欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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3.出稼ぎ

 アパートの細い共用廊下では、チカチカと不規則に瞬く裸電球の下、タオとリエン、そしてロローリャが思い思いにくつろいでいた。タオは煙草をふかしながら壁にもたれ、リエンは子どもを膝に乗せている。ロローリャは床に座り、リエンの子どもの相手をしながら、廊下の端にいるフオンの様子を気にしていた。

 

 フオンは窓際に腰を下ろし、どこを見るでもなく煙草を吸っていた。細くなった指先がかすかに震えている。灰を落とすたび、何かを振り払うように手が動いた。

 

 やがて、彼女はぽつりと言った。

 

「出稼ぎの話があるの」

 

 誰に向けたわけでもない声だったが、リエンとタオが顔を上げた。ロローリャも、子どもをあやしながらその声に耳を傾ける。

 

「まとまった金が入るって。向こうでの生活はしっかり手配してくれるし、期間は3か月だって。人気の仕事だから、受けるなら急いでくれって」

「どこで働く話だい?」

 

 リエンが煙草を指で弾きながら、短く聞いた。

 

「中国のほうのカラオケバー。あっちは景気がいいし、少し歌って酒を注ぐだけだから」

 

──ベトナムでは、そういう話はたいてい人づてにやってくる。親類か、同郷か、昔の知り合いか、そのまた知り合いか。街へ出るときも、仕事を探すときも、部屋を借りるときも、頼れるのはそういう繋がりである。

 

 けれど、その場の空気は少し重くなった。タオが鼻で笑う。

 

「そんなうまい話、転がってるわけないさね」

「でも……」

 

 フオンは視線を落とし、膝の上で指を組んだ。

 

「借金、もうどうにもならないの。薬も……やめられなくて」

 

 最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。リエンは何も言わず、ただ煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐き出した。フオンはその沈黙に耐えかねたように、さらに言葉を重ねた。

 

「ちゃんと住むところも食事も面倒見てくれるって。だから、その……戻ってきたら、ミーをいい学校に……」

 

 その途中で、声がわずかに震えた。

 

 ロローリャは、その顔をじっと見ていた。フオンは笑おうとしている。だが笑えてはいなかった。何かを押し殺したまま、表面だけを整えているように見えた。

 

 それから数日、フオンは同じ話を繰り返した。言い回しだけを少しずつ変えながら、翌日も、その次の日も口にした。あの金があれば、借金は返せる。あの金があれば、ここから抜け出せる。あの金があれば、ミーをいい学校にやれる。

 

 誰に言うでもなく、何度も、何度も。

 

 そしてある日、フオンはミーを連れてタオの前に立った。

 

「……タオ。少しのあいだ、お願いできる? 頼める人は、あんたしかいない」

 

──同郷の人間に子どもを託すというのは、この国ではそれほど不自然なことではない。言葉も訛りも食の好みも通じる相手は、見知らぬ土地では血縁に近い重みを持つ。フオンがタオを選んだのも、そういう理由である。

 

 タオは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。

 

「うまくいく保証なんかないよ」

「帰る。絶対に帰ってくる」

 

 タオはため息をつき、それからロローリャを見た。

 

「ロローリャ、一緒に見てくれるかい。あたしだけじゃ手が回らないんだよ」

「……いいよ」

 

 ロローリャは頷いた。引き受ける覚悟があったわけではないが、断る理由もなかった。ただ、ミーの小さな手がフオンの指にしがみついているのを見て、その手が離される瞬間を想像してしまった。だから、頷いた。

 

 フオンはほっとしたように息を吐き、しゃがみ込んでミーの手を握り直した。

 

「いい子にしてるんだよ。すぐ帰るからね」

 

 ミーは何も答えなかった。ただ母親の顔を見つめていた。その瞳に、どこまで言葉が届いているのかは分からなかった。

 

 フオンは最後に、その小さな手をぎゅっと握りしめた。それから立ち上がり、振り返らずに扉へ向かった。ドアが閉まる直前、ロローリャはその背中を見た。細く、頼りなく、そしてひどく小さく見えた。まるで、もう戻ってこない人間の背中のように。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 タオの仕事の都合もあり、ミーの世話は前よりもロローリャに委ねられるようになった。もともとフオンが夜に出ているあいだはミーをあやしていた。いちばん時間があり、子どもにも慣れていたロローリャが、そのまま面倒を見るようになるのは自然な流れだった。

