欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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8.仕事

 翌日、ノイは朝から家の手伝いをした。水を汲み、妹の髪を梳き、炉の火を見て、母が畑へ出る支度をする間に弟たちへもち米を分けた。ロローリャは戸口に座り、杖を膝へ置いてそれを見ていた。

 

「ノイ、もう少し休んだら。まだ昨日帰ってきたばかりでしょ」

 

 ノイは火吹き竹を持ったまま振り返った。

 

「でも家のことだから。戻ってきたなら、私もやらないと」

 

 そう言って、ノイは灰の中へ火を寄せた。家には、ノイの居場所とともに、ノイの役目も待っていた。米の少なさ、母の手の荒れ、腹を空かせる弟妹たち。戻ってきたそばから、ノイは家の苦しさをまた自分の肩にのせようとしていた。

 

 ロローリャは、前から気になっていたことを訊いた。

 

「ノイを連れていった男から受け取ったお金、まだ残ってるの?」

 

 父の肩が小さく揺れた。

 

「米を買ったんだよ。それに、下の子が赤痢になったから、薬も買った。塩も、油も、ずっと足りなかった。もともとの借金の返済にもあてたし、もうほとんど残ってないんだ」

「それ、ノイの給料の前払いでしょ! かわいそうに。まだ十二歳なのに、あなたたち親の代わりに借金を背負わされて」

 

──親に渡された金は、支度金、給金の前払い、紹介料、預かり金など、さまざまな名で説明される。しかし実態としては、雇用主が親に払った金は、あとで子の給料から差し引かれ、被害者本人は「知らない借金」として背負わされている。給料が出ればまだましなほうであり、多くの場合、子どもはただ働かされ、暴力によって黙らされ、逃げればさらに迷惑料を請求される。

 

「そうは言っても、俺たちは見ての通りの生活さ。政府に言われて移り住んでから、まとまった金は入らなくなった。どの家も子どもは働きに行っている。正直に言えば、もしノイがあの男たちに見つかって、金を返せと言われても、どうにもならないんだ」

 

 父は炉の灰を見ながら続けた。

 

「だから、あまり長くはノイを家に置いておけない。この先のことは、急いで考えないとな」

「娘だよ!!」

 

 ロローリャは思わず声を上げた。

 

「金じゃなくて、娘が帰ってきたんだよ。まず守ることでしょ」

 

 父はロローリャを見た。怒りを含んだ目が一度だけ強くなり、すぐ炉の灰へ落ちた。怒りの奥に、疲れと恥が混じっていた。

 

「守れるなら、そうしたいさ……」

 

 長い沈黙のあと、ノイはぽつりと言った。

 

「私、働く」

 

 母が息を呑んだ。

 

「ノイ……」

「お母さんが米を買えるなら、働く。弟たちが食べられるなら、それでいい」

 

──子が家族のために働きたいと思うことは、ラオスでは美徳である。親を助け、家を直し、弟妹を食べさせる。それは親孝行であり、責められるものではない。だが人身取引は、まさにその美徳につけこむ。善意があるからこそ、勧誘は成功する。

 

「前も、そう思った」

 

 ノイは小さく続けた。

 

「だから、泣かなかった。泣いたら、お父さんが困ると思ったし」

 

 父は顔を伏せた。炉の煙が細く上り、竹壁の隙間から入る風に折れた。

 

 ◇

 

 その夕方、畑から戻った母が、父と低い声で話していた。ロローリャは外で義足の革紐を直しながら、その名を聞いた。

 

「マニワン姉さんなら、ノイのことを頼めるかもしれないわ」

 

 父が顔を上げた。

 

「おお、マニワンか。あの人、まだ町にいるのか」

「前にファイサーイの店で働いていたし、仕事先の探し方も少しは分かるはずよ」

「それなら、話を聞いてみる価値はあるな」

 

 ノイが小さく顔を上げた。

 

