それから数日、ロローリャはアパートの隅に座り込んでいた。壁紙の剥がれたところには、下地の灰色が爪の形に出ていた。
リエンは灰を吸った服を脱がせ、煤のついた髪を拭い、代わりの服を着せた。タオは蟹の出汁を薄くのばした粥を冷まし、茶と一緒に何度も口もとへ運んだ。だがロローリャはほとんど飲まず食わずで、夜が来ても横にならず、朝が来ても杖を取らない。リエンとタオは困り果てて顔を見合わせたが、ジウだけは何も言わず、そばに腰を下ろして団扇を動かしていた。
四日目の昼過ぎ、リエンが部屋へ入ってきた。赤い爪の先で窓の外を指し、わざと軽い調子で言う。
「あんた、その壁と結婚するつもりかい。ちょっとは外に出な。少し歩いて、風に当たってくるんだよ。壁は飯も金もくれやしないよ」
ロローリャは壁紙の剥がれ目を見ていたが、しばらくして杖へ手を伸ばした。
ハイフォンの街は、何事もなかったように動いていた。焼けたアパートへ続く通りには、まだ焦げた匂いが残っている。それでも屋台は湯気を上げ、バイクは水たまりを撥ね、男たちは店先のプラスチック椅子に腰かけてコーヒーをすすっていた。
ミーが座っていた赤い椅子も、フオンが戻ってきた夕暮れの薄い光も、街のどこにも残っていない。あるのは、値段を叫ぶ声と、排気の匂いと、湿った紙幣を指で数える音ばかりだった。
カウダット通りの近くまで来たとき、ロローリャの足が止まった。
向かいの食堂の軒先に、あの男がいた。フオンに食ってかかられていた男だった。
薄い水色の半袖シャツにはきちんとアイロンがかかり、髪は油で撫でつけられている。安物の靴も磨かれ、丸い腹の前に黒い革の鞄を抱えており、人のよさそうな笑みを浮かべれば、役所の窓口にいてもおかしくない顔つきだった。
男は店先で煙草を買い、釣り銭の札を一枚だけ折り直して財布へ入れると、市場の裏へ続く細い通りへ歩き出した。
ロローリャは人混みの端に身を入れた。杖の音がバイクの騒音に紛れる。
男は両替屋と安宿の看板が並ぶ横道へ入り、路地奥の小さな事務所へ消えた。錆びた鉄扉の横に、労働者派遣と書かれた看板が斜めに掛かっている。
ロローリャは向かいの壊れた屋台の陰に身を寄せ、窓の下まで近づいた。割れた換気口から、男の声が漏れてくる。
「三か月だ。向こうは景気がいいから、酒を作って歌を合わせるだけで、こっちの一年分くらい楽に稼げるぞ。住むところも食事も向こうが見るから少し手数料は引かれるが、それを差し引いても大きく稼げるぜ」
「でも、私には子どもがいて……」
「だから稼ぎに行くんだろ。短い間だし、子どもは親戚にでも預ければいい。先に行った女たちも、みんなそうしてる。戻ってきたら借金も消えて、子どもをいい学校へだってやれるだろ」
女は答えあぐねていると、男は咳払いをