義足をもらって、一年ほど経った。
ロローリャは李小満たちと市場へ行くようになった。スラムの子供たちは空き缶や針金などの金属廃品を詰めた袋を担ぎ、屑屋へ売りに行く。ロローリャも少しは拾ったが、片腕では袋を抱えるだけで精いっぱいだった。
小満たちが店先で袋をひっくり返している間、ロローリャは市場の外れで妙な音を聞いた。
白髪の老人が、古いノコギリを弓でこすっていた。足元の欠けた茶碗には、五角硬貨が二枚転がっている。曲げた刃が細く震え、泣くような音を出していた。
「それ、ノコギリ? すごい、音が出るんだ。なんか泣いてるみたい」
老人は弓を止め、曲がった左手の指を見せた。
「泣かせとるんじゃ。昔は二胡を弾いとったが、この指になってから弦が押さえられん。仕方なしに、いまはこいつを弾いて、銭を投げてもらっとる」
「ノコギリで、銭がもらえるの? 教えて。私も稼ぎたい」
「飯の種をただで教えろと言うのか。……どこの子じゃ」
「王大哥のところ」
「ああ、順徳が拾った
老人はロローリャの義足をちらりと見た。
「相変わらずじゃのう。自分の身を削って、人の脚を買いよったか……」
「ねえ
「お前さんには無理じゃ。こいつは、刃を曲げながら弓を引かにゃならん。音が外れたら、そこの魚屋に怒鳴られるだけじゃぞ」
「でも怒鳴られたら、人が集まるよ」
老人は鼻で笑った。
「その前でわしが上手く弾けば、銭も増えるというわけか。小さいくせに、商いの口だけは達者じゃな。なら、明日の昼過ぎに来い。朝は市場が忙しいし、下手な音出して隣の魚屋に怒鳴られるのは、わしじゃからな」
次の日から、ロローリャは市場の外れへ通った。老人は小さめのノコギリを貸し、片腕でも鳴らせるよう、何度も持ち方を変えさせた。弓を引くたび、音は裏返り、魚屋が怒鳴り、犬が吠えた。
◇
春が過ぎ、夏になった。ロローリャのノコギリも、魚屋に怒鳴られないくらいには鳴るようになっていた。
そんなある日、李小満が顔を腫らして王のところへ来た。いつもの屑屋で廃品を売った帰り、市場裏で酔った男に絡まれ、握っていた銭を奪われたという。
王はその日の算数の授業をやめ、子供たちを路地の奥の空き地へ集めた。
壁に古い戸板を立てかけ、地面には石ころ、短い釘、折れた木片、それから刃の欠けた小刀を一本置いた。子供たちは横一列に並べさせられ、王の手元を見た。
「今日から護身術をやる」
「王大哥。それを使えば、喧嘩に勝てるのか!」
「喧嘩なんて馬鹿な真似はよせよ。お前らみたいなガキが大人と殴り合ったら、最初の一発で終わりだ。だから、こうするのさ──」
王が地面の小刀を拾って手首を返すと、刃は戸板に刺さっていた。
子供たちが息をのんだ。
「軍にいたころ、こういうのを仕込まれた。銃がなくても、棒でも、石でも、茶碗の欠片でも、その場にある物を使う」
王は短い釘を拾い、戸板の節を指した。
「非力なお前らでも、やりようはある。狙うなら目だ。咄嗟に物が飛んでくれば、人は必ず目をつぶってしまう。一瞬でも、相手の動きを止められればそれでいい。その隙に逃げろ」
王は戸板に炭で丸を二つ描いた。
「さぁ、当ててみろ」
数日、みんなで練習するうち、ロローリャには投げる才があると分かった。片足で体を支え、肩を先に走らせると、釘は丸の中心へ吸い込まれるように突き刺さる。
子供たちが歓声を上げるたび、王は言った。
「いいか、くれぐれも相手を倒そうとするなよ。命あっての物種だ。逃げることが大事なんだからな」
◇
夏の終わり頃、城中村の路地が急に騒がしくなった。市場裏で揉め事があり、王が警察へ連れていかれたという。
李小満の銭を奪った男のところへ、殴り込みをかけたらしい。
王がいないあいだ、陳静は毎日、ロローリャたちのところへ来た。
「王大哥、もう帰ってこないの?」
「帰ってくるわ。
陳静はそう言って、少しだけ笑った。
二日ほど経った夕方、路地の奥から車椅子の音がした。王が戻ってきた。
「子供には逃げろと教えておいて、自分は殴りに行ったのね。警察に連れていかれたあなたを待つのは、これで何度目かしら」
王は顔をそむけた。
王はもともと、国境で麻薬を追う武警だった。職務に誇りを持ち、仲間からの信も厚かった。だがある任務で王は同僚の趙と、自らの両脚を失った。趙は烈士となり、王には二等功が授けられたが、軍人としての王順徳はそこで終わった。
それから、王は変わった。
王はいつも怒っていた。誰かが困っていることに腹が立ち、困ったまま諦めていることに腹が立ち、見て見ぬふりをする者にも腹が立った。だが一番腹立たしかったのは、勲章だけ残った自分自身だった。
