アパートの細い共用廊下には、今夜も裸電球が頼りなく明滅していた。
女たちが仕事へ出るまでの時間、この廊下は居間の代わりになる。タオは壁際で煙草をふかし、リエンは膝に息子を乗せ、思い思いにくつろいでいる。ロローリャも床に座り、子どもの相手をしながら時折フオンのほうを窺っていた。
ここ数日のフオンは、仕事から戻っても眠れず、眠ってもすぐ起きているようだった。食が細くなるかわりに煙草が増え、細くなった指先には、以前から見えていた震えがさらに目立つようになっている。
「出稼ぎの話があるの」
窓際から聞こえてきた声に、女たちの雑談が途切れた。
「まとまった金が入るって。向こうでの生活はしっかり手配してくれるし、期間は三か月だって。人気の仕事だから、受けるなら急いでくれって」
「どこで働く話だい?」
「中国のほうのカラオケバー。あっちは景気がいいし、少し歌って酒を注ぐだけだから」
──ベトナムでは、そういう話はたいてい人づてにやってくる。親類か、同郷か、昔の知り合いか、そのまた知り合いか。街へ出るときも、仕事を探すときも、部屋を借りるときも、頼れるのはそういう繋がりである。
「三か月でまとまった金ねえ。そんなうまい話、転がってるわけないさね」
「でも……借金、もうどうにもならないの。薬も……やめられなくて」
薬を買うために借り、借りた金を返すために客を取り、その夜をやり過ごすためにまた薬へ手を伸ばす。そんな女は、この界隈では珍しくもない。
「ちゃんと住むところも食事も面倒見てくれるって。だから、その……戻ってきたら、ミーをいい学校に……」
言葉の終わりだけが、わずかに揺れた。
ロローリャは、その顔をじっと見ていた。フオンは笑おうとしていたけれど、何かをうまくごまかそうとしているように見えた。
それから数日、フオンは同じ話を繰り返した。言い回しだけを少しずつ変えながら、翌日も、その次の日も口にした。あの金があれば、借金は返せる。あの金があれば、ここから抜け出せる。あの金があれば、ミーをいい学校にやれる。
誰に言うでもなく、何度も、何度も。
そしてある日、フオンはミーを連れてタオの部屋を訪ねた。
「……タオ。少しのあいだ、お願いできる? 頼める人は、あんたしかいない」
──同郷の人間に子どもを託すというのは、この国ではよくあることだ。言葉も訛りも食の好みも通じる相手は、見知らぬ土地では血縁に近い重みを持つ。フオンがタオを選んだのも、そういう理由である。
「うまくいく保証なんかないよ」
「帰る。絶対に帰ってくる」
タオにも、自分の仕事と生活がある。二人の子どもは故郷へ置いてきているし、ここで他人の子まで抱え込めるほど暮らしに余裕があるわけでもない。
「ロローリャ、一緒に見てくれるかい。あたしだけじゃ手が回らないんだよ」
「……いいよ」
ロローリャには、三か月がどれほど長いのかよく分からなかった。ただ、子守なら今までもしているし、ミーにも懐かれている。それなら自分にもできる。だから、頷いた。
フオンはほっとしたように息を吐き、しゃがみ込んでミーの小さな手をぎゅっと握りしめた。
「いい子にしてるんだよ。すぐ帰るからね」
それから立ち上がると、小さな鞄一つを持ってアパートを出ていった。ドアが閉まる直前、ロローリャはその背中を見た。細く、頼りなく、そしてひどく小さく見えた。まるで、もう戻ってこない人間の背中のように。
◇
タオの仕事の都合もあり、ミーの世話は前よりもロローリャに委ねられるようになった。もともとフオンが夜に出ているあいだはミーをあやしていたし、いちばん時間の融通が利くロローリャがフオンが帰るまでの三か月、そのまま面倒を見ることになった。
