欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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9.メコンは今日も濁る

 空が白みはじめるころ、母は炉のそばでもち米を包んでいた。バナナの葉を折るたび、湯気が母の指にまとわりつく。弟妹は眠そうな顔でノイの服を掴み、父は戸口から坂の下を見ていた。

 

「途中で食べなさい」

「お母さん、向こうについたら連絡するね」

「無理をするんじゃないよ」

 

 父はマニワンへ向き直った。

 

「マニワン。娘を頼んだぞ」

「任せておきなさい。ファイサーイの店には話を通してあるから」

 

 マニワンが答えると、父は小さく頷いた。

 

「行ってきます」

 

 山の端から日が出るころ、3人は出発した。村の鶏が鳴き、畑の上を薄い煙が流れている。マニワンは先へ歩き出し、ロローリャはノイの隣へ並んだ。弟妹たちは坂の途中までついてきたが、母に呼ばれて足を止めた。

 

 坂の下には、荷を積んだ古いピックアップが止まっていた。村道はそこで少し広くなり、赤土の轍に朝の水が溜まっている。運転手は荷台の籠に腰をかけ、マニワンが来るのを見ると立ち上がった。

 

「準備はいいのか?」

「大丈夫。じゃあ、シエンコックまで頼むよ」

 

 車が動き出すと、村の家々は朝の霧の中へ沈んでいく。しばらく走り、谷が開けるにつれ、窓から入る風に川の生臭い匂いが混ざり始めた。

 

 そうして車は順調に走り、昼前にはシエンコックの船着き場に着いた。

 

 メコンは広く、濁り、ゆっくりと見えながら底に強い力を隠して流れていた。数日前からの雨が入り、中国の山、ラオスの谷と途切れず、川はその水を一つに集めて太っているようだった。

 

 船着き場の端で、マニワンは運転手に金を渡した。ノイとロローリャが荷台から降りると、運転手は米袋を積み直し、そのまま車を出した。

 

 マニワンが船着き場の奥へ向かって手を上げると、荷の陰から色の褪せたシャツを着た男が出てきた。

 

「ノイとロローリャだな」

「ああ。この二人だよ」

 

 マニワンが答えた。

 

「船でトンプーンまで下って、そこで迎えの車に乗せてやってくれるかい。夜には店へ着くことになっている」

「ああ分かってる。今日は水が多いから、すぐ出るぞ」

 

 男は船のほうを顎で示した。

 

 細長い船の後ろでは、船頭が荷を寄せて座る場所を空けていた。船底には布袋や籠、油の缶が積まれ、その上に青いビニールシートがかけられていた。

 

 マニワンはノイへ向き直った。

 

「じゃあ、私はここまでだ。しっかり働くんだよ、ノイ」

「うん」

「店の人の言うことをよく聞くんだよ」

 

 ノイは母から渡された包みを抱えたまま頷いた。

 

「マニワンさん、ありがとう」

 

 マニワンはロローリャにも目を向けた。

 

「ノイを頼んだよ」

「うん」

 

 案内の男が先に船へ乗った。ロローリャは杖を船底へ置き、ノイから包みを受け取ってから手を引いた。二人が荷の間へ座ると、船頭がエンジンをかけた。低い唸りが船底へ伝わり、船はゆっくりと岸を離れた。

 

 マニワンは板場に立ち、ノイへ手を振った。ノイも小さく手を振り返した。

 

 ◇

 

 船はメコンを下った。

 

 両岸には山が続き、濁った水の上を木の枝や草の塊が流れていた。船頭は浮いた枝を避けながら舵を取り、集落が現れるたび、竹の船着き場や河原に立つ人影が船の後ろへ遠ざかった。

 

 昼を過ぎたころ、ノイは母から渡された包みを開いた。もち米を二つに分け、片方をロローリャへ渡した。

 

