「いつまで待つんだよ」
穴の外で、案内の男が苛立ちも露わに吐き捨てた。
「相手はカタワの女と子供だぞ。引きずり出しゃ終わりだろ」
船頭が長い枝を拾い、入口へ向けた。
「煙を入れるか?」
「馬鹿野郎! 商品を中で死なせる気かよ?」
山刀の男は腰の刃を少し抜いた。幅のある短い刃が、木々の間から差す光を受ける。
「俺が入る。お前らは入口を──」
そのとき蔓が揺れ、ロローリャがゆっくりと外へ出てきた。
濡れた服には泥がこびりつき、髪は頬へ張りついている。義足は泥に染まっており、身体の陰に落ちた右手が、錆と泥に塗れた細長い鉄を斜面に引きずっていた。
「ようやくお出ましか」
案内の男が歯を剥いた。
「このアマ、いちいち手間取らせやがって! お前、俺らのこと舐めてやがんだろ? 少しは殴ってわからせないとダメみてぇだな」
「待て!」
山刀の男の制止も聞かず、案内の男は船で突かれた腹を押さえながら、怒りに任せて踏み込んでくる。
「捕まえたら、まずその足を──」
ロローリャの右手が、身体の陰からゆるやかに上がった。
それは赤黒い錆に覆われたサーベルだった。金属拵えの鞘は泥で汚れ、柄にも腐った革がまとわりついている。
「何だ、その汚えもんは?」
ロローリャは鞘口を奥歯でくわえ、右手で柄を握り込む。
「どこで拾ったか知らねえが、そんなもん持って勇ましいこったな!」
船頭が長い枝を肩に担ぎ、鼻で笑った。
ロローリャは右腕を引いたが、錆びた金属が鞘の奥で噛み、鈍く軋んだ。鞘口から赤茶けた刀身が指二本分ほど現れた位置で固まってしまう。
案内の男が吹き出した。
「おいおい、抜けもしねえじゃねえか!」
「怪我する前にそんなもんさっさと捨てろ! 商品に傷がつくと面倒なんだよ!」
船頭が枝で泥を叩くと、運転手も嘲笑った。だが穴へ近づく度胸はないらしく、山刀の男の後ろから顔だけを覗かせている。
ロローリャは鞘を噛んだまま、斜面の下を見た。案内の男は坂を半ばまで登り、その後ろで船頭が枝を構えている。
奥歯に力を込め、首を反対側へ捻ると、バキリと鞘口の錆が弾け、刀身がさらに拳一つ分ほど滑り出た。
次の瞬間、ロローリャは斜面の下へ身を投げた。
「なっ──!?」
落下しながら右肩を引き、腰を捻る。口を離れた金属鞘が外へ跳ね、刀身が赤錆を撒き散らしながら抜け出た。外れた鞘が斜面へ叩きつけられ、泥を跳ね上げて案内の男の足元へ転がる。
男の目が思わず鞘を追った――その刹那、ロローリャの身体が宙で右へ巻き、横倒しのまま一回転した。丸めた背中がほどけるより早く、錆びた刃が美しい弧を描く。
「ぐあっ……!」
案内の男の腿が斜めに裂けた。踏ん張っていた脚から力が抜け、そのまま斜面へ崩れ落ちる。
斬り抜けた勢いのまま、ロローリャは左半身から泥に落ちた。衝撃で義足の留め革が裂け、木の脚が斜面を転がる。それでも欠けた左腕の先を泥へ突き立て、肩ごと身体を押し込むと、弾かれるように再び右へ旋回した。左脚が地を蹴り、背後へ流れたサーベルが地すれすれの高さを走る。
船頭が慌てて枝を振り上げた。
「このっ──!」
だが枝が振り下ろされるより早く、回転の勢いに乗った刃が船頭の膝上を真横に切り裂いた。
「ぎゃあああっ!」
船頭の脚が折れ曲がり、手から枝が飛んだ。片膝から泥へ倒れ込み、両手で傷口を押さえながら悲鳴をあげる。
ロローリャは剣先を外へ流して勢いを殺し、地面に片膝をついた。泥に塗れた頬は地を這うように低く、丸められた背中では息を吸うたびに肩が激しく波打っている。右の義足は留め革が裂け、斜面の下に転がっていた。左脚は泥を深く噛み、膝から先のない右脚は斜面へ直接押しつけられている。
その右手から、長いサーベルが泥すれすれに伸びていた。刀身には赤茶けた錆が走り、刃もところどころ欠けている。ロローリャの身体は半ば崩れ落ちているが、血を啜った切っ先だけは少しも死んでいない。
その姿は、泥の中に伏せる手負いの獣であった。逃げるための脚を失い、身体にはもう立ち上がる術がない。それでも近づくものが一歩でも間合いを誤れば、残った命のすべてを刃に宿らせて喉笛へ食らいつく。
男たちの下品な笑い声は消え失せた。案内の男は腿を押さえてのたうち回り、船頭も泥の上で傷口を抱えている。
