翌日、ノイは朝から甲斐甲斐しく家の手伝いをした。水を汲み、妹の髪を梳き、炉の火の面倒を見ながら、母が畑へ出る支度をする間に弟たちへもち米を分ける。ロローリャは戸口に座り、膝に置いた杖に手を添えてその姿を眺めていた。
「ノイ、もう少し休んだら。まだ昨日帰ってきたばかりでしょ」
「でも家のことだから。戻ってきたなら、私もやらないと」
そう言って、ノイは灰の中へ火種を寄せた。家には、ノイの居場所とともに、ノイの役目も待っていた。米の少なさ、母の手の荒れ、腹を空かせる弟妹たち。戻ってきたそばから、ノイは家の苦しさをまた自分の肩にのせようとしていた。
ロローリャは、ずっと気にかけていたことを父に尋ねた。
「ノイを連れていった男から受け取ったお金、まだ残ってるの?」
「……米を買ったんだよ。それに、下の子が赤痢になったから、薬も買った。塩も、油も、ずっと足りなかった。もともとの借金の返済にもあてたし、もうほとんど残っちゃいない」
「それ、ノイの給料の前払いでしょ! かわいそうに……まだ十二歳なのに、親の代わりに借金を背負わされてさ!」
──親に渡された金は、支度金、給金の前払い、紹介料、預かり金など、さまざまな名で説明される。しかし実態としては、雇用主が親に払った金は、あとで子の給料から差し引かれ、被害者本人は「知らない借金」として背負わされている。給料が出ればまだましなほうであり、多くの場合、子どもはただ働かされ、暴力によって黙らされ、逃げればさらに迷惑料を請求される。
「そうは言っても、俺たちは見ての通りの生活さ。政府に言われて移り住んでから、まとまった金は入らなくなった。どの家も子どもは働きに出ている。正直に言えばな、もしあの男たちがノイを見つけて『金を返せ』と押しかけてこられたら、俺たちにはどうすることもできんのだ」
父は炉の冷えた灰を見つめたまま、吐き捨てるように続けた。
「だから、あまり長くはノイを家に置いておけない。この先のことは、急いで決めなきゃならん」
「娘だよ!!」
ロローリャはたまらず大声を張り上げた。
「金じゃなくて、娘が帰ってきたんだよ! 一番に守ってあげるのが親でしょ!」
父はロローリャを睨み返した。怒りを孕んだ視線が一瞬だけ鋭く交差したものの、すぐに力なく炉へ落ちる。その眼光の奥には、拭い去れない疲弊と恥辱が混ざり合っていた。
「守れるなら、そうしたいさ……」
重く苦しい沈黙が部屋を支配する中、ノイがぽつりと呟いた。
「私、働くよ」
母がはっと息をのむ。
「ノイ……」
「お母さんが米を買えるなら働く。弟たちがご飯を食べられるなら、それでいい」
──親を助け、家族を支えるために働くことは、この国では何よりの美徳とされる。その健気で純粋な孝行心こそが、人買いが好んでつけ込む甘い罠である。善意と家族愛があるからこそ、残酷な勧誘は容易に成功してしまう。
「前も、そう思ったの。だから、泣かなかった。泣いたら、お父さんが困ると思ったし」
父は顔を伏せた。炉の細い煙が、竹壁の隙間から吹き込む風になびいて消えた。
◇
その夕方、畑から母が戻ってきた。外で義足の革紐を直していたロローリャの前を通り、父の隣へ腰を下ろす。
「マニワン姉さんなら、ノイのことを頼めるかもしれないわ」
「おお、マニワンか! あの人、まだ町にいるのか?」
「前にファイサーイの店で働いていたし、仕事先の探し方も少しは分かるはずよ」
「それなら、話を聞いてみる価値はあるな」
話を聞いていたノイが、小さく顔を上げた。
「マニワンおばさん?」
「そう。前に祭りのとき、飴をくれたでしょう」
「赤い飴の人?」
「そう、その人よ」
ロローリャは革紐を引く手を止めた。
「誰なの?」
「私の従姉よ」
母がそう答えると、父の顔に少し明るさが戻った。マニワンは町を知っている。しかも親戚である。その二つだけで、どん詰まりだった家に一筋の道が開けたように見えた。
ロローリャも、つられて肩の力を抜いた。頼れる親戚がいるというのはこういうことなのか、と思う。困った家族のために誰かが立ち上がる――そんな温かい繋がりを持たずに生きてきたロローリャにとって、その存在は頼もしく、どこか眩しく映っていた。
◇
三日目の昼前、坂の下から声が響いた。
「ノーン、いるかい?」
「マニワン姉さん!」
戸口に立った女は、ノイの母より少し年上に見えた。町で買った柄物の上着を着て、髪には安い飾りを挿している。マニワンは家へ入ると母の肩を抱いた。
「大変だったわね」
それからノイの前にしゃがみ込み、頬についた泥を親指で優しく拭う。
「ノイ、よく戻ったね。怖かったでしょう」
「……うん」
「怪我はない?」
「ないよ」
「それならよかった」
マニワンは囲炉裏のそばへ腰を下ろし、あらためて父母へ向き直った。
「話は聞いたよ。ノイのこれからのことだね」
「そうだ。騙されたのは癪だが、もしあいつらがノイを見つけて金を返せと押しかけてこられても、どうにもならん」
「もう家に売るものなんて何もないのよ……」
「わかってるさ、だから助けに来たんだよ。私が前に住み込みで働いてたファイサーイの服屋がね、売り子を探してるんだ。どうだい?」
「売り子?」
ノイが顔を上げた。
