欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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3.追放

 冬が過ぎ、風の冷たさが和らいでも、王は変わらず塾を続けていた。

 

 子どもたちを集め、古い紙や地面に数字を書かせる。教えるのは、屑屋で銅くずを売ったときの値段や、手配師に上前を撥ねられたあとの取り分、市場で重さをごまかされたときの見抜き方である。

 

「小満、また間違えてやがる。銅くず五十斤で手配師が二割抜いたら、残るのはいくらだ。自分の飯が減るんだぞ、頭使わんか!」

 

 怒鳴り散らしたくせに、授業が終わると王は小満の首ねっこを掴み、黙って五角硬貨を二枚、ポケットにねじ込んだ。

 

「これで饅頭でも買って食え。腹が減ってちゃ計算も狂う」

 

 相変わらずの王だった。口は悪く、手は荒い。けれど、何かが決定的に変わっていた。

 

 炭を走らせる手が、ふと止まる。

 

「……ロローリャ、次は問三だ。やってみろ」

「王大哥、それさっきやったよ。もう答え言ったもん」

「ん……そうだったか」

 

 王は短くなった炭を置くでもなく指で転がし、視線をふらふらと彷徨わせた。ロローリャの顔を、そして、誰も座っていない竹椅子をじっと見つめる。

 

 やがて、陳静が党の偉い人の息子に嫁ぎ、大通り沿いに新しい店を出したという話が城中村に届いた。

 

 それからというもの、夕刻になると王は一人で車椅子を嘉義、路地の外へ出ていくようになった。

 

 ある日、ノコギリの老人がロローリャを呼びとめた。

 

「おう丫头(嬢ちゃん)、芸の修練は怠っておらぬか? そういえば、ここのとこよく順徳を見かけるぞ」

「王大哥を?」

「陳静の嫁ぎ先の店の近くだ。車椅子で、向かいの茶店の前におる」

「それは何か用事があるんじゃないの?」

「いや、用事といえば用事なんじゃろうが……あやつのこと少し気にかけてやってくれんかな。あれは、帰る場所をなくした男の顔じゃ」

 その夜、王が戻ってきたとき、乾いた泥が車椅子の車輪にびっしりとこびりついていた。

 

「王大哥、どこ行ってたの?」

「……ただの散歩だ。余計な世話焼いてないで、さっさと寝ろ」

 

 それ以上問い詰めても答える気はなさそうだったので、ロローリャも口をつぐんだ。

 

 竹椅子には、薄い埃が積もり始めていた。

 

 ◇

 

 硝子戸の向こうで、陳静は帳面をつけていた。

 

 王は店先に車椅子を止めた。向かいの茶店から眺めるだけなら睨まれるだけで済んだが、この日は硝子戸のすぐ前まで歩み寄っていた。

 

 店の小僧が奧へ駆け込むと、ほどなくして陳静の夫がのしのしと姿を現し、その後ろから陳静が顔を覗かせた。

 

「順徳……何をしに来たの」

「静……あのときは、すまなかった。本当は止めなきゃいけなかったんだ。だけど、お前を引き留めたら俺のプライドが崩れそうで……」

「そう……でも、もう遅いわ。私はここで生きていくって決めたの」

「今からでもやり直せないのか? 俺は……一人じゃ駄目なんだ」「そんなこと言われても困るわ。お願いだから帰って」

「俺は、お前に必要とされたいんだよ!」

 

 夫が苦々しく舌打ちした。

 

「おい、王。聞こえねえのか。帰れって言ってんだろ!」

「俺は静と話してるんだ。お前は引っ込んでろ」

「こいつは俺の妻だ。あんたとはもう何の関係もねぇんだよ! 何度も店の周りをうろつかれて迷惑してんだ!」

 

 王は車椅子を押し進め、硝子戸をくぐろうとした。夫が立ちはだかり、肘掛けを力任せに掴みつける。

 

「この野郎! 店に入るんじゃねえ!」

「どけ!」

「しつけえんだよ!」

 

 夫の拳が、王の頬を打った。

 

