冬が過ぎ、風の冷たさが和らいでも、王は変わらず塾を続けていた。
子どもたちを集め、古い紙や地面に数字を書かせる。教えるのは、屑屋で銅くずを売ったときの値段や、手配師に上前を撥ねられたあとの取り分、市場で重さをごまかされたときの見抜き方である。
「小満、また間違えてやがる。銅くず五十斤で手配師が二割抜いたら、残るのはいくらだ。自分の飯が減るんだぞ、頭使わんか!」
怒鳴り散らしたくせに、授業が終わると王は小満の首ねっこを掴み、黙って五角硬貨を二枚、ポケットにねじ込んだ。
「これで饅頭でも買って食え。腹が減ってちゃ計算も狂う」
相変わらずの王だった。口は悪く、手は荒い。けれど、何かが決定的に変わっていた。
炭を走らせる手が、ふと止まる。
「……ロローリャ、次は問三だ。やってみろ」
「王大哥、それさっきやったよ。もう答え言ったもん」
「ん……そうだったか」
王は短くなった炭を置くでもなく指で転がし、視線をふらふらと彷徨わせた。ロローリャの顔を、そして、誰も座っていない竹椅子をじっと見つめる。
やがて、陳静が党の偉い人の息子に嫁ぎ、大通り沿いに新しい店を出したという話が城中村に届いた。
それからというもの、夕刻になると王は一人で車椅子を嘉義、路地の外へ出ていくようになった。
ある日、ノコギリの老人がロローリャを呼びとめた。
「おう
「王大哥を?」
「陳静の嫁ぎ先の店の近くだ。車椅子で、向かいの茶店の前におる」
「それは何か用事があるんじゃないの?」
「いや、用事といえば用事なんじゃろうが……あやつのこと少し気にかけてやってくれんかな。あれは、帰る場所をなくした男の顔じゃ」
その夜、王が戻ってきたとき、乾いた泥が車椅子の車輪にびっしりとこびりついていた。
「王大哥、どこ行ってたの?」
「……ただの散歩だ。余計な世話焼いてないで、さっさと寝ろ」
それ以上問い詰めても答える気はなさそうだったので、ロローリャも口をつぐんだ。
竹椅子には、薄い埃が積もり始めていた。
◇
硝子戸の向こうで、陳静は帳面をつけていた。
王は店先に車椅子を止めた。向かいの茶店から眺めるだけなら睨まれるだけで済んだが、この日は硝子戸のすぐ前まで歩み寄っていた。
店の小僧が奧へ駆け込むと、ほどなくして陳静の夫がのしのしと姿を現し、その後ろから陳静が顔を覗かせた。
「順徳……何をしに来たの」
「静……あのときは、すまなかった。本当は止めなきゃいけなかったんだ。だけど、お前を引き留めたら俺のプライドが崩れそうで……」
「そう……でも、もう遅いわ。私はここで生きていくって決めたの」
「今からでもやり直せないのか? 俺は……一人じゃ駄目なんだ」「そんなこと言われても困るわ。お願いだから帰って」
「俺は、お前に必要とされたいんだよ!」
夫が苦々しく舌打ちした。
「おい、王。聞こえねえのか。帰れって言ってんだろ!」
「俺は静と話してるんだ。お前は引っ込んでろ」
「こいつは俺の妻だ。あんたとはもう何の関係もねぇんだよ! 何度も店の周りをうろつかれて迷惑してんだ!」
王は車椅子を押し進め、硝子戸をくぐろうとした。夫が立ちはだかり、肘掛けを力任せに掴みつける。
「この野郎! 店に入るんじゃねえ!」
「どけ!」
「しつけえんだよ!」
夫の拳が、王の頬を打った。
車椅子が大きく揺れて後ろへずれ、片輪が敷石の段差に引っかかる。バランスを崩した王の身体は座面から投げ出され、こめかみを石畳に強く打ちつけた。
拳を握ったまま息を荒げていた夫は、地面に伏した王の姿を見るなり急に顔色を変えた。
「お、おい……大丈夫か?」
陳静が思わず店先へ駆け寄る。
「順徳!」
王はその手を払おうとしたが、思うように腕が上がらない。額から流れた細い血が、乾いた石畳に滴り落ちた。
陳静は唇を震わせた。
「お願いだから、もうやめて。私は、あなたのそんな姿を見たくないの。あなたを必要としてる、あの子たちのところへ戻ってあげて」
王はしばらく身動きもできずにいたが、やがて這い上がるようにして車椅子にしがみついた。誰の手も借りず、歯を食いしばって座面へ戻る。王は二度と顔を上げようとせず、歪んだ車輪の音を引きずりながら、路地の方へ帰っていった。
◇
翌朝、王が部屋の中で冷たくなっているのが見つかった。
