三日目の朝。
鐘が鳴る前に目を覚ましたノイは、すでに飯場で米を洗っていた。
朝の勤めを終えたスウィット住職が通りかかると、軒下にいたロローリャが呼び止めた。
「ルアン・ポーは、どうして先生からお坊さんになったの?」
「妻を病で亡くしたからです。最初は三か月だけ、妻のために功徳を積み、自分を見つめ直すつもりでした。けれど、静かに暮らすうちに気づいたのです。妻が何を恐れ、何を望んでいたのか、私はほとんど聞こうとしていなかった。治す方法や、励ます言葉ばかり探していました」
「奥さんは、何を聞いてほしかったのかな?」
「その答えは、すぐには見つかりませんでした。考えるうちに、妻だけでなく、生徒や周りの人々にも、自分の正しさを押しつけてきたのではないかと思うようになりました。人は本当は何を望み、どう生きたいのか。そう考え続けるうちに、十六年が過ぎてしまったのです」
ロローリャは、せっせと働くノイへ目をやった。
「ルアン・ポー。私たちはどうすればいい? 足も直ってないし、お金もないよ」
「お二人には、何か得意なことがありますか?」
「ノイは見てのとおり、家事の手伝いができるよ。私は、宝くじ売りと子守。あとは、猿と喧嘩することかな」
「最後の才能だけは、眠らせておいた方がよいかもしれませんね」
飯場から、おばさんの声が飛んできた。
「ロローリャ、今日も店の前を頼むよ! 猿は追い払って、客を呼び込んどくれ!」
ロローリャは杖を突き、入口に置かれた椅子へ移った。
「そこのおじさん、洞窟まで行って疲れたでしょ? カオソーイ食べていきなよ!」
呼び込まれた男が卓へ座ると、飯場のおばさんは上機嫌で鍋の蓋を開けた。
「次は、あっちの家族を呼んどくれ。四人いるからね」
「任せてよ」
店先に座っていると、猿に困っている者たちの愚痴も耳へ入った。
「今朝も果物を籠ごと持っていかれちまったよ」
「うちの畑もかなり荒らされたぞ。すばしっこいから、なかなか追い払えん」
ところが、そのすぐ隣では、猿へ与える豆や果物が売られている。
「みんな猿に困ってるのに、餌を売ってもいいの?」
「まあ、猿を見に来る客も多いんだよ。店へは来てほしくない。でも、猿目当ての客がいなくなるのも困るのさ」
「面倒くさいね」
ロローリャは客へ声をかけながら、ときおり屋根や石垣へ目を走らせた。
木の上では、昨日から見ていた身体の大きな雄猿が、飯場を窺っていた。
◇
昼前、飯場の手伝いを終えたノイが、葉に包まれたカオニャオと焼いた鶏肉を持って出てきた。
「お姉ちゃん、一緒に食べよ──」
その時、木の上から大猿が飛び下りた。
「きゃっ!」
大猿はノイへ体当たりし、地面へ転ばせた。ノイの手から食事を奪うと、口にくわえ、そのまま杖にすがって立つロローリャの脇を駆け抜けようとした。
片脚の少女など、追ってこられないと思ったのだろう。
「ノイに何してんだ、この猿!」
ロローリャは杖を放すと、サーベルの鞘口を奥歯でくわえ、右手で柄を引いた。
錆びた刀身が抜けると同時に、左脚で地面を蹴った。
支えを失った身体が、大猿へ向かって倒れ込む。
捨て身の跳躍。
振り抜いたサーベルの峰が後脚を払うと、大猿は食事を放し、地面を派手に転がった。
ロローリャも左肩から落ちる。だが、欠けた左腕を土へ突き立て、倒れた勢いのまま身体を返す。
起き上がろうとした大猿の背へ、サーベルの峰を叩き込んだ。
一発。
二発。
頭を抱えて逃げようとしたところへ、もう一発。
大猿は甲高い悲鳴を上げ、石垣へ向かって走り出した。
屋根や木の上にいた猿たちも、一斉に騒ぎ始める。
「逃がすか!」
ロローリャはサーベルを地面へ置き、小石を拾うと、逃げる大猿の尻へ一つ、肩へもう一つ、さらに屋根や石垣で騒ぐ猿たちへ、続けざまに礫を投げつける。
額や鼻先へ石を当てられ、猿たちは悲鳴を上げて散っていった。
「ノイ、怪我はない?」
「大丈夫だよ。でも、ご飯が駄目になっちゃったね」
「……あの泥棒猿め」
包みは大きく裂け、カオニャオは泥の上へ散っていた。焼いた鶏肉にも、大猿の歯形がついている。
「でも、寺で餌をもらってるような腑抜け猿なんざ、あの白爺さんの足元にも及ばなかったね」
ロローリャは満足そうに言った。
「もう十分でしょう」
背後から、スウィット住職の声がした。
ロローリャはサーベルを鞘へ戻してから杖を拾い、身体を起こした。
「猿と喧嘩する才能も、捨てたもんじゃないでしょ。これに懲りて、しばらく悪さしないはずだよ」
「ええ。あの猿は、あなたに負けたと理解したでしょう」
スウィット住職は、少し離れた石垣の上を見た。
逃げた雄猿の周りへ数匹の猿が集まり、一匹の雌猿がその肩や背中へ触れている。腹には小さな子猿がしがみついていた。
「ですが、あなたがノイを守ろうとしたように、あの猿たちにも、守りたい仲間や子供がいます」
「猿どもとノイを一緒にしないで」
「同じだとは言っていません。ただ、相手にも大切なものがあることを、無視してよいわけではありません」
「じゃあ、盗られても我慢しろっていうの?」
「いいえ。食べ物を守り、猿を追い払う必要はありました。しかし、食べ物を落としたあとも何度も打ち、逃げる背へ石を投げました。そこまでノイを守るために必要でしたか」
「次から盗らないように、分からせただけ」
「本当に、それだけでしたか」
「当たり前じゃない! 泥棒猿なんて、殴ってなんぼなんだよ!」
「あなたが怒っていた相手は、本当にあの猿だけですか」
ロローリャは答えなかった。
「出家して間もないころ、私は寺と門前の人々を助けるためだと思い、猿へ餌を与えることを勧めました」
「ルアン・ポーが?」
「客が増えれば、寺を直すことができる。門前の店が潤えば、そこで暮らす家族も助かる。そう考えたのです。しかし、次第に猿たちは人の食べ物を積極的に盗るようになってしまいました。始まりは善意でしたが、その中には、自分が人々の役に立っていることを誇る気持ちも混じっていました」
「ルアン・ポーも間違えたってこと?」
「何度も間違えてきました」
スウィット住職は、あっさりと認めた。
「善い理由から始めた行いが、すべて善い結果になるとは限りません。誰かを守るために振り上げた剣が、いつの間にか、誰かを傷つける剣へ変わることもあります」
「私が強くなかったら、ノイはまた連れていかれる」
「強さを捨てろとは言っていません。ただ、その力のありようを、見極めなければなりません」
「そんなの、どうすれば分かるっていうの?」
「一度、立ち止まってごらんなさい」
スウィット住職は、岩壁の下に開いた洞窟を指した。
「入口から少し入ったところに、座れる場所があります。十回だけ、息を数えてみませんか」
「猿を許せって言うなら、行かないよ」
「許す必要はありません。何があなたに剣を振らせたのか、それを確かめるためです」
ロローリャは、暗い洞窟の口を睨んだ。
洞窟の奥から、ぽたり、ぽたりと水の落ちる音が聞こえてきた。