運転手が恐怖に引きつった顔で後退ると、その脇を抜けて山刀の男が前へ出た。
「俺がこいつの相手をする。お前は穴を見張っておけ。ガキを逃がすなよ」
男はもがく仲間を一瞥もせず、腰から短い山刃を抜いた。その視線は、血のついたサーベルと、それを握るロローリャの右手に注がれていた。
ロローリャは荒い息を繰り返しながら、長い刃を泥の上に這わせ、積もった落ち葉の下へ滑り込ませた。錆びた刀身が濡れた葉陰に沈み、切っ先の位置が分からなくなる。
「クソが……!」
山刀の男は腰を低く落とし、刃を前に構えた。爪先でぬかるむ足場を確かめながら、サーベルの間合いを探るように位置を変えていく。
ロローリャは白猿の教えを守り、泥に伏せたまま男が踏み込んでくる瞬間をじっと待った。
男が足を止めた。次の一歩で、互いの刃が届く距離。
右肩がわずかに上がり、重心が前へ傾く。その踏み込みに先んじてロローリャが地を蹴った。
左脚が泥を弾き、右脚の断端が斜面を削った。欠けた左腕を土へ打ち込んで身体を低く滑らせると、落ち葉の下から飛び出した刃が足首へ鋭く伸びた。
「チッ!」
男は山刀を振る前に足を引いた。錆びた切っ先が脛の前をかすめ、泥が弾ける。
「猿かよ、てめぇは……!」
片腕、そして片脚を失っているはずの少女が、泥の上で跳ね、山刀の軌道から一呼吸ごとに外れていく。
ロローリャは欠けた左腕で斜面を押し、左脚を蹴り直して身体の向きを変えた。地を這った刃が、今度は膝の内側へ走る。
「やべぇぞ、あの女……!」
木の陰で運転手が引きつった声を漏らした。
山刀の男は半歩退いた。長い刃が膝を裂く代わりに、ズボンの布を細く切り飛ばす。退いたはずなのに間合いが詰まる。地面に伏せたロローリャは、なおも足元へ潜り込もうとしていた。
「ウィチャイ! 何やってんだ! さっさと斬れよ!」
腿を押さえた案内の男が怒鳴り散らす。
「うるせぇ!」
焦りを隠せない返事を吐き捨て、ウィチャイは歯を噛み締め直した。斬り下ろせば届く。だが、そのためには、ぬかるんだ斜面でもう半歩踏み込まなければならない。
草木を叩き払うための幅広の山刀は、近接戦には強い。だが、落ち葉の下から伸びる長いサーベルより先には届かない。足を出せば脛を刈られ、身を屈めれば切っ先が胸元へ跳ね上がってくる。
ウィチャイは山刀を一旦引き戻した。ロローリャの次の跳躍を捉えようと、顎がわずかに下がる。
その瞬間、ロローリャは口の中に残っていたものを吐き出した。
錆と泥、そして鞘口から削れ落ちた細かな金属片が、ウィチャイの目に向かって飛ぶ。
「っ!」
男が思わず目を閉じた。
(白爺さんの種飛ばし……!)
ロローリャは左脚で泥を蹴った。低く伏せていた身体が弾丸のように前へ突き進み、地面すれすれから伸びたサーベルがウィチャイの懐へ走る。
切っ先が胸元を裂き、その下の肉を浅く削ぎ落とした。細い血の線が浮かび、瞬く間にシャツへ広がる。
あと半歩詰めていれば喉だった。だが踏み込んだ瞬間、ロローリャの右手の中で柄がわずかに捩れた。錆びついた柄頭の留めが緩み、内部で
ウィチャイは二歩後ずさった。山刀を握る指が白くなるほど力んでいる。
ロローリャのサーベルには、赤黒い錆に混じって自分の血が滲んでいた。さっきまで商品と見くびっていた少女が、泥に伏せたまま再び刃を構えている。
もう一度踏み込めば、次は喉を斬られる。ウィチャイにはそうとしか思えなかった。
「おい、なんで下がってんだよ! ここまで来て手ぶらで帰る気か!」
腿を押さえた案内の男がわめき散らすが、ウィチャイの足はすくみ上がり、泥の中で一歩も動かない。
やがて固く奥歯を鳴らすと、男はゆっくりと山刀を下げた。
「……もういい、退くぞ」
「はあ!?」
「聞こえなかったのか! 退くと言ってるんだ!」
「おい、商品はどうすんだよ!」
ウィチャイは泥に転がる案内の男を冷ややかに見下ろした。
「お前はその脚で歩けるのか? そうまで言うなら、ここから下まで一人で歩いて帰れ」
案内の男は傷口を押さえたまま口をつぐんだ。ウィチャイは船頭に肩を貸し、運転手には案内の男を支えさせて、互いに体重を預け合いながら斜面を下り始める。