いつまで待っても塾が開かれず、車椅子の音も聞こえない。不審に思った李小満が戸を叩き、駆けつけた年寄りたちが鍵を壊すと、間もなく路地全体が騒ぎに包まれた。
しばらくすると制服を着た男たちが来て、王の身体はどこかへ運ばれていった。
三日後、王順徳の死は
◇
王の弔いが終わった後、ロローリャは足早に市場の外れへ向かった。
「老爷爷! 王大哥が病気で死んだって、どういうことなの?」
「本当かどうかは知らん。とにかく、そういうことになったようじゃの」
「王大哥は、静姐の店で頭を打ったんだよ!」
「しっ! 静かにせんか、声が大きいぞ」
老人は魚屋の方をちらりと見た。
「あの店の亭主の親父は、党の偉い人間じゃ。誰も逆らえん」
「じゃあ、王大哥を殴った人はどうなるの?」
「どうにもならん」
「静姐は?」
「嫁に行った女が、亭主の家を敵に回せるわけなかろう」
ロローリャは唇を噛んだ。
「そんなのおかしいよ……」
「おかしいかのう……だがな、考えてもみるのじゃ。あの王順徳が、昔の女の店先で騒いで、痴情のもつれの果てに死んだなぞ、あいつの名誉に傷がつくのではないか? 王は二等功を受けた誇り高い男じゃ。病で死んだことにして、静かに送ってやる。此度のことは、それでよかったんじゃ」
ロローリャは勢いよく顔を上げた。
「なに、それ……。そんなのちっともよくない! なんで、老爷爷はそんなこと言うの! 王大哥は、そんなふうに死んでない。殴られたんだよ。頭を打ったんだよ。それをなかったことにして、なにが名誉なの!」
ロローリャは背を向け、走り去った。
◇
翌朝、ロローリャは小満たちを集め、市場の裏から拾ってきた薄い板に、炭で大きな字を書いた。
『
店の前に着くと、朝の客がちょうど出入りしていた。
ロローリャは硝子戸の前で息を吸った。
「人殺し!」
小満たちも板を上げた。
「王大哥をかえせ!」
「大哥は病死なんかじゃないぞ! ちゃんと調べろ!」
通行人が足を止め、向かいの茶店からも人が覗いた。
店の小僧が青い顔で奥へ走ると、あわてて陳静が出てくる。その顔を見たとたん、ロローリャは板を高く上げた。
「静姐! 王大哥は病気じゃないよ! ここで頭を打ったんだよ!」
「ロローリャ、もうやめて。お願いだから、帰ってちょうだい」
「なんでよ。静姐だって、見てたでしょ」
「早く帰って。あなたたち、きっとひどい目に遭うわ」
「王大哥は、もっとひどい目に遭ったんだよ!」
陳静の顔が歪み、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
そこへ奥から夫が怒鳴り込んできた。
「うるせえんだよ! 朝っぱらから店の前で何晒してやがる!」
「出たな、人殺し!」
「ガキが調子に乗るな!」
夫が猛然と小満の胸ぐらを掴みあげる。
ロローリャは拾っておいた石を投げた。石は夫の肩に当たり、跳ねて店の框に落ちた。
「小満に触るな!」
その声で、子供たちが一斉に動いた。小さな石が硝子戸へ当たり、板が看板を叩き、誰かが店先の竹籠を蹴った。みかんが転がり、客が悲鳴を上げた。
「やめて! やめてちょうだい!」
陳静が泣きながら小満の腕を掴もうとした。小満は振りほどき、夫の足にしがみついた。
「王大哥を返せ!」
「放せ、この野良犬ども!」
夫が足を振る。小満が転ぶ。ロローリャは杖を突き、もう一つ石を拾おうとした。
そのとき、 甲高い笛の音が鳴り響き、大通りの方から制服を着た男たちが駆けつけてきた。
「何をやっている!」
子どもたちは逃げ惑おうとしたが、群がる野次馬に阻まれ逃げ道はすでに塞がれていた。小満が腕を絞り上げられ、別の子が背中を叩き伏せられる。ロローリャも杖を蹴り飛ばされ、膝をついたところを肩から力任せに押さえつけられた。
「みんな逃げろ!」
小満が叫ぶ。
逃げろ。
かつての王の声が、耳の奥で木霊する。
けれど、ロローリャは歯を食いしばり、全身で抗った。
「嫌だ……いやだ!!!」
手首を力任せにひねられ、木板がガラリと地面に落ちた。『人殺し』と書かれた炭の字が、踏みにじられたみかんの汁で黒く滲んでいく。
◇
雑多な取調室で、警官らによる身元確認が済むと、小満たちは親や身元引き受け人が現れ、こっぴどく叱られながら連れて帰られた。
