「この紋は……」
護衛の手にあるサーベル。その赤錆に覆われた鍔の中央には、擦り切れながらも見覚えのある意匠が残っていた。
「あなた、これ……っ」
「……!」
アディサックにも心当たりがあったらしい。だが、夫婦がその意味を確かめ合うより先に、参道の奥から黄衣を揺らしてスウィット住職が急ぎ足でやってきた。
「皆様、ご無事でしたか!」
「ええ、我々は無事です。息子にも怪我はありません」
「……ああ、なんとありがたい」
住職は胸を撫で下ろしたものの、境内の惨状を目にして顔を曇らせた。石畳には猿の餌が散らばり、弾痕を残した石垣のそばには拳銃が転がり、二人の強盗が護衛たちに地面へ押さえ込まれている。
「申し訳ありません……。毎年この日にお見えになることは承知しておりましたのに、不審者の侵入を許すとは。ここを預かる者として、私の目配りが足りませんでした」
「住職のせいではありませんよ。何年も通っている場所だからと、私もすっかり油断していました。自らの判断で護衛を門前に残したのですから」
「私とて同じですわ。この子を連れていながら『いつものお参りだから大丈夫』と……己の甘さが恐ろしいです」
「母上……」
「……ごめんなさいね、アーティット」
シリナパーは息子の肩を抱き寄せた。自分の腕の中にいる。その当たり前のことが、つい先ほどまで失われかけていたのだと思えば、抱く手にも自然と力がこもった。
「振り返るべきことは、それぞれにあるのでしょう。しかし、襲われた側がその責任まで背負う必要はありません。まずは皆様が無事だったことを喜びましょう」
住職の言葉に、張り詰めていた空気がようやく緩む。
そこへ護衛の一人が歩み寄った。
「殿下。周囲を改めさせましたが、他に不審な者はおりません。これより警察へ第一報を入れます」
「ああ。そうしてくれ。現場には不用意に触れるなよ」
「では私からも寺の者へ伝えておきましょう。警察が来るまで、この辺りへ近づかぬよう――」
「えっ、警察呼ぶの!?」
尖った声が割り込んだ。壊れた義足を抱えて座り込んでいたロローリャが、露骨に顔を歪めている。
「それは困るよ、ルアン・ポー! 警察には言わないで!」
「ロローリャさん?」
「私たち、警察に見つかったらマズいでしょ? 捕まったら、またどこかへ追いやられちゃうかもしれないし……」
警察が困っている人間を助けてくれるなど、ロローリャはつゆほども信じていない。中国でもベトナムでも、彼らはいつだって、金と身分のある側についた。
「……どういうことだ。ルアン・ポー、彼女たちは一体どんな事情でここに?」
「この二人はひと月ほど前、ラオスで人買いに騙され、船でこの国へ連れてこられた子らなのです。なんとか逃げ延びたものの、その途中でロローリャさんの義足が壊れてしまい……。金も行くあてもなく彷徨っていたところを、当寺で一時的にお預かりしておりました」
「二人には、帰る場所がないのですか?」
「ノイさんには故郷がありますが、そこへ戻せば再び人買いの手に渡るおそれがありますし、ロローリャさんに至っては帰すべき国すら分からないのです。二人とも身分を証すものを持っておりませんし、事情も分からぬまま役人へ渡すことが、この子たちのためになるとも思えませんでした」
「私は前にも、警察に捕まって追い出されたことがあるからね。だから、また同じことになるのは嫌なんだ」
アディサックはしばし考えたのち、護衛へ向き直った。
「警察への連絡はそのまま進めろ。ただし、この二人については私から直接事情を説明する。今日ここで我々を助けてくれた者を、いきなり拘束させたりはしない」
「……え?」
「まずは安全な場所で事情を整理しよう。そのうえでどうするのが良いか考えればいい。決して君たちに悪いようにはしない」
アディサックの返答で、住職の懸念はひとつ消えた。残るのは、この先の二人を誰に託すかということだった。
「でしたら、折り入ってお願いしたいことがございます。寺で預かるようになってから今日まで、私は二人がどう暮らしてきたかを見てまいりました。ノイさんは朝から炊事場を手伝い、ロローリャさんもできる仕事を探して働いておりました。ただ施しを受けるのではなく、受けたものを自分なりの形で誰かへ返そうとしてきたのです」
何も持たずに寺へ来た二人だったが、今ではすっかりこの場所に居場所を作っていた。
