フオンが姿を消してから、ミーはロローリャのそばに置かれるもののひとつになった。杖、ノコギリ、宝くじ、布袋、水のペットボトル、それからミー。
廊下を掃き、女たちの使いに走り、鍋を洗ってから、ロローリャはミーの髪を手ぐしで整えた。ミーはまだ眠そうな顔をして、されるがままになっている。細い髪はすぐ指へ絡まり、少し強く引くと、小さな眉がきゅっと寄った。
「はいはい、ごめん。ミーの髪は鳥の巣みたいなんだから、とっても大変なんだよ」
そう言いながら、ロローリャは古い布切れでミーの髪を結んだ。結び目は少し曲がっていたが、前よりは顔がよく見える。
「よし。かわいい。これなら金持ちのおばさんも一枚くらい余計に買ってくれるかもね」
ロローリャは宝くじの束を布袋に入れ、杖を取った。ミーはすぐにその後ろをついてきた。階段を降りるときには、一段ごとにロローリャの服の端を掴み、足をそろえて慎重に降りる。
「そこ、段差。はい、足。もう一個。はい、上手。私より上手に歩くようになっても、おいていかないでね」
市場の近くは、昼前から人で膨らんでいた。港のほうから来る湿った風に魚と排気の匂いが混ざり、天秤棒を担いだ女たちが人を押し分け、バイクが隙間を縫って走っていく。ロローリャはいつもの壁際に腰を下ろし、ノコギリを膝に挟んだ。ミーは隣に座り、両手で膝を押さえたまま、通りをじっと見ていた。
「いい? ここに座ってるんだよ。私が弾いて、ミーは笑って、二人で稼ぐの。ほら、今日も働き者の顔をして」
ミーは意味をどこまで分かっているのか、頬をふくらませてから、ふにゃりと笑った。ロローリャは思わず吹き出し、それから弓をひいた。細く震える音が市場のざわめきの上を滑っていく。器用な音ではなかったが、足を止める者はいた。誰かが一枚買い、誰かがミーの頭を撫で、別の誰かが銀紙に包まれた緑豆の菓子を差し出した。
「ありがとう」
ロローリャは包みを受け取ると、ミーの膝に置いた。
「よかったね。ミーは、バインダウサインを稼いだね」
ミーは膝の上の包みを見下ろし、それから通りの笑い声につられるように頬をゆるめた。ロローリャはその顔を横目で見ながら、もう一度、ノコギリの背に弓を滑らせた。
昼近くになって、人の流れはいっそう濃くなった。ロローリャが宝くじを売っていると、ミーが小さな椅子から降りた。視界の端を、風車売りが通る。竹竿の先で薄い紙の風車がくるくる回り、赤い羽根の一つが陽を受けてきらめいた。ミーはそれに吸い寄せられるように、ふらりと一歩出た。
「ミー、待って」
声をかけたが、ミーは風車を目で追ったまま通りへ出る。向こうから、青菜を山のように積んだバイクが来ていた。左右に張り出した籠と青い葉の影に、ミーの小さな身体が紛れる。
ロローリャは宝くじの束を抱え、杖を引き寄せる間も惜しんで立ち上がった。片脚に力を入れた拍子に身体が傾き、壁に肩をぶつける。運転手がぎょっとして声を上げた。
「危ない!」
ロローリャはほとんど跳ねるように前へ出た。足元で誰かの籠にぶつかり、宝くじの端がばらける。伸ばした手がミーの服の背中を掴んだ。ミーの身体を引き戻した次の瞬間、バイクの前輪が、さっきまでミーのいた場所をかすめて通った。
ロローリャはその場にしゃがみ込み、ミーを胸に押しつけた。心臓が喉の近くまで上がっている。ミーは驚いた顔で、肩越しにまだ風車を見ていた。
「何してるの! 勝手に行ったら駄目。私の足は遅いんだから」
ミーは顔をくしゃりと歪め、細い声で泣き出した。その震えが腕の中に伝わった瞬間、ロローリャの怒りは怖さへ変わり、身体の力が抜けていった。
その日から、ロローリャは宝くじを売るとき、ミーの椅子を膝に触れるほど近くへ寄せた。布袋の長い紐をミーの手首にゆるく巻き、もう一方の端を自分の手首にも結ぶ。ミーは椅子に座り、不思議そうに紐をつまんでいた。
「ここ。これを持ってて。そう。ミーは紐係。私は売る係。偉いね、小さいのに役がある」
ミーは紐を握ったまま、にこにこと笑った。
◇ ◇ ◇
