1.新しい足
およそ十歳のとき、ロローリャは昆明へ流れ着いた。
鉄砲水で姉と生き別れてから、何日経ったのかは分からない。避難民の群れに拾われて荷車に乗り、知らない村で降ろされ、そこで出会った誰かについてまた歩く。そうして人から人へ渡されるうちに、一緒にいた顔ぶれはいつの間にか消え、昆明へ着いたときには、ロローリャは一人きりになっていた。
巨大な街には人が溢れていた。けれど、山で家族と使っていた言葉しか知らないロローリャにとって、その喧騒は意味のない音の塊でしかない。右脚と左腕を欠いた身体では人混みを抜けるだけでも骨が折れ、腹が減れば残飯を漁り、夜になれば建物の隙間へ身体を押し込んで眠った。
そんな暮らしが何日か続いたころ、市場の裏で潰れた饅頭を見つけた。泥にまみれてはいたが、腹へ入れば同じことだ。ためらいもなく手を伸ばした途端、ぱん、と甲を叩かれ、饅頭が地面を転がった。
「捨てろ」
何を言われたのか分からない。顔を上げると、車椅子に乗った若い男が立ちはだかっていた。古びた軍服の上着を羽織り、両脚が腿の途中から失われている。
腹を空かせた子供にとって、相手が何者かなどどうでもよい。ロローリャが睨みつけてもう一度饅頭へ手を伸ばすと、また同じように叩き落とされた。
男はちっと舌打ちをすると、屋台へ車椅子を走らせた。店主へ何か怒鳴りつけ、台に小銭を叩きつける。そして温かい饅頭を受け取ると、ロローリャへ無理やり押しつけてきた。
「街中にゃ食い物なんざいくらでもあるってのに、なんでガキが泥なんか食ってんだ。まったく、腹が立つぜ」
一言も聞き取れなかったが、新しい食べ物をくれたことだけは分かった。
ロローリャが夢中でかぶりついていると、路地の奥から三人の子供が駆け寄ってきた。一人が空き缶や針金を詰めた袋を抱えている。
「
「俺が先に拾ったのも入ってる!」
「俺の針金もだ!」
男は三人の尻を順番に叩いた。
「うるせえ! 喧嘩する暇があるなら、分け前くらい自分らで話し合え!」
さらに懐から銭を放り投げる。
「これで焼き餌塊でも食ってこい。余った金はやるから、さっさと仲直りしろ!」
「王大哥、すげえ!」
「いいから、とっとと行け!」
ついさっきまで鉄屑一つで揉めていた三人は、銭を拾うなり連れ立って走っていった。
男は自分の胸を指した。
「
次にロローリャを指す。
「ロローリャ」
「やっぱり中国人じゃねえな。まあいい。死にたくなきゃ、ついて来い」
意味は分からなかったが、手招きだけは世界中で通じるものだ。温かい饅頭をくれた男なら、少なくとも今夜の寝床くらいは知っているかもしれない。ロローリャは残りを頬張りながら、その車椅子を追った。
◇
そうしてロローリャは、王のいる城中村の一角で暮らすようになった。
王は、飯に困った者がいれば金を出し、薬代がなければまた金を出し、揉め事の声を聞けば頼まれてもいないのに首を突っ込んだ。面倒見がいいというより、困っている人間を放っておくことに腹を立てているような男で、その気性ごと、この界隈では慕われていた。
当然、言葉も読めず、何を言っても通じないロローリャも放ってはおけなかったらしい。身振り手振りだけではいつまで経っても埒が明かないと中国語を教え始め、どうせならと近所の浮浪児まで集めた結果、いつの間にか私塾まで出来上がった。
その名も『済世明徳義塾』。
拾ってきた木板に墨で書かれた、堂々たる看板が入口に掲げられたが、中に入れば町の塾には遠く及ばない。ビールのプラ箱を椅子代わりに並べ、チラシの裏紙や地面に字を書くだけの荒削りな教室だった。
王が水の入った茶碗を持ち上げる。
「
「シュイ」
横から少年、李小満が笑った。
「なんだいそりゃ。違う違う。変だぞ」
ロローリャは小満の脇腹を右肘で突いた。
「いてえ!」
「そこ! 授業中に喧嘩するな!」
王は指示棒で二人の頭を順番に叩いた。
「いいか、小満。人を笑えるくらい賢いんなら、お前が教えてやれ! 知ってる奴が知らない奴に教える。それがこの塾のやり方だ!」
