空が白みはじめるころ、母は炉のそばでもち米を包んでいた。バナナの葉を折るたび、湯気が母の指にまとわりつく。弟妹は眠そうな顔でノイの服を掴み、父は戸口から坂の下を見ていた。
「途中で食べなさい。お腹が空く前にね」
「うん。お母さん、向こうについたら、ちゃんと連絡するから」
「無理だけはするんじゃないよ」
父はマニワンへ向き直った。
「マニワン。娘を頼んだぞ」
「任せておきなさい。ファイサーイの店にはきちんと話を通してあるから」
マニワンがそう請け負うと、父は小さくうなずいた。
「……行ってきます」
山の端から日が昇るころ、三人は村を出発した。鶏の鳴き声が響き、畑の上を薄い朝靄が流れていく。マニワンが先に立ち、ロローリャはノイの隣に並んで歩いた。弟妹たちは坂の途中までついてきたが、母に呼び止められて足を止めた。
坂の下には、荷を積んだ古いピックアップトラックが止まっていた。村道はそこだけ少し広くなっており、赤土の轍に朝露の水たまりができている。荷台に腰かけていた運転手は、マニワンの姿を見るとゆっくり立ち上がった。
「支度は済んだのか?」
「ああ、待たせたね。じゃあ、シエンコックまで頼むよ」
車が動き出すと、村の家々は朝の霧の中へ沈んでいく。しばらく走り、谷が開けるにつれ、窓から入る風に川の生臭い匂いが混ざり始めた。
そうして車は順調に走り、昼前にはシエンコックの船着き場に着いた。
目の前に広がるメコン川はどこまでも広く濁り、一見ゆるやかに見えながら、その底に強い水流を秘めていた。連日の雨を集めた川は、中国の山々からラオスの谷へと休みなく水を飲み込み、太く重く膨れ上がっている。
船着き場の端で、マニワンは運転手に代金を支払った。ノイとロローリャが荷台から降りると、運転手は米袋を積み直し、そのまま車を出した。
マニワンが船着き場の奥へ向かって手を上げると、荷の影から色褪せたシャツを着た男が現れた。
「ノイと……ロローリャだったな」
「ああ。この二人だよ」
マニワンはうなずき、男に指示を出す。
「トンプーンまで船で下って、迎えの車に乗せてやっておくれ。夜には店へ着く話になってるからね」
「ああ分かってる。今日は水が多いから、すぐ出るぞ」
細長い船の後方では、船頭が荷物を寄せて座る隙間を作っている。船底には布袋や籠、油缶が雑然と積まれ、その上から青いビニールシートがかぶせられていた。
マニワンはノイへ向き直った。
「じゃあ、私はここまでだ。しっかり働くんだよ、ノイ」
「うん」
「店の人の言うことを、よく聞くんだよ」
ノイは母から渡された包みを抱えたまま頷いた。
「マニワンさん……ありがとう」
マニワンはロローリャにも目を向けた。
「ロローリャ。ノイを頼んだよ」
「うん。分かってる」
案内の男が先に船へ乗り込んだ。ロローリャは杖を船底に置き、ノイから包みを預かってからその手を引っ張り上げてやる。二人が荷物の間に腰を下ろすと、船頭がエンジンを始動させた。低い振動が船底から伝わり、船はゆっくりと岸を離れていく。
板場に立ったマニワンが手を振ると、ノイも小さく手を振り返した。
◇
船はメコン川をひたすら下っていった。
両岸には険しい山々が連なり、濁った水面を木の枝や草の塊が流れていく。船頭は浮き流木を巧みに避けながら舵を取り、川沿いに集落が現れるたび、竹で組まれた船着き場や河原に立つ人影が船の後ろへと遠ざかっていった。
昼を過ぎたころ、ノイは母から持たされた包みを開き、もち米を二つに分けて片方をロローリャへ渡した。
二人が食べていると、前方から屋根の高い貨物船が上ってきた。船腹には中国の文字があり、積み荷には青いシートがかけられている。貨物船が横を通ると、遅れて大きな波が押し寄せた。
「すごく大きい船だね。あれ、どこまで行くのかな?」
ロローリャが訊くと、案内の男は貨物船へ目をやった。
「あれか? あの船は
「景洪? 中国まで、ずっと川で行けるの?」
「お前たちが来たところより、ずっと上まで続いている。下で積んだ果物や肥料なんかを運ぶのさ」
「じゃあ、あっちの岸はもう中国なの?」
「いや、あの辺りはミャンマーだ。川の真ん中が国境だよ。こっちがラオス、向こうがミャンマーさ」
ロローリャは濁った水面を見た。水の上には柱も縄もなく、流木だけが国境をまたいで流れていた。
「どこが真ん中か、分かんないじゃん」
「俺たちに分からなくても、船頭には分かるさ。岩と流れと、岸の村を見て走ってるんだ」
後ろで船頭が鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「気が散るから話しかけるな! 雨の後で流れも速いんだ、流木にぶつかったら船底が割れるぞ!」
案内の男がさらに下流を指さす。
「もう少し行けば、向こう岸はタイに変わる。小さな川がメコンへ入るところで、ラオスとミャンマーとタイがぶつかるんだ」
「国が三つ?」
「金三角って呼ばれてる。向こうじゃ観光客が船に乗って大勢見に来るが、俺たちにしてみりゃただの仕事場だ」
午後になると、太陽は西の山へ傾きはじめた。水面の白い光が薄くなり、両岸から伸びた影が川へ落ちる。
やがて前方に、大きな屋根や建物の集まった場所が見えてきた。水辺には荷揚げ場が並び、何艘もの船が岸についている。