「チェンコーンからタイの客がよく来るのよ。まぁ町の女も来るけどね。店の中で服を畳んで、客に見せて、値段を言うだけさ。赤いの、青いの、きれいな花柄の服が山みたいに積んであるんだよ」
マニワンはノイの手元を覗き込んだ。
「あんたは手が早そうだからすぐ覚えられるよ。最初は隣で教えてもらえばいいさ」
父の目つきが変わった。
「……給金は?」
「月に五千バーツは出るね。真面目にやればもっともらえるかも。店の二階に空き部屋があるからそこに住めるし。食べ物は自分でなんとかしないとだけどね」
「本当に子どもでもできるのか?」
「ノイの年なら十分できるよ。それに私の紹介だもの、粗末には扱われないさ」
マニワンの視線がロローリャへ移った。
「あんた、ノイの恩人なんだってね。身寄りはあるのかい?」
「……ない」
「行くあては?」
ロローリャは少しの間、言葉を詰まらせた。
「ない……」
「なら、あんたもどうだい? ノイ一人で行かせるより、あんたみたいに信用できる子が一緒のほうが、こっちも安心できる。店先に座って、客へ声をかける仕事だし、その体でもできると思うよ」
「客なら、呼べるよ! 宝くじの売り子をしてたことがある!」
ロローリャの声は、マニワンの言葉に食い込むように飛び出した。たった一人の身寄りを手放したくないという必死さから、思わず声を張り上げていた。
「ならバッチリじゃない! よく見たら顔立ちも可愛いし、声も通るしね」
「本当に、ノイと一緒でいいの? 私なんか、腕も脚もこんなだよ」
「それは、これから店に聞いてみるさ」
マニワンはカバンからスマートフォンを出した。村の炉端には場違いなほど平たい光が、黒い画面に浮かんだ。
「そこに立って。二人とも」
「写真?」
「店の人に見せるのさ。どんな子たちか分かったほうが、向こうも返事をしやすいだろう」
ノイは母に背中を押され、戸口の日の差し込む場所へ立った。ロローリャも遅れて杖をつき、ノイの隣に肩を並べる。
「もっと寄って。そう。顔を上げて」
白い光が一度、二度と二人を切り取った。マニワンは画面を確認すると、指を滑らせて画像を送信する。しばらくして、スマートフォンが短く震えた。マニワンは画面の文字を目で追い、父と母へ振り返った。
「向こうもいいってさ。二人とも来ていいって」
「二人とも……」
母は泣き出しそうな顔でノイの髪を撫でた。
「この子を一人で出さずに済むのね」
「そういうこと! 年上の子が一緒なら、店側だって助かるのさ」
父は炉の灰を見つめたまま、長く思い息を吐いた。
「マニワン、頼む」
「任せなさい。身内を悪いところへやるもんですか」
そこからの動きは早かった。朝一番にマニワンの手配した車が村の下まで迎えにくる。それに乗って、まずシエンコックの船着き場へ向かい、メコンを下ってファイサーイへ行く。荷物は着替えと食べ物だけでいい。マニワンは相手へ二度ほど電話をかけ、父は黙って聞き、母はノイの髪を撫で続けていた。
◇
その夜、屋根の隙間から細い月の光が落ちていた。ノイは不安と浮き立つ気持ちが混ざり、なかなか眠れずにいた。ロローリャがそばへ来ると、布団の端を少し持ち上げた。
「お姉ちゃん、本当に一緒に来てくれるの?」
「うん。そのつもり。……ダメだった?」
「ううん。ダメじゃない。私、お姉ちゃんと一緒がいい」
「よかった。私も、ノイと離れるのは嫌だった」
ノイは布団の中で、ほっとしたように笑った。
「服屋さんかぁ」
「マニワンおばさん、店に立つ服は、向こうで借りられるって言ってたね」
「じゃあ……きれいなの、着れるのかな。赤いのとか、青いのとか? 花の模様のもあるって言ってたね」
「お姉ちゃんは、赤が似合いそう。ぱっとしてるから」
「そう? 赤かぁ、似合うかな? ノイはどんな服がいいの?」
「私は……ええと、動きやすいやつがいい」
「えー、服屋さんでそれ言う?」
「だって、転んだら嫌だし」
ノイが真面目な顔でそう言うので、ロローリャは小さく笑った。まだ見たこともない店のことを話しているだけなのに、そこには赤や青の布が本当に積まれているように思えた。
「それは、まあ……分かるけど。でも、店に立つなら、きれいなのにしないと。お客さんに見られるんだから。あ、この子いいなって思ってもらわないと、買ってくれないよ」
「じゃあ、私もきれいなのにする」
「うん。きっとノイは、小さい花の模様が似合うよ。白い布に、青い花がついてるやつ」
「じゃあ、お姉ちゃんは赤で、私は青?」
「いいんじゃないかな」
ノイは少し考えてから、ロローリャの袖をそっと掴んだ。
「でも、やっぱり私、お姉ちゃんとおそろいがいいな」
「じゃあ、少しだけ同じにしようよ。袖のところとか」
「店の人に怒られないかな」
「少しだけなら、分からないよ」
ロローリャは、その手を握り返した。
「一緒にいられるの、うれしい」
「私も」
ロローリャは答えてから、少し遅れて照れた。スラムを彷徨い、路地で声を張り、森の中で義足を引きずって生きてきたロローリャにとって、川沿いの服屋に立つ未来は、見たこともないほど明るく見えた。きれいな布に囲まれ、ノイと並んで客を迎える。その明日を思うだけで、胸の奥が少しずつ膨らんだ。ロローリャは、まだ十七歳だった。