙っていた。ロローリャはノイを前に行かせ、ぬかるむ斜面を慎重に下りていく。木々がまばらになるにつれ、雨音に車の走行音が混じりはじめた。
「ノイ、村の名前って分かる?」
「ムアンロンって町の近く。山の上……アカの村」
「その町まで行ければ、家まで帰れるかな?」
「たぶんムアンロンに着けば、村のこと誰か知ってると思う。市場の人とか、薪を運ぶ人とか」
「じゃあ、まずはラオスに行かないとだね」
ロローリャが気安く言うと、ノイは心配そうに顔を上げた。
「国境、越えられるの……? 見つかったらどうしよう」
「怒られるね。たぶん、もうちょっと面倒なことになるかも。でも大丈夫だよ。私、こういうの三回目だからさ」
「三回も?」
「少なくともね。昆明から追い出されてベトナムへ行って、ハイフォンからまた中国へ戻って、今度はラオス。中国の国境なんて、もう顔なじみみたいなもんだよ」
「国境に顔なじみなんてあるの?」
「ないけど、そう思っておいたほうが歩きやすいでしょ」
ノイの頬が少し緩んだ。ロローリャはその頭を軽く撫でる。
「ノイ。ほんとうは私も平気じゃないよ。でも、怖がってても仕方ないでしょ」
二人は森を抜け、
ロローリャは道端の小さな店で、森暮らしのあいだも大事に持っていたなけなしの金を取り出し、饅頭を三つ、
店の女は小銭を数え、濡れた髪を頬に貼りつかせたノイを見た。それからロローリャの義足と空の袖口へ目を落とし、黙って饅頭をもう一つ袋へ入れた。
「え、いいの?」
「濡れた子どもを見たら、一つくらいまける日もあるよ。早く食べな、冷めるともっと固くなるから」
「やった! ノイ、こっち食べなよ」
ロローリャが余分にもらった饅頭を渡すと、ノイは両手で受け取り、店の女に小さく頭を下げた。
「
「いい子だね。ほら、これも少し持っていきな」
女は
「これは売り物じゃないよ。うちの昼の残りさ」
「じゃあ、遠慮なくもらうね」
「最初から遠慮する顔じゃなかっただろ」
ロローリャはいたずらっぽく笑い、袋を抱え直した。
「ばれてたか」
「その顔で遠慮されたら、こっちが調子狂うよ。食べさせる方にも徳がつくんだから、黙って食べな」
ノイは饅頭に塩漬けの菜を少し挟み、一口食べて目を丸くした。
「お姉ちゃん、これ、おいしい」
「当たりだね。この店、饅頭と茶卵だけじゃなくて、仏様の慈悲まで置いてあるんだ」
女は呆れたように笑った。
「そんな大層なもの、うちの棚には置いてないよ」
「じゃあ奥に隠してるんだ。出し惜しみしないんだから、いい店だよ」
「あれまぁ、なんて娘だい! 褒めたって、もう饅頭は増えないよ」
「谢谢、
ロローリャは茶卵の殻を割り、半分をノイへ渡した。饅頭は固く豆乳は薄かったが、久しぶりに腹が満たされ、身体の奥に少しずつ力が戻ってきた。
軒下の奥では古いラジオが鳴っていた。雑音まじりの中国語を聞き流していたロローリャも、磨憨という地名が繰り返されるのを耳にして、話の内容に注意を向けた。
山側で土砂崩れが起き、国境へ向かう道路の一部が不通になったらしい。復旧は天候次第で、通関待ちの貨物車には指定場所で待機するよう呼びかけている。
「天もひどいことをするねぇ」
店の女のぼやきを聞きながら、ロローリャは軒の外に並ぶ大型車を眺めた。どの車体にも雨が激しく打ちつけ、運転手たちは食堂や修理小屋の軒下に集まっている。
「外、トラックが多いね。同じマークの車ばっかり停まってる」
「ああ、あれはボーテンへ行く車だよ。開発の資材を運ぶやつさ。山の向こうで倉庫だの道だの、どんどん作ってるからねぇ」
「お姉ちゃん、ボーテンってどこ?」
店の女が軒の外を指さした。
「ラオス側の国境の町だよ、お嬢ちゃん。いまあっちじゃ中国の会社が大きくやってるのさ。ほら、あの字。『瑞境』って書いてあるだろ。ここじゃよく見る車だよ」