 車椅子が大きく揺れて後ろへずれ、片輪が敷石の段差に引っかかる。バランスを崩した王の身体は座面から投げ出され、こめかみを石畳に強く打ちつけた。

 

 拳を握ったまま息を荒げていた夫は、地面に伏した王の姿を見るなり急に顔色を変えた。

 

「お、おい……大丈夫か?」

 

 陳静が思わず店先へ駆け寄る。

 

「順徳!」

 

 王はその手を払おうとしたが、思うように腕が上がらない。額から流れた細い血が、乾いた石畳に滴り落ちた。

 

 陳静は唇を震わせた。

 

「お願いだから、もうやめて。私は、あなたのそんな姿を見たくないの。あなたを必要としてる、あの子たちのところへ戻ってあげて」

 

 王はしばらく身動きもできずにいたが、やがて這い上がるようにして車椅子にしがみついた。誰の手も借りず、歯を食いしばって座面へ戻る。王は二度と顔を上げようとせず、歪んだ車輪の音を引きずりながら、路地の方へ帰っていった。

 

 ◇

 

 翌朝、王が部屋の中で冷たくなっているのが見つかった。

 

 いつまで待っても塾が開かれず、車椅子の音も聞こえない。不審に思った李小満が戸を叩き、駆けつけた年寄りたちが鍵を壊すと、間もなく路地全体が騒ぎに包まれた。

 

 しばらくすると制服を着た男たちが来て、王の身体はどこかへ運ばれていった。

 

 三日後、王順徳の死は病(・)死(・)として片づいたらしい、という話が城中村に広がった。

 

 ◇

 

 王の弔いが終わった後、ロローリャは足早に市場の外れへ向かった。

 

「老爷爷! 王大哥が病気で死んだって、どういうことなの?」

「本当かどうかは知らん。とにかく、そういうことになったようじゃの」

「王大哥は、静姐の店で頭を打ったんだよ!」

「しっ! 静かにせんか、声が大きいぞ」

 

 老人は魚屋の方をちらりと見た。

 

「あの店の亭主の親父は、党の偉い人間じゃ。誰も逆らえん」

「じゃあ、王大哥を殴った人はどうなるの?」

「どうにもならん」

「静姐は?」

「嫁に行った女が、亭主の家を敵に回せるわけなかろう」

 

 ロローリャは唇を噛んだ。

 

「そんなのおかしいよ……」

「おかしいかのう……だがな、考えてもみるのじゃ。あの王順徳が、昔の女の店先で騒いで、痴情のもつれの果てに死んだなぞ、あいつの名誉に傷がつくのではないか? 王は二等功を受けた誇り高い男じゃ。病で死んだことにして、静かに送ってやる。此度のことは、それでよかったんじゃ」

 

 ロローリャは勢いよく顔を上げた。

 

「なに、それ……。そんなのちっともよくない! なんで、老爷爷はそんなこと言うの! 王大哥は、そんなふうに死んでない。殴られたんだよ。頭を打ったんだよ。それをなかったことにして、なにが名誉なの!」

 

 ロローリャは背を向け、走り去った。

 

 ◇

 

 翌朝、ロローリャは小満たちを集め、市場の裏から拾ってきた薄い板に、炭で大きな字を書いた。

 

『杀人犯(ひとごろし)』『还我王順徳(王順徳を返せ)』

 

 店の前に着くと、朝の客がちょうど出入りしていた。

 

 ロローリャは硝子戸の前で息を吸った。

 

「人殺し!」

 

 小満たちも板を上げた。

 

「王大哥をかえせ!」

「大哥は病死なんかじゃないぞ! ちゃんと調べろ!」

 

 通行人が足を止め、向かいの茶店からも人が覗いた。

 

 店の小僧が青い顔で奥へ走ると、あわてて陳静が出てくる。その顔を見たとたん、ロローリャは板を高く上げた。

 

「静姐! 王大哥は病気じゃないよ! ここで頭を打ったんだよ!」

「ロローリャ、もうやめて。お願いだから、帰ってちょうだい」

「なんでよ。静姐だって、見てたでしょ」

「早く帰って。あなたたち、きっとひどい目に遭うわ」

「王大哥は、もっとひどい目に遭ったんだよ!」

 

