欠月剣娘百越譚   作:宙うし

14 / 28
6.密航

 雨は、森の奥から追いかけてくるように降り出した。

 

 はじめは遠い葉擦れのような音だったが、沢へ下るころには竹の葉を叩く雨粒が増え、森全体が白く煙っていく。ロローリャはノイを前に行かせ、ぬかるむ斜面を慎重に下りた。木々が薄くなるにつれ、雨音の向こうに車の走行音が混じりはじめる。

 

「ノイ、村の名前って分かる?」

「ムアンロンって町の近く。山の上……アカの村」

「その町まで行ければ、家まで帰れるかな?」

「たぶんムアンロンに着けば、村のこと誰か知ってると思う。市場の人とか、薪を運ぶ人とか」

「じゃあ、まずはラオスに行かないとだね」

 

 ロローリャが気安く言うと、ノイは心配そうに顔を上げた。

 

「国境、越えられるの……? 見つかったらどうしよう」

「怒られるね。たぶん、もうちょっと面倒なことになるかも。でも大丈夫だよ。私、こういうの三回目だからさ」

 

 ノイはパチパチと目を瞬かせた。

 

「三回も?」

「少なくともね。昆明から追い出されてベトナムへ行って、ハイフォンからまた中国へ戻って、今度はラオス。中国の国境なんて、もう顔なじみみたいなもんだよ」

「国境に顔なじみなんてあるの?」

「ないけど、そう思っておいたほうが歩きやすいでしょ」

 

 ノイは少しだけ頬を緩めたものの、すぐにまた不安が勝ったのか息を細く震わせた。ロローリャはそんなノイの頭を軽く撫でる。

 

「ノイ。ほんとうは私も平気じゃないよ。でも、怖がってても仕方ないでしょ」

 

 二人は森を抜け、磨憨(モーハン)へ向かう太い道へ出た。雨の中をしばらく歩くと、トラックの溜まり場が見えてきた。給水の管、修理小屋、油臭い食堂、雨ざらしの臨時駐車帯が道沿いに並び、大型車が濡れた車体を連ねている。

 

 ロローリャは道端の小さな店で、残っていた金を手のひらへ広げた。雨でふやけた紙幣と小銭をかき集めて買えたのは、固くなりかけた饅頭が三つ、茶叶蛋(チャーイエダン)が二つ、ぬるい豆乳が一袋だけだった。

 

 店の女は小銭を数え、濡れた髪を頬に貼りつかせたノイを見た。それからロローリャの義足と空の袖口へ目を落とし、黙って饅頭をもう一つ袋へ入れた。

 

「え、いいの?」

「濡れた子どもを見たら、一つくらいまける日もあるよ。早く食べな、冷めるともっと固くなるから」

「やった! ノイ、こっち食べなよ」

 

 ロローリャは余分に入った饅頭をすぐノイへ渡した。ノイは両手で受け取り、店の女に小さく頭を下げた。

 

「谢谢(ありがとう)」

「いい子だね。ほら、これも少し持っていきな」

 

 女は酸腌菜(スワンイェンツァイ)を紙に包み、袋の底へ押し込んだ。

 

「これは売り物じゃないよ。うちの昼の残りさ」

「じゃあ、遠慮なくもらうね」

「最初から遠慮する顔じゃなかっただろ」

 

 ロローリャはいたずらっぽく笑い、袋を抱え直した。

 

「ばれてたか」

「その顔で遠慮されたら、こっちが調子狂うよ。食べさせる方にも徳がつくんだから、黙って食べな」

 

 ノイは饅頭に塩漬けの菜を少し挟み、一口食べて目を丸くした。

 

「お姉ちゃん、これ、おいしい」

「当たりだね。この店、饅頭と茶卵だけじゃなくて、仏様の慈悲まで置いてあるんだ」

 

 女は呆れたように笑った。

 

「そんな大層なもの、うちの棚には置いてないよ」

「じゃあ奥に隠してるんだ。出し惜しみしないんだから、いい店だよ」

「あれまぁ、なんて娘だい! 褒めたって、もう饅頭は増えないよ」

「谢谢、阿姨(おばちゃん)。ほんとに助かったよ」

 

 ロローリャはそう言うと茶卵の殻を割り、半分をノイへ渡した。饅頭は固く豆乳は薄かったが、腹に入ると身体の奥へ熱が戻ってくる。

 

 軒下の奥で古いラジオが鳴っていた。雑音まじりの中国語が、同じ地名を何度も繰り返している。ロローリャははじめ聞き流していたが、やがて耳を澄ませた。雨で磨憨へ向かう道の一部が不通になったらしい。山側で土砂崩れが起き、国境へ向かう貨物車が足止めされているのだ。復旧は天気次第で、通関待ちの車は指定場所で待機するよう呼びかけていた。

 

 店の女が軒の外を見て眉をひそめる。

 

「天もひどいことをするねぇ」

 

 ロローリャは白く煙る道を見た。雨の向こうで、大型車のエンジン音がいくつも重なっている。貨物車が道沿いに何台も止まり、濡れた車体から水を滴らせていた。

 

「外、トラックが多いね。同じマークの車ばっかり停まってる」

「ああ、あれはボーテンへ行く車だよ。開発の資材を運ぶやつさ。山の向こうで倉庫だの道だの、どんどん作ってるからねぇ」

「お姉ちゃん、ボーテンってどこ?」

 

 ノイが見上げると、答えるより先に店の女が軒の外を指さした。

 