「へえ。あれが国境を越えるんだ」
「道が動けばね。今日は山が崩れたから、みんな足止めさ」
女が奥の鍋へ戻っていくと、ロローリャは袋の口を縛り、残った茶卵をノイの手へ押しつけた。
「食べて。……あれにするよ」
「あれって、あの大きい車?」
「うん。国境を越える車にこっそり乗るんだよ、ノイ」
「見つかっちゃわないかな……」
「昔、ベトナムで聞いたことがあるの。あっちのほうで好き勝手やってる大きい会社があるって。あの会社の車なら、きっと細かくチェックされないよ。ボーテンの開発資材なら手続きも通ってるはずだし、雨で車が詰まってる時にいちいち全部検査しないでしょ」
ノイは雨に濡れた車列を見つめた。
「布のかかった荷台を探そう。荷物の間に入って、向こうに着くまでじっとしてるの。いいね?」
雨はさらに強まり、軒先から落ちる水が白い筋になっていた。
駐車帯には足場材やセメント袋、機械部品を積んだトラックが並び、青や緑の防水布が荷台を覆っている。運転手たちは雨宿りをしながら煙草を吸い、動く気配のない車列に悪態をついていた。
ロローリャが目をつけたのは、鉄の配管と木箱を積んだ大型トラックだった。フロントガラスにはラオス側の通行許可らしい紙が挟まれ、荷台の横板には検査済みの印が白いチョークで書かれている。運転手たちは食堂の軒下で丼をかき込んでおり、荷台の周囲には人影がまばらだった。
「お姉ちゃん……ほんとに行くの?」
「いい? ノイが先に荷台へ入って、防水布を少し開けて。私が杖を投げたら、上がるのを手伝ってね」
「お姉ちゃんが落ちたら?」
「落ちないように服を引っぱって!」
ノイは唇を噛み、何度も頷いた。
「私、ちゃんとやる」
「うん。じゃあ、ついてきて」
二人は雨の中を駆け出した。
ノイが先に荷台へ潜り込み、防水布の端を持ち上げる。ロローリャは杖を投げ込んでから右手で縁を掴み、義足を木箱にかけた。濡れた手が滑りかけたところで、ノイが内側から服を掴み、必死に引っ張り上げる。
荷台には鉄と濡れた木の匂いがこもっていた。二人は配管の束と木箱の間に身体を押し込み、防水布を元に戻した。
しばらくすると、外で「通れるぞ!」と声が上がった。崩れた道路を片側交互で通すらしく、前の車から動かせと運転手たちが怒鳴り合っている。
やがて足音が荷台へ近づいてきた。
ロローリャは唇に人差し指を当て、ノイにも身を縮めるよう促した。防水布が一瞬持ち上がり、雨の白い光が差し込んだかと思うと、濡れた雨具が投げ込まれて木箱に当たった。
運転席の扉が閉まり、トラックが大きく揺れた。
車列は進んでは止まり、また進んだ。崩落現場を抜けるころには雨足も少し弱まっていたが、その先も大型車が連なり、トラックは長い時間をかけて山道を南へ進んでいった。
すっかり暗くなったころ、車は再び速度を落とした。防水布の隙間から覗くと、雨に濡れた広場に何台もの貨物車が並んでいる。国境手前の待機場らしく、周囲のエンジン音が次々と消えていった。
二人は残っていた饅頭を少しずつ分け合い、木箱にもたれて夜を明かした。
翌朝、外が運転手たちの声で騒がしくなった。エンジンがかかり、トラックは大きく揺れながら動き出す。
しばらく進んだところで再び停車した。外では書類をめくる音と運転手の短い返事が聞こえ、誰かが荷台を拳で叩いた。木箱を伝わってくる振動に、ノイがロローリャの服を握りしめる。
やがて検問の男が短く笑い、運転手が何か言い返したあと、トラックは再び走り出した。
どれほど進んだころだろう。外から聞こえる言葉の調子が変わり、中国語に交じって柔らかなラオ語が聞こえはじめた。
国境を、越えたのだ。
荷台の暗がりで、ノイが小さく手を伸ばしてきた。ロローリャはその温かな手をそっと握り返した。