欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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7.ノイの帰郷

 国境を越えると、二人は人目の少ない修理小屋の前で荷台から抜け出した。運転手が車の下を覗き込む隙に、ノイが先に降り、ロローリャの杖を受け取る。泥に足をつけると、ノイは大きく息を吸い、遠くの山を見た。

 

「お姉ちゃん、こっちこっち」

 

 ラオスに入ってからは、ノイが少しずつ前へ出た。市場の端で飲み物を売る女に、青果を積んだバイクの男に、ムアンロンへ向かう車をどこで拾えるか聞いて回った。やがて、荷台に籠を積んだ小型トラックの運転手を見つけた。

 

「ムアンロンのほうへ行きますか? 途中まででもいいので、乗せてください。お願いします」

「ムアンロンまでは行かんが、ナーテウイまでなら乗せてやれる。そこからルアンナムターへ行く車を探しな」

「ありがとう」

「ほら、揺れるから、しっかり掴まれよ」

 

 運転手はそう言って、荷台の籠を脇へ寄せた。ノイはほっと息をつき、ロローリャのほうを振り返った。

 

「途中まで乗せてくれるって」

「ラオスの人も親切だね。それにノイが車を見つけてくれるから、本当に早いよ」

「私もお姉ちゃんの力になりたいから。そうだ、家についたら、みんなに紹介するね。虎より強いお姉ちゃんだよって」

 

 ノイは先に荷台へ上がった。森の中で震えていた子が、いまは自分の言葉で道を開いている。ロローリャはその背中を見上げ、胸の奥に小さな熱が差すのを感じた。けれど口には出さず、杖を板へかけて身体を引き上げた。

 

 ナーテウイの分岐で降ろされると、二人はまた道端に立った。次は通りがかりの車に拾われ、ルアンナムター、ムアンシン方面と乗り継いだ。ムアンロンの町へ着いたころには、日が山の端へ傾きかけていた。

 

 ノイは町で村の名を出して帰り道を探し、薪を積んだ古い車に乗せてもらった。

 

 町を離れると、道はすぐに赤い山道になった。陸稲の畑が斜面に貼りつき、竹壁の家が谷に沿って散っている。ノイは小川の曲がりや、遠くに見える大きな木を目印にして、身を乗り出した。

 

「もう少しだよ」

 

 やがて、坂の上に一軒の家が見えた。

 

「やっと、帰ってこられた」

 

 ノイの家は、斜面に寄りかかるように建っていた。草葺きと古いトタンを重ねた屋根の下で、痩せた鶏が土を掻き、戸口のそばには薪が積まれている。

 

 ノイが一歩踏み出すと、家の中から女が出てきた。はじめは見知らぬ二人を見る目だった。だが、ノイだと分かった瞬間、女の口元が震えた。

 

「ノイ……」

 

 母が、かすれた声でノイの名を呼んだ。すると家の奥で物音がし、父も戸口に姿を見せた。

 

「ノイ! 帰ってきたのか。どうしたんだ、その格好は? 仕事はどうなった? それに、その人は誰だ?」

 

 ノイは父の顔まで目を上げきれず、小さく答えた。

 

「……逃げてきたの」

 

 父母の顔がこわばった。ノイはロローリャの服の端を握り、ようやく言葉を継いだ。

 

「仕事は、家事の手伝いなんかじゃなかった。だまされて、遠くへ連れていかれて、閉じ込められて……逃げようとしたら、殴られたの。ロローリャお姉ちゃんが助けてくれて、ここまで連れてきてくれたんだよ」

「そんな。まさか!」

 

 母の顔から血の気が引いた。父は何か言いかけ、坂の下へ目をやった。家の前には、すでに近所の者が何人か足を止めている。

 

「と、とにかく、中に入りなさい。村のみんなも見ているし」

 

 父の視線が、ロローリャの欠けた腕と義足に移った。どう扱えばよいか分からない目だったが、ノイがそのそばを離れようとしないのを見ると、少し声を改めた。

 

「さあ、あんたも上がってくれ」

 

 家の中は狭かった。竹を割った床はところどころ黒ずみ、炉の煙が低い屋根裏に染みついている。壁際には編みかけの籠と欠けた椀が重ねられ、米の甕は軽そうに口を開けていた。弟妹たちは戸口の陰に寄り、母の腰にすがるようにしてノイを見ていた。

 

 母はノイを座らせると、すぐに肩を抱いた。父は炉の向こうに腰を下ろしたが、膝の上の手を落ち着きなく握ったり開いたりしている。

 

「詳しく聞かせてくれ。いままで、どうしていたんだ」

 

 ノイは唇を動かしたが、すぐには言葉にならなかった。母の服を握り、目を伏せる。

 

「その……」

 

 言いよどむノイの横で、ロローリャが顔を上げた。

 

「中国にさ、売り飛ばされたんだよ、この子」

 

 二人が同時にロローリャを見た。

 