 陳静の顔が歪み、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 そこへ奥から夫が怒鳴り込んできた。

 

「うるせえんだよ! 朝っぱらから店の前で何晒してやがる!」

「出たな、人殺し!」

「ガキが調子に乗るな!」

 

 夫が猛然と小満の胸ぐらを掴みあげる。

 

 ロローリャは拾っておいた石を投げた。石は夫の肩に当たり、跳ねて店の框に落ちた。

 

「小満に触るな!」

 

 その声で、子供たちが一斉に動いた。小さな石が硝子戸へ当たり、板が看板を叩き、誰かが店先の竹籠を蹴った。みかんが転がり、客が悲鳴を上げた。

 

「やめて! やめてちょうだい!」

 

 陳静が泣きながら小満の腕を掴もうとした。小満は振りほどき、夫の足にしがみついた。

 

「王大哥を返せ!」

「放せ、この野良犬ども!」

 

 夫が足を振る。小満が転ぶ。ロローリャは杖を突き、もう一つ石を拾おうとした。

 

 そのとき、 甲高い笛の音が鳴り響き、大通りの方から制服を着た男たちが駆けつけてきた。

 

「何をやっている!」

 

 子どもたちは逃げ惑おうとしたが、群がる野次馬に阻まれ逃げ道はすでに塞がれていた。小満が腕を絞り上げられ、別の子が背中を叩き伏せられる。ロローリャも杖を蹴り飛ばされ、膝をついたところを肩から力任せに押さえつけられた。

 

「みんな逃げろ!」

 

 小満が叫ぶ。

 

 逃げろ。

 

 かつての王の声が、耳の奥で木霊する。

 

 けれど、ロローリャは歯を食いしばり、全身で抗った。 

 

「嫌だ……いやだ!!!」

 

 手首を力任せにひねられ、木板がガラリと地面に落ちた。『人殺し』と書かれた炭の字が、踏みにじられたみかんの汁で黒く滲んでいく。

 

 ◇

 

 雑多な取調室で、警官らによる身元確認が済むと、小満たちは親や身元引き受け人が現れ、こっぴどく叱られながら連れて帰られた。

 

「この片手片足のは、どこの子だ?」

「王順徳のところにいた子どものようです」

「王は死んだぞ。じゃあ誰が引き取るんだ?」

 

 こうしてロローリャだけが最後まで残され、そのうち別の建物へと回された。

 

 しばらくすると、机の向こうに「梁志遠」と名札をつけた若い役人が腰を下ろした。

 

「お前の名前はなんだ」

「ロローリャ」

「苗字は? どんな字を書く?」

「知らない」

「親の顔は覚えてないのか」

「いないもん」

「どこで生まれたんだ? 小さかった頃、住んでた家は覚えてないか」

 

 ロローリャは一つも答えられなかった。

 

「雲南か? 広西か?……それとも、ラオスやベトナムのほうか?」

「知らないよ」

「じゃあ、今まで誰とどこで暮らしていたんだ?」

「王大哥のところにいた」

「そうか……あの人らしいな」

「王大哥を知ってるの?」

「辺防に入ったばかりのころ、同じ中隊にいた。飯を食わせてもらったが、よく怒鳴られたもんさ」

「じゃあ、王大哥が急に病気なんて嘘だってわかるでしょ!」

 

 思いつめた訴えに梁志遠の手が止まった。彼が返答に窮していると、奥の扉が開き、上司の胡建平が入ってきた。

 

「おい梁、小娘相手に何をもたもたしてる」

「それが、身元がさっぱり追えません。出生記録もなく、身寄りがいないうえ、本人も自分がどこから来たのか分かっていないようで……」

「なら話は早い。端からうちの人間じゃないんだろ」

 

 胡建平はロローリャをちらりと一瞥した。

 

「どうせベトナムかラオスだ。ロロ族あたりのガキが国境の隙間から紛れ込んできただけだろう。いつもみたいに向こうへ追い払って、あっちの連中に処理させりゃいい」

「ですが……片手も片足もない子供ですよ。いくらなんでも、そんな乱暴な……」

「梁」

 