 

 二歳のミーは手がかかった。母親がいなくなってしばらくは、夜中に何度も目を覚まし、暗がりの中で怯えた顔をした。うまく声にならないぶん、その目だけが不安と恐怖をむき出しにして母を探した。そのたびにロローリャは抱き上げ、片腕と胸で幼い身体を支えながら、夜が明けるまで背をさすった。

 

 朝になれば食べさせ、昼には連れて出て、夕方にはまた部屋へ戻る。はじめは泣いてばかりいたミーも、やがてロローリャの姿を目で追うようになり、手を伸ばすようになった。ロローリャもまた、ミーが泣く前の顔つきや、眠くなると指を握る癖を覚えていった。

 

 そうして日々は過ぎた。最初は、三か月経てばフオンは帰ってくると思っていた。だが約束の時期を過ぎても、フオンは帰ってこなかった。連絡もないまま、ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎた。

 

「さすがにおかしいよ。一度、相談しに行く」

 

 そう言い出したタオは、ロローリャにミーを連れさせると、そのまま二人を連れて近くの警察へ向かった。

 

 案内された部屋は狭く、くすんだ壁の上では古い扇風機がだるそうに回っていて、その下の机に座った男は、タオが事情を半ばまで話しただけで、すでに面倒そうな顔をしていた。

 

「中国へ出稼ぎに行ったんだろ」

「そうさ。期間が3か月って決まってるって話だったんだよ」

「なら、まだ向こうにいるだけかもしれない」

「もう何か月も音沙汰がないんだよ」

「本人から被害の届けが出てるわけでもない。帰ると言って出たなら、待つしかないだろ」

 

 それで話は終わりという口ぶりに、タオは机を叩きつけようとしたが、舌打ちひとつで怒りを飲み込み、椅子から身を引いた。ロローリャはミーの手を握ったまま、警官の顔を見返していた。ミーだけが何も分からないまま、回り続ける扇風機を見上げている。三人はそのまま警察を出た。

 

 表の蒸し暑い空気に触れると、タオは足早になった。人通りの多い道を抜け、角を曲がり、ようやく声の届く者がいなくなったところで、低く吐き捨てた。

 

「待てってさ。あいつらは待ってりゃ腹がふくれるんだろうね」

 

 それでもフオンは帰らなかった。

 

 それからまたしばらくして、今度はミーのことを相談しに役所へ行った。母親が戻らないこと、このままでは子どもの行く先が宙に浮くこと、いったいどうすればいいのか分からないこと。タオは苛立ちを押し殺しながら、なるべく順を追って説明した。

 

 窓口の女は書類をめくり、顔も上げずに聞いた。

 

「母親は死亡したんですか」

「分からないよ」

「戸籍上の父親は」

「知らない」

「正式な委任状はありますか」

「あるわけないさ」

 

 そこでようやく女は顔を上げた。

 

「では、こちらでは何もできません」

「何も、って、この子はどうなるんだい」

「今はあなたが預かっているんでしょう」

「預かってるっていうか、放っておけないから見てるだけだよ」

「それなら、引き続き面倒を見てください。母親が戻るか、正式な書類が出るまでは動けません」

 

 タオの顔が強張った。

 

「戻らなかったら?」

「そのときは、また手続きが必要です」

「いつだい、その“そのとき”ってのは」

「状況が確定してからです」

 

 まるで最初から、ミーのことなど見ていないような言い方だった。ロローリャは窓口の高さに届かないミーの頭を見下ろした。役所の人間にとってこの子は、泣くでも喚くでもなく、ただ大人の脇に立っている小さな影でしかないらしかった。

 

 帰り道、タオは珍しく煙草にも火をつけず、黙ったまま歩いていた。ミーはロローリャの指を握り、石畳の継ぎ目を一つずつ踏むようについてくる。自分のことがどこでどう決められようとしていたのか、たぶん何も分かっていない。

 

 それでも不意に立ち止まり、通りすがりの人の顔を見上げることがあった。そのたびにロローリャは、胸の奥を細いものでつつかれるような気がした。

 

「結局、あたしたちで見るしかないってことさね」

 

 タオの声には怒りよりも、もう動かしようのない疲れが濃く沈んでいた。ロローリャは何も言わず、ミーの手を握り返した。柔らかくて、小さくて、ひどく軽いその手は、これからのことを黙ってロローリャに渡してくるようだった。

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