それからは、子供同士でも教え合うようになった。
ロローリャは読み書きを間違えるたびに笑われては小突き返したが、算数だけは妙に飲み込みが早く、間もなく掛け算のできない年下を捕まえて教える側に回っていた。
「饅頭が一つのセイロに三個。それが二つなら?」
「……五個?」
「六個でしょ! 馬鹿」
「馬鹿とはなんだ! 王大哥に言いつけるぞ!」
ロローリャはふんっとそっぽを向いた。
「言えば? 小満が馬鹿なのは変わらないし」
王が車椅子をきしませて近づき、ロローリャと李小満の頭を順に叩いた。
「口喧嘩できるほど喋れるようになったか、ロローリャ。だが馬鹿は余計だ。それから、小満。お前は告げ口の前に掛け算を覚えろ! 三が二つで六だ」
そんな毎日のなかで、言葉も知識も少しずつ増えていった。今日喧嘩した相手とも、翌日になれば同じプラ箱に腰掛ける。知らないことは聞き、知っていることなら教え、笑われれば言い返す。
姉と生き別れて以来、初めて自分にも「帰る場所」ができた気がした。
◇
言葉が通じるようになるにつれ、ロローリャの世界も城中村の一角だけでは収まらなくなった。片脚でぴょんぴょん跳ねて市場の端まで行き、そこから遠くの露店を眺め、また同じように跳ねて戻ってくる。後ろでは子供たちがその歩き方を真似し、野良犬まで面白がって吠えるものだから、そのたび王の機嫌が悪くなった。
ある日もそうしてロローリャが外から戻ると、部屋の隅に革帯のついた木製の右脚が立てかけられているのに気がついた。
ロローリャは這うように近づき、片手で抱き寄せた。自分の右側に、あるはずの形がある。胸の奥がくすぐったくなった。
「王大哥、王大哥! これ、わたしの!?」
「お前以外に誰が使うというんだ。俺に片脚だけ生やしてどうする」
王は鼻で笑いながら、ロローリャの腿へ革帯を巻き始めた。扱いは乱暴なくせに、締める位置が少しでも合わなければ何度でもやり直す。そんな王を急かすように、ロローリャは跳ねるように腰を浮かせた。
「足だ! 足だよ! わたしに足があるよ! 谢谢,王大哥!」
「待て、まだベルトが締まってないだろ。……これはお前が大きくなっても使えるように作らせたんだ。自分でも調節できるよう、やり方をちゃんと覚えておけ」
それからロローリャは立ち上がっては転び、転んではまた立った。王も口では下手だの馬鹿だの言いながら、革帯がずれるたびに呼び戻して何度も締め直した。
その日の夜、王の恋人である陳静がやってきた。王が両脚を失う前からの付き合いで、事故の後も変わらず彼を支え続けている女性だった。
ロローリャは部屋の端から端へ、夢中で義足を踏み出していた。
「三歩……四歩……五歩!」
その姿をしばらく眺めてから、陳は王のそばへ寄った。
「また恩給を使ったの?」
「まだまだ余ってるさ。俺は国の英雄様だからな」
「またそんなこと言って。あなた、そうやって何でもかんでも拾ってきて、いつまで続けるつもりなの?」
「職人に頼んで作らせたんだ。拾ったんじゃない」
「そういう話じゃないでしょう? 誰かが困っているたびに全部抱え込んで……あなた、自分をどこへ連れていくつもりなの」
王は声を落とし、向こうで義足を試すロローリャへ目をやった。
「あいつは、まだ行きたいところへ自分で行けねえ」
「順徳……」
「人間はさ、行きたい場所くらい、自分で行けるべきなんだよ」
王は車椅子の車輪を、掌で一度叩いた。
「俺には、これがあるだろ? 静……、お前もいてくれた。他にもたくさん持ってる。だが、あいつには何もなかった」
陳静は黙った。
「六歩……七歩……っ!」
どすん、と尻もちをついたロローリャが、すぐに立ち上がる。
「王大哥! 七歩いけたよ!」
「おう! じゃあ次は十歩だ!」
「うん!」
ロローリャはまた壁際まで戻った。転ぶたびに痛かったし、木の脚はまだ自分の身体に馴染まない。それでも、昨日まで跳ねてしか進めなかった場所へ、明日は二本の脚で向かっていける。
新しい脚が嬉しくて仕方なかった。