「ラオス側の国境の町だよ、お嬢ちゃん。いまあっちじゃ中国の会社が大きくやってるのさ。ほら、あの字。『瑞境』って書いてあるだろ。ここじゃよく見る車だよ」

「へえ。あれが国境を越えるんだ」

「道が動けばね。今日は山が崩れたから、みんな足止めさ」

 

 女はそこで話を切り、奥の鍋へ戻っていった。ロローリャは袋の口を縛り、残った茶卵をノイの手へ押しつける。

 

「食べて。……あれにするよ」

「あれって、あの大きい車?」

「うん。国境を越える車にこっそり乗るんだよ、ノイ」

「見つかっちゃわないかな……」

「昔、ベトナムで聞いたことがあるの。あっちのほうで好き勝手やってる大きい会社があるって。あの会社の車なら、きっと細かくチェックされないよ。ボーテンの開発資材なら手続きも通ってるはずだし、雨で車が詰まってる時にいちいち全部検査しないでしょ」

 

 ノイは雨に濡れた車列を見つめた。

 

「布のかかった荷台を探そう。荷物の間に入って、向こうに着くまでじっとしてるの。いいね?」

 

 雨はさらに強まり、軒先から落ちる水が白い筋になっていた。

 

 足場材、木箱、セメント袋、梱包された機械部品。荷台には青や緑の防水布がかかり、泥はタイヤの半分まで跳ね上がっている。雨具を着た男たちが煙草を吸い、携帯電話で怒鳴り、車列が動かないことに苛立っていた。

 

 ロローリャは物陰から一台ずつ観察した。小さな車は人の目が近い。扉の閉まったコンテナには入れない。果物を積んだ車は匂いが強く、人が何度も荷を確かめるだろう。

 

 やがて目に留まったのは、鉄の配管と木箱を積んだ大型トラックだった。フロントガラスにはラオス側の通行許可らしい紙が挟まれ、荷台の横板には、白いチョークで引かれた検査済みの印が雨に滲んでいる。運転手たちは食堂の軒下で、雨を眺めながら丼をかき込んでいた。

 

「お姉ちゃん……ほんとに行くの?」

 

 ノイが雨の向こうを見ながら尋ねると、ロローリャは杖を握り直した。荷台を叩く雨音が強く、声も足音も打ち消してくれる。車列が止まっている今なら、荷の番をする者の目も散っていた。

 

「いい? ノイが先に荷台へ入って、防水布を少し開けて。私が杖を投げたら、上がるのを手伝ってね」

「お姉ちゃんが落ちたら?」

「落ちないように服を引っぱって!」

 

 ノイは唇を噛み、何度も頷いた。

 

「私、ちゃんとやる」

「うん。じゃあ、ついてきて」

 

 二人は雨の中を駆け出した。泥水が足首を叩く。ノイが先に荷台へ潜り込み、シートの端を両手で押し上げた。ロローリャは杖を荷台へ投げ込むと片腕で縁を掴み、義足を木箱にかけて身体を引き上げる。背中に雨が打ちつけ、手の皮が裂けそうになったが、ノイが内側から必死に服を掴んで引っ張った。

 

 荷台の中は、鉄と濡れた木箱の匂いがこもっていた。配管の束と木箱のあいだに狭い隙間を見つけ、二人はそこへ身体を押し込む。ロローリャはシートの端を元に戻し、杖を胸の前で抱え込んだ。外の雨音が途端に遠くなり、男たちの声が布越しに低く潰れる。

 

 しばらくして「通れるぞ!」と誰かが叫び、別の男が電話に向かって怒鳴り返した。崩れた場所を片側交互で通すらしい。前の車から動かせ、急げ、と罵声が飛び交い、足音が泥を叩いて近づいてきた。

 

 ロローリャは唇に人差し指を当て、震えるノイへ黙っているよう示した。運転席の扉が閉まる重い音が響き、男が荷台の横へ回ってきた。シートの端が一瞬だけ持ち上がり、雨の白い光が細く差し込む。濡れた雨具が放り込まれ、木箱に当たってドサリと重い音を立てた。

 

 やがてトラックが大きく揺れ、動き出した。止まり、進み、また止まる。崩落現場を抜けても車列はなかなか進まなかったが、トラックは雨の山道に入り、長い時間をかけて南へ進んでいった。

 

 すっかり外が暗くなった頃、トラックは再び速度を落とした。シートの隙間から覗くと、雨に濡れた広場に何台もの貨物車が並んでいる。国境手前の待機場らしい。エンジンの音がひとつ、またひとつと消え、荷台の中は急激に冷え込んでいった。

 

 二人は残っていた饅頭を少しずつ分け合い、木箱にもたれて静かに夜を明かした。

 

 朝になると、外で男たちの交わす声が戻ってきた。エンジンが次々にかかり、自分たちの乗るトラックも低く唸りを上げる。大きく揺れながら進み、やがて検問らしい場所で沈み込むように停車した。

 

 男の足音が近づき、書類をめくる音に運転手の短い返事が重なる。誰かが確認のためか荷台を拳で叩くと、鈍い振動が木箱を伝って腹の底まで響いた。

 

 検問の男が短く笑い、運転手が何か言い返した次の瞬間、トラックは再び進み始めた。濡れた舗装路をタイヤが転がる重い音が、荷台の下から心地よく響いてくる。

 

 それからしばらくして、外から聞こえる言葉の調子が変わった。中国語の怒鳴り声の合間に、柔らかなラオ語が混じりはじめる。

 

 国境を、越えたのだ。

 

 荷台の暗がりの中、ノイが小さく手を伸ばしてきた。ロローリャは音を立てないよう、その温かい小さな手のひらを自分の手でそっと包み込んだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。