欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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2.女たちのアパート

 ラックチャイ川から湿った夜風が上がるころ、ロローリャはいつものバインダークアの屋台へ立ち寄った。蟹とトマトの濃いスープに平たい米麺を沈め、香草をのせ、ライムを絞る。ハイフォンの名物で、値段も安い。常連の彼女には、屋台の親父が具を多めによそってくれた。

 

 ロローリャは路面の低い赤いプラスチック椅子に身体を丸めて座るのが好きだった。密集する人々の熱気が、孤独を少し薄めてくれる。彼女は、同じアパートで暮らす女たちとテーブルを囲んでいた。

 

 リエンは二十代半ばの未婚の母で、三歳の息子がいる。昼は食堂や洗い場で金をつなぎ、子をロローリャに預けてKTVへ出る。男にも店にも可愛がられる術を知っており、宝くじの束をロローリャに預け、この街でのささやかな「シノギ」を覚えさせたのも彼女だった。

 

 タオはタインホアの貧しい村から出てきた女で、故郷には幼い子どもを二人残していた。市場まわりの雑用や食堂の手伝いで細かく稼ぎ、日が暮れると酒も会話も要る店へ出る。客の顔色を読むのがうまく、乾いた物言いの奥には、明日の食い扶持を取りに行く女のしぶとさがあった。

 

 そしてフオン。彼女もまたタインホアの出で、生まれて間もない娘のミーを抱え、一年前にこの港町へ流れてきた。昼の仕事は長続きせず、不定期にドーソンの置屋へ出る。整った顔立ちの名残はあるが、慣れない仕事と育児、産後の疲弊のせいか、今は遠くを見るような静かな眼差しをしていた。

 

 彼女たちは、ロローリャがこの街で最も近くで見てきた女たちであり、同時にハイフォンの路地裏に掃いて捨てるほど存在する、生身の「母親」たちでもあった。

 

 タオが麺をすすりながら、ロローリャに声をかけた。

 

「今日はよく売れたって話じゃないか」

「即売だよ。新記録かも」

 

 ロローリャが得意げに胸を張ると、リエンがライムを絞りながら横目で見た。

 

「それだけじゃないでしょ。大金ももらったって聞いたよ」

「知らない男が五十万ドン置いてった。でもまあ、わたしの演奏が良かったんでしょ」

 

 タオが怪訝そうに眉を上げた。

 

「知らない男って、誰さ」

「知らないってば。背が高くて、無愛想で、鋭い目をした男」

「それで、何かあったのかい。帰りに少し揉めたって聞いたよ。あんた、また面倒な道を通ったんじゃないだろうね」

「ちょっとだけね。路地で三人に囲まれて、『さっきの金の分け前を寄こせ』ってナイフを出されたの」

 

 リエンの箸が止まった。

 

「ナイフ!?」

「でもそのとき、五十万ドン置いてった男が現れて、一瞬で二人をボコボコにしちゃったんだ。三人目が咄嗟に銃を撃ったんだけど、その男はいつのまにか剣を抜いてて、キィンって音がして、弾が壁に飛んだんだよ。あの動き、ほんとにすごかった」

 

 ロローリャは身を乗り出し、興奮したまま続けた。

 

「まあ、あいつが来なくても、わたしには隠し釘があったし、目か喉くらいなら狙えたけど」

 

 リエンが呆れたように目を丸くした。

 

「まだそんなもの持ってるのかい? まったくこの子は。大丈夫じゃない子ほど強がるんだよ」

「強がってないって。本当に大丈夫だもん」

 

 その言葉に、タオの顔から笑みが消えた。

 

「そりゃ、まずいね。赤鳳会かもしれないさ」

「なに、それ」

「港の裏を仕切ってる連中だよ。薬、賭場、借金取り、女の売り買い。表じゃ運送屋や警備会社みたいな顔をしてるけどね。銃に向かって剣を抜ける男なんて、まともな道の人間じゃないさ。とにかく、金を持ってる日に裏路地へ入るのはやめな」

 

 ロローリャは不満げに唇を尖らせたが、タオの声がいつもより低かったので、それ以上は言い返さなかった。

 

 その横で、フオンだけは静かに沈黙を守っていた。最近のフオンは、明らかに様子がおかしい。落ちくぼんだ目元には生気がなく、肌も土色に沈んでいる。大好物のスープにもほとんど手をつけないその姿に、ロローリャは売春婦たちの間に蔓延する薬物の影を感じ取っていたが、そのことを口にする勇気は持てなかった。

