板場も小屋も遠ざかっていく。操る者を失った船は、エンジンだけを低く唸らせていた。
船頭が落ちた拍子に動いたのか、船尾から伸びる舵柄が細かく震えている。船首は下流へ向いたかと思えば、横から打ち寄せる波に押されてまた斜めに振られた。増水した川は、舟を木の葉のように弄ぶ。
「お姉ちゃん、船を止めて!」
ノイが荷の陰から顔を上げた。
「いまやってる……っ!」
ロローリャは船尾へ這い寄り、右手で舵柄を掴んで体重をかけた。だが船は思うように動かず、急に右へ大きく傾く。濡れた板の上で義足が滑った。
「なにこれ……どう動かすのよ!」
エンジンのそばには、錆びた金具と細い棒がいくつも突き出している。手近な一本を押すと、エンジンが甲高く唸り、船はかえって前へ走り出した。
「違う、違う!」
ロローリャは慌ててレバーを戻す。青いビニールシートがばたつき、荷の間から転がり出た油の缶が船底を転がった。ノイは竹籠にしがみついたまま悲鳴をあげる。
「お姉ちゃん、前! 前見て!」
濁った水面に太い流木が浮いていた。
ロローリャは舵柄を力いっぱい押した。船首はわずかに逸れるものの、避けきれずに船腹へ鈍い衝撃が走る。
板が軋み、荷が崩れた。籠がノイの肩を打つ。ロローリャは舵を放し、ノイへ飛びついた。
「痛っ……!」
「ノイ、伏せて!」
船は流木を擦りながら半回転した。船尾が流れに取られ、船首が岸へ向く。エンジンの唸りが一度跳ね上がり、底で何かを噛み砕くような嫌な音を残して途絶えたが、それでも勢いは止まらない。葦の茂る岸辺が斜めに迫ってくる。
「掴まって!」
ロローリャは身体ごとノイを押し伏せた。
船底が浅瀬の砂を擦る。船首が泥岸へぶつかり、船体が跳ねた。二人は崩れた荷の間へ転がり、布袋と籠が上から落ちてくる。
泥へ乗り上げた船首を軸に、船体が横へ傾いた。船べりを越えた水が、船底へ流れ込んでくる。
「お姉ちゃん……ここ、どこ?」
「分からない。とにかく降りるよ!」
ロローリャは転がっていた枝を拾い、泥岸へ突き立てて先に這い出た。だが思った以上に泥は深く、義足が一瞬で吸い付くように沈む。
「ノイ、急いで!」
「う、うん!」
ノイは船べりを越え、葦を掴んで泥へ飛び下りた。
その直後、川の勢いに押された船尾が大きく振れ、軋む音とともに荷が川へ流れ出していく。広がる青いビニールシートが、濁流に呑まれて下流へ運ばれていった。
ロローリャは泥の上へ手をついたまま、川上を見た。
あの隠し船着き場はもう見えない。けれど船が流された方角は相手にも分かっているはずだ。男たちが岸に上がって川沿いを下ってくれば、じきにここへ追いついてしまう。
「立って」
ロローリャは肩で息をしながら立ち上がった。
「これから……どうするの?」
「まずは逃げるの。ここから離れなきゃ」
葦の切れ目の先に、低い畑と林が見えた。その向こうには、夕暮れの山が幾重にも重なっている。
「でも、道が分からないよ」
「道を行ったらあいつらにすぐ追いつかれちゃう。だから、いったん山へ逃げよう」
ノイは川の向こうにかすかに揺らめく、ラオスの灯を振り返った。
(もう、戻れないのかな……)
泥に足を取られながら葦を抜け、二人は山の黒い影へ向かって走り出した。
◇
隠し船着き場では、岸に残った男たちが水際へ竹竿を伸ばしていた。
川へ落ちた案内の男がその竿にしがみつき、咳き込みながら泥の岸へ引き上げられる。少し下流でも船頭が葦に這い上がろうとしており、かけよったもう一人の男が腕を掴んで引っ張り上げた。
二人とも服から泥水を滴らせ、荒い息を吐いている。
「畜生……あの女……」
案内の男が腹を押さえて呻いた。
「殺してやる。捕まえたら――」
「黙れ」
腰に山刀を提げた四十過ぎの男が、冷ややかな目で川下を見つめていた。日に焼けた頬に古い傷があり、左の耳が少し欠けている。かつては国境警備の斥候として密輸路を追っていたが、負傷で部隊を離れ、金に困った末に今では逆の立場に身を置いていた。
「舐めた真似をしてくれたな」
山刀の男は流されていく船を見据える。
舵を取る者はいない。片腕の女と幼い子供に操船などできるはずもなかった。増水した川の猛威に呑まれれば、遠くまで行く前に浅瀬か流木へ突っ込むのが目に見えている。