「マニワンおばさん?」

「そう。前に祭りのとき、飴をくれたでしょう」

「赤い飴の人?」

「そう、その人よ」

 

 ロローリャは革紐を引く手を止めた。

 

「誰なの?」

「私の従姉よ」

 

 母がそう答えると、父の顔に少し明るさが戻った。マニワンは町を知っている。しかも親戚である。その二つだけで、家の中に行き先ができたように見えた。

 

 ロローリャも、つられて肩の力を抜いた。親族というものは、こういうときに頼れるものなのかと思った。困った家のために誰かが動く。そんなつながりを持たずに生きてきたロローリャには、それが頼もしく、少しまぶしかった。

 

 ◇

 

 三日目の昼前、坂の下から女の声がした。

 

「ノーン、いるかい」

 

 母が顔を上げた。

 

「マニワン姉さん」

 

 戸口に立った女は、ノイの母より少し年上に見えた。町で買った柄物の上着を着て、髪には安い飾りを挿している。マニワンは家へ入ると母の肩を抱いた。

 

「大変だったわね」

 

 それから、マニワンはノイの前にしゃがみ、頬についた泥を親指で拭った。

 

「ノイ、よく戻ったね。怖かったでしょう」

「……うん」

「怪我は?」

「ない」

「それならよかった」

 

 マニワンは炉のそばへ腰を下ろし、父のほうを見た。

 

「話は聞いたよ。ノイのこれからのことだね」

「そうだ。騙されたのは癪にさわるが、もしノイが見つかって、金を返せと言われてもどうしようもない」

 

 父は膝の上で指を組んだ。母が小さく言った。

 

「もう家に売るものもないのよ」

「わかってる。だから助けに来たんじゃないか。私が前に住み込みで働いてたファイサーイの服屋が売り子を探してるってさ。どうだい?」

「売り子?」

 

 ノイが顔を上げた。

 

「チェンコーンからタイの客がよく来るのよ。まぁ町の女も来るけどね。店の中で服を畳んで、客に見せて、値段を言うだけさ。赤いの、青いの、花の模様のも、きれいな服が山みたいに積んである」

 

 マニワンはノイの手を見た。

 

「あんたは手が早そうだから、すぐできるよ。最初は横で教えてもらえばいい」

 

 父の目が動いた。

 

「給金は?」

「月に五千バーツは出る。まじめにやれば、もっともらえるかも。店の二階に空いてる部屋があるからそこに住めるわ。食べ物は自分でなんとかしないといけないけどね」

「本当に子どもでもできるのか?」

「ノイの年なら大丈夫。それに私の紹介だよ。きっと無下にはされないさ」

 

 マニワンの視線がロローリャへ移った。

 

「あんた、ノイの恩人なんだってね。身寄りはあるのかい?」

「ない」

「行くところは」

 

 ロローリャは少し黙った。

 

「ない……」

「なら、あんたもどうだい? ノイ一人で行かせるより、あんたみたいに信用できる子が一緒のほうが、こっちも安心できる。店先に座って、客へ声をかける仕事だし、その体でもできると思うよ」

「客なら、呼べるよ! 宝くじの売り子をしたことがある」

 

 ロローリャの声は、マニワンの言葉に食い込むように出た。孤独な少女が、たった一人の身寄りを手放すまいとしている。その必死さが、声を少し高く張らせていた。

 

「なら十分だよ。よく見たら顔もいいし、声も通るね」

「本当に、ノイと一緒でいいの?」

「私はそのほうが安心さ。けど、店がどう言うかは聞いてみないとね」

「でも、私なんか雇ってくれるのかな。腕も脚も、これだよ」

「それはこれから聞いてみるさ」

 

 マニワンはカバンからスマートフォンを出した。村の炉端には場違いなほど平たい光が、黒い画面に浮かんだ。

 

「そこに立って。二人とも」

「写真?」

「店の人に見せるのさ。どんな子らか分かったほうが、向こうも返事をしやすいだろう」

 

