欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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2.ノコギリと饅頭

 義足をもらって一年ほど経つと、ロローリャは李小満たちと市場へ行くようになった。スラムの子供たちは空き缶や針金などの金属廃品を詰めた袋を担ぎ、屑屋へ売りに行く。ロローリャも少しは拾うものの、片腕では袋を抱えるだけで精いっぱいだった。

 

 小満たちが店先で袋をひっくり返している間、ロローリャは市場の外れで妙な音を耳にした。

 

 白髪の老人が、古いノコギリを弓でこすっていた。足元の欠けた茶碗には、五角硬貨が二枚。曲げられた刃が細く震え、すすり泣くような音を響かせている。

 

「それ、ノコギリ? すごい、音が出るんだ。なんか泣いてるみたい」

「泣かせとるんじゃ。昔は二胡を弾いとったが、この指じゃ弦が押さえられんでな。仕方なしにこいつを鳴らして銭をもらっとる」

「ノコギリで銭がもらえるの? ねえ教えて、私も稼ぎたい!」

「飯の種をただで教えろと言うのか。……どこの子じゃ、お前さん」

「王大哥のところ」

「ああ、順徳が拾った小瘸子(びっこの子)か」

 

 老人は義足を見れば、それだけで事情を察したらしい。

 

「相変わらずじゃのう、あやつは。己の身を削って人の脚を買いよる……」

「ねえ老爷爷(おじいさん)、教えてよ。みんなは屑鉄をたくさん集められるけど、私じゃ全然拾えないもん」

「お前さんには無理じゃ。刃を曲げながら弓を引かなきゃならんからの。ヘマして音が外れたら、そこの魚屋に怒鳴られるのがオチじゃぞ」

「でも怒鳴られたら人が集まるよ?」

 

 老人は鼻で笑った。

 

「で、その前でわしが上手く弾けば銭が増える、と。ガキのくせに商いの知恵だけは回るのう。……いいか、来たいなら明日の昼過ぎにしろ。朝は市場が忙しいし、ヘタクソな音を響かせて魚屋に怒鳴られるのはわしなんじゃからな」

 

 次の日から、ロローリャは市場の外れへ通った。老人は小さめのノコギリを貸し、片腕でも鳴らせるよう、何度も持ち方を調整してくれた。弓を引くたび、音は裏返り、魚屋が怒鳴り、犬が吠えた。

 

 

 ◇

 

 

 春が過ぎ、夏になった。ロローリャのノコギリも、魚屋に怒鳴られない程度には鳴るようになっていた。

 

 そんなある日、李小満が顔を腫らして王のところへ飛び込んで来た。屑屋の帰り、市場裏で酔っ払いに絡まれて銭を奪われたのだという。

 

 王はその日の算数の授業を取りやめ、子供たちを路地裏の空き地へ集めた。

 

 壁際に古い戸板を立てかけ、地面には石ころや短い釘、折れた木片、そして刃の欠けた小刀を並べていく。

 

「今日から護身術を教える」

「王大哥! それを使えば喧嘩に勝てるのか?」

「馬鹿言え。お前らみたいなガキが大人と殴り合って勝てるわけねえだろ。だから──こうするんだ」

 

 王が地面の小刀を拾い、ひょいと手首を返すと、刃は吸い込まれるように戸板へ突き刺さった。

 

「軍にいた頃に叩き込まれた技だ。銃がなくても、棒でも石でも茶碗の欠片でも、手近なものを武器にする」

 

 今度は短い釘を拾い上げ、戸板の木目を指さした。

 

「力のないお前らでも戦う方法はある。狙うのは目だ。不意に物が飛んでくれば、人間は絶対に目を瞑る。一瞬でも相手の足を止められれば儲けものだ。その隙に全力で逃げろ」

 

 王は戸板に炭で丸を二つ描いた。

 

「よし、やってみろ」

 