 

 やがて、話は子どものことに移った。

 

「うちの子、ご飯を自分で食べようとするんだけど、こぼしてばっかりで」

「三歳ならそんなもんさ」

 

 タオが笑って応じた。

 

「うちの二人なんか、田舎に置いてきてるから今頃どんだけ大きくなってるか。もう走り回ってるだろうさね」

「会いに行かないの」

「金が貯まったらね。まだまだ先さ」

 

 タオが麺をすすりながら、帰ることのできない故郷を思うような、遠い目をした。リエンがフオンに顔を向ける。

 

「フオンのとこの子は? 夜泣き、まだひどい?」

 

 フオンは少し間を置いてから、静かに答えた。

 

「ロローリャがいるから、なんとかなってる」

 

 テーブルの視線がロローリャに集まった。ロローリャは「別に」と肩をすくめたが、悪い気はしなかった。

 しばらくして、タオがふとロローリャに目を向けた。

 

「そういやあんた、どこから来たのさ。親は?」

「生まれたところは分からない。親はいないけど、お姉ちゃんがいたよ。でも洪水で、住んでたところが全部流された。そのとき離れ離れになって、いろいろあって、ここに来ることになったの」

「……よく、生きてたもんさね」

「お姉ちゃんだって、きっと生きてるはず。いつか探しに行くんだ」

 

 タオとリエンは一瞬だけ顔を見合わせた。この街では、誰もが消したい過去を抱えている。だからそれ以上は聞かなかった。ただフオンだけが、濁った瞳でロローリャの顔をじっと見つめ続けていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 商売女たちのアパートには、血のつながりはなくても家族に近い何かがあった。熱を出せば黙って薬を買ってくるジウ、冗談交じりに「うちの子」と呼ぶタオ、頼んでもいないのにスカートのほつれを直すリエン。彼女たちはロローリャを「妹分」と呼び、ロローリャもその呼び方をどこかくすぐったく思っていた。

 

 朝は片腕で洗濯物を干し、米を炊き、子どもに朝飯を食わせる。女たちが眠り込んでいる間に掃除を済ませ、昼は通りで宝くじを売った。夕方に戻れば飯の支度をし、廊下で女たちの話に混ざる。客の愚痴、港の噂、男の品定め、金の話。ロローリャにはまだ縁のない大人の世界だったが、その剥き出しの生々しさが面白かった。時折鋭いことを言って女たちを笑わせると、それがまた嬉しかった。

 

「最近、本当に中国人客の景気がいいね。あいつら、チップを出すときだけは手が滑ったのかってくらい気前がいいよ」

 

 リエンが真っ赤なマニキュアを塗りながら、下品に笑った。

 

「店でもさ、『お兄さん、かっこいい』って一言でチップが倍だよ。私も真面目に勉強しようかね。ニーハオ以外の、もっとこう……財布の紐が緩む魔法の言葉をさ」

 

 ジウが腰をくねらせて見せると、タオが煙草の灰を床に落とした。

 

「言葉だけじゃないさ。街を見てみな。看板も店も、いつの間にかあっちの文字ばかりさ。金があるところには、看板も女も寄ってくるってことさね」

 

 リエンが爪に息を吹きかける。

 

「お隣のラオスの国境町なんか、もう実質あっちの領土らしいよ。カジノもホテルも中国企業が丸ごと押さえて、地元の警察すらお伺いを立てなきゃ入れない特別区になってるって話だね」

「へえ。町ごと買えるの」

 

 ロローリャが目を丸くすると、ジウが笑った。

 

「買うんじゃなくて、借りるんだよ。九十九年とか、そんな長いあいだね。借りたまま返さない借り方ってやつ」

「それだけじゃないさ。中国企業のロゴがついた車なら、あっちじゃ国境もほぼ顔パスらしいさ。荷台に何を積んでようが、中に誰が乗ってようが、役人は中も見ずにゲートを開ける。きっとろくでもないもの運んでるに違いないさ」

 

 タオがそう言うと、廊下に少しだけ湿った沈黙が落ちた。ロローリャはしばらく考え込み、それから真顔で天井を見上げた。

 

「じゃあ私たちも、この部屋を九十九年借りようよ。返す頃には大家のほうが先に忘れてるでしょ」

 

