車が山裾の道を離れ、緩やかな坂を登りはじめたころ、ロローリャは窓の外に続く白い塀に気がついた。
道が曲がっても塀は途切れず、やがて金色の紋章を据えた大きな鉄門が現れた。両脇には警備の詰所があり、制服姿の男たちが車列を認めて姿勢を正す。重い門扉が開くと、その先には広々とした庭園が続いていた。刈り込まれた植え込みに色とりどりの花壇、噴水を囲む芝生。大きな樹木が涼しい影を落とし、その向こうには赤い瓦屋根の建物が幾棟も見える。
「……ねえ、アーティット、これ全部が君の家なの?」
「はい。そうですけど……」
「うーん。寺の親父たちが騒いでたわけだねえ」
隣のノイは口を開けたまま、窓の外を眺めていた。寺で縁を結んだ一家が裕福なことは分かっていたが、これほどの屋敷に暮らしているとは思いもしなかった。
「お帰りなさいませ、ターンチャーイ」
車寄せには、十人ほどの使用人が恭しく頭を下げており、その傍らにはロローリャのための車椅子が用意されていた。
「へえ、これに乗っていいの? 私、車椅子に乗るのは初めてだよ」
「僕が押さえていますから、ゆっくりどうぞ」
「ありがと、アーティット。よいしょっと。そういや、みんなターンチャーイって呼んでるけど、それ何なの?」
「あら、まだお話ししていませんでしたね。主人はモムチャオという身分の王族なのですよ。ターンチャーイは、その男性に対する呼び名です」
「王族!? じゃあ、王様の親戚なの!?」
「ええ。主人の祖父は国王でしたから」
──タイの社会には王室を敬う習慣が深く根づいており、国王の肖像は官公庁や学校、商店などにも掲げられ、国王の誕生日や王室の祝祭には街路を国旗や王室旗が彩る。王族に対する敬意は言葉遣いや身のこなしにも表れ、特に敬称は、国王との血縁関係や父母の身分によって細かく分けられた位階に応じて使い分けられている。王族にはチャオファ、プラオンチャオ、モムチャオなどの称号があり、このうちモムチャオは正式な王族身分としては最後の階層に当たる。その男子はターンチャーイ、女子はターンインと呼ばれる。さらに男子のモムチャオの子にはモムラーチャウォン(M.R.)、その男子の子にはモムルアン(M.L.)という称号が継がれる。これらは正式な王族の身分からは離れるものの、王家に連なる由緒ある家柄として敬意を払われている。
アディサックはモムチャオ、その息子アーティットと亡き娘ラリターはモムラーチャウォン、妻シリナパーはモムルアンに当たり、夫妻はともにスラデートを共通の祖先とする王族の分家に生まれ、現国王ラッタナティベートとも血縁でつながっていた。
「じゃあ、アーティットもターンチャーイ? それとも王子様の息子だから、また別の名前があるの?」
「僕はクンチャーイと呼ばれることがあります。でも、ロローリャさんは今までどおりアーティットで……」
「へえ、クンチャーイ! 格好いいじゃん。じゃあ、クンチャーイ、車椅子よろしく!」
「はい、もちろんです」
少年は耳まで赤くなり、傍らに控えていた使用人は、少女の気安い物言いに一瞬目を見開いた。
「ふふ、アーティット。ずいぶん緊張しているみたいね。車椅子を押すのは初めてでしょう?」
「はい。でも、大丈夫です」
「いやあ、なんだか王子様に車椅子を押してもらうなんて、悪いねえ」
「本人が喜んでいるのですから、遠慮なさらないで」
シリナパー夫人は使用人たちに、二人の客間を整え、湯浴みと着替え、食事を用意するよう命じた。
「義足は早いうちに職人へ見せましょう。身体に合った新しいものを作ってもらえばいいわ」
「ありがとう。でも、新しいのに取り替えるだけは嫌なんだ。直せるなら、元のところを残してほしいんだよ」
「……大切なものなのですね」
「うん。とても大事な人にもらった私の足だからね」
シリナパー夫人は、使える部分をなるべく残すよう、職人へ頼むことを約束した。
湯浴みの支度を待つあいだ、二人は屋敷の居間へ招かれた。
高い天井から大きな照明が吊られ、磨き上げられた床には繊細な模様の絨毯が敷かれている。壁際には古い陶器や仏像、額装された肖像画が並び、窓の向こうには先ほど通ってきた庭園が広がっていた。
「ロローリャさん。先ほどの剣のことなのですが」