「車を出せ。川沿いを下って船が引っかかった場所を探す。岸へ上がっていればそのまま追うぞ」
船頭が水を吐きながら顔を上げた。
「あの女、義足だ。子供連れじゃ山へ逃げたって大して進めねえよ」
「分かっているならさっさと動け!」
岸の小屋の裏には、古いピックアップが止めてあった。岸にいた男が運転席へ乗り込み、山刀の男が助手席へ座る。濡れた案内の男と船頭は荷台へ上がった。
車は赤土の泥を跳ね上げ、川沿いの悪路を突っ走った。
舗装の途切れた道には雨の水たまりが広がり、生い茂る葦の群生を幾つも過ぎていく。荷台で腹を押さえたままの案内人が、苛立ちをぶつけるように悪態をついた。
「マニワンのやつ、冗談じゃねえぞ。あんな厄介な女を押しつけやがって」
「子供はともかく、あんなカタワの女が売り物になるのかよ?」
「どんな商品だろうが売れるなら売る。売れなきゃ捨てる。それだけだ」
助手席の山刀の男が吐き捨てる。
しばらく進んだところで、川岸の木々に青いビニールシートが引っかかっているのが見えた。男たちは車を急停車させ、斜面を駆け下りる。
そこには船首を潰し、荷を流された船が泥岸へ斜めに突き刺さっていた。だが、そこに二人の影はない。
山刀の男は船を一瞥しただけで通り過ぎ、そのまま葦の茂みへと踏み入った。
泥の上には、はっきりと二人分の痕跡が残っている。
ひとつは小さな足跡。もうひとつは左足の靴底と、右側に残る不自然な平たい窪みだった。右の跡は不自然な角度で泥を削り、そのすぐ脇には杖を突いた丸い穴が点々と続いていた。
男は痕跡を追い、葦の切れ目まで進む。踏み荒らされた草の跡は畑の端を抜け、山裾の黒々とした林の奥へと消えていた。
「くそっ、山へ入りやがったか」
遅れて息を切らした船頭が追いついてきた。
「追いつけるか……?」
「義足でこの泥道だ。ガキまで引っ張ってちゃ速度なんぞ出ねえよ」
男は腰の山刀の柄にそっと手を置いた。
「探すぞ。二人とも生かしたまま連れ戻す。多少痛めつけることになっても構わん」
◇
山へ足を踏み入れると、川の唸りは木々に呑み込まれていった。腰まで伸びた濡れ草や太い蔓に足を取られながら、二人は湿った斜面を黙々と登っていく。
「もう少しだよ。あの尾根さえ越えちゃえば川沿いから離れられるから」
「さっきも、『もう少し』って言ってたよ……」
「じゃあ、今度のは本当のやつ」
ロローリャは笑いかけようとしたが、声は荒い息に混じって途切れた。
義足の隙間から滑り込んだ泥と水が重みを増し、一歩踏み出すたびに右脚がずっしりと重い。杖を突く右手もとうに痺れていた。ノイの歩幅に合わせようとするものの、どうしても身体の傾きが大きくなってしまう。
「お姉ちゃん、ちょっと休もうよ……」
「ダメ。いま止まったら追いつかれるよ。もう少しだけがんばろう」
「でも、息が……」
「息なんて吸えば戻るよ!」
言った本人が、一番深く息を吐き出していた。
結局、斜面を登りきれずにロローリャは大木の根へ肩を預けた。胸が激しく上下し、喉の奥に鉄の味が広がる。ノイも膝に手を突き、肩で息を吐いていた。
そのとき、遠くの木々から鳥が一斉に羽ばたいた。
ロローリャがハッと顔を上げる。
「あいつら……近づいてきてる」
「えっ、分かるの?」
「木々が騒めいてる感じがする。……ノイ、あそこ!」
ロローリャが指さした先、斜面の岩と土の隙間にぽっかりと黒い穴が開いていた。自然に崩れたものか、昔、人が掘ったものなのか分からない。入口には蔓が垂れ、奥は闇に沈んでいた。
「あそこに隠れよう!」
二人が斜面を這うように入ってみると、穴の中は外から見るよりずっと深かった。天井は低いが、壁の崩れかけた石積みが雨風を遮り、入口付近の泥とは違って奥の土は乾いている。ロローリャはノイを奥へ先に行かせ、自分も蔓を掻き分けて滑り込んだ。
だが数歩進んだところで、前を行くノイがピタリと足を止める。
「お姉ちゃん……」
「しっ、静かに」
「ちがうの。あそこ……あれ……っ」
ノイの震える指の先を見て、ロローリャも息を呑んだ。
穴の奥の暗がりに、白く風化した人の骨が横たわっていた。
頭蓋骨は壁に寄りかかり、がらんどうの肋骨の間からは草の根が伸びている。腰のあたりには腐り落ちた布と革の残骸が土と一体化してこびりついていた。