 二人が食べていると、前方から屋根の高い貨物船が上ってきた。船腹には中国の文字があり、積み荷には青いシートがかけられている。貨物船が横を通ると、遅れて大きな波が押し寄せた。船底が持ち上がり、ノイは包みを胸へ引き寄せた。

 

「でかい船だね。あれ、どこへ行くのかな?」

 

 ロローリャが訊くと、案内の男は貨物船へ目をやった。

 

「あれか? あの船は景洪(ジンホン)行きだな」

「中国まで川が続いてるの?」

「お前たちが来たところより、ずっと上までな。下で積んだ果物や肥料なんかを運ぶのさ」

「じゃあ、あっちの岸は中国なの?」

「いや、あの辺りはミャンマーだ。川の真ん中が国境になってる。こっちがラオス、向こうがミャンマーさ」

 

 ロローリャは濁った水面を見た。水の上には柱も縄もなく、流木だけが国境をまたいで流れていた。

 

「どこが真ん中か、分かんないじゃん」

「船頭には分かるさ。岩と流れと、岸の村を見て走ってる」

 

 後ろで船頭が鼻を鳴らした。

 

「気が散るから話しかけるな! 今日は雨のあとだ。流れも速いし、流木に当てれば船底が割れる」

 

 案内の男が下流を指した。

 

「もう少し行けば、向こう岸がタイに変わる。小さな川がメコンへ入るところで、ラオスとミャンマーとタイがぶつかるんだ」

「国が三つ?」

「金三角って呼ばれてる。向こうじゃ、観光客が船に乗って大勢見に来るぞ。俺たちには、ただの仕事場だけどな」

 

 午後になると、太陽は西の山へ傾きはじめた。水面の白い光が薄くなり、両岸から伸びた影が川へ落ちる。

 

 やがて前方に、大きな屋根や建物の集まった場所が見えてきた。水辺には荷揚げ場が並び、何艘もの船が岸についている。

 

「あれは、どこ?」

「あの辺りがトンプーンだ」

 

 案内の男が答えた。

 

 だが荷揚げ場が近づいても、船頭は岸へ船首を向けなかった。屋根や船着き場が横を過ぎ、少しずつ後ろへ流れていく。

 

「トンプーンを過ぎてるよ」

 

 ロローリャが言った。

 

「迎えの場所は、もう少し下だ」

 

 案内の男は町の先を指した。

 

 船はさらに下り、やがて川の中央へ出た。船首がゆっくりと右へ回り、対岸へ向かいはじめた。

 

「そっちはタイじゃないの?」

「迎えはあっちだ」

 

 対岸には町も大きな道も見えなかった。葦の切れ目から細い板場が川へ伸び、その奥に屋根だけの小屋が立っている。岸では二人の男が待っていた。一人が船へ手を上げ、もう一人が係留用の縄を持って板場の先へ出た。

 

「ねえ、本当にファイサーイへ行く車が来てるの?」

 

 ロローリャが訊いた。

 

 案内の男は岸の男たちを見たまま笑った。

 

「ファイサーイなんか行かねえよ」

 

 ノイが顔を上げた。

 

「え……?」

「お前らはあっちで働くのさ。小さいほうも、お前もな」

 

 エンジンの音と、船腹を叩く水の音が続いた。

 

 ノイは案内の男の顔を見つめたまま、唇だけを小さく動かした。声は出なかった。

 

「でも……服屋さんは?」

「向こうへ着けば、自分の仕事くらい教えてもらえる」

「マニワンさんは、ファイサーイの店だって……」

「そのマニワンが、お前らを俺たちに渡したんだよ」

 

 ノイの指が、畳んだバナナの葉を握りしめた。

 

 朝、母が包んだもち米。父がマニワンへ向かって言った言葉。何度も振り返りながら下った村の坂。向こうへ着いたら連絡すると約束したノイの声。その一つ一つが、ロローリャの腹の底で音を立てて崩れていった。

 

「金も受け取ってる。いまさら帰れると思うなよ」

 

