ミーと暮らす日々は、ロローリャが思っていたよりもずっと長く続いた。母親が帰ってくるまでの、ほんの仮のあいだだけの話だったはずなのに、気づけば月日はするすると積み重なり、一年が過ぎ、二年近くになっていた。そのあいだにも女たちは、顔を合わせるたびに古着を回してきて、
「この服、うちの子にはもう小さいからあげるよ。ミーに使って」
と言い、ロローリャが疲れた顔をしていれば、
「元気出しなよ。あんたもなんだか、母親みたいな顔になってきたね」
と、笑い交じりにからかってきた。
「やめてよ。そんなに早く老け込む気はないんだから」
ロローリャがすかさずそう言い返すと、廊下に笑い声が広がった。自分はまだ十三か十四でしかないのに、そんなふうに言われる筋合いはないと腹の底では思っていたし、実際、鏡を覗き込んでも、顔立ちそのものが急に変わったようには見えなかった。
けれど、夜になってミーを布団の中でようやく眠らせ、自分もその隣に横たわるころになると、ときどき胸の奥に妙なざわつきが残った。小さな寝息を聞きながら目を閉じていると、記憶の底から、幼いころの姉の影がふいに浮かび上がってくる。笑いながら髪を撫でる手の感触や、布越しにどこかへ触れていたぬくもりが、夜の闇の中でひどく近くに感じられて、そのたびにロローリャは、身体の奥に集まってくる熱をやり過ごすように浅く息を吐いた。
布団の内側で、かすかに膨らみが揺れる。外では、売春婦たちの笑い声が、ちょうどその間を埋めるように遠くで弾けていた。やがて動きは収まり、あとには理由のない心細さだけが残った。
翌朝、ミーを起こすより先に、ロローリャは自分の指先をしばらく黙って見つめ、それから何もなかったように顔を洗いに行った。
◇ ◇ ◇
ミーは成長するにつれて、ますますロローリャに懐くようになった。どこへ行くにもその後を追い、眠くなれば服の端を掴んで離れず、不安になると何も言わないまま両手を伸ばして抱きついてきた。その様子は、ロローリャのそばにいれば大丈夫だと、心から信じきっているように見えた。
ロローリャのほうも、いつのまにかその小さな仕草のひとつひとつから、この子が今なにを欲し、なにを嫌がっているのかを読み取れるようになっていたが、三歳になってもひとつも言葉を発さず、呼んでも振り向かないままでいることだけは、どうしても胸のどこかに引っかかった。後ろで手を叩いても気づかず、自分の遊びや目の前のものに意識を向けたまま動かないことが何度も重なるうちに、その引っかかりはもう見て見ぬふりのできないものに変わっていき、そうしてある夜、ロローリャはジウにそのことを打ち明けた。
「この子、呼んでも振り向かないし、音にも反応しないんだけど」
ジウは眉をひそめると、自分でも確かめるようにミーの後ろへ回り、手を叩き、大きな声で名前を呼んでみたが、やはり振り向かなかった。しばらく黙って様子を見ていたつめていたが、やがて重苦しげに口を開いた。
「……耳じゃないかね。医者に連れて行こうか」
翌日、ジウとタオに付き添われて、ロローリャはミーを診療所へ連れて行った。診察を終えて分かったのは、ミーの耳の奥には生まれつきの問題があり、今の医療では治すのは難しいことと、人口内耳という手がないわけではないが、それもまた自分たちの手には届かない値段だということだった。
帰り道、タオとジウは先を歩き、ロローリャは自分の服の裾を掴んでついてくるミーの歩幅に合わせながら、その後ろを歩いた。ジウが足を緩めて、ロローリャの横に並んだ。
「かわいそうにねえ」
ジウがミーを見ながら言った。
「この子、言葉を覚えられないのかね」
「耳が治らないと無理みたい」
ロローリャは短く答えた。ミーは二人の会話を知らないまま、石畳の上の何かを見つけてしゃがみ込んでいた。
「しょうがないよ。生まれつきの病気なんだから」
タオが煙草に火をつけながら続けた。
「でもまあ、聞こえなくても生きていけるさ。あんたみたいにね」
ロローリャはミーを見た。この子は、自分が聞こえないことを知らない。知らないまま、今日も笑っている。
「もしこの子の病気が治ったら……」
ロローリャはぽつりと言った。
「私のこと好きか聞いてみたい。好きって言ってもらえたら、いいな」
タオはしばらく黙って煙草をふかしていた。それから前を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。
