ラックチャイ川から湿った夜風が上がるころ、ロローリャはいつものバインダークアの屋台へ立ち寄った。バインダークアとは、田んぼ蟹とトマトの濃いスープに平打ち米麺を沈め、たっぷりの香草とライムを添えて味わうハイフォン発祥の汁麺である。値段は1杯三万ドンほど。常連の彼女には、屋台の親父がいつも少しばかり具を多くしてくれる。
ロローリャは路面の低いプラスチック椅子に深く身を沈め、同じアパートの女たちとテーブルを囲むのが好きだった。露店の熱気と人々の喧噪が、胸の孤独をかすかに薄めてくれるからだ。
今夜の卓を囲むのは、日頃から何かと関わりの深いリエン、タオ、フオンの三人。
リエンには三歳の息子がいる。昼は食堂の雑用で繋ぎ、夜は子をロローリャに預けてKTVへ出る。男にも店にも可愛がられる術を知り、ロローリャに宝くじの束を握らせて小さなシノギを教えたのは彼女である。
タオは故郷タインホアに二人の幼子を残し出稼ぎにきている女で、昼は市場、夜は酒と会話を売る店で働いていた。客の顔色を読むのは手慣れたもので、その乾いた物言いの底には、明日の食い扶持をもぎ取りに行く女のしぶとさが潜んでいる。
そしてフオン。彼女もまたタインホアの出で、生まれて間もない娘のミーを抱え、一年前にこの港町へ流れてきた。昼の仕事は長続きせず、不定期にドーソンの置屋へ出る。整った顔立ちには疲弊が陰り、その眼差しはいつも遠くを漂っていた。
彼女たちは、ロローリャがこの街で最も近くで見つめてきた女たちだ。そして同時に、ハイフォンの路地裏にいくらでも溢れている、生身の「母親」たちでもあった。
「今日はよく売れたそうじゃないか。たいしたもんさね」
昼間の稼ぎの話となれば、タオの食いつきは早い。
「即売だよ。新記録かも」
「それだけじゃないでしょ。大金ももらったって聞いたよ」
宝くじの売上ならリエンにも分かる。だが、通りでノコギリを弾いて稼ぐチップまでは、ロローリャ本人にしか分からない。
「知らない男が五十万ドン置いてったんだよ。でもまあ、わたしの演奏が良かったんでしょ」
「知らない男って、誰さ?」
「知らないってば。背が高くて、無愛想で、鋭い目をした男だったよ」
「それで、何があったんだい? 帰りに少し面倒なことになったらしいじゃないか」
「ちょっとだけね。路地で三人に囲まれて、『さっきの金の分け前を寄こせ』ってナイフを出されたの」
「ナイフ!?」
宝くじのシノギを管理するリエンにしてみれば、ロローリャが命を狙われたと聞いて平気ではいられない。
「でもそのとき、五十万ドン置いてった男が現れて、一瞬で二人をボコボコにしちゃったんだ。三人目が咄嗟に銃を撃ったんだけど、その男はいつのまにか剣を抜いてて、キィンって音がして、弾が壁に飛んだんだよ。あの動き、ほんとにすごかった」
ロローリャは身を乗り出し、興奮したまま続けた。
「まあ、あいつが来なくても、わたしには隠し釘があったし、目か喉くらいなら狙えたけど」
「まだそんなもの持ってるのかい? まったくこの子は。大丈夫じゃない子ほど強がるんだよ」
「強がってないって。本当に大丈夫だもん」
その言い分は、リエンには息子の強がりと大差なく聞こえるらしい。だが、市場で港湾労働者や運送屋から裏の噂を聞いているタオには、銃を剣一本で退けた男の話が、妙に胸をざわつかせるものだった。
「そりゃ、まずいね。赤鳳会かもしれないさ」
「なに、それ」
「港の裏を仕切ってる連中だよ。薬、賭場、借金取り、女の売り買い。表じゃ運送屋や警備会社みたいな顔をしてるけどね。銃に向かって剣を抜ける男なんて、まともな道の人間じゃないさ。とにかく、金を持ってる日に裏路地へ入るのはやめな」
赤鳳会が何者だろうと、ロローリャとしては自分なら切り抜けられたと言いたいところだった。しかし、この街の危ない話についてはタオのほうがずっと詳しい。そこは素直に聞いておくことにした。
その横で、フオンだけは、そんなやり取りにもほとんど加わらず、冷めかけたスープを前にしていた。