「功徳とは、寺に金品を納めることだけではありません。人から受けた善意をまた別の誰かへ返すことも、尊い功徳でございます。そうした行いが人から人へ巡り、また新たな縁を結んでいく。今日この場で、この二人が皆様を救ったことも、まさにその巡りのひとつなのでしょう」
住職はしばしアディサックを見つめたあと、静かに言葉を継いだ。
「寺で雨露をしのがせることはできても、義足を直し、身分を整え、この先の生き道を立ててやることまでは私の力では及びません。ターンチャーイ……どうかこの二人を、しばらくお預かりいただけないでしょうか」
そして住職はアディサックへ深く頭を下げた。
「当然ですわ!」
シリナパーの即答に、アディサックが思わず言葉を失う。
「……シリ?」
「今日はリターのために功徳を積むつもりで参りました。その日に、この子が義足を壊してまでアーティットを救ってくれた。しかも、その手にはその紋の剣まであるのです!」
偶然と言ってしまうには、あまりにも重なりすぎていた。
「住職のおっしゃるように功徳も縁も巡るものなら、リターがこの子を私たちのところへ引き合わせてくれた――そんな気さえいたします。ならば今度は、私たちがこの縁を受け取る番でしょう」
「しかし、シリナパー。二人を引き受けるなら、身元や入国の問題も整理しなければならない。簡単な話ではないぞ」
「できないことではないのでしょう? あなたなら」
これは相談ではないな、とアディサックは悟った。
「……ああ。簡単ではないが、正式に保護する方法はある」
それだけ聞けば十分だったらしい。
「二人とも、私どもの家へいらっしゃい。義足もきちんと診てもらいましょう。これからのことは、そのあとでゆっくり考えればいいのです」
「二人とも?」
「ええ。もちろんです」
突然決まった話に、ロローリャはすぐには頷けなかった。親切な人間だから信用できる、などというほど素直な人生は送っていない。
「心配はいりません。この方々なら、あなたたちの話をきちんと聞いたうえで力になってくださいます。私も安心してお任せできますよ」
住職がそこまで言うのなら――そう思っても、まだ最後の一歩が踏み出せない。
「僕たちの家においでよ!」
突然、大きな声が響いた。
後ろに控えていたアーティットが、顔を真っ赤にして一歩前へ出る。
「うちなら義足だって直せるし、ご飯も美味しいよ! ……だから、家においでよ!」
言い切ったところまでは立派だったが、ロローリャと目が合うなり、少年は困ったようにそっぽを向いてしまった。その様子だけで、シリナパーには息子の胸に芽生えた淡い好意がよく分かった。
ノイがロローリャの服の裾を引く。
「……お姉ちゃん、行こうよ。私、お姉ちゃんの足、ちゃんと治してほしい」
壊れた義足では、また逃げることさえできない。ましてやノイまで連れて、この先どう暮らすつもりなのか。答えなどロローリャ自身にもなかった。
「……ほんとに、あとで邪魔になったからって警察に渡したりしない?」
「しない」
アディサックは即答した。
「ノイさんを危険な場所へ戻すこともない。安全な場所で、これからを考えよう」
この男を疑うなら、まず住職まで疑わなければならなくなる。
「……約束だからね」
「ああ、約束しよう」
「じゃあ……お世話になります」
ノイの顔がぱっと明るくなり、アーティットも同じように喜んだものの、ロローリャと目が合うなりまた慌ててそっぽを向いた。
そうしてひとまず話がまとまると、護衛が帰路を促した。
「殿下。皆様には早めにお戻りいただいたほうがよろしいかと。警察と現場の対応はこちらで引き受けます」
「ああ。頼む」
石畳には、リターへ供えるはずだった白い蘭が落ちていた。シリナパーは土のついた花を拾い上げ、残念そうに息をつく。
「今日はもう、お参りどころではありませんね」
「ご供養は日を改めましょう」
「ええ。またリターに会いに参ります」
白い蘭を抱え直し、シリナパーはロローリャたちとともに歩き出した。
「それから、その剣なのですが……」
「奥様」
スウィット住職がやんわりと遮る。
「そのお話も、落ち着かれてからでよろしいでしょう。今はまず、お戻りください」
「……そうですね」
「それ、私のだからね」
剣の話と聞いて、ロローリャだけは黙っていられなかった。
「取らないでよ」
「分かりました。今はお返しします」
戻ってきたサーベルを抱え、ロローリャはようやく安心する。
「これがないと困るんだよ。ノイを守らないといけないから」