雨の気配がある日は、ハイフォンの空気が朝から重かった。雲は低く、港のほうから湿った匂いが入り込み、アパートの廊下までじっとりと汗をかいたようになる。
ロローリャはミーを連れて通りへ出た。宝くじの束はいつもより多い。前の日によく売れたので、リエンが少し無理をして持たせたのだ。
「今日は売るよ。全部売ったら、魚のアラじゃなくて身のところを買う。ミー、身だよ。白くて、柔らかいところ」
だが市場に着いて椅子へ座らせても、ミーの笑顔はなかなか出なかった。ロローリャは湿気のせいだと思った。子どもは暑いとすぐ機嫌が悪くなる。自分だって、朝から身体が重い。
昼を過ぎるころ、ミーは椅子の上で身体を丸め、布袋の紐を握ったまま、うとうとし始めた。宝くじを買った女が「この子、眠いんだねえ」と笑う。ロローリャも笑い返そうとして、ふとミーの頬に触れた。
熱かった。
「ミー?」
額に手を当て、首筋にも触れた。熱が手のひらにまとわりつく。ミーは薄く目を開けたが、すぐに閉じた。唇が乾いている。
「ちょっと。何これ。朝は普通だったでしょ。ねえ、ミー、こっち見て」
ロローリャはペットボトルを開け、口元へ持っていった。ミーは少しだけ飲み、すぐ顔をそむけた。宝くじの束はまだ半分以上残っている。けれど、椅子の上のミーは小さく沈み、目の焦点もぼんやりしていた。
ロローリャは束を見た。ミーを見た。リエンの顔が浮かび、朝の自分の言葉が浮かんだ。
「……今日は負けでいい」
宝くじを布袋に押し込み、片腕でミーの身体を支え、杖をついた。湿った風が吹き、雨粒がぽつぽつ落ち始める。
「ミー、しっかり歩いて。もう少しで着くから」
ミーはロローリャの肩に頬を寄せ、熱い息を首にかけた。アパートへの道が、普段の何倍も長く感じられた。
薄暗い部屋に寝かせ、濡らした布で額や首筋を拭っても、熱は引かなかった。ミーは苦しそうに顔をしかめ、時折ヒクッと喉を鳴らして細い泣き声を漏らす。そのたびに、ロローリャの胸の奥が冷たく縮んだ。
(どうしよう)
手持ちの小銭では診療所へ連れて行けない。宝くじを売った金に手をつければ、リエンにどう言い訳すればいいか分からない。それ以上に、目の前の小さな命に対して、自分が何もできないことが恐ろしかった。
「水、飲む? ほら、少しだけ」
スプーンで水を唇に運んでも、ミーは首を振ってこぼしてしまう。ロローリャは焦りから、思わず声を荒らげそうになり、ぐっと堪えた。
(フオンならどうするんだろう。親なら、こんな時どうすればいいか分かるはずなのに)
自分は母親じゃない。ただの欠け身の小娘だ。ミーがこのまま息をしなくなってしまったら。そんな恐ろしい想像が頭をもたげ、ロローリャはミーの小さな手をそっと包み込んだ。
「駄目だよ、ミー。熱くならないで。お願いだから」
夕方近くになって、廊下に雨に濡れた靴音と女たちの声が響き始め、リエンが自分の子を抱いて部屋の前に来た。
「ロローリャ、また息子を少し見ててくれるかい。今日は早めに……ちょっと、あんた、ずいぶんひどい顔してるじゃないか」
「リエン! ミーが熱を出したの。私、どうしたらいいか分からなくて。宝くじも売れ残った。ごめん」
言いながら声が震えた。怒られると思っていた。子どもを見ることも、宝くじを売ることも、全部中途半端だと言われる気がした。
リエンは舌打ちを一つすると、自分の子を小脇に抱え直し、ずかずかと部屋へ入ってミーの額に手を置いた。
「熱いじゃないか。あんた、ずっとこうしてたのかい」
「水は少し飲ませた。でも、これ以上どうしたらいいか……」
リエンはしばらくミーの顔を見て、それからロローリャを振り返った。
「親でもないのに、ひとりで全部抱え込むんじゃないよ。ちょっと待ってな」
リエンは自室へ戻ると、すぐに小さな薬の包みを持って戻ってきた。
「うちの子が熱を出したときの残りの薬だ。甘い粉だから、少しの水に溶いてから飲ませてやりな」
ロローリャは言われた通りに薬を水で溶き、むずがるミーの口元へ運んだ。ミーは顔をしかめたが、舌に甘さが触れると、目をしばたたかせながら少しずつ飲み込んだ。リエンが横から椀を支え、こぼれた薬を手早く拭う。
