欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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6.密航

 雨は、森の奥から追いかけてくるように降り出した。

 

 はじめは遠い葉擦れのような音だったが、沢へ下るころには竹の葉を叩く雨粒が増え、森全体が白く煙っていた。ロローリャはノイを前に行かせ、ぬかるむ斜面を慎重に下りていく。木々がまばらになるにつれ、雨音に車の走行音が混じりはじめた。

 

「ノイ、村の名前って分かる?」

「ムアンロンって町の近く。山の上……アカの村」

「その町まで行ければ、家まで帰れるかな?」

「たぶんムアンロンに着けば、村のこと誰か知ってると思う。市場の人とか、薪を運ぶ人とか」

「じゃあ、まずはラオスに行かないとだね」

 

 ロローリャが気安く言うと、ノイは心配そうに顔を上げた。

 

「国境、越えられるの……? 見つかったらどうしよう」

「怒られるね。たぶん、もうちょっと面倒なことになるかも。でも大丈夫だよ。私、こういうの三回目だからさ」

「三回も?」

「少なくともね。昆明から追い出されてベトナムへ行って、ハイフォンからまた中国へ戻って、今度はラオス。中国の国境なんて、もう顔なじみみたいなもんだよ」

「国境に顔なじみなんてあるの?」

「ないけど、そう思っておいたほうが歩きやすいでしょ」

 

 ノイの頬が少し緩んだ。ロローリャはその頭を軽く撫でる。

 

「ノイ。ほんとうは私も平気じゃないよ。でも、怖がってても仕方ないでしょ」

 

 二人は森を抜け、磨憨(モーハン)へ向かう太い道へ出た。雨の中をしばらく歩くと、トラックの溜まり場が見えてきた。給水の管、修理小屋、油臭い食堂、雨ざらしの臨時駐車帯が道沿いに並び、大型車が濡れた車体を連ねている。

 

 ロローリャは道端の小さな店で、森暮らしのあいだも大事に持っていたなけなしの金を取り出し、饅頭を三つ、茶叶蛋(チャーイエダン)を二つ、豆乳を一袋買った。

 

 店の女は小銭を数え、濡れた髪を頬に貼りつかせたノイを見た。それからロローリャの義足と空の袖口へ目を落とし、黙って饅頭をもう一つ袋へ入れた。

 

「え、いいの?」

「濡れた子どもを見たら、一つくらいまける日もあるよ。早く食べな、冷めるともっと固くなるから」

「やった! ノイ、こっち食べなよ」

 

 ロローリャが余分にもらった饅頭を渡すと、ノイは両手で受け取り、店の女に小さく頭を下げた。

 

「谢谢(ありがとう)」

「いい子だね。ほら、これも少し持っていきな」

 

 女は酸腌菜(スワンイェンツァイ)を紙に包み、袋の底へ押し込んだ。

 

「これは売り物じゃないよ。うちの昼の残りさ」

「じゃあ、遠慮なくもらうね」

「最初から遠慮する顔じゃなかっただろ」

 

 ロローリャはいたずらっぽく笑い、袋を抱え直した。

 

「ばれてたか」

「その顔で遠慮されたら、こっちが調子狂うよ。食べさせる方にも徳がつくんだから、黙って食べな」

 

 ノイは饅頭に塩漬けの菜を少し挟み、一口食べて目を丸くした。

 

「お姉ちゃん、これ、おいしい」

「当たりだね。この店、饅頭と茶卵だけじゃなくて、仏様の慈悲まで置いてあるんだ」

 

 女は呆れたように笑った。

 

「そんな大層なもの、うちの棚には置いてないよ」

「じゃあ奥に隠してるんだ。出し惜しみしないんだから、いい店だよ」

「あれまぁ、なんて娘だい! 褒めたって、もう饅頭は増えないよ」

「谢谢、阿姨(おばちゃん)。ほんとに助かったよ」

 

 ロローリャは茶卵の殻を割り、半分をノイへ渡した。饅頭は固く豆乳は薄かったが、久しぶりに腹が満たされ、身体の奥に少しずつ力が戻ってきた。

 

 軒下の奥では古いラジオが鳴っていた。雑音まじりの中国語を聞き流していたロローリャも、磨憨という地名が繰り返されるのを耳にして、話の内容に注意を向けた。

 

 山側で土砂崩れが起き、国境へ向かう道路の一部が不通になったらしい。復旧は天候次第で、通関待ちの貨物車には指定場所で待機するよう呼びかけている。

 

「天もひどいことをするねぇ」

 

 店の女のぼやきを聞きながら、ロローリャは軒の外に並ぶ大型車を眺めた。どの車体にも雨が激しく打ちつけ、運転手たちは食堂や修理小屋の軒下に集まっている。

 