「うん。何か知ってるんでしょ?」
「ええ。少しお見せしたいものがあるのです」
夫人に促され、アディサックは居間の飾り棚から古い写真帳を取り出した。厚い革表紙を開くと、黄ばんだ写真が何枚も収められている。
その一枚には、軍服を着た若い男が写っていた。
「この人は?」
「クリサダーという名の王族です。私の祖父の兄に当たる方なのですが、一九四〇年、フランスとの戦いに出征したまま、行方が分からなくなったのです」
写真の男は二十代半ばほどに見えた。胸を張って立つ姿には軍人らしい凛々しさがあり、腰には一本のサーベルが吊られている。
夫人は続いて別の頁を開いた。そこには、古い家紋を写した図が収められており、錆びた鍔に刻まれた意匠とよく似ていた。
「……ほんとだ。同じだね」
「ええ。これは私の実家の紋なのです。ですから、それは大伯父クリサダーの剣かもしれませんわ」
夫人の声には、隠しきれない興奮があった。
アディサックも剣の鍔を改めて見つめ、しばらく考え込んでいた。
「どこでこれを見つけたんだい?」
「メコン川から山へ逃げたときだよ。隠れた洞穴に軍人さんの骨があって、この剣がそばに置いてあったんだ」
「洞穴の場所は覚えていらっしゃる?」
「私はだいたいだけど……ノイ、まだ覚えてるよね?」
「うん。曲がった大きな木があって、二本の沢が一つになるところ。その上に、崩れた石積みがあったよ」
「あなた、きっと大伯父ですわ」
「ああ。まず洞穴の場所を確かめて、遺骨の身元を調べよう」
「それでは、ロローリャさん。その剣を、しばらく私どもに預けていただけませんか?」
「……えっ?」
ロローリャは反射的に柄を握りしめた。
「今すぐ?」
「ええ。紋章や剣の造りを当時の記録と照らし合わせたいのです。ご遺骨の身元を確かめる手掛かりになるかもしれませんから」
「……でも、それは困るよ」
夫人が少し驚いたように顔を上げた。
「これを見つけたとき、いつか持ち主の家族に返そうと思ってたんだ。だから、返すのはいいよ。でも、今はちょっと……。私たちを騙した人買いの連中がまた来るかもしれないでしょ。私、これがないとノイを守れないんだよ」
「お姉ちゃん……」
かつて虎と渡り合ったときには一本の棒が、そして人買いからノイを守り、強盗からアーティットを救ったときは、この錆びた剣が頼りだった。幾度も生死の境を越えてきたロローリャにとって、武具はもはや身の一部になりつつあった。
「……わかりましたわ。あなたがそうおっしゃるなら、きっとその剣にはまだ果たすべき役目があるのでしょう。では、ひとまずあなたがお持ちなさい。調べるときには少しお借りしますね」
「うん。それならいいよ!」
「もっとも、ひとつだけ気をつけてもらいたい。その剣はずいぶん傷んでいるようだ。今日も投げて使っていたが、いつ折れてもおかしくないぞ」
「それは私も思ってたんだ。柄の中がぐらぐらするしね」
「では、こちらも専門の職人に見せよう。もし修理が難しければ、代わりのものを考えねばならないな」
「ほんと!? じゃあ、ついでに切れ味もよくしてもらえる?」
「……君はまた使う気なのか?」
「当たり前でしょ。それにまたアーティットを守ってあげないといけないかもしれないじゃない」
アディサックは呆れたように首を振ったが、シリナパー夫人は声を立てて笑った。
長いあいだ行方の分からなかった王家の剣が、よりによってこんな娘の手に渡っていたとは。しかも、その娘に息子の命を救われたのである。
偶然というには、あまりにも奇妙な巡り合わせであった。
夫人は写真帳を閉じ、飾り棚へ戻した。その隣には、亡き娘ラリターの写真が飾られている。白い蘭の花を添えた額の中で、少女は明るく笑っていた。
「……あなたに出会えて、本当によかったわ」
「え?」
「いえ。こちらの話です」
◇
その夜、二人は湯浴みを済ませ、新しい衣服に着替えて食卓へ招かれた。
広い食堂には磨き上げられた長卓が置かれ、白い皿と銀の匙が整然と並んでいる。使用人が次々と料理を運び、卓の上には香りのよい米飯や鶏肉の煮込み、魚の蒸し物、色鮮やかな野菜料理が並んだ。
「うわあ、すごい! これ全部食べていいの?」
「ええ。遠慮なさらず召し上がってください」