その怒りは王を腐らせる代わりに動かし、自分の暮らしさえまともに立て直せていないのに、彼の身を削らせ続けていた。
「順徳。あなた、私と暮らすことを考えたことがある?」
「今さらどうしたんだ?」
「私は、ずっと待っていたわ。あなたが誰かのために飛び出していくたび、帰ってくるかどうか分からないまま、それでも待っていた」
「俺は変われん。俺は烈士じゃないにせよ、二等功をもらった王順徳だ。両脚をなくしても、食えない子供や、薬も買えない年寄りを見捨てるようになったら、俺の名がすたる」
ロローリャには、二等功も烈士もよく分からなかった。
「趙さんがあなたを庇って死んだのは、あなたが誰かの代わりに壊れるためじゃないでしょう」
「その名を出すな!」
陳静は、しばらく黙っていた。
「叔母から見合いの話が来てるの。相手は区の偉い人の息子さんよ。彼、新しいお店を始めるから一緒にやってみないかって言われてる」
「そうか……」
「止めないの」
「俺に止める資格があるか」
「資格じゃないでしょう。貧乏でも何でも、私を選んでほしかった」
陳静は、それきり来なくなった。
ロローリャは、二人の間に何があったのか、最後まで理解しきれなかった。ただ、その日を境に、王が壁際の小さな竹椅子へ、ふと目をやるようになったことだけは覚えている。それは、陳静が来るたび座っていた椅子だった。
◇
秋が過ぎ、城中村の屋根に白い霜が降りるころ、王は相変わらず子供を叱り、飯を分け、揉め事にも口を出していた。ただ、その顔つきはどこか空っぽだった。
その日、ロローリャは初めて茶碗の底を小銭で鳴らした。老人からもらった小さなノコギリを抱え、饅頭屋まで跳ねるように歩く。湯気の向こうで、丸顔の張
「大娘、これで饅頭ちょうだい。あのね、これ私がノコギリを鳴らして稼いだ銭なんだよ。魚屋のおじさんにも今日は怒鳴られなかったし、犬も途中から吠えなくなったんだから」
「へえ、順徳のところの小さいのが、もう芸で金を稼いだのかい。なら大きいのを選んでやろうかね。いくつ買ってくれるんだい?」
「二つ。一つは王大哥にあげるの。今日は私が買ったって自慢するんだ!」
「それなら冷めないうちに持っていきな」
ロローリャは饅頭の紙袋を胸に抱えた。これを見せれば、王はきっと喜んでくれる。義足で立って、ノコギリで稼いで、饅頭まで買えたのだ。自慢しない理由がなかった。
「王大哥、これあげる。熱いうちに食べて」
「おお、ありがとな。ちょうど腹が減ってたんだ」
王は顔を上げ、饅頭を受け取ると一口かじった。湯気が割れ、白い蒸し生地の跡が指につく。二口目を飲み込んだところで、手が止まった。
「そういえば、これはどうしたんだ。饅頭屋の張大娘がくれたのか?」
ロローリャは待ってましたとばかりに胸を反らした。
「違うよ。私が稼いだの。ノコギリの老爷爷に教わって、市場の外れで弾いたら、今日初めて茶碗に銭が入ったんだよ。王大哥、私、もう饅頭を買えるんだよ!」
王は饅頭を見た。白い生地の欠けたところに、ロローリャではなく、自分の歯形がついていた。
「
「なんで怒るのよ! 私が稼いで買ったんだよ。王大哥に食べてほしかっただけなのに!」
「うるさい。俺は二等功をもらった王順徳だぞ。足がなくても、食えない子供から飯をもらうなんて……。俺は……お前だけからは貰うわけにはいかなかったんだ。それなのに、先に食わせるとは……この馬鹿。出ていけ!」
ロローリャは紙袋を握った。もう一つの饅頭が中で潰れた。
「王大哥なんか、大嫌い!」
ロローリャはノコギリを抱え、戸口の外へ飛び出した。
夜になって戻ると、中から、喉を押し潰すような声が漏れていた。
ロローリャは戸口の前で足を止めた。大人の男が泣くところを見たのは初めてだった。いつも子供を叱り、悪い大人へ車椅子ごと突っ込んでいく王大哥が、戸板の向こうで肩を震わせている。
ロローリャは胸に抱えたノコギリを見下ろした。
王大哥にも、悲しいことがあるのだ。
そう思うと、さっき潰した饅頭のことまで、急に小さな痛みになった。ロローリャは戸口の前に座り、膝と義足の間に小さなノコギリを挟む。弓を引くと、細い刃が震え、寒い路地へ泣くような音が伸びた。
そこへ、自分の声をそっと重ねた。昔、姉が雨の夜に口ずさんでくれた、短い歌だった。
戸の向こうで、王の嗚咽が一度だけ大きくなった。
冬の夜の闇に、泣き声と、ノコギリの調べと、ロローリャの歌が溶けていった。