「この片手片足のは、どこの子だ?」
「王順徳のところにいた子どものようです」
「王は死んだぞ。じゃあ誰が引き取るんだ?」
こうしてロローリャだけが最後まで残され、そのうち別の建物へと回された。
しばらくすると、机の向こうに「梁志遠」と名札をつけた若い役人が腰を下ろした。
「お前の名前はなんだ」
「ロローリャ」
「苗字は? どんな字を書く?」
「知らない」
「親の顔は覚えてないのか」
「いないもん」
「どこで生まれたんだ? 小さかった頃、住んでた家は覚えてないか」
ロローリャは一つも答えられなかった。
「雲南か? 広西か?……それとも、ラオスやベトナムのほうか?」
「知らないよ」
「じゃあ、今まで誰とどこで暮らしていたんだ?」
「王大哥のところにいた」
「そうか……あの人らしいな」
「王大哥を知ってるの?」
「辺防に入ったばかりのころ、同じ中隊にいた。飯を食わせてもらったが、よく怒鳴られたもんさ」
「じゃあ、王大哥が急に病気なんて嘘だってわかるでしょ!」
思いつめた訴えに梁志遠の手が止まった。彼が返答に窮していると、奥の扉が開き、上司の胡建平が入ってきた。
「おい梁、小娘相手に何をもたもたしてる」
「それが、身元がさっぱり追えません。出生記録もなく、身寄りがいないうえ、本人も自分がどこから来たのか分かっていないようで……」
「なら話は早い。端からうちの人間じゃないんだろ」
胡建平はロローリャをちらりと一瞥した。
「どうせベトナムかラオスだ。ロロ族あたりのガキが国境の隙間から紛れ込んできただけだろう。いつもみたいに向こうへ追い払って、あっちの連中に処理させりゃいい」
「ですが……片手も片足もない子供ですよ。いくらなんでも、そんな乱暴な……」
「梁」
胡建平の低く重い声が言葉を遮った。
「さっさとケリをつけろ。変にかばえばお前の身が危うくなるぞ。王順徳は急病で死に、静かに送られた。それで全部丸く収まったんだ」
梁は息をのんで黙り込んだ。
「これは上の決定だ。分かったな?」
二人の顔を見比べるロローリャには、会話の半分も理解できなかった。けれど、王大哥の名だけは確かに耳に届いていた。
「王大哥を……悪く言うな」
梁の指が、書類の端を強く押しつぶした。
胡建平はロローリャに視線すら向けず、吐き捨てる。
「今日中に片づけろ」
「……わかりました。私が責任をもって対処します」
取調室を出た梁は、その足で同じ職場にいる義兄の孫景明を捜した。
「景明哥! 助けてくれ。俺はどうすればいい……あの子をこのまま向こうへ放り出せば、野犬に食われるか野垂れ死にだ」
梁は額を押さえ声を荒げた。
「王順徳のところの子か」
「ああ。王さんの世話になった俺が、あの人の大切にしていた子供を国外に捨てる羽目になるとは……」
「もう、どうにもならんのか?」
「今日中にカタをつけろと命令された。でも、片手片足の子供だぞ。ラオスにせよ、ベトナムにせよ、あの体じゃどこにも行けやしない」
孫は顎に手を当て、少し考えてから顔を上げた。
「ふむ、ならば志遠。できるだけましな道に送り出してやろう」
「ましな道?」
「ベトナム側に行けば、宝くじを売って食いつないでいる子供がたくさんいる。わずかでも現金を渡して、宝くじの売り方を教えてやれば、あるいは親切な大人に拾ってもらえるかもしれん」
「そんなことで生きていけるのか?」
「知らん。だが、何もない山へ放り出すよりはましだろう。ひとまず
「どうやって?」
「そこは、お前と俺の仕事だろう」
孫は立ち上がると、最後に付け加えた。
「出かける前に飯を食わせてやれ。腹の空いた子供は、教えた言葉も忘れちまう」
◇
夜、梁志遠と孫景明は古いセダンにロローリャを乗せ、昆明を出発した。
「どこへ行くの?」
「ベトナムだ。お前はこの国から追放されることになった」
「王大哥のところへ帰りたい」
「……それはできない。お前は、二度と戻ってきてはいけないんだ」
ロローリャは梁の横顔を見つめた。梁はそれきり口を閉ざした。
夜明け前、河口の国境近くでセダンを停める。
「よし、臨時の検問って体裁にするぞ。怪しい車を端から当たって、荷を開けさせるんだ」
孫は車列の端から順番に声をかけていき、型通りの問いかけに運転手の目が泳ぐ一台を探す。