 投擲の練習を重ねるうち、ロローリャに思わぬ才能があることが分かった。義足でしっかりと体を支え、しなやかに肩を回すと、放たれた釘は正確に丸の中心を射抜く。

 

 子供たちが歓声をあげる中、王は念を押すように言った。

 

「いいか、絶対に相手を倒そうなんて思うなよ。命あっての物種だ。逃げきることが大事なんだからな」

 

 

 ◇

 

 

 夏の終わり頃、城中村の路地が急に騒がしくなった。市場裏で揉め事があり、王が警察へ連れていかれたのだという。

 

 李小満の銭を奪った男のところへ、一人で殴り込みをかけたらしい。

 

 王がいないあいだ、陳静は毎日ロローリャたちの元を訪ねた。

 

「王大哥、もう帰ってこないの?」

「ううん、帰ってくるわ。あ(・)な(・)た(・)た(・)ち(・)のためなら、あの人は必ず帰ってくる……」

 

 陳静は自分に言い聞かせるように呟き、寂しげに微笑んだ。

 

 二日ほど経った夕方、路地の奥からカタカタと車椅子の音が響いた。王が戻ってきたのだ。出迎えた陳静が呆れたように息を吐く。

 

「子供には逃げろと言っておいて、自分は殴り込み? 警察に連れていかれたあなたを待つのは、これで何度目かしらね」

 

 王はさすがに気まずそうに顔をそむけた。

 

 かつての王順徳は、国境地帯で麻薬犯罪を追う武警だった。仕事に誇りを持ち、仲間からの信頼も厚かったが、ある任務で爆発に巻き込まれ、両脚と同僚の趙を同時に失った。趙は殉職して烈士となり、王には二等功が授けられたが、軍人としての彼の道はそこで途絶えた。

 

 それからの王は、世の中のあらゆる「仕方がない」に腹を立てるようになった。飯のない子供にも、薬を買えない老人にも、それを見て仕方がないと通り過ぎる人間にも怒った。だが誰より許せなかったのは、おそらく両脚を失って生き残り、胸に勲章だけを残された自分自身だった。

 

 その怒りは王を腐らせる代わりにつき動かしたが、同時に彼の身を削らせ続けてもいた。

 

「ねえ順徳。あなた、私と暮らすことを考えたことはある?」

「……急にどうしたんだ」

「急じゃないわ。ずっと待ってたの。あなたが誰かのために飛び出していくたび、今度こそ帰ってこないんじゃないかって思いながら、それでもずっと」

「俺は変われん。生き残って二等功をもらった男だ。両脚を失ったからって、腹を空かせたガキや薬も買えねえ年寄りを見捨てるようになったら……俺は俺じゃなくなる」

 

 幼いロローリャには、二等功や烈士といった言葉の意味はよく分からなかった。

 

「趙さんがあなたを庇って死んだのは、あなたが誰かの代わりに壊れるためじゃないでしょう」

「……その名を出すな!」

 

 陳静は小さく息を呑み、静かに口を開いた。

 

「叔母からお見合いの話が来ているの。相手は区の幹部の息子さん。今度新しい店を開くから、一緒にやらないかって」

「……そうか」

「止めないの?」

「俺に止める資格なんてない」「資格の話なんてしてないわ」

 

 陳静の声がわずかに震えた。

 

「貧乏でも、脚がなくても、そんなことどうでもよかった。ただ一度くらい、私を選んでほしかっただけなのに」

 

 それきり、陳静は姿を見せなくなった。

 

 ロローリャは、二人の間に何があったのか、最後まで理解しきれなかった。ただ、その日を境に王が壁際の小さな竹椅子へ、ふと視線を落とすようになったことだけは覚えている。そこは、陳静が来るたびにいつも座っていた場所だった。

 

 

 ◇

 

 

 秋が過ぎ、城中村の屋根に白い霜が降りる頃になっても、王は相変わらず子供たちを叱り、飯を分け、揉め事に首を突っ込んでいた。だが、その顔つきにはどこか虚ろな影が落ちていた。