ノイは引きつった息を漏らし、ロローリャの服にがばりと抱きつく。
「ひと……なの?」
「だいぶ古い骨みたいだね」
「どうして、こんなところに」
「さあ……」
ロローリャは骨のそばへ膝をついた。腐った布の間に、緑青の浮いた金属のボタンが残っている。胸元には、形の分からない金具もあった。
「これ、元は立派な服だったんじゃないかな。軍人さんかもしれないね」
「ねえ、もう出ようよ。ここ、怖いよ……」
「外へ出たらもっと怖い奴らがいるんだから我慢して」
「でも……っ」
「大丈夫。骨は起きあがらないし追いかけてもこないから。それに私、いまからこの骨の人にお願いしておくからさ。『ちょっとだけお邪魔させてください』って」
ロローリャは入口まで戻ると、垂れ下がっていた蔓をたぐり寄せて外からの視線を遮った。
「少しだけ休もう。あいつらが気づかずに通り過ぎてくれたら、すぐここを出るから」
ノイは遺骨から目を離せないまま、ロローリャの隣に小さくうずくまった。
◇
追跡者たちは山の中へと足を踏み入れていた。
案内の男と船頭が鬱陶しそうに枝を払いながら進み、もう一人の男はどこか怯えた様子で何度も後ろを振り返っている。そんな中で先頭を行く山刀の男だけが、一瞬たりとも足元から目を離さなかった。
なぎ倒された草。泥の付着した石ころ。杖の先が滑った削り痕。斜面に残る小さな手形。男はそれらを拾い上げながら斜面を登っていく。
「おい、本当にこっちで合ってんだろうな?」
案内の男が腹をさすりながら、苛立った声をあげた。
「うるさい。黙ってついてこい」
山刀の男は木の根に付いた泥を指先で拭った。杖の突いた穴の間隔が狭まり、義足の痕が深くめり込んでいる。逃げる足取りがここで一気に乱れた証拠だった。
「近いぞ」
男は顔を上げた。
見上げる斜面の上に、蔓で半ば覆われた岩の穴が見えた。入口の草だけが不自然に下へ倒れ込み、泥の筋が奥へと伸びている。
「あそこだ」
案内の男が歯を剥いた。
「へっ、袋の鼠じゃねえか」
山刀の男は腰の鞘へ静かに手を伸ばした。
「ロローリャ! ノイ!」
低く太い声が、静まり返った山の中へ鋭く響き渡る。
「聞こえているだろう。二人とも大人しく出てこい!! お前たちの名前も顔も全部割れてるんだ。村も家族も分かってる。逃げ切れると思うなよ!」
後ろから船頭も声を張り上げた。
「いま出てくれば痛い目に遭わずに済むんだぞ!」
案内の男は脇腹を押さえ、顔を歪めた。
「俺はもう十分痛い目に遭ったけどな。出てきたら、まずあの女の脚をへし折ってやる」
山刀の男が冷ややかな視線で振り返る。
「商品を傷つけるな」
「少しくらい構わねえだろ」
「そいつは買い手が決めることだ」
◇
穴の中まで、男たちの声ははっきり届いた。
ノイは両手で口を押さえている。息を吸うたび肩が小さく震え、怯えた瞳だけが入口へ向いていた。
「名前……呼んでる……っ」
「返事しちゃダメ」
「でも……、村のことも知ってるって」
「マニワンから聞いただけだよ」
「じゃあ、本当に家にも行くの……? お父さんたちに何かされたら……っ」
「ノイ」
「私が逃げたから、みんなが──」
「考えないで!」
ノイがびくりと肩を揺らす。
「ごめん。でも、いまは家のことを考えたらダメ。ここから逃げることだけ考えるの。いい?」
穴の外で、乾いた枝の折れる音がした。
ロローリャが入口へ視線を向ける。
「来た……。ノイ、奥へ下がって」
「どうするの?」
「入ってきたら、この杖で叩くよ」
「でも、相手いっぱいいるよ……!」
外の光を背にした男たちの影が、蔓の向こうで不気味に揺れていた。
「分かってるって」
「お姉ちゃんだって、もう……っ」
ロローリャの息は激しく上がり、右手は泥と血で汚れ、義足の継ぎ目には川の泥が詰まっている。船の上では足場と流れが味方してくれた。だが、ここには逃げ道がない。相手は四人。一人は刃物を持っている。杖一本でノイを守りながら抜けるのは不可能に近かった。
ロローリャは手探りで奥へ下がった。背中が冷たい土壁に触れる。その足元、腐った布のすぐ下になにかが埋もれていた。
右手が、ずしりと重く冷たい金属に触れた。
「え……これって……」