最近のフオンは、明らかに様子がおかしい。落ちくぼんだ目元には生気がなく、肌も土色に沈んでいる。大好物のスープにもほとんど手をつけないその姿に、ロローリャは売春婦たちの間に蔓延する薬物の影を感じ取っていたが、そのことを口にする勇気は持てなかった。
やがて話題は子どものことへ移った。
「うちの子、ご飯を自分で食べようとするんだけど、こぼしてばっかりで」
「三歳ならそんなもんさ。うちの二人なんか、田舎に置いてきてるから今頃どんだけ大きくなってるか。もう走り回ってるだろうさね」
「会いに行かないの」
「金が貯まったらね。まだまだ先さ」
タオが故郷へ帰るには、汽車賃だけ用意すれば済む話でもない。二人の子どもを育てる金、親に渡す金、仕事を休んでいる間の暮らし。帰郷するにも、それなりの蓄えが要る。
「フオンのとこの子は? 夜泣き、まだひどい?」
同じように子を預けて夜働くリエンには、ミーのことも気にかかる。
「ロローリャがいるから、なんとかなってる」
テーブルの視線がロローリャに集まった。ロローリャは「別に」と肩をすくめたが、悪い気はしなかった。
しばらくして、タオがふとロローリャに目を向けた。
「そういやあんた、どこから来たのさ。親は?」
「生まれたところは分からない。親はいないけど、お姉ちゃんがいたよ。でも洪水で、住んでたところが全部流された。そのとき離れ離れになって、いろいろあって、ここに来ることになったの」
「……よく、生きてたもんさね」
「お姉ちゃんだって、きっと生きてるはず。いつか探しに行くんだ」
タオとリエンは一瞬だけ顔を見合わせた。この街では、誰もが消したい過去を抱えている。だからそれ以上は聞かなかった。ただフオンだけが、濁った瞳でロローリャの顔をじっと見つめ続けていた。
◇
商売女たちのアパートには、血のつながりはなくても家族に近い何かがあった。熱を出せば黙って薬を買ってくるジウ、冗談交じりに「うちの子」と呼ぶタオ、頼んでもいないのにスカートのほつれを直すリエン。彼女たちはロローリャを「妹分」と呼び、ロローリャもその呼び方をどこかくすぐったく思っていた。
「最近、本当に中国人客の景気がいいね。あいつら、チップを出すときだけは手が滑ったのかってくらい気前がいいよ」
リエンが真っ赤なマニキュアを塗りながら、下品に笑った。
「店でもさ、『お兄さん、かっこいい』って一言でチップが倍だよ。私も真面目に勉強しようかね。ニーハオ以外の、もっとこう……財布の紐が緩む魔法の言葉をさ」
ジウの語学に対する興味は、だいたいその程度の理由から始まる。懸命に腰をくねらせてみせてはいるが、按摩にくる客の払いがよくなるかは定かではない。
「言葉だけじゃないさ。街を見てみな。看板も店も、いつの間にかあっちの文字ばかりさ。金があるところには、何でもかんでも寄ってくるってことさね」
客から金を取る話をしている二人に対して、市場で働くタオには、もっと露骨な変化が見えていた。中国人向けの商品を置く店も、彼ら相手に商売を始める人間も、ここ数年で目に見えて増えている。
「お隣のラオスの国境町なんか、もう実質あっちの領土らしいよ。カジノもホテルも中国企業が丸ごと押さえて、地元の警察すらお伺いを立てなきゃ入れない特別区になってるって話だね」
「へえ。町ごと買えるの」
ロローリャが目を丸くすると、リエンが笑った。
「買うんじゃなくて、借りるんだよ。九十九年とか、そんな長いあいだね。借りたまま返さない借り方ってやつ」
「中国企業のロゴがついた車なら、あっちじゃ国境もほぼ顔パスらしい。荷台に何を積んでようが、中に誰が乗ってようがおかまいなし。きっとろくでもないもの運んでるに違いないさ」
タオがそう言うと、廊下に少しだけ湿った沈黙が落ちた。九十九年という長さを、ロローリャはうまく想像できなかった。自分が生きてきた年月の何倍にもなる。
「じゃあ私たちも、この部屋を九十九年借りようよ。返す頃には大家のほうが先に忘れてるでしょ」
一拍置いて、女たちがどっと吹き出した。
「この子、口が立つねえ」
「まったく顔と口だけは一人前さね」