「外、トラックが多いね。同じマークの車ばっかり停まってる」

「ああ、あれはボーテンへ行く車だよ。開発の資材を運ぶやつさ。山の向こうで倉庫だの道だの、どんどん作ってるからねぇ」

「お姉ちゃん、ボーテンってどこ?」

 

 店の女が軒の外を指さした。

 

「ラオス側の国境の町だよ、お嬢ちゃん。いまあっちじゃ中国の会社が大きくやってるのさ。ほら、あの字。『瑞境』って書いてあるだろ。ここじゃよく見る車だよ」

「へえ。あれが国境を越えるんだ」

「道が動けばね。今日は山が崩れたから、みんな足止めさ」

 

 女が奥の鍋へ戻っていくと、ロローリャは袋の口を縛り、残った茶卵をノイの手へ押しつけた。

 

「食べて。……あれにするよ」

「あれって、あの大きい車?」

「うん。国境を越える車にこっそり乗るんだよ、ノイ」

「見つかっちゃわないかな……」

「昔、ベトナムで聞いたことがあるの。あっちのほうで好き勝手やってる大きい会社があるって。あの会社の車なら、きっと細かくチェックされないよ。ボーテンの開発資材なら手続きも通ってるはずだし、雨で車が詰まってる時にいちいち全部検査しないでしょ」

 

 ノイは雨に濡れた車列を見つめた。

 

「布のかかった荷台を探そう。荷物の間に入って、向こうに着くまでじっとしてるの。いいね?」

 

 雨はさらに強まり、軒先から落ちる水が白い筋になっていた。

 

 駐車帯には足場材やセメント袋、機械部品を積んだトラックが並び、青や緑の防水布が荷台を覆っている。運転手たちは雨宿りをしながら煙草を吸い、動く気配のない車列に悪態をついていた。

 

 ロローリャが目をつけたのは、鉄の配管と木箱を積んだ大型トラックだった。フロントガラスにはラオス側の通行許可らしい紙が挟まれ、荷台の横板には検査済みの印が白いチョークで書かれている。運転手たちは食堂の軒下で丼をかき込んでおり、荷台の周囲には人影がまばらだった。

 

「お姉ちゃん……ほんとに行くの?」

「いい? ノイが先に荷台へ入って、防水布を少し開けて。私が杖を投げたら、上がるのを手伝ってね」

「お姉ちゃんが落ちたら?」

「落ちないように服を引っぱって!」

 

 ノイは唇を噛み、何度も頷いた。

 

「私、ちゃんとやる」

「うん。じゃあ、ついてきて」

 

 二人は雨の中を駆け出した。

 

 ノイが先に荷台へ潜り込み、防水布の端を持ち上げる。ロローリャは杖を投げ込んでから右手で縁を掴み、義足を木箱にかけた。濡れた手が滑りかけたところで、ノイが内側から服を掴み、必死に引っ張り上げる。

 

 荷台には鉄と濡れた木の匂いがこもっていた。二人は配管の束と木箱の間に身体を押し込み、防水布を元に戻した。

 

 しばらくすると、外で「通れるぞ!」と声が上がった。崩れた道路を片側交互で通すらしく、前の車から動かせと運転手たちが怒鳴り合っている。

 

 やがて足音が荷台へ近づいてきた。

 

 ロローリャは唇に人差し指を当て、ノイにも身を縮めるよう促した。防水布が一瞬持ち上がり、雨の白い光が差し込んだかと思うと、濡れた雨具が投げ込まれて木箱に当たった。

 

 運転席の扉が閉まり、トラックが大きく揺れた。

 

 車列は進んでは止まり、また進んだ。崩落現場を抜けるころには雨足も少し弱まっていたが、その先も大型車が連なり、トラックは長い時間をかけて山道を南へ進んでいった。

 

 すっかり暗くなったころ、車は再び速度を落とした。防水布の隙間から覗くと、雨に濡れた広場に何台もの貨物車が並んでいる。国境手前の待機場らしく、周囲のエンジン音が次々と消えていった。

 

 二人は残っていた饅頭を少しずつ分け合い、木箱にもたれて夜を明かした。

 

 翌朝、外が運転手たちの声で騒がしくなった。エンジンがかかり、トラックは大きく揺れながら動き出す。

 

 しばらく進んだところで再び停車した。外では書類をめくる音と運転手の短い返事が聞こえ、誰かが荷台を拳で叩いた。木箱を伝わってくる振動に、ノイがロローリャの服を握りしめる。

 

 やがて検問の男が短く笑い、運転手が何か言い返したあと、トラックは再び走り出した。

 

 どれほど進んだころだろう。外から聞こえる言葉の調子が変わり、中国語に交じって柔らかなラオ語が聞こえはじめた。

 

 国境を、越えたのだ。

 

 荷台の暗がりで、ノイが小さく手を伸ばしてきた。ロローリャはその温かな手をそっと握り返した。

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