 

 その日、ロローリャは初めて自分の足元に置いた茶碗を小銭で鳴らした。老人からもらった小さなノコギリを抱え、饅頭屋まで跳ねるように歩く。湯気の向こうで、丸顔の張大娘(おばちゃん)が竹籠の蓋を持ち上げた。

 

「大娘、これで饅頭ちょうだい! あのね、これ私がノコギリを鳴らして稼いだ銭なんだよ。魚屋のおじさんにも今日は怒鳴られなかったし、犬も途中から吠えなくなったんだから」

「へえ、順徳のところの小さいのが、もう芸で金を稼いだのかい。なら大きいのを選んでやろうかね。いくつ買ってくれるんだい?」

「二つ。一つは王大哥にあげるの。今日は私が買ったって自慢するんだ!」

「それなら冷めないうちに持っていきな」

 

 ロローリャは饅頭の紙袋を胸に抱えた。これを見せれば、王は絶対に喜んでくれるはずだ。義足で立って、ノコギリで稼いで、自分の力で饅頭を買えたのだから。

 

「王大哥、これあげる! 温かいうちに食べて」

「おお、ありがとな。ちょうど腹が減ってたんだ」

 

 王は顔を綻ばせ、受け取った饅頭を一口かじった。湯気が立ち上り、白い生地が指につく。二口目を飲み込んだところで、ふと王の手が止まった。

 

「……そういえば、これはどうした? 張大娘がくれたのか?」

 

 ロローリャは待ってましたとばかりに胸を張った。

 

「違うよ。私が稼いだの! ノコギリの老爷爷に教わって市場の外れで弾いたら、今日初めて銭を入れてもらえたんだよ。王大哥、私、もう自分の力で饅頭を買えるんだよ!」

 

 王は手元の饅頭を見つめた。欠けた白い生地には、己の歯形がくっきりと残っている。

 

「糟了(なんてこった)……食ってしまった。食ってしまったではないか。この馬鹿!」

「なんで怒るのよ! 私が稼いで買ったんだよ。王大哥に食べてほしかっただけなのに!」

「うるさい! 俺は二等功をもらった王順徳だぞ! いくら脚がなかろうと、子供に養われるような真似ができるか……! 俺は……お前だけからは貰うわけにはいかなかったんだ。それなのに、先に食わせるとは……この馬鹿。出ていけ!」

 

 ロローリャは紙袋を硬く握りしめた。中のもう一つの饅頭がぐしゃりと潰れる。

 

「王大哥なんか、大嫌い!」

 

 ロローリャはノコギリを抱え、戸口の外へ飛び出した。

 

 ◇

 

 夜になり、こっそり戻ってくると、部屋の中から喉を押し潰すような声が漏れていた。

 

 ロローリャは戸口の手前で足を止めた。大人の男が泣く姿なんて、見たことがなかった。いつも子供たちを叱り飛ばし、車椅子ごと悪い大人へ突っ込んでいくあの王大哥が、戸板の向こうで一人、肩を震わせている。

 

 胸に抱えたノコギリを見下ろす。

 

──王大哥にも、悲しいことがあるんだ。

 

 そう思うと、さっき潰してしまった饅頭の悔しさも、胸の痛みも、急に小さく思えた。ロローリャは戸口の前に腰を下ろし、膝と義足の間に小さなノコギリを挟み込んだ。

 

 弓を引くと、細い刃が震え、凍てつく路地へすすり泣くような音が伸びていく。

 

 その音色に、自分の声をそっと重ねた。昔、雨の夜にお姉ちゃんが口ずさんでくれた、短い子守唄。

 

 戸の向こうで、王の嗚咽が一度だけ大きく弾けた。

 

 冬の夜の闇の中へ、男の泣き声と、ノコギリの調べと、ロローリャの歌声が静かに溶けていった。

 

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