「よし、偉い偉い」
リエンはそう言って、広げられた宝くじの束に目をやった。湿って波打つ紙を一枚持ち上げ、すぐに戻した。
「今日の売れ残りは気にしなくていいよ。たまにはこんな日もある」
「でも」
「いいって言ってるだろ。それより、あんた、ちゃんと連れて帰ってきて、一人でこの子を見てたんだね」
リエンは深く息を吐き、ロローリャの頭を雑に撫でた。髪がぐしゃりと乱れる。
「頑張ったね」
その言葉が、ロローリャの胸に変なふうに入ってきた。張り詰めていた糸がふっと緩み、目の奥が熱くなる。慌てて瞬きで散らした。
リエンは広げられた宝くじを脇へ寄せ、ロローリャの前にしゃがんだ。
「ミーの熱がまた上がったら、まず水。汗をかいたら拭く。薬は夜まで一包きりだよ」
「うん」
「あんたはミーの横にいてやりな。うちのはジウに預ける。今日はあの人、客を取らない日だって言ってたから」
リエンはそう言って、自分の子を抱いたまま廊下へ出ていった。ロローリャは包みを持ったまま、ミーの横に腰を下ろした。
薬が効いてきたのか、ミーは小さく身じろぎし、ロローリャの服の端を掴んだ。熱のせいで力は弱い。それでも指は、確かに布を握っていた。息づかいも、さっきより穏やかになっている。
「聞いた? 私たち頑張ってるってさ」
◇ ◇ ◇
夜の帳が下りる頃、ミーはすっかり寝息を立てていた。廊下には安物の白粉と香水の匂いが漂い、裸電球の下では、出勤前の女たちがプラスチック椅子を軋ませて化粧をしている。
ロローリャは、フオンから貰った古びた教科書を膝に置き、女たちの会話に耳を傾けていた。
「──ったく、どいつもこいつも、財布の紐だけは一丁前に固くしやがって」
真っ赤なリップを唇に引きながら、リエンが忌々しげに鏡を睨みつけた。
「夕べの客なんてさ、散々あたしの胸に顔を埋めてハァハァ言ってたくせに、チップをねだると急に『ベトナムの経済も大変だからな』なんて講釈を始めんの。なんで私が国の経済の話を聞かなきゃいけないのさ」
壁にもたれて煙草をくわえていたタオが、鼻から煙を抜いてせせら笑った。
「男なんてものはね、リエン、頭に血が上ってる時と、股間に血が上ってる時の二種類しかいないんだよ。説教を始める手合いは、自分の小ささを隠したいだけのカカシさ。『そうなんだ、すごいね』って言って、話の切れ目で金の話に戻せばいい」
「その切れ目が来ない男もいるんだよ」
リエンが口を尖らせる。
「そういうのは最初から相手にしないことさ。見るなら顔じゃない。手と靴だよ」
タオは煙草を一吸いし、目を細めた。
「爪が汚い、いきなり腕を掴む、そういう手つきの男は値切るのもしつこい。靴も同じさ。安物でも綺麗に磨いてあれば見栄に金を出す。泥だらけならただの荒くれ者だ。相手が大きな声で喋り出したら、慌てずに酒を飲む一拍を作って、手と靴を見るんだよ」
「そうやって正体さえ見抜いちまえばねえ、男なんて生き物は驚くほど単純に扱えるんだよ」
奥の部屋から、湿った
「最初から全部差し出す女は安く見られる。かといって、冷たくしすぎると金が逃げる。男なんてのはね、追いかけてるつもりで、ほんとは手綱を持たれてるくらいが一番機嫌よく金を出すんだよ」
ロローリャは手綱、という言葉だけが耳に残った。馬の手綱なら分かる。引きすぎると暴れ、ゆるめすぎると勝手に行く。
「いいかい、ロローリャ」
ジウはロローリャの前の椅子にドカリと腰を下ろし、膝の教科書を指先で叩いた。
「あんたが勉強してるそれも大事だよ。でも、この世で男を動かす『魔法の言葉』は、本には載ってない。おだてて、あしらって、欲しいものを出させる。これができなきゃ、英語が話せたって都合よく使われるだけなんだよ」
「魔法の言葉って?」
「そんなの簡単よ」
リエンが甘ったるい声を響かせた。
「『お兄さん、すごーい』『こんなの、初めて』。この二つで、あいつらは自分が王様にでもなった気になる。こっちが少し負けてやるだけで、無理な頼みも甲斐性みたいな顔で飲み込むんだから」
「それから、自分を安く見せないことだね」