「町の金持ちの家なんかじゃない。小屋に閉じ込められてた。もう少し遅かったら、薬を打たれて、客を取らされて、死ぬまで働かされるところだったんだよ」

「そんな話は聞いてないぞ!」

 

 父は思わず声を荒げた。

 

「本当のことなんか、あいつら人買いが言うわけないでしょ」

「そんな……私たちはてっきり、いいところで働いているとばかり。ノイ、ごめんね。ごめんね」

 

 母はノイを強く抱きしめた。

 

──ユニセフが支援したラオスの児童人身取引調査では、父母が子どもを売ったと明確に認識していた例は、前面には出てこない。報告書に現れる多くの父母は、子の身を案じ、騙されたことを悔やみ、帰ってくることを願っている。ただし、子を売ったのではなく、働きに出した。家計を助けるために、よい働き口へ送ったはずなのに。そういう認識である。

 

「隙を見て逃げ出したの。どこを走っているか分からなくなって、山の中で迷って……」

 

 そこで声が細くなった。逃げた夜の闇が戻ってきたように、ノイの肩が小さく震えた。

 

「そしたら、お姉ちゃんが助けてくれたの」

 

 それからノイは、ロローリャと森で過ごした日々を話した。白い猿のこと。象の群れのこと。虎が現れたこと。夜の森をどれだけ歩いたか。何を食べ、どこで眠ったか。話が進むほど、弟妹たちは息を詰めて聞き入り、父母は言葉を失っていった。

 

「そんなことが……」

 

 父はようやく、それだけ言った。

 

 母はノイを抱いたまま、ロローリャへ何度も頭を下げた。

 

「ロローリャさん、ありがとう。ノイを連れて帰ってくれて、本当にありがとう」

 

 その腕は、二度とノイを離すまいと固くこわばっていた。母はノイを失いかけたことを、いまになって身体で知ったようだった。

 

 その晩、母は残っていたもち米を蒸し直し、干した魚を少し炙った。皿は足りず、弟妹たちは葉の上に分けられた飯を、膝を寄せ合って食べた。ノイの前にはいちばん大きなかたまりが置かれたが、ノイはすぐにそれを二つに割り、妹の手にのせた。

 

「姉ちゃん、それ、姉ちゃんのだよ」

 

 妹が言うと、ノイは首を振った。

 

「いいの。わたし、山でいっぱい食べたから」

「嘘だー、山にもち米なんかないよー」

 

 弟があまりに真面目な顔で言うので、母がふっと息を漏らした。妹もつられて笑い、弟は自分が笑われたと気づいて頬をふくらませた。

 

「嘘じゃないよ。ロローリャお姉ちゃんが、変な実をくれたの」

「変な実?」

「すっぱくて、口がしわしわになるやつ」

 

 ノイが口をすぼめて見せると、弟妹たちは声を立てて笑った。

 

(ノイ……。本当によかった)

 

 火の明かりの中で、ノイは弟妹に囲まれ、久しぶりに子どもの顔で笑っていた。母はその横顔を何度も見つめ、父も黙って飯を噛みながら、ときおりノイへ目をやった。そこには、たしかに親の情があった。

 

 ロローリャはその光景を、少しまぶしいもののように見ていた。家族というものを持たずに生きてきた彼女にとって、父や母や弟妹が同じ火を囲む姿は、遠い灯のようなものだった。冷静に見れば、この家には、安心できることなどほとんどない。それでもノイが父母のもとで笑っているなら、今夜だけはそれでよいように思えた。

 

 夜が更けると、母は壁際に蚊帳を吊り、弟妹たちをその中へ押し込んだ。ノイも妹の隣に入ったが、しばらく目を開け、こちらを見ていた。ロローリャには炉に近いところへ古い敷物が出された。客にいちばん暖かい場所を譲ったつもりなのだろう。竹壁の隙間から夜気が入り、灰の底では赤い火が細く息をしていた。

 

 ロローリャがうとうとしかけたころ、床板が低く鳴った。父と母が、そっと戸口へ出ていく。外の張り出しに腰を下ろしたらしく、声は竹壁越しに途切れ途切れに聞こえた。

 

「このまま家に置いてやりたいよ」

 

 母の声だった。

 

「置いてやって、どうする。あの連中が来たら、金を返せと言う。返す金はないぞ」

「あんな目にあって、やっと帰ってきたばかりなのに」

「分かってる。だから困ってるんじゃないか。クソっ! 政府に言われたからって、ほいほい移り住むんじゃなかった」

「はぁ……。私も、誰かに聞いてみるよ。今度は信用できる人に頼んで、ノイを雇ってくれるところを探そうじゃないか」

 

 言葉はそこで途切れ、虫の声に混じった。蚊帳の奥では、ノイが弟妹に挟まれて眠っている。顔は見えない。ただ、寝返りを打つたびに竹の床が小さく鳴った。

 

 ロローリャは目を閉じたまま、灰の匂いを吸った。さっきまであたたかく見えていた家族の火が、急に細く、頼りないものに見えた。

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