二歳のミーは手がかかった。夜中に何度も目を覚まし、暗がりの中で怯え、不安と恐怖をむき出しにして母を探した。そのたびにロローリャは抱き上げ、片腕と胸で幼い身体を支えながら、夜が明けるまで背をさすった。
朝になれば食べさせ、昼には連れて出て、夕方にはまた部屋へ戻る。はじめは泣いてばかりいたミーも、やがてロローリャの姿を目で追うようになり、手を伸ばすようになった。ロローリャもまた、ミーが泣く前の顔つきや、眠くなると指を握る癖を覚えていった。
そうして日々は過ぎ、三か月が経った。だが約束の時期を過ぎても、フオンは帰ってこない。連絡もないまま、さらにひと月が過ぎ、ふた月が過ぎた。
「さすがにおかしいよ。一度、相談しに行こうさね」
そう言い出したタオは、ロローリャにミーを連れさせ近くの警察へ向かった。
案内された部屋は狭く、くすんだ壁の上で古い扇風機がだるそうに回っている。机の向こうには、腹の出た中年の警官が椅子に深く腰を沈めており、気怠そうな顔で三人を迎えた。
「中国へ出稼ぎに行ったんだろ?」
「そうさ。もともとは期間が三か月って決まってるって話だったんだよ」
「なら、まだ向こうにいるだけかもしれない」
「でももう五か月も音沙汰がないんだよ!?」
「本人から被害の届けが出てるわけでもない。帰ると言って出たなら、待つしかないだろ」
それで話は終わりという口ぶりに、タオは机を叩きつけようとしたが、舌打ちひとつで怒りを飲み込み椅子から身を引いた。ミーは何も分からないまま、回り続ける扇風機を見上げていた。
三人で警察を出ると、夕暮れの港町には湿った熱気が地にまとわりついていた。タオは人通りの多い道を抜けるまで無言で足早に歩き、人目が切れると、吐き捨てるように言葉を吐き出した。
「待てってさ。あいつらは待ってりゃ腹がふくれるんだろうね」
それでもフオンは帰ってこなかった。
それからまたしばらくして、今度はミーのことを相談しに役所へ行った。母親が戻らないこと、このままでは子どもの行く先が宙に浮くこと、いったいどうすればいいのか分からないこと。タオは苛立ちを押し殺しながら、なるべく順を追って説明した。
「母親は死亡したんですか?」
「分からないよ」
「戸籍上の父親はどなたですか?」
「父親が誰かなんて知らない」
「お子さまを預かったという委任状はありますか」
「そんなものあるわけないさ!」
必要なのは事情より書類らしい。
「では、こちらでは何もできません」
「何も、って、この子はどうなるんだい?」
「今はあなたが預かっているのでしたら、引き続き面倒を見てください。母親が戻るか、正式な書類が出るまではこちらとしては動けません」
タオにとって問題なのは、まさにその「いつまで」が分からないことだ。
「母親が戻らなかったら?」
「そのときは、また手続きが必要となります」
「いつだい、その“そのとき”ってのは!?」
「状況が確定してからですね」
ロローリャは窓口の高さに届かないミーの頭を見下ろした。役所の人間にとってこの子は、泣くでも喚くでもなく、ただ大人の脇に立っている小さな影でしかないらしかった。
帰り道、タオは珍しく煙草にも火をつけず、黙ったまま歩いていた。ミーはロローリャの指を握り、石畳の継ぎ目を一つずつ踏むようについてくる。自分のことがどこでどう決められようとしていたのか、たぶん何も分かっていない。それでも不意に立ち止まり、通りすがりの人の顔を見上げることがあった。そのたびにロローリャは、胸の奥を細いものでつつかれるような気がした。
「結局、あたしたちで見るしかないってことさね」
タオの声には怒りよりも、もう動かしようのない疲れが濃く沈んでいた。ロローリャは何も言わず、ミーの手を握り返した。柔らかくて、小さくて、ひどく軽いその手は、これからのことを黙ってロローリャに渡してくるようだった。