 胡建平の低く重い声が言葉を遮った。

 

「さっさとケリをつけろ。変にかばえばお前の身が危うくなるぞ。王順徳は急病で死に、静かに送られた。それで全部丸く収まったんだ」

 

 梁は息をのんで黙り込んだ。

 

「これは上の決定だ。分かったな?」

 

 二人の顔を見比べるロローリャには、会話の半分も理解できなかった。けれど、王大哥の名だけは確かに耳に届いていた。

 

「王大哥を……悪く言うな」

 

 梁の指が、書類の端を強く押しつぶした。

 胡建平はロローリャに視線すら向けず、吐き捨てる。

 

「今日中に片づけろ」

「……わかりました。私が責任をもって対処します」

 

 取調室を出た梁は、その足で同じ職場にいる義兄の孫景明を捜した。

 

「景明哥! 助けてくれ。俺はどうすればいい……あの子をこのまま向こうへ放り出せば、野犬に食われるか野垂れ死にだ」

 

 梁は額を押さえ声を荒げた。

 

「王順徳のところの子か」

「ああ。王さんの世話になった俺が、あの人の大切にしていた子供を国外に捨てる羽目になるとは……」

「もう、どうにもならんのか?」

「今日中にカタをつけろと命令された。でも、片手片足の子供だぞ。ラオスにせよ、ベトナムにせよ、あの体じゃどこにも行けやしない」

 

 孫は顎に手を当て、少し考えてから顔を上げた。

 

「ふむ、ならば志遠。できるだけましな道に送り出してやろう」

「ましな道?」

「ベトナム側に行けば、宝くじを売って食いつないでいる子供がたくさんいる。わずかでも現金を渡して、宝くじの売り方を教えてやれば、あるいは親切な大人に拾ってもらえるかもしれん」

「そんなことで生きていけるのか?」

「知らん。だが、何もない山へ放り出すよりはましだろう。ひとまず河口(ホーコウ)までは俺たちで運んで、そこから先はベトナムへ向かう車に乗せるぞ」

「どうやって?」

「そこは、お前と俺の仕事だろう」

 

 孫は立ち上がると、最後に付け加えた。

 

「出かける前に飯を食わせてやれ。腹の空いた子供は、教えた言葉も忘れちまう」

 

 ◇

 

 夜、梁志遠と孫景明は古いセダンにロローリャを乗せ、昆明を出発した。

 

「どこへ行くの?」

「ベトナムだ。お前はこの国から追放されることになった」

「王大哥のところへ帰りたい」

「……それはできない。お前は、二度と戻ってきてはいけないんだ」

 

 ロローリャは梁の横顔を見つめた。梁はそれきり口を閉ざした。

 

 夜明け前、河口の国境近くでセダンを停める。

 

「よし、臨時の検問って体裁にするぞ。怪しい車を端から当たって、荷を開けさせるんだ」

 

 孫は車列の端から順番に声をかけていき、型通りの問いかけに運転手の目が泳ぐ一台を探す。

 

 幌をかぶせたトラックの前で足を止める。荷台の横で煙草を吸っていた運転手は、二人の姿を認めるや慌てて火を揉み消した。

 

「おい、そこのお前。この車はどこへ行く」

 

 運転手は顔を引きつらせた。

 

「ハイフォンでさぁ。旦那、こんな時間に何の用ですかい。手続きはもう済んでますぜ」

「何を積んでる?」

「いえ、あ、あの……布地と雑貨です。あと、肥料を少し」

「肥料? なら一袋開けて見せろ」

「いや、それは……荷主の封がしてありまして」

「封があるなら、なおさら改めなきゃならん」

 

 運転手の喉が動いた。

 

「旦那、本当に勘弁してくださいよ。遅れたら荷主に怒られるんです」

 

 孫は運転手を静かに見すえた。

 

「まあ、追加の荷を一つ乗せてくれるってんなら、俺たちも目をつぶらんわけじゃないが」

「追加?」

 

 梁がロローリャの背を押した。

 

「ハイフォンまで行くなら、この子を乗せろ」

「いや、そんな……人は困りますよ」

「じゃあ、幌を剥がすか?」

 