「じゃあ、いただきまーす!」
早速匙を取ろうとすると、ノイが慌てて袖を引いた。
「お姉ちゃん、ちゃんと皆さんが食べ始めてから!」
「あ、そっか」
料理の味はもちろん、使われている食器や調度品も、二人がこれまで見たことのないものばかりだった。ノイは終始緊張していたが、ロローリャのほうは遠慮もそこそこに、次々と皿の料理を味わった。
「これ、すごく美味しいね! おかわりしてもいい?」
「もちろんですよ」
「やった!」
夫人が使用人へ目配せすると、すぐに新しい皿が運ばれてきた。
長い旅のあいだ、食べ物を手に入れるために何度も知恵を絞ってきた。それが今は、頼めば温かな料理が運ばれ、おかわりさえ好きなだけできる。ロローリャにとって、これほど愉快なことはなかった。
食後には小さな菓子と果物が供された。
「これも全部食べていいの?」
「ふふ。もちろんです」
「お姉ちゃん、食べすぎだよ……」
「大丈夫、大丈夫。まだまだ入るって!」
かつては、この食卓にも娘の明るい声があった。リターは何かにつけて弟をからかい、父親へ甘え、時には夫人から行儀を叱られていた。
今夜はその席に、見知らぬ二人の少女が座っている。
無論、失われた娘が戻ってきたわけではない。それでも、久しく聞かなかった賑やかな声が食堂を満たしていることを、夫人は嬉しく思っていた。
食事を終えるころには、ノイは眠たそうに目をこすり、ロローリャもさすがに満腹になったらしい。二人は使用人に案内され、客間へ戻っていった。
その夜、夫妻は二人の少女の今後について話し合った。
「あなた、しばらくはあの子たちにここで暮らしてもらいましょう。ノイさんのご家族のことも、早く確かめてあげたいわ」
「ああ。ラオス側に知人がいるから、明日にでも連絡してみよう。ロローリャの身分のことも調べなくてはな」
「それに、あの剣とご遺骨のこともありますわ」
「そうだった。思いがけず、ずいぶん忙しくなりそうだな」
こうして夫妻は、二人のためにできることから手をつけていくことにした。
◇
それからしばらく、二人は屋敷で仮住まいを続けた。
アディサックはラオス側の知人を通じてノイの家族を探し始め、義足は専門の職人へ預けられた。幸い、元の部材を一部残しながら修理できる見込みが立ち、ロローリャは大いに喜んだ。
やがて、ラオス側の知人からノイの家族について連絡が入った。
ある日の午後、夫妻は二人を居間へ招いた。
「ノイさん。ご両親も弟妹の皆さんも、以前と同じ村で無事に暮らしているそうですよ。いま、連絡を取るための手配を進めています」
「……みんな、無事なんですね。ありがとうございます」
ノイは深く頭を下げた。
「ご両親とお話しできたら、これからのことも相談したいと思っています。でもその前に、ノイさん自身の気持ちを聞いておきたいの」
「私の……?」
「ええ。これから、どんなことをしてみたいのかしら?」
ノイはしばらく考えていた。
村では朝から畑へ出て、幼い弟妹の世話をし、食べ物を用意するのが当たり前だった。働くことは腹を満たすためにするもので、それ以外の仕事を考えたことなどほとんどなかった。
「……私、ちゃんとした仕事に就きたいです。それで、お金を稼いで、お父さんとお母さんを助けたい。弟や妹たちも、学校へ行けるようにしてあげたいんです」
「まあ。それは立派な目標ですね」
「でも、私……学校へ行ったことがないから、字もあんまり読めないし……」
「それなら、これから勉強すればいいのですよ。まだ十分に時間はあります」
ノイにとって学校とは、いつか弟妹たちを通わせてやりたいと願っていた場所だった。その学校へ自分も通えるのだとしたら、どれほど素晴らしいことだろう。
「ノイは働き者だからね。ちゃんと勉強したら、きっと何でもできるようになるよ。私よりずっと真面目だし」
「それはそうかもしれないけど……」
「ちょっと、そこは否定してよ!」
「では、あなたのことも聞かせてくださいな。ロローリャさん」
「私?」
「ええ。あなたはこれから、どうしたいの?」
「……あのさ。私とノイは、ちょっと違うんだよ。ノイは悪い奴らに騙された子だけど、私はそれだけじゃないんだ。ここに置いてもらうなら、先に話しておいたほうがいいと思う」