幌をかぶせたトラックの前で足を止める。荷台の横で煙草を吸っていた運転手は、二人の姿を認めるや慌てて火を揉み消した。
「おい、そこのお前。この車はどこへ行く」
運転手は顔を引きつらせた。
「ハイフォンでさぁ。旦那、こんな時間に何の用ですかい。手続きはもう済んでますぜ」
「何を積んでる?」
「いえ、あ、あの……布地と雑貨です。あと、肥料を少し」
「肥料? なら一袋開けて見せろ」
「いや、それは……荷主の封がしてありまして」
「封があるなら、なおさら改めなきゃならん」
運転手の喉が動いた。
「旦那、本当に勘弁してくださいよ。遅れたら荷主に怒られるんです」
孫は運転手を静かに見すえた。
「まあ、追加の荷を一つ乗せてくれるってんなら、俺たちも目をつぶらんわけじゃないが」
「追加?」
梁がロローリャの背を押した。
「ハイフォンまで行くなら、この子を乗せろ」
「いや、そんな……人は困りますよ」
「じゃあ、幌を剥がすか?」
運転手は絶句した。
「……乗せるだけですよ。面倒は見ませんからね」
「だめだ! ちゃんと生きて降ろせ。いいか。お前とお前の車のことは公安で記録しておくからな」
梁は手帳を開き、運転手に見せつけるように車番を書き込んだ。
近くに夜間も営業する小さな商店があった。菓子袋と煙草と瓶入りの飲み物が、薄暗い棚に並んでいる。梁はそこへ走り、赤いえびせんの袋を一つ買って戻った。
「これを持っていけ」
「なに?」
「食べ物だ。一度に全部食べるなよ」
孫は膝を折り、ロローリャと目線を合わせた。
「いいか、娘。向こうへ着いたら、親切そうな人を探せ。飯を売っている女か、子供を連れた女だ。怖そうな男には近づくなよ」
梁が続けた。
「こう言え。『シン、チョ、チャウ、バン、ヴェー、ソー』」
「しん、ちゃう……?」
「シン、チョ、チャウ、バン、ヴェー、ソー」
「しん、ちょ、ちゃう、ばん、べー、そー」
「ヴェーだ。もう一度」
「しん、ちょ、ちゃう、ばん、ヴェー、そー」
「よし。そう言って、宝くじを売らせてもらえ。そうすれば飯が食えるかもしれない」
ロローリャは意味が分からないまま、もう一度つぶやいた。
「しん、ちょ、ちゃう、ばん、ヴェー、そー」
梁は小さな布包みを握らせた。
「ここに少しだけ金が入っている。すぐには使うな。もし取られそうになったら逃げろ」
「逃げる……」
ロローリャは顔を上げた。
「王大哥も、そう言ったよ」
「お前が王さんのために怒ってくれたこと……その気持ちは、あの人にも届いてるはずだ。だけど俺には、こうしてやることしかできない……」
梁の顔が歪んだ。
「すまない……本当に、すまない……」
ロローリャは赤いえびせんの袋を抱えたまま、不安そうに梁を見つめていた。
「乗せるぞ」
孫の合図で、梁はロローリャを荷台へ押し込んだ。幌の中には布袋と木箱が詰まり、奥には肥料袋のような白い袋が積まれていた。鼻の奥に、油と薬品の混じった匂いが刺さる。
「もっと奥に隠れるんだ。見つかるとまずいことになるからな」
ロローリャは膝を抱え、大事そうに杖を握りしめた。
幌が下ろされる直前、暗がりの中から声がした。
「王大哥は、病気じゃない」
梁はハッと顔を上げた。
「……ああ。分かっている」
幌が完全に閉じられると、トラックは低い重音を響かせ、国境の方角へゆっくりと走り出した。車列の混雑へと飲み込まれ、朝靄の彼方へ消えていく。
「終わったな」
「王さんのために必死になってくれた子を、俺たちは捨てたんだ……。景明哥、俺はいままで生きてきて、こんなに恥ずかしいことはない」
「なら、もっと偉くなれよ。大事なものを捨てなくてもすむようにな」
梁志遠は、声を殺して泣いた。
◇
トラックの荷台には、古い布袋と木箱が詰め込まれ、鼻の奥にツンと残る薬品の匂いが満ちていた。
ロローリャは膝の間に杖を挟み、えびせんの袋を胸に抱えていた。袋は拍子抜けするほど軽かった。指先に少し力を込めると、中の薄い菓子がまた、ぱり、と小さく割れた。
「
教えられた音を、意味も分からないまま口の中で転がした。
幌の隙間から、中国側の灯りが細い糸のように見えていた。車体が大きく揺れるたび、その光は静かに遠ざかっていく。
逃げろ。
王大哥の声だけが、まだ耳の奥に残っていた。