アディサックの屋敷に迎えられて以来、ロローリャとノイを取り巻く環境は大きく変わった。ここで、二人に関するいくつかの顛末に触れておこう。
まず、それまで曖昧だった二人の身分やタイでの滞在資格は、アディサックが王族としての広い人脈と影響力を駆使したおかげで、驚くほどあっさりと正式なものに切り替わった。その手続きの過程で、二人を人身売買に巻き込んだウィチャイらタイ側のブローカーへの捜査も始まり、ロローリャは役人が真面目に働くこともあるのかと、アディサックに皮肉を漏らしたりしていた。
また、ラオスで暮らすノイの両親とも無事に直接連絡がついた。娘がタイの王族のもとで手厚い保護と教育を受けられると知った両親は、感極まった面持ちでそれを承諾したという。
さらに、二人が洞穴で発見した遺骨は、鑑定の結果、やはり泰仏戦争で行方不明となった王族クリサダーのものと確認され、丁重に弔われた。七十五年ぶりの発見は新聞でも大きく報じられ、シリナパーはその記事を大切に保管し、発見者である二人に改めて深い感謝を伝えた。
そして最後に、ロローリャ自身にも嬉しい出来事があった。修理に出していた義足が戻ってきたのである。職人は王大哥から贈られた義足の部材を可能な限り残し、傷んだ部分を補修したうえで、成長した身体に合わせて調整を施していた。
久しぶりに義足をつけたロローリャは、杖を手に廊下を何度も行き来した。
「おお、いいねえ! 前よりずっと歩きやすいや!」
「お姉ちゃん、そんなに急いだら転ぶよ!」
「大丈夫、大丈夫! これでまたどこへでも行けるね!」
こうして、二人の新しい生活が本格的に始まったのである。
十二歳のノイは、補習を受けながらアーティットと同じ学校へ通うことになった。新しい制服に身を包み、朝になるとアーティットと一緒に車で出かけていく。一方、すでに十七、八歳になるロローリャには何人もの家庭教師がつき、屋敷の一室が彼女の教室となった。
「それでは、今日の授業はタイの歴史から始めましょう」
「……ねえ、先生。また歴史ぃ? タイって昔の王様が多すぎるよ」
歴史や王室の系譜には少々うんざりしている彼女だったが、外国語の授業となると態度は一変した。
「ロローリャさん、今日はフランス語の動詞の活用を復習しましょう」
「はいはい! Je suis、tu es、il est……でしょ? 予習もバッチリだよ!」
得意げに答えたかと思えば、次の問題を早く出せと教師を急かす。発音を訂正されれば何度でも繰り返し、授業が終わってからも教本を開いているほどだった。
タイ語や英語、フランス語をはじめ、果てはロシア語やペルシア語など、いつ使うのかも分からない言葉にまで興味を示し、スポンジが水を吸い込むように世界中の言語を学んでいった。
彼女にとって外国語は、世界のどこかにいる姉を探すための手段でもあった。中国からベトナム、ラオス、タイへと旅を続ける中で、言葉が通じることの大切さは身をもって知っている。姉がどこの国に暮らしていようと、自分の足で訪ね、人々に消息を尋ねられるようになりたかった。
そんなわけで、歴史の授業では教師を困らせることもあったが、語学に関しては実に熱心な生徒であり、その勢いに家庭教師たちが大慌てで教本を準備し直すほどだったのである。
◇
勉強に励むかたわら、ロローリャは屋敷での暮らしを楽しむようになった。持ち前の明るさと遠慮のなさでノイやアーティットを巻き込み、屋敷は以前にも増して賑やかになった。シリナパーもそんな彼女をすっかり気に入り、何かと世話を焼くのが楽しみになっていた。
ある日の午後、チェンマイから招かれた仕立屋が、夫人のサロンに色とりどりの絹地を広げた。
「ロローリャ、今日はあなたのために素晴らしい衣装を仕立ててもらいますよ」
「えっ、衣装? 私、服なら今着てるので十分だけど……うわ、なにこれ! すごく綺麗!」
差し出された布地は、陽の光を受けて滑らかな光沢を放つ上質なタイシルクである。シリナパーはさらに、タイの伝統衣装をまとった女性たちの写真帳を開いてみせた。
──タイの伝統的な女性正装は、一般に「チュットタイ」と呼ばれる。タイを代表する民族衣装として知られるが、実は現在知られる八種類の正装は二十世紀半ばに伝統的な服飾をもとに整えられた、比較的新しいものである。
ルアントン、チットラダー、アマリン、ボロムピマーン、チャクリー、ドゥシット、チャクラパット、シワーライの八種があり、日中の訪問から夜会、婚礼、王室の儀式まで、それぞれの格式や用途に応じて着分けられ、長袖の上衣に筒状のスカートを合わせた比較的簡素なものから、金銀糸を織り込んだ肩掛けで装う華やかな礼装まで、その意匠は実に多彩である。