「決まってるさ、そんなの」
ロローリャは何も言わなかった。ミーが立ち上がり、またロローリャの服の裾を握った。
◇ ◇ ◇
やがて、ミーは四歳になった。ある夜、眠たそうに目をこすりながらロローリャの膝にもたれてきたミーの髪を撫でながら、ロローリャはぽつりとタオに言った。
「来年には、学校に行かせないといけないのかな」
少し間を置いてから、ロローリャはもう一度、今度は自分に言い聞かせるように続けた。
「字も覚えさせたいし、人の言うことが聞こえなくても困らないようにしてあげたい。この子が大きくなって、どこへ行っても一人で立てるようにならないと」
タオは煙草の火を指先でもみ消しながら、その横顔をしばらく黙って見ていた。親はなく、戸籍もなく、学校へ行ったこともない、片腕片脚でようやく今日をしのいでいる子どもが、自分の明日のことではなく、膝の上の幼い子どもの何年も先を案じている。そのことが、タオにはおかしくもあり、痛々しくもあり、胸の奥を妙に重たくした。ロローリャは、ときどき誰より先に母親みたいなことを言うのだった
「市内に、耳の聞こえない子のための学校があるって話は聞いたことがあるさ。でも、金も書類もいる。そこまでのことは、フオンが帰ってきてからの話さね」
ロローリャは黙った。ミーはもう半分眠っていて、何も知らないままその膝に重みを預けている。ロローリャはその身体を落とさないように片腕で抱え直しながら、灯りを消したあとの薄暗い部屋の中で、しばらく何も言わなかった。アパートの誰も、フオンがもう帰ってこないとは、口にしなかった。
◇ ◇ ◇
その年の暮れ──
夕方、共用廊下の向こうで誰かが階段を上がってくる気配がして、最初に顔を上げたのはタオだった。次の瞬間、煙草を持つ手がぴたりと止まり、何も言わないまま立ち上がる。その視線を追ってロローリャが廊下の先を見ると、そこにいたのはフオンだった。
最初の一瞬、誰だか分からなかった。頬は削げ、髪は荒れ、服には長旅と汗の古い匂いが染みついていた。肩は小さく震え、何を見てもすぐに身を固くしてしまう癖が、全身にこびりついているようだった。けれど、その顔がこちらを向いたとき、ロローリャはようやくそれがフオンだと分かった。
ミーは、しばらく何が起きているのか分からないようにその場に立ち尽くしていたが、次の瞬間には何かを思い出したように小さく息を呑み、それからほとんど走るようにしてフオンの胸へ飛び込んだ。フオンはその身体を受け止めると、壊れものに触れるような手つきで抱きしめ、それから堪えきれなくなったように顔を伏せた。泣いているのかどうかも分からないほど、肩だけが小さく揺れていた。
ひとまず今夜はここにいな、とタオが言い、リエンも無言で水の入ったコップを差し出した。フオンはそれを受け取る手を震わせながら、ミーを膝に乗せたまま何度も抱き直していた。抱いているというより、確かめるみたいに腕の中へ囲い込んでいた。
やがて、フオンはぽつりぽつりと語りはじめた。「出稼ぎ」と言われて連れていかれたものの、着いてみれば約束された仕事などどこにもなく、知らない土地の部屋に閉じ込められたこと、逃げようとすれば殴られ、逆らえば薬を打たれ、男たちの相手をさせられるまま日々を過ごしたことを、喉の奥に沈んだような声で話した。戻ってこられたのは、人身売買の現場が摘発され、その流れで保護されたからだという。
「ミーのことだけは忘れなかった。帰らなきゃって、それだけ思ってた」
そう言ってフオンは、膝の上のミーを抱く腕に力を込めた。その腕だけは、痩せていても、震えていても、母親のものだった。
フオンはそのまま数日だけタオの部屋に身を寄せ、それからミーを連れて別の安い貸し部屋へ移ることになった。新しいところでやり直すのだと、自分に言い聞かせるように何度も繰り返しながら、少ない荷物を抱えて出ていく姿を、ロローリャは黙って見送った。これでいいのだと、自分に言い聞かせた。最初からあの子は自分のものではなかったし、帰るべきところへ帰るだけなのだと、胸の奥で何度も繰り返した。