「口だけじゃない。ちゃんと稼いでるし」
こういうときだけは、十三歳だろうと片腕だろうと関係ない。女たちの輪の中で、ロローリャもきちんと一人分の口を利いた。
──ベトナムでは売春は禁じられているが、賎職が街から消えることはない。女たちはカラオケ店やバー、マッサージ店に顔を出し、客を捕まえて外の安ホテルへ流れる者もいれば、顔なじみの客と直接やり取りをして呼び出される者もいる。金は一晩で数十万ドンから、客によっては百万ドンを超えるが、店の取り分、仲介、借金、薬で削られ、手元には日々を繋ぐだけの額しか残らない。多くは地方から流れてきた女たちで、家族に仕送りをしている者もいれば、何かから逃げてきた者もいる。
そんな女たちを支えるのが、このアパートでのロローリャの役目であった。朝は片腕で洗濯物を干し、米を炊き、子どもたちに朝飯を食わせる。女たちが眠り込んでいる間に掃除を済ませ、昼は通りへ出て宝くじを売った。夕方に戻ればまた飯の支度をし、日が暮れて女たちがそれぞれの店へ散っていけば、残された子どもたちを一つの部屋に集めて寝かしつけ、翌朝まで面倒を見る。
ここでの日常は、傍から見れば歪んでいた。それでもその片隅に、ロローリャの居場所はあった。腕が一本しかないため工夫は要ったが、文句は言わなかった。言っても仕方がないし、それより早く終わらせた方がいい。ロローリャはそういう子どもだった。
深夜、仕事を終えたフオンが迎えに戻ってくる。眠ったミーを起こす前に、彼女はいつものように、どこからか拾ってきた小学校の教科書をロローリャの前に広げた。ページの端はぼろぼろに破れ、表紙も擦り切れている。ミーを預かるようになったころから続く、二人だけの密かな約束事だった。
「ここ、読んでみて」
フオンが指した一行を、ロローリャは身を乗り出して追い、声に出して読んだ。六つの声調を持つベトナム語は難しかった。最初は何度発音しても通行人に聞き返され、そのたびに悔しくて、布団の中で口だけを動かし、夜通し復習した。
文字が読めるようになるたび、世界は少しずつ形を変えていった。屋台の看板、港の掲示板、客が小脇に抱える新聞の見出し。意味が頭に染み込んでいく感覚に、ロローリャは密かな喜びを覚えた。
フオンの手は、ときどき薬の影響か小さく震えた。彼女はそれを隠すように、文字を指で強く押さえ、一生懸命に言葉を授けてくれた。
中学までしか出られなかった。だからこの仕事しかなかった。教えながら、フオンはよくそう言った。口癖のように、独り言のように。もっと学があれば選べた。あんたは頭がいい。言葉さえ身につければ、もっとましな道がある。あんたはまだ間に合う。
ロローリャはそのたびに素直に頷いた。だからフオンが先生になってくれた夜、ロローリャは迷わず前に座った。
「私も大して得意じゃないけど、港で使えたらきっと稼ぎが変わるから」
やがて学習は英語にまで及んだ。フオンに促されるまま、港の外国人船員にたどたどしい英語で話しかける。言葉はうまく通じなかったが、船員は笑ってくれた。その夜、ロローリャは得意になってフオンに報告した。
「あんまり通じなかったけど、笑ってくれたよ」
「それで十分。また話しかけなさい」
タオは分からない字を聞くと面倒くさそうにしながらも答えてくれた。外国人客と多少やり取りができるリエンは、英語の発音を直してくれることもあった。
「なんでそんなに一生懸命なの」
「楽しいから」
それは本当のことだった。姉を探すためという理由もあったが、新しい言葉が自分のものになっていく感覚は、それだけでも十分に楽しかった。
ある夜、教科書を閉じながらロローリャがフオンに言った。
「ありがとう、勉強を教えてくれて」
フオンは少し面食らったような表情を浮かべたが、すぐにいつものぶっきらぼうな調子に戻り、古びた紙をめくった。
「次のページ、やるよ」
薄暗い電球の下で肩を寄せ合い、二人はそうやって何度も夜を重ねていった。
だからこそ、フオンが「出稼ぎの話がある」と切り出したあの夜の冷たさを、ロローリャは後になっても鮮明に思い返すことになる。