ジウが大きく頷き、自分のたるんだ胸元を指さした。キルトの隙間から、ひどく派手な紫色のレースの端が覗いた。
「たとえば下着は大事だよ。飯の次くらいに大事だ。一枚二万ドンの安物でも、やりようで女の値段は変えられる。見せるところと隠すところを決めるんだ。雑に扱われないように、こっちから高い値札をつけるんだよ」
女たちの会話は、次第に剥き出しの手管へと流れていった。それは下品で、卑俗で、教科書に載らない、路地裏で磨かれた知恵だった。
「……ロローリャ、真面目な顔して聞いてるんじゃないよ。あんたにはまだ早いさ」
タオが煙草を消し、ふっと表情を和らげて言った。その目には、少しの哀れみと、自嘲の光が混ざっていた。
「さあ、そろそろ時間だ。稼ぎに行くとしますかね。ミーをよろしく頼んだよ、ロローリャ」
女たちは香水の匂いを濃く残し、薄暗い廊下を下っていった。バイクのエンジン音が響き、遠ざかっていく。
静まり返った廊下で、ロローリャはぽつんと取り残された。
男を見るときは、顔より先に手を見る。靴を見る。声の大きさに釣られず、水を飲む一拍を作る。
「……難しいね、ミー」
ロローリャは小さく呟いた。
「字も覚えなきゃいけないし、男の靴も見なきゃいけないし、粥も焦がしちゃいけない。忙しすぎるよ」
部屋へ戻ると、ミーはすこやかに眠っていた。額の熱は、さっきまでが嘘のように落ち着いている。ロローリャは深く息を吐き、布団の端を直した。今夜覚えたことが何の役に立つのかは、まだ分からない。ただ、この女たちがそうやって夜を越えていることだけは分かった。
◇ ◇ ◇
翌朝、ロローリャは早くから起きて粥を作った。リエンがくれた米と、タオが市場の端で安く分けてもらった南瓜があった。皮を削り、黄色い身を小さく切って鍋に入れると、煮えるにつれて部屋にほんのり甘い匂いが広がった。
ミーは床に座り、膝に古い布人形を乗せて鍋を見ていた。熱はすっかり下がり、目にはいつもの光が戻っている。
「まだ。まだだよ。今食べたら舌が焼ける。ミーは、猫より気が早いね」
米が崩れ、南瓜がとけて、粥は薄い黄色になった。干し魚を少しだけほぐして入れ、椀に移して冷ます。ロローリャが匙を近づけると、ミーはぱくりと食べた。熱さを確かめるように舌を動かし、それから目を丸くする。すぐに、次の匙を待つ顔になった。
「おいしい?」
ミーは答えの代わりに、身体を少し前へ出した。
「おいしいんだね。よし。南瓜が勝った。熱にも勝った」
二口、三口と食べるうちに、ミーの頬が粥で汚れた。ミーは突然、短く笑い、自分の小さな手を椀のほうへ伸ばして粥を触ろうとした。
「ああ、駄目。手が汚れるよ。お猿じゃないんだから。ほら、こっち。スプーン使って」
ロローリャは匙をミーの手に持たせた。うまくすくえず、粥は椀の縁からこぼれた。ロローリャはこぼれた粥を指で集め、自分の口へ入れた。
「うん、美味しい。私、料理屋になれるかもしれないね。片腕の粥屋。お客さんはミーだけ」
ミーはロローリャの口元を見て、もう一度笑った。それから自分の匙をロローリャのほうへ差し出した。粥はほとんど乗っていなかったが、食べろと言っているように見えた。
「私にくれるの?」
ロローリャはその先に唇を近づけ、ほんの少しだけ残った粥を食べた。
「ありがと。でも、自分の分は自分で食べるんだよ。大きくならなきゃいけないんだからね。大きくなったら、何になるんだろうね。魚売り? 粥屋? 宝くじ売りはやめたほうがいいかな。ミーは両脚あるんだから、もっと遠くへ行ける仕事がいいかね」
ロローリャは自分の言葉に少しだけ驚いた。ミーが自分の足で、好きなところへ行く姿を思い浮かべていた。
ミーは最後には椀の底をのぞき込んで、まだ残っていないか確かめるような顔をした。食べたものが小さな身体の中に収まっている。そのことが、なぜか胸に温かく残った。
「よし。ごちそうさまでした。ミーがたくさん食べたから、きっと今日は良い日だね」
ロローリャはミーの頬についた粥を親指で拭った。熱の引いた額に、朝の光が淡く乗っていた。