「今は、君自身も誰かに守ってもらったほうがよさそうですが」
「……まあ、それはそうなんだけど」
◇
出発の支度は慌ただしく進んだ。
護衛の一部は強盗と現場のために残り、残る者たちは一家を車へ誘導する。その騒ぎはすでに門前まで伝わっていたらしく、二人が山を下りるころには、いつもの顔ぶれがあちこちから集まっていた。
「おい、先生! もう行っちまうのか?」
魚の餌売りの親父が人垣の向こうから声を張る。
「ちょっとね。足をちゃんと直してもらえるところに行ってくる」
「じゃあ今日の授業はどうすんだよ!」
「こんな日に授業なんかするわけないでしょ!」
「俺、まだ中国語でボッタくるところまで習ってねえぞ!」
「それくらい自分で勉強しなよ!」
「金返せ!」
「ろくに払ってないくせに!」
深刻な事件の直後だというのに、いつもの調子である。それがかえってロローリャにはありがたかった。
飯場のほうからパー・ラップおばさんが小走りにやってくる。
「ノイ!」
「おばさん!」
「まったく、騒ぎを聞いて肝が冷えたよ。あんたは怪我してないんだろうね」
「うん。私は大丈夫」
「そうかい。それならいい」
ところが、門前に停まる黒い車と護衛たちを見て、今度は別の意味で驚いた。
「……なんだって? あんたたち、ターンチャーイのお屋敷へ行くのかい?」
「たーんちゃーい?」
「さっきルアン・ポーもそう呼んでたけど、それ何?」
「何って、あんたたち……まあ、いいさ。行けば分かるよ。とんでもないところに拾われたもんだねえ」
「そんなすごいの?」
二人にはさっぱり分からない。
「それよりノイ、向こうでもちゃんと食べるんだよ。あんたは働き始めると、自分の飯を後回しにするからね。それと、もし戻ってきたらまた手伝っておくれ」
「うん、おばさん。今までありがとう!」
「それから、ロローリャ。あんたもいつ戻ってきてもいいんだよ。客引きが減ったら困るからね。ただし、今度はカオソーイを三杯も食べるんじゃないよ」
そこへナロンが、布に包んだ義足を持って現れる。
「ほら。持ってけ」
「ありがと。昨日直してもらったばっかりなのにね」
「走るな跳ぶなって言った翌日に剣を振り回す奴があるか!」
「走ってないよ」
「そこじゃねえ!」
最後までいつもの調子だった。
そしてスウィット住職が二人の前へ立つ。
「ノイさん。ロローリャさんを、よろしくお願いします」
「うん!」
「ちょっと待って。なんで私が面倒見てもらう側なの?」
「あなたは放っておくと、すぐ無茶をしますから」
「その通り!」
門前から声が飛ぶ。
「誰!?」
「二人とも、縁というものは不思議なものです。この寺で結んだ縁が、今日また新しい道を開きました。いつか二人がそれぞれの道を歩む日が来ても、ここで結んだ縁を大切になさい」
「……分かったよ、ルアン・ポー」
「それでは、行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
「ルアン・ポー、お世話になりました」
二人が車へ乗り込むと、後部座席ではアーティットが妙に背筋を伸ばして待っていた。
「ねえ、君んちって遠いの?」
「えっ。い、いえ、それほどでは……」
「ターンチャーイって、君のお父さんのことなんでしょ?」
「え?」
「おばさんが、すごいところみたいに言ってたけど」
「それは……」
「なんなの?」
「い、いえ、その……」
さっきまであれほど勢いよく家へ来いと言っていたくせに、肝心なことになると歯切れが悪い。
やがて車がゆっくりと動き始めた。
「先生、また来いよー!」
「ノイ先生も元気でな!」
「次はまともな中国語教えろよ!」
「ちゃんと復習しといてよー!」
ロローリャは窓から右手を出して大きく振り、ノイも隣で何度も手を振った。
スウィット住職にナロン、パー・ラップおばさん、魚の餌売りの親父たち。ここへ来た日には、誰一人として名前すら知らなかった。それがひと月後には、こうして大勢に見送られている。
山道へ出るころ、向こうから何台かの警察車両が登ってきた。あの音と制服だけは、まだ好きにはなれそうにない。
「大丈夫です。まずは私どもの家へいらしてください」
「……うん」
寺の門は次第に遠ざかり、最後まで振られていた手も、やがて山道の向こうへ隠れていった。
とりあえず第二話だけですが、挿絵を追加しています。
うまくでき次第、他にも追加していく予定です。
『◆』印が目印です。