また、これらに用いられるタイシルクは、職人が手織りで紡ぎ出す極めて価値の高い伝統工芸品である。タイ王室は品質を守るため、王室紋章である孔雀のマークを用いた「タイシルク認証制度」を設けており、中でも最高級の『金の孔雀認証』は、タイ在来種の蚕糸を用い、伝統的な手織りの技法で作られた絹織物の証とされている。
シリナパーが取り寄せた絹地は、当然のように金の孔雀印がついたものばかりであった。もっとも、ロローリャにはそんな事情など分かるはずもなく、美しい衣装の写真にすっかり夢中である。
「へええ、タイのお姫様ってこんな服を着るんだねえ。これ、すっごく綺麗じゃん!」
ロローリャが指さしたのは、片肩に美しい絹の布を掛けたチャクリーだった。斜めに流れる肩掛けと、裾に精緻な文様を織り込んだスカートが気に入ったらしい。
「まあ、チャクリーがお好きなのね。あなたならきっと似合いますわ」
「こっちの長袖のやつもいいね。なんだか偉そうに見えるよ。ねえ、夫人、どれを作るの?」
「そうですねえ……せっかくですから、八種類とも仕立てましょうか」
「……へ?」
ロローリャは写真帳から顔を上げた。
「全部!? 夫人、本気なの!?」
「ええ、もちろん。いずれ着る機会もあるでしょうし、今から揃えておけばよいのですから」
「いやあ、これは大変だぞ、こりゃ……」
そう言いながらも、ロローリャは次々と広げられる美しい絹地に目を奪われ、やがて自分から色や模様を選び始めた。シリナパーもすっかり上機嫌で、仕立屋との相談に夢中になっている。
そんな折、ロローリャは別のカタログに載っていた一着のドレスに目を留めた。
「あっ、これもいいねえ! すっごく格好いいじゃん!」
それは小さな立ち襟と身体の線に沿った細身の仕立てを特徴とする、中国の旗袍にベトナムのアオザイの意匠を取り入れた現代風のドレスだった。スカートには深い切れ込みが入り、脚を動かしやすそうな形をしている。
「まあ、こういう形がお好きなの?」
「うん! これなら足も動かしやすそうだしさ。こんなの着てみたいなあ」
シリナパーは写真を眺め、それからロローリャの義足に目を向けた。
「そうですね。では、こちらは別に仕立ててもらいましょう。あなたが普段から着られるように、少し工夫してもらえばよいわ」
「ええっ、まだ作るの!?」
「せっかくですもの。好きな色を選んでくださいな」
「じゃあ、赤! 真っ赤なのがいいな!」
即座に答えるロローリャに、シリナパーと仕立屋が顔を見合わせて笑った。
こうして八種類の伝統衣装に加え、ロローリャの義足に合わせた特別なドレスも注文されることになった。選ばれたのは、深い紅色のタイシルクである。小さな立ち襟と、肩先まで覆う袖なしの身頃が上半身を端正に包み、身体の線に沿って細く絞られた腰から裾へ、絹地が滑らかに広がる。左脇にはスリットを設け、歩くたびに裾が揺れて、太腿の肌がちらりとのぞく仕立てである。
留め具は片手でも扱いやすい位置に取り付けられ、裏地や下着も衣装に合わせて一式用意された。仕立屋は型紙と余分な生地を保管することを約束し、細かな注文まで丁寧に記録していった。
数週間後、完成したドレスを身につけたロローリャは、鏡の前で何度も身体の向きを変えた。
「おおっ、いいねえ! すっごく歩きやすいよ!」
「よくお似合いですわ」
「夫人、ありがとう! これ、大事に着るからね!」
シリナパーは満足そうに微笑んだ。
以来、この紅色のドレスは、ロローリャのとりわけお気に入りの一着となった。
◇
こうして屋敷での豪華な暮らしに慣れてくると、ロローリャは次第に遠慮というものを忘れ始めた。とりわけ食事については、その傾向が顕著であった。
「ねえ、ターンチャーイ! 私、テレビで見たんだけどさ、『シャトーブリアン』っていうお肉はすごく美味しいらしいね」
ある晩、そんなことを言い出したかと思えば、数日後には分厚い牛ヒレ肉を頬張り、今度はロブスターを食べたいと騒ぎ始めた。
また、タイ北部の名物料理であるスパイシーなハーブソーセージ「サイウア」や、タマリンドの酸味と生姜が効いた豚肉のカレー「ゲーン・ハンレー」なども、ロローリャの大好物となった。
ある日の昼食時、湯気を立てる大きな磁器の鉢が食卓へ運ばれてきた。
「これは……トムヤムクン? おおっ! ついに王族のスープが飲めるなんて、楽しみだねえ!」
──トムヤムクン(Tom Yum Goong)の名は、「トム(煮る)」「ヤム(和える・混ぜる)」「クン(エビ)」に由来する。世界三大スープの一つにも数えられるこの料理は、川エビとタイ特有の香草を組み合わせた、酸味と辛味が特徴の伝統的なスープである。