ミーのいなくなった夜は、拍子抜けするほど静かだった。ロローリャは布団の中で目を閉じたまま、その静けさにしばらく馴染めなかった。隣にあるはずだったぬくもりも、かすかな寝息も、もう何もない。ただ眠れる夜になっただけのはずなのに、じっとしているほど、その空っぽが胸の奥へ広がっていく。物がひとつなくなったというのとは違う、もっと柔らかくて、もっと深いところを持っていかれたような喪失だけが、暗闇の中でいつまでも残っていた。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、ロローリャはジウとタオに連れられてフオンの様子を見に行った。フオンが借りた新しい部屋は、港へ向かう広い通りから一本入った細い路地の奥にあった。昼でも湿っぽい薄暗がりが壁に貼りつき、排水溝からは古い水の匂いが上がっている。入口にはプラスチックの桶や欠けた洗面器が積まれ、どこかの部屋で何かを揚げているらしく、魚醤の匂いが熱気に混じって漂っていた。
扉を叩くと、中からフオンが出てきた。部屋は狭く、窓際に小さな寝台がひとつと、壁際に鍋や洗面器が寄せられているだけで、どうにも落ち着かない。ミーは部屋の隅にいたが、ロローリャの姿を見るなり駆け寄ってきて、服の端にすがりつき、身体を押しつけてきた。ロローリャがしゃがみ込むと、ミーは両腕を伸ばして抱きついてくる。その感触を受け止めながら、ロローリャは胸の奥がかすかに痛むのを黙ってやり過ごした。
フオンはその様子を見ていたが、どこか虚ろで、まぶたは腫れ、唇は乾き、肩は小刻みに震えている。タオが部屋へ上がって持ってきた包みを台の上に置くと、フオンは座るとも立つともつかない姿勢のまま、途切れ途切れの声で言った。
「ミーが……このままだと、施設にやられる」
その言葉が意味を結ぶまでに、少し時間がかかった。親権を剥奪する話が出ていること、自分には育てる能力がないと当局に判断されかけていること、ここしばらくの薬の状態や生活の不安定さまで全部見られたうえで、このままでは子どもを保護施設へ移すと言われたことを、フオンは嗚咽をこらえながら何とか説明した。
ジウとタオは顔を見合わせた。先に口を開いたのはジウだった。
「せっかく戻ってきたのにねえ」
その言葉に責める色はなかった。ただ、どうにもならないことのやりきれなさだけが滲んでいた。タオは少し間を置いてから、煙草を持つ手を下ろし、続けて言った。
「一生会えないわけじゃない。今はしっかりしな。立て直していけば、また一緒に暮らせるようになるかもしれない。ミーにとっても、悪いことばかりじゃないだろうさ」
フオンは何も言わなかった。慰めの言葉が耳に入っているのかどうかも分からないまま、ただ膝の上で指を握りしめていた。その手の甲には、まだ治りきっていない細い傷が何本も走っていた。
ロローリャもまた、何も言えなかった。大丈夫だとは言えなかったし、しっかりしてとも言えなかった。自分だってそれほどしっかりできているわけではないし、世の中がそんな言葉でどうにかなるものでもないことを、もう知っていた。ミーは事情など知らず、ロローリャの服を掴んだまま、甘えるように身体を寄せている。その小さな重みが、かえって部屋の空気を苦しくした。
やがて腰を上げるときになっても、フオンはうつむいたままだった。ジウが最後に、何か言いかけてやめるように口を閉じ、タオが先に戸口へ向かう。ロローリャがミーの指をそっと服の端から外すと、小さな手はなお名残惜しそうに宙を探った。扉口まで見送りに出たフオンの背中は、以前よりさらに小さく見え、その小ささだけが妙に胸に残った。
その二日後の昼、ロローリャは宝くじの束を持ってアパートの階段を下りかけたところで、路地の入口から聞こえてきた声に足を止めた。見下ろすと、フオンが壁際で男に詰め寄っていた。荷を積んだバイクが唸り声を上げて通り過ぎ、路肩には小分けのガソリン容器が並び、近くの屋台では、鍋の湯気の向こうで女がもやしをざるにあけている。そんなハイフォンの何でもない昼の雑音の中で、フオンの声だけが細く張りつめて聞こえた。
「約束が違った……あんな話じゃなかった。子どものことだって、戻ったら何とかなるって……」
相手の男は、以前ロローリャが遠くから一度だけ見たことのある男だった。白いシャツの襟はきれいに立ち、靴にもまだ磨いた艶があり、この町の汗と魚と泥にまみれた人間たちの中では、妙に手入れが行き届いて見えた。怒鳴り声を浴びても、男はまばたきひとつ増やさず、ただフオンの言葉が尽きるのを静かに待っていた。