「あれは、どこ?」
「あの辺りがトンプーンだ」
案内の男が答えた。
だが、荷揚げ場が近づいても船頭は岸へ船首を向けようとしない。それどころか、屋根や船着き場はそのまま横を通り過ぎ、少しずつ後ろへと流れていく。
「トンプーンを過ぎてるよ」
ロローリャが指摘すると、案内の男は町のさらに先を指さした。
「船着き場は、もう少し下だ」
船はさらに下り、やがて川の中央へ出た。船首がゆっくりと右へ回り、対岸へ向かいはじめた。
「そっち、タイじゃないの?」
「迎えがいるのは、あっちだ」
対岸には町も大きな道も見えなかった。葦の切れ目から細い板場が川へ伸び、その奥に屋根だけの小屋が立っている。岸では二人の男が待っていた。一人が船へ手を上げ、もう一人が係留用の縄を持って板場の先へ出た。
「ねえ……本当に、ファイサーイへ行く車が来てるの?」
ロローリャが不審そうに訊ねると、案内の男は岸の男たちを見つめたまま意地悪く笑った。
「ファイサーイなんて行くわけねえだろ」
「え……?」
「お前らはあっちで働くんだよ。そのガキも、お前もな」
エンジンの重低音と、船腹を打ち叩く水の音だけが響く。ノイは案内の男の顔を見つめたまま、唇を震わせた。
「でも……服屋さんは?」
「服屋なんて最初からねえよ!」
「マニワンさんは、ファイサーイの店だって……」
「そのマニワンが、お前らを俺たちに売ったんだよ!」
ノイの指が、畳んだバナナの葉を握りしめた。
朝、母が包んだもち米。父がマニワンへ向かって言った言葉。何度も振り返りながら下った村の坂。向こうへ着いたら連絡すると約束したノイの声。その一つ一つが、ロローリャの腹の底で音を立てて崩れていった。
「金はもう払ってある。いまさら帰れると思うなよ」
ロローリャは杖を握り直した。
「……もう一回、言ってみろ」
「あ?」
「マニワンが、ノイを売ったのかって聞いてる」
案内の男は鼻で笑った。
「そう言ってるだろ。親にだって金は渡ってる。お前らは買われたんだよ」
ノイの唇から色が抜けた。
母を楽にさせてあげたい。弟や妹にお腹いっぱい食べさせたい。服屋で働いて給料を家に送りたい──ノイが健気に抱いていた思いのすべてを、男は容赦なく踏みにじった。
「小さいほうは使い道がある。まあ、お前みたいなのでも、欲しがる奴は──」
案内の男がおもむろに手を伸ばすと、怯えたノイが身を引いた。その小さな拒絶の動きが、ロローリャの中でフツフツと煮え立っていた怒りに火をつけた。
「この……」
義足が濡れた船底を踏んだ。腰が沈み、右肩が引かれ、背中に溜まった力が杖の先へ通っていく。白猿と棒を打ち合った日々に刻まれた動きが、怒りの形を得た。
「この狗畜生どもがあっ!」
沈めた腰を跳ね上げると同時に肩を開き、杖の石突きを案内の男の溝おちへ深く穿ち当てた。
「ガハッ……!?」
男の身体がくの字に折れた。声も息も詰まらせたまま、踏み出した勢いごと後ろへ押し返される。踵が船べりにぶつかった瞬間、ロローリャは杖を突き切った。
案内の男の身体が船べりを越え、濁ったメコン川へと転落する。激しい水柱が上がり、その反動で船が大きく揺れ傾いた。
「ノイ、伏せて!」
ロローリャはノイを荷の陰へ押し込んだ。
岸の男たちが板場の先へ走った。船はもう、投げ縄の届くところまで流れている。縄を持った男が足を開き、輪にした端を肩の上へ振り上げた。
船頭が舵から手を離した。
「何をしやがる!」
「黙れ、人買いめ!」
返事が終わるより早く、船頭は足元の長竿を引き上げた。水を押すための竿が荷の間でしなり、濡れた船底をこする。波を受けて船が傾いた隙を突き、船頭は竿を短く持ち直すと、ロローリャの胸元を狙って一気に突いてきた。
ロローリャは義足の底を板へ噛ませ、身体を半歩だけ外した。竿先が脇を抜ける。そのすれ違いざま、下から跳ね上げた杖が乾いた音を立てて長竿を撃ち払った。
船頭は竿を返そうとしたが、長い尻が荷に噛んだ。腕だけが遅れ、身体の重みが前へ残る。そこへまた波が当たり、濡れた板の上で足が滑った。
ロローリャはその隙を見逃さず、沈んだ姿勢のまま船頭の懐へ潜り込む。杖の石突きが脇腹へめり込み、船頭の息が潰れた。倒れた船頭の手が船べりを掴もうとする。
ロローリャは容赦なく下から杖を払った。腕が跳ね上がり、支えを失った船頭の身体が船べりを越える。濁った水が、重い音を立てて跳ねた。
その間にも船は板場の前を滑るように横切っていた。岸の男が投げた縄が船首を越え、荷の上へ落ちる。もう一人が板場から身を乗り出し、船を掴もうと手を伸ばしてきた。
ロローリャは船底を這い、引っかかった縄を杖で叩き落とす。
「掴まって!」
ノイが倒れた籠へしがみついた。
船は板場の前を通り過ぎ、岸の男の手は虚しく船首を掠めただけだった。増水した濁流が船腹を力強く押し、船を斜めに下流へと運んでいく。
川の中では、落とされた案内の男と船頭が必死に岸へ向かって泳いでいた。板場の男たちが二人に向かって縄を投げ、激しい罵声を浴びせ合っている。
船はどんどん岸から離れていった。
板場も小屋も、追っ手の姿も後ろへと遠ざかる。無人となった船の上で、ただエンジンだけが低く唸り声を上げ続けていた。