 ノイは母に背を押され、戸口の明るいところへ立った。ロローリャは少し遅れて杖を突き、ノイの横へ並んだ。

 

「もっと寄って。そう。顔を上げて」

 

 光が一度、二度、二人の顔を切り取った。マニワンは画面を確かめ、指を滑らせてどこかへ送る。しばらくして、画面が短く震えた。マニワンは文字を読み、父と母へ顔を向けた。

 

「向こうもいいってさ。二人とも来ていいって」

「二人とも……」

 

 母はノイの髪を撫でた。

 

「この子を一人で出さずに済むのね」

「そういうことさ。年上の子が一緒なら、店も使いやすいって」

 

 父は炉の灰を見たまま、長く息を吐いた。

 

「マニワン、頼む」

「任せなさい。身内を悪いところへやるもんですか」

 

 そこからの話は早かった。朝一番にマニワンの手配した車が村の下まで迎えにくる。それに乗って、まずシエンコックの船着き場へ向かい、メコンを下ってファイサーイへ行く。荷物は着替えと食べ物だけでいい。マニワンは相手へ二度ほど電話をかけ、父は黙って聞き、母はノイの髪を撫で続けていた。

 

 ◇

 

 その夜、屋根の隙間から細い月の光が落ちていた。ノイは不安と浮き立つ気持ちが混ざり、なかなか眠れずにいた。ロローリャがそばへ来ると、布団の端を少し持ち上げた。

 

「お姉ちゃん、本当に一緒に来てくれるの?」

「うん。そのつもり。……ダメだった?」

「ううん。ダメじゃない。私、お姉ちゃんと一緒がいい」

「よかった。私も、ノイと離れるのは嫌だった」

 

 ノイは布団の中で、ほっとしたように笑った。

 

「服屋さんかぁ」

「マニワンおばさん、店に立つ服は、向こうで借りられるって言ってたね」

「じゃあ……きれいなの、着れるのかな。赤いのとか、青いのとか? 花の模様のもあるって言ってたね」

「お姉ちゃんは、赤が似合いそう。ぱっとしてるから」

「そう? 赤かぁ、似合うかな? ノイはどんな服がいいの?」

「私は……ええと、動きやすいやつがいい」

「えー、服屋さんでそれ言う?」

「だって、転んだら嫌だし」

 

 ノイが真面目な顔でそう言うので、ロローリャは小さく笑った。まだ見たこともない店のことを話しているだけなのに、そこには赤や青の布が本当に積まれているように思えた。

 

「それは、まあ……分かるけど。でも、店に立つなら、きれいなのにしないと。お客さんに見られるんだから。あ、この子いいなって思ってもらわないと、買ってくれないよ」

「じゃあ、私もきれいなのにする」

「うん。きっとノイは、小さい花の模様が似合うよ。白い布に、青い花がついてるやつ」

「じゃあ、お姉ちゃんは赤で、私は青?」

「いいんじゃないかな」

 

 ノイは少し考えてから、ロローリャの袖をそっと掴んだ。

 

「でも、やっぱり私、お姉ちゃんとおそろいがいいな」

「じゃあ、少しだけ同じにしようよ。袖のところとか」

「店の人に怒られないかな」

「少しだけなら、分からないよ」

 

 ロローリャは、その手を握り返した。

 

「一緒にいられるの、うれしい」

「私も」

 

 ロローリャは答えてから、少し遅れて照れた。ノイは袖を掴んだまま、目を伏せていた。スラムを彷徨い、路地で声を張り、森の中で義足を引きずって生きてきたロローリャにとって、川沿いの服屋に立つ未来は、見たこともないほど明るく見えた。きれいな布に囲まれ、ノイと並んで客を迎える。その明日を思うだけで、胸の奥が少しずつ膨らんだ。ロローリャは、まだ十七歳だった。

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