「今さら何を言ってる。向こうでどうなったかなんて、俺の知ったことじゃないだろ」
男は声を荒げもせずにそう言い、面倒を払いのけるように手を振った。
「約束が違うって言うなら、証拠でも持ってきな。そもそも、自分で行くと決めたのはお前だ」
フオンの肩がびくりと震えた。言い返そうとして、うまく声にならない。男はその様子を見ても少しも顔色を変えず、目を細めるだけだった。
「子どもの件は当局の判断だろうが! 俺に言ってどうにかなる話じゃない。だからぎゃあぎゃあ騒ぐな。迷惑なんだよ」
男は吐き捨てるように言い終えると、フオンの言葉を払うように片手を振り、通りを渡るトラックの切れ目を待って踵を返した。袖口についた埃を指先で軽く払うその仕草には、もう彼女へ向けるものなど何も残っておらず、フオンは追うことも呼び止めることもできないまま、ただその場に立ち尽くしていた
ロローリャは階段の途中に立ったまま、息を殺してその一部始終を見ていたが、とうとう出ていくことはできなかった。あの男の横顔だけが、昼の白い埃の中で妙にくっきりと目に焼きついた。
その夜。ロローリャはリエンの子を寝かしつけたあと、少しだけ外へ出ていた。夜のハイフォンは、昼とは匂いが違う。潮の湿り気が濃くなり、遠くの港の灯りが川面で揺れ、昼間にはむせ返るほどいた屋台客もいなくなって、代わりに路地の角には行き場のない男たちが数人ずつ群れていた。濡れたアスファルトの上では、どこかの店が流している古い歌の断片が風で途切れ、閉まった食堂の前には痩せた犬が丸まっていた。
空の端がふいに赤く染まったのを見たとき、ロローリャは最初、港の照明か何かだと思った。だが次の瞬間には、鼻の奥へ煙の焦げた匂いが刺さり、人々の叫び声が路地を走ってきた。
「火事だ!」
「早く逃げろ!」
「あっちだ、アパートの方だ!」
ロローリャは杖をつき、できる限りの速さで走った。石畳に杖の先が叩きつけられるたび、腕から肩まで痺れるように痛んだが、そんなことはどうでもよかった。路地をひとつ曲がると、炎が見えた。赤く焼けた光が建物の窓という窓から吹き出し、壁を舐め、隣の屋根へ移ろうとしていた。人の声がいくつも重なって、何を言っているのか最初は分からなかったが、聞き取れてしまった言葉だけが、逆に胸へ深く刺さった。
「聞いたか? 母親が油をかぶって……」
「小さい子どもがいたはず……」
「借金で追い詰められてたって……あれは自分で火を放ったんだ」
ロローリャの足が一瞬止まった。フオンの部屋だ、と分かったからだった。次の瞬間には身体が勝手に前へ出ていた。人の群れをかき分け、燃え上がる建物のほうへ向かおうとしたそのとき、背後から太い腕が肩を掴んだ。
「無理だ! 死ぬぞ!」
タオだった。さらに後ろからジウも駆けつけ、二人がかりでロローリャの身体を押さえた。
「助けなきゃ!」
ロローリャは暴れた。杖が地面へ落ち、炎の色に照らされた石畳の上で乾いた音を立てた。それでも二人の腕はびくともしなかった。
「やめろ! もう駄目だ!」
屋根が崩れ、火の粉が雨みたいに散った。炎は一度、大きく息を吸い込むみたいに膨れ上がってから、夜空へ向かって細い火柱を突き上げた。その奥で、子どものものとも、大人のものともつかない叫びが短く上がり、すぐに煙の向こうへ呑まれて消えた。ミーではない、きっとミーはもう施設にいるはずだと、ロローリャは自分に言い聞かせたが、その言葉の上から、耳に届くあらゆる声がミーのものに変わっていった。
ロローリャはタオとジウの腕の中で、ただ炎を見ていた。見ているしかなかった。
やがて消防車が到着し、ホースから放たれた水が赤い壁を打ち、炎は少しずつ低くなっていった。けれど煙は消えず、焦げた臭いは夜明けまで路地の上に重たく漂い続けた。焼け跡からはフオンの遺体が発見された。彼女の自殺によって火は隣家へ燃え移り、何棟もの家を巻き込み、数十人の死者と不明者を出す惨事になった。ミーの遺体はついに見つからなかったが、当局は死亡と判定した。
判定、という言葉を、ロローリャは頭の中で何度も繰り返した。ミーは声が出なかった。耳も聞こえなかった。あの炎の中で、何も言えず、何も聞こえないまま。焼け跡の前に立っていると、朝の光はもう町の上に戻ってきていたのに、ロローリャの目には、夜の赤い火だけがいつまでも残っていた。