ロローリャは泥に伏せたまま、遠ざかる男たちへ剣先を向け続けていた。やがて四人の足音が山奥へ消えると、静まり返っていた森に少しずつ虫の声が戻ってきた。
その音を聞いた瞬間、右手から一気に力が抜け、剣先が土へ落ちる。ロローリャは身体を支えることができず、泥の中へ崩れ落ちた。
「お姉ちゃん!」
穴からノイが飛び出し、斜面を滑るように駆け下りてきた。泥に足を取られながらロローリャの隣へ膝をつき、血と泥に汚れた服へ震える手を伸ばす。
「お姉ちゃん、大丈夫!? どこか怪我したの……!?」
「大丈夫だよ、ノイ……これは私の血じゃないから。ちょっと膝とかを擦っただけ……」
起き上がろうとした右腕が激しく震え、そのまま身体が泥へ落ちる。ノイはそこで、ロローリャの義足が外れていることに気がついた。
「お姉ちゃん、足が……」
「外れただけだよ。あそこに落ちてる。ねぇノイ、悪いんだけど拾ってきてくれないかな。もう動けなくて……」
ノイは斜面の下へ走り、泥の中から義足を抱えて戻ってきた。留め革は裂け、木の脚は継ぎ目から大きく歪んでしまっている。
ロローリャは受け取ると、亀裂へそっと指を這わせた。
「曲がっちゃったな。これじゃ、前みたいには歩けないかも」
「直る?」
「たぶんね。木と紐があれば……でも、今は無理かな」
声は弱々しく、最後は息に混じって消えそうだった。
ノイは壊れた義足を脇に置くと、ロローリャの右腕を自分の肩へ回した。
「お姉ちゃん、私につかまって。もう辺りも暗いし、いったん穴まで戻ろう」
「ありがとう、ノイ。本当に頼りになる妹だね」
ロローリャは一度だけ男たちの消えた森を振り返り、それからノイの小さな肩へ体重を預けた。
二人は泥に足を取られ、何度も立ち止まりながら斜面を登っていく。ノイの肩は小さくて頼りなかったけれど、ロローリャにはもう、すがるものが他に何もなかった。
◇
穴の外はすっかり夜に包まれていた。木々の隙間から差し込む月明かりが入口を淡く照らし、山の冷たい空気が洞の奥へとゆっくり流れ込んでくる。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「私たち……本当に売られちゃったのかな……。お父さんとお母さんも、知ってたのかな?」
「知らなかったと思うよ」
ロローリャは間を置かずに答えた。
「あの男たちが言ってたことが本当とは限らないでしょ。お父さんたちは、ノイが本当に街の服屋さんで働くんだと思ってたはずだよ」
「ほんと?」
「うん。そうじゃなきゃ『ちゃんと働きなさい』なんて送り出すわけないじゃない。ノイのお父さんもお母さんも、ノイのことが大好きなんだから」
「そうだよね」
ノイは小さく頷いた。
「でも、マニワンおばさんは、知ってたんだよね」
「……うん」
「じゃあ、村に帰ったら、あの人たちの仲間が来るのかな?」
「そうだと思う」
「じゃあ、私、もう家に帰れないのかな? みんなに会いたいよ……」
ロローリャには答えるすべがなかった。
「村にも帰れないなら……これからどこに行けばいいの? ここはもう、ラオスじゃないんでしょう?」
「たぶん、タイだと思う……」
「私たち、タイに知ってる人なんて誰もいないよ。明日からどうすればいいのかな……」
ロローリャは穴の外の暗闇を見つめた。
「どうしよう……か」
口に出した声がひどく幼く、ロローリャは自分の声に驚いた。
ノイを守ると意気込み、追手へ剣を振るったばかりなのに、壊れた義足を前にした途端、昆明のスラムへ流れ着く前の幼い自分へ戻っていた。
字も読めず、金の数え方も知らず、片足で立つことさえできなかったあの頃の自分。
あのころから何も変わっていないような気がした。
隣には、自分を頼るノイがいる。けれど、明日の朝、最初の一歩をどう踏み出せばよいのか分からない。
ロローリャは膝を抱え、軍人の遺骨と、そばに置かれた古いサーベルを見た。
そして、誰に届くともない声を、そっと暗がりへこぼした。
「
ついに剣を……ッ!
ここまで読んでくださりありがとうございました。
ようやく2章も終わり、次章からタイ編開始です。
タイといえば仏様?
引き続きよろしくお願いいたします。