その起源には諸説あり、十八世紀のトンブリー王朝にまつわる伝説も残されている。タークシン王(鄭信)の娘が病に倒れて食欲を失った際、王は宮廷料理人に娘の食欲を取り戻す料理を作るよう命じた。そこで料理人が新鮮なエビと香草を使い、酸味と辛味の効いたスープを考案したところ、王女は食欲を取り戻し、やがて病から回復したという。喜んだ王は、この料理をトムヤムクンと名付け、国を代表するスープに定めたと伝えられている。
そんな名高い料理であったが、ひと口すすったロローリャは、少々拍子抜けしたらしい。
「……ん? 思ったより普通だねえ」
「お姉ちゃん、またそんなこと言って!」
「ははは。料理長が聞いたらがっかりするぞ」
ノイが慌ててたしなめると、ロローリャはニヤリと笑い、もうひと口スープをすすった。
「ううん、嘘嘘! すごすぎるよこれ! 前にお寺でご馳走になったやつは、辛くて酸っぱくて、ガツンとくる味だったんだけどさ。こっちは海老の旨味がすっごく濃いのに、後味がさっぱりしてるんだよねえ。香りもいいし、なんだか上品な味だよ! これなら何杯でも飲めちゃうね!」
その率直な食評に、アディサックは声を上げて笑った。
「ロローリャさん、口の端にスープがついてますよ」
向かいに座っていたアーティットが、ハンカチを差し出した。ロローリャはそれを受け取ると、いたずらっぽく目を輝かせた。
「ありがと、クンチャーイ! いやあ、王子様の手拭きサービスなんて贅沢だねえ。ねえ、アーティット。そんなに親切にしてくれるなら、今度は私があーんして一口飲ませてあげようか?」
「なっ、何を言ってるんですか! 自分で飲めますよ!」
アーティットはたちまち耳まで赤くなり、慌てて顔を背けた。
「もう、お姉ちゃんたら。アーティット様をからかわないの」
ノイがたしなめると、ロローリャはますます面白がって笑った。アディサック夫妻も、そんな三人のやり取りを楽しそうに眺めていた。
そして、ロローリャの食い意地は屋敷の料理だけにとどまらなかった。
ある日の午後、居間のテレビで、日本の有名な洋菓子店がバンコクに出店したという話題が紹介されていた。画面には、こんがりと焼けた小さなチーズタルトが並び、店先には大勢の客が列を作っている。
「……うまそう」
割ったタルトの中から、とろりとしたチーズクリームが現れると、ロローリャは思わず身を乗り出した。
そこへ、ちょうどアディサックが顔を出した。
「あっ、ターンチャーイ! またバンコクへお仕事ですか?」
「ああ。明日から二日ほど行ってくるよ」
「へええ、大変だねえ。そういえばさ、バンコクにすっごくおいしいお菓子のお店ができたんだって、テレビでやってたよ。日本の有名なケーキ屋さんらしいんだけどさ、夫人も甘いものがお好きでしょ? きっと喜ぶと思うんだよねえ」
アディサックはテレビの画面を眺め、それからロローリャに視線を戻した。
「まったく。何でもシリを口実にするんだから……君が食べたいだけだろう!?」
「へへっ、ばれた? でも、みんな喜ぶと思うんだよねえ。だからお土産に買ってきてよ! 二箱……いや、三箱!」
「三箱もかい?」
「ノイとアーティットの分もいるからさ!」
「そういうことにしておこうか」
アディサックはやれやれと肩をすくめて笑ったが、数日後、本当にチーズタルトの箱を三つ抱えて帰ってきたのである。
「やったあ! ターンチャーイ、大好き!」
「はいはい。みんなで分けるんだぞ」
ロローリャはさっそくノイとアーティットを呼び、温め直したタルトを頬張った。さくりとした生地の中から濃厚なチーズクリームが広がると、満足そうに目を細め、今度はシリナパーにも食べるよう勧め始めた。
かくして、王族の屋敷に迎えられたロローリャは、何不自由ない暮らしを存分に満喫するようになった。
紅色のタイシルクをまとい、職人の手で修理された義足で屋敷を歩き回り、食卓では高級料理に舌鼓を打つ。さらには、バンコクで評判の菓子まで買ってこいと、屋敷の主人にねだる始末である。
傍から見れば、少々……いや、かなり調子に乗っていると言わざるを得ない光景であった。いくら命の恩人とはいえ、図々しさにも程があるというものである。
だがまあ、許してやってほしい。
彼女のこれまでの生い立ちを思えば、長年抑え込まれていた欲望のたがが一気に外れてしまったのも、仕方のないことだろう。
その日もロローリャは、食後のチーズタルトを平らげると、ふかふかのソファに深々と身を沈め、満足げに小さなあくびを噛み殺したのだった。