 ロローリャは杖を握り直した。

 

「もう一度言ってみろ」

「あ?」

「マニワンが、ノイを売ったのか」

 

 案内の男は鼻で笑った。

 

「そう言ってるだろ。親にだって金は渡ってる。お前らは買われたんだよ」

 

 ノイの唇から色が抜けた。

 

 母に楽をさせる。弟や妹に腹いっぱい食べさせる。服屋で働いて、自分の給金を家へ送る。ノイが抱いていたものを、男は一息で踏み潰した。

 

「小さいほうは使い道がある。お前みたいなのでも、欲しがる奴は――」

 

 案内の男が立ち上がり、ノイの腕へ手を伸ばした。

 

 ノイは怯えて身を引く。その小さな動きが、ロローリャの中で煮えていたものに火を入れた。

 

「この……」

 

 義足が濡れた船底を踏んだ。腰が沈み、右肩が引かれ、背中に溜まった力が杖の先へ通っていく。白猿と棒を打ち合った日々に刻まれた動きが、怒りの形を得た。

 

「この狗畜生どもがあっ!」

 

 ロローリャは沈めた腰を跳ね上げ、肩を開いた。杖の石突きが案内の男のみぞおちへ深く突き刺さる。

 

 男の身体がくの字に折れた。声も息も出ないまま、踏み出した勢いごと後ろへ押し返される。踵が船べりにぶつかった瞬間、ロローリャは杖を突き切った。

 

 案内の男の身体が船べりを越え、濁ったメコンへ落ちた。水柱が上がり、反動で船が大きく傾く。

 

「ノイ、伏せて!」

 

 ロローリャはノイを荷の陰へ押し込んだ。

 

 岸の男たちが板場の先へ走った。船はもう、投げ縄の届くところまで流れている。縄を持った男が足を開き、輪にした端を肩の上へ振り上げた。

 

 船頭が舵から手を離した。

 

「何をしやがる!」

「黙れ、人買いめ!」

 

 返事が終わるより早く、船頭は足元の長竿を引き上げた。水を押すための竿が荷の間でしなり、濡れた船底をこする。船が横波を食って傾いたところへ、船頭は竿を短く持ち替え、ロローリャの胸を狙って一気に突いた。

 

 ロローリャは義足の底を板へ噛ませ、身体を半歩だけ外した。竿先が脇を抜ける。そのすれ違いざま、杖が横から跳ね、乾いた音を立てて長竿を叩いた。

 

 船頭は竿を返そうとしたが、長い尻が荷に噛んだ。腕だけが遅れ、身体の重みが前へ残る。そこへまた波が当たり、濡れた板の上で足が滑った。

 

 ロローリャは沈んだ姿勢のまま、船頭の懐へ入った。杖の石突きが脇腹へめり込み、船頭の息が潰れる。折れた上体が船べりへぶつかり、片手が縁を掴みかけた。

 

 ロローリャは下から杖を払った。腕が跳ね上がり、支えを失った船頭の身体が船べりを越える。濁った水が、重い音を立てて跳ねた。

 

 その間にも船は板場の前を横切っていた。岸の男が投げた縄が船首を越え、荷の上へ落ちる。もう一人が板場から身を乗り出し、船を掴もうと手を伸ばした。

 

 ロローリャは船底を這い、縄を杖で払い落とした。

 

「掴まって!」

 

 ノイが倒れた籠へしがみついた。

 

 舵を失った船は板場の前を通り過ぎた。岸の男の手が船首をかすめる。増水した流れが船腹を押し、船を斜めに下流へ運んでいった。

 

 水の中では、案内の男と船頭が岸へ向かって泳いでいた。板場の男たちが二人へ縄を投げ、怒鳴っている。

 

 船は岸から離れた。

 

 板場も小屋も後ろへ遠ざかり、誰もいなくなった船の上で、エンジンだけが低く唸り続けていた。

 

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