 一拍置いて、女たちがどっと吹き出した。

 

「この子、口が立つねえ」

 

 ジウが腹を抱えて笑うと、リエンが続けた。

 

「顔と口だけは一人前だよ」

「口だけじゃない。ちゃんと稼いでるし」

 

 ロローリャが言い返すと、また笑い声が廊下に広がった。

 

──ベトナムでは売春は禁じられているが、それでも港町から消えることはない。女たちはカラオケ店やバー、マッサージ店に顔を出し、客を捕まえて外の安ホテルへ流れる者もいれば、顔なじみの客と直接やり取りをして呼び出される者もいる。金は一晩で数十万ドンから、客によっては百万ドンを超えるが、店の取り分、仲介、借金、薬で削られ、手元には日々を繋ぐだけの額しか残らない。

 

 多くは地方から流れてきた女たちだった。家族に仕送りをしている者もいれば、何かから逃げてきた者もいる。日が暮れると、彼女たちはそれぞれの店へ散っていく。子どもの預け先などない。残された子どもたちを一つの部屋に集め、寝かしつけ、朝まで見ている。それがロローリャの役目だった。

 

 ここでの日常は、傍から見れば歪んでいた。それでもその片隅に、ロローリャの居場所はあった。夜中に子どもが泣けば抱き上げてあやす。腕が一本しかないため工夫は要ったが、文句は言わなかった。言っても仕方がないし、それより早く終わらせた方がいい。ロローリャはそういう子どもだった。

 

 深夜、仕事を終えたフオンが迎えに戻ってくる。眠ったミーを起こす前に、彼女はいつものように、どこからか拾ってきた小学校の教科書をロローリャの前に広げた。ページの端はぼろぼろに破れ、表紙も擦り切れている。ミーを預かるようになったころから続く、二人だけの密かな約束事だった。

 

「ここ、読んでみて」

 

 フオンが指した一行を、ロローリャは身を乗り出して追い、声に出して読んだ。六つの声調を持つベトナム語は難しかった。最初は何度発音しても通行人に聞き返され、そのたびに悔しくて、布団の中で口だけを動かし、夜通し復習した。

 

 文字が読めるようになるたび、世界は少しずつ形を変えていった。屋台の看板、港の掲示板、客が小脇に抱える新聞の見出し。意味が頭に染み込んでいく感覚に、ロローリャは密かな喜びを覚えた。

 

 フオンの手は、ときどき薬の影響か小さく震えた。彼女はそれを隠すように、文字を指で強く押さえ、一生懸命に言葉を授けてくれた。

 

 中学までしか出られなかった。だからこの仕事しかなかった。教えながら、フオンはよくそう言った。口癖のように、独り言のように。もっと学があれば選べた。あんたは頭がいい。言葉さえ身につければ、もっとましな道がある。あんたはまだ間に合う。

 

 ロローリャはそのたびに素直に頷いた。だからフオンが先生になってくれた夜、ロローリャは迷わず前に座った。

 

「私も大して得意じゃないけど、港で使えたらきっと稼ぎが変わるから」

 

 やがて学習は英語にまで及んだ。フオンに促されるまま、港の外国人船員にたどたどしい英語で話しかける。言葉はうまく通じなかったが、船員は笑ってくれた。その夜、ロローリャは得意になってフオンに報告した。

 

「あんまり通じなかったけど、笑ってくれたよ」

「それで十分。また話しかけなさい」

 

 タオは分からない字を聞くと面倒くさそうにしながらも答えてくれた。外国人客と多少やり取りができるリエンは、英語の発音を直してくれることもあった。

 

「なんでそんなに一生懸命なの」

「楽しいから」

 

 それは本当のことだった。姉を探すためという理由もあったが、新しい言葉が自分のものになっていく感覚は、それだけでも十分に楽しかった。

 

 ある夜、教科書を閉じながらロローリャがフオンに言った。

 

「ありがとう、勉強を教えてくれて」

 

 フオンは少し面食らったような表情を浮かべたが、すぐにいつものぶっきらぼうな調子に戻り、古びた紙をめくった。

 

「次のページ、やるよ」

 

 薄暗い電球の下で肩を寄せ合い、二人はそうやって何度も夜を重ねていった。

 

 だからこそ、フオンが「出稼ぎの話がある」と切り出したあの夜の冷たさを、ロローリャは後になっても鮮明に思い返すことになる。

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