 運転手は絶句した。

 

「……乗せるだけですよ。面倒は見ませんからね」

「だめだ! ちゃんと生きて降ろせ。いいか。お前とお前の車のことは公安で記録しておくからな」

 

 梁は手帳を開き、運転手に見せつけるように車番を書き込んだ。

 

 近くに夜間も営業する小さな商店があった。菓子袋と煙草と瓶入りの飲み物が、薄暗い棚に並んでいる。梁はそこへ走り、赤いえびせんの袋を一つ買って戻った。

 

「これを持っていけ」

「なに?」

「食べ物だ。一度に全部食べるなよ」

 

 孫は膝を折り、ロローリャと目線を合わせた。

 

「いいか、娘。向こうへ着いたら、親切そうな人を探せ。飯を売っている女か、子供を連れた女だ。怖そうな男には近づくなよ」

 

 梁が続けた。

 

「こう言え。『シン、チョ、チャウ、バン、ヴェー、ソー』」

「しん、ちゃう……?」

「シン、チョ、チャウ、バン、ヴェー、ソー」

「しん、ちょ、ちゃう、ばん、べー、そー」

「ヴェーだ。もう一度」

「しん、ちょ、ちゃう、ばん、ヴェー、そー」

「よし。そう言って、宝くじを売らせてもらえ。そうすれば飯が食えるかもしれない」

 

 ロローリャは意味が分からないまま、もう一度つぶやいた。

 

「しん、ちょ、ちゃう、ばん、ヴェー、そー」

 

 梁は小さな布包みを握らせた。

 

「ここに少しだけ金が入っている。すぐには使うな。もし取られそうになったら逃げろ」

「逃げる……」

 

 ロローリャは顔を上げた。

 

「王大哥も、そう言ったよ」

「お前が王さんのために怒ってくれたこと……その気持ちは、あの人にも届いてるはずだ。だけど俺には、こうしてやることしかできない……」

 

 梁の顔が歪んだ。

 

「すまない……本当に、すまない……」

 

 ロローリャは赤いえびせんの袋を抱えたまま、不安そうに梁を見つめていた。

 

「乗せるぞ」

 

 孫の合図で、梁はロローリャを荷台へ押し込んだ。幌の中には布袋と木箱が詰まり、奥には肥料袋のような白い袋が積まれていた。鼻の奥に、油と薬品の混じった匂いが刺さる。

 

「もっと奥に隠れるんだ。見つかるとまずいことになるからな」

 

 ロローリャは膝を抱え、大事そうに杖を握りしめた。

 

 幌が下ろされる直前、暗がりの中から声がした。

 

「王大哥は、病気じゃない」

 

 梁はハッと顔を上げた。

 

「……ああ。分かっている」

 

 幌が完全に閉じられると、トラックは低い重音を響かせ、国境の方角へゆっくりと走り出した。車列の混雑へと飲み込まれ、朝靄の彼方へ消えていく。

 

「終わったな」

「王さんのために必死になってくれた子を、俺たちは捨てたんだ……。景明哥、俺はいままで生きてきて、こんなに恥ずかしいことはない」

「なら、もっと偉くなれよ。大事なものを捨てなくてもすむようにな」

 

 梁志遠は、声を殺して泣いた。

 

 ◇

 

 トラックの荷台には、古い布袋と木箱が詰め込まれ、鼻の奥にツンと残る薬品の匂いが満ちていた。

 

 ロローリャは膝の間に杖を挟み、えびせんの袋を胸に抱えていた。袋は拍子抜けするほど軽かった。指先に少し力を込めると、中の薄い菓子がまた、ぱり、と小さく割れた。

 

「しん、ちょ、ちゃう、ばん、ヴェー、そー(わたしにたからくじをうらせてください)」

 

 教えられた音を、意味も分からないまま口の中で転がした。

 

 幌の隙間から、中国側の灯りが細い糸のように見えていた。車体が大きく揺れるたび、その光は静かに遠ざかっていく。

 

 逃げろ。

 

 王大哥の声だけが、まだ耳の奥に残っていた。

 

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