そうしてロローリャは、静かに自分のこれまでを語った。
「私は我慢できなかった。フオンを売った勧誘屋の男を襲って、ボコボコにして情報を聞き出したんだ。それから、ガソリンを買って、赤鳳会の麻薬倉庫に火をつけて、ベトナムから逃げたんだ。だからさ、私をここに置いてたら赤鳳会の連中が追ってくるかもしれないんだよ。そんなことになったら、みんなにも迷惑がかかるでしょ?」
「赤鳳会か……。ミャンマーのシャン州で活動する
神妙な面持ちで言葉を交わす二人の横で、シリナパー夫人の目が愉快そうに輝いた。
「まあ、彼らの麻薬組織の倉庫を焼いてしまったなんて、たいしたものですわ! 父が聞いたら、さぞ喜ぶでしょうね」
「……へ?」
ロローリャは目を丸くした。
「私の父は長いあいだ、国境の麻薬組織と戦ってきた軍人なのです。そういう連中には、昔から容赦のない人でしたの。もっとも、あなたのような娘が、たった一人で倉庫へ火をつけたと聞けば、たいそう驚くでしょうけれど。今度、ぜひ紹介させていただきますわ」
「……怒らないの?」
「なぜ、そのようなことをしたのかは分かりましたから。ただ、危険を顧みずに飛び込むのは、もうおやめなさいね」
麻薬倉庫への放火にはさすがに肝を冷やしたが、シリナパーはこの少女の破天荒さにすっかり惚れ込んでいた。
「あなた、赤鳳会のことを調べていただけますか? ロローリャさんに危険が及ばないよう、屋敷の警備にも気を配ってくださいな」
「ああ。事情は確認しておこう」
ロローリャは拍子抜けしたように二人を見つめていた。自分を匿うことがどれほど危険かを説明するつもりだったのに、いつの間にか夫人の父親に会わせれば喜ばれるという話になっている。
「……変わった人たちだねえ」
「そうかもしれませんね。それで、ロローリャさん。あなた自身はこれからどうしたいの?」
「私ね、お姉ちゃんを探してるんだ」
「お姉様?」
「うん。私より四つ上のお姉ちゃん。小さいころに洪水で離れ離れになっちゃって、それからずっと会ってないんだよ。だから、いつか探しに行くつもりなんだ。どこにいるか分からないから、あちこち旅をしなきゃいけないと思うけどね」
「そうでしたか……」
ノイにも、ロローリャがいつか旅立つことは分かっていた。姉を探すために様々な国々を巡るのだと、これまで幾度も聞かされてきた。それでも、こうして本人の口から聞くと、別れの日がいよいよ身近なものに思われた。
「お姉ちゃん、行っちゃうの?」
「うん。いつかはね。でも、今すぐじゃないよ。ほら、足だってまだ直ってないしさ」
ロローリャは明るく笑い、ノイの頭を撫でた。
「それに、ノイは立派な仕事に就いて家族を助けたいんでしょ。私がいなくても大丈夫にならなきゃね」
「……うん」
「あなた。この子たちには、まず勉強をさせてあげたいと思うのですけれど」
「私もそう思っていたところだよ。二人とも、学校へはほとんど通ったことがないのだろう?」
「私は一度もありません……」
「私は王大哥に字と算数を教わったよ。ベトナムでもフオンに勉強を教えてもらったし、いろんな国の言葉がわかるんだから」
「まあ、それは立派ですね。けれど、もっといろいろなことを学んでおいたほうがよいでしょう。ノイさんがご家族を助けるにしても、ロローリャさんがお姉様を探して旅をするにしても、知識はきっと役に立ちますよ」
「……勉強かあ」
「ええ。言葉も、歴史も、世の中の仕組みも、学ぶことはたくさんあります。幸い、ここには先生を呼ぶこともできますし、必要な本も揃えられますから」
「それに、ロローリャには身分の問題がある。国籍も証明書類もないままでは、どこへ行くにも苦労するだろう。まずは義足を直し、こちらで身元や滞在の問題を整理しよう。その間に勉強を進めればいい」
ロローリャはしばらく考え込んだ。
かつて王大哥の義塾で、字を覚え、数を覚え、地図を広げて遠い町の名を教わった日々が蘇ってくる。あのころは、知らないことが一つ分かるたびに、世界が少しずつ広がっていくような気がした。
「……じゃあさ、お姉ちゃんを探すのに役立つことも教えてくれる?」
「もちろんですよ」
「よし。だったら、私も勉強する!」