国境を越えると、二人は人目の少ない修理小屋の前で荷台からこっそり抜け出した。運転手が車の下を覗き込む隙に、ノイが先に降り、ロローリャの杖を受け取る。泥に足をつけると、ノイは大きく息を吸い込み、はるか遠くの山並みを仰いだ。
「お姉ちゃん、こっちこっち」
ラオスに入ってからは、ノイが頼もしく前へ出た。市場の端で飲み物を売る女や、青果を積んだバイクの男に、ムアンロンへ向かう車をどこで拾えるのか聞いて回った。やがて、荷台に籠を積んだ小型トラックの運転手を見つけた。
「ムアンロンのほうへ行きますか? 途中まででもいいので、乗せてください。お願いします」
「ムアンロンまでは行かんが、ナーテウイまでなら乗せてやれるよ。そこからルアンナムター行きの車を探すといい」
「ありがとうございます!」
「ほら、揺れるから、しっかり掴まれよ」
運転手はそう言って、荷台の籠を脇へ寄せた。ノイはほっと息をつき、ロローリャを振り返る。
「途中まで乗せてくれるって」
「ラオスの人も親切だね。それにノイが車を見つけてくれるから、本当に早いよ」
「私もお姉ちゃんの力になりたいから。そうだ、家についたら、みんなに紹介するね。虎より強いお姉ちゃんだよって」
ノイは先に荷台へ上がった。森の中で震えていた子が、いまは自分の言葉で道を開いている。ロローリャはその背中を見上げ、胸の奥に小さな熱が差すのを感じた。
ナーテウイの分岐で降ろされると、二人はまた道端に立った。通りがかりの車に拾われ、ルアンナムター、ムアンシン方面と乗り継ぐ。ムアンロンの町へ着いたころには、日の光が山肌を赤く染め始めていた。
ノイは町で村の名前を出しながら帰り道を探し、最後は薪を積んだ古いトラックに乗せてもらった。
町を離れると、道はすぐに赤い山道になった。陸稲の畑が斜面に貼りつき、竹壁の家が谷に沿って散っている。ノイは小川の曲がりや、遠くに見える大きな木を目印にして、身を乗り出した。
「もう少し……もう少しだよ!」
やがて、坂の上に一軒の家が見えた。草葺きと古いトタンを重ねた屋根の下で、痩せた鶏が土を掻き、戸口のそばには薪が積まれている。
ノイが一歩踏み出すと、家の中から女が出てきた。はじめは見知らぬ二人を警戒するように眺めていたが、それが娘だと気づいた瞬間、女の口元が激しく震え出した。
「ノイ……?」
母がかすれた声を絞り出すと、奥で激しい物音がして父も躍り出てきた。
「ノイ! 帰ってきたのか!? どうしたんだその格好は、仕事はどうした? それに……その人は誰だ?」
「……逃げてきたの」
父母の顔から瞬時に血の気が引く。ノイはロローリャの服の裾をぎゅっと握りしめ、言葉を絞り出した。
「仕事は、家事の手伝いなんかじゃなかった……! だまされて遠くへ連れていかれて、閉じ込められて……逃げようとしたら殴られたの。ロローリャお姉ちゃんが助けてくれて、ここまで連れてきてくれたんだよ!」
「そんな……まさか!」
父は何か言いかけ、焦ったように坂の下へ目をやった。すでに近所の住民が何人か立ち止まり、こちらを遠巻きに窺っている。
「と、とにかく、中に入りなさい。村のみんなも見ているし」
父の目がロローリャの欠けた左腕と義足に移った。戸惑いを隠せぬ様子だったが、ノイがその側にぴたりと寄り添うのを見て、少し声を和らげた。
「……あんたも上がってくれ」
家の中は狭く、竹を割った床はところどころ黒ずみ、炉の煙が低い屋根裏を燻していた。壁際には編みかけの籠と欠けた椀が重ねられ、米の甕は虚しく口を開けている。弟妹たちは戸口の陰に寄り、母の腰にしがみついたままノイを凝視していた。
母はノイを座らせるなり、その肩を折らんばかりに抱きしめた。父は炉の向こうに腰を下ろしたものの、膝の上の手を落ち着かなく握っては開いている。
「詳しい話を聞かせてくれ。今までどうしていたんだ……?」
「その……」
言い淀むノイの隣で、ロローリャが静かに口を開いた。
「中国にさ、売り飛ばされたんだよ、この子。町の金持ちの家なんかじゃない。小屋に閉じ込められてた。もう少し遅かったら、薬を打たれて、客を取らされて、死ぬまで働かされるところだったんだよ」
「そんな話は聞いてないぞ……!」
「本当のことなんて、あいつら人買いが言うわけないでしょ!」
「そんな……私たちはてっきり、良いところで働いているとばかり……ノイ、ごめんね、ごめんね……」
──ユニセフが支援したラオスの児童人身取引調査では、父母が子どもを売ったと明確に認識していた例は、前面には出てこない。報告書に現れる多くの父母は、子の身を案じ、騙されたことを悔やみ、帰ってくることを願っている。ただし、子を『売った』のではなく、働きに出した。家計を助けるために、『よい働き口へ送った』はずなのに。そういう認識である。
「隙を見て逃げ出したの。どこを走っているか分からなくなって、山の中で迷って……そしたら、お姉ちゃんが助けてくれたの」
それからノイは、ロローリャと森で過ごした日々を話した。白い猿のこと。象の群れのこと。虎が現れたこと。夜の森をどれだけ歩いたか。何を食べ、どこで眠ったか。話が進むにつれ、弟妹たちは息をのんで聴き入り、父母は言葉を失っていった。
「そんなことが……」
父はようやくそれだけを絞り出した。母はノイを抱きしめたまま、ロローリャへ何度も頭を下げた。
「ロローリャさん、ありがとう。ノイを連れて帰ってくれて、本当にありがとう」
その腕は、二度と娘を離すまいと固くこわばっていた。娘を失いかけていた事実を、今になってようやく肌で理解したようだった。
その晩、母は残っていたもち米を蒸し直し、干した魚を少し炙った。皿は足りず、弟妹たちは葉の上に分けられた飯を膝を寄せ合って食べた。ノイの前にはいちばん大きなかたまりが置かれたが、ノイはすぐにそれを二つに割り、妹の手にのせた。
「姉ちゃん、それ、姉ちゃんのだよ」
「いいの。わたし、山でいっぱい食べたから」
「嘘だー! 山にもち米なんてないよー!」
弟があまりに真面目な顔で言うので、母がふっと息を漏らした。妹もつられて笑い、弟は自分が笑われたと気づいて頬をふくらませた。
「嘘じゃないよ。ロローリャお姉ちゃんが、変な実をくれたの」
「変な実?」
「すっぱくて、口がしわしわーってなるやつ!」
ノイが口をすぼめて見せると、弟妹たちは声を立てて笑った。
(ノイ……。本当によかった)
囲炉裏の明かりの中で、ノイは弟妹に囲まれ、久しぶりに子どもらしい笑顔を見せていた。母はその横顔を何度も愛おしそうに見つめ、父も黙って飯を噛み締めながら時折ノイに目をやっている。そこには確かに親の情があった。
ロローリャはその光景を、どこか眩しいものを見る目で見つめていた。家族を持たずに生きてきた彼女にとって、親と子が同じ火を囲む姿は、遠い灯火のように映る。冷静に見れば、この家には安心できる要素など何一つない。それでもノイが父母の元で笑えているなら、今夜だけはそれでいいと思えた。
夜が更けると、母は壁際に蚊帳を吊り、子供たちを寝かせた。ロローリャには炉に近いところへ古い敷物が出された。客にいちばん暖かい場所を譲ったつもりなのだろう。竹壁の隙間から夜気が入り、灰の底では赤い火が細く息をしていた。
ロローリャがうとうとしかけたころ、床板がギィと低く鳴った。父と母がそっと戸口へ出ていく。外の張り出しに腰を下ろしたらしく、ひそひそ声が竹壁越しに届いた。
「このまま家に置いてやりたいよ……」
「置いてやってどうする!? あの連中が来たら金を返せと言われるぞ。返す金なんてどこにある!」
「あんな目に遭って、やっと帰ってきたばかりなのに……」
「分かってる! だから困ってるんじゃないか。クソっ……政府に言われたからって、ほいほい移り住むんじゃなかった」
「はぁ……。私も、誰かに聞いてみるよ。今度は信用できる人に頼んで、ノイを雇ってくれるところを探そうじゃないか」
言葉はそこで途切れ、虫の音にかき消された。蚊帳の奥では、ノイが弟妹に挟まれて眠っている。顔は見えないが、寝返りを打つたびに竹の床が小さく鳴った。
ロローリャは目を閉じたまま、灰の匂いを深く吸い込んだ。
さっきまで温かく見えていた家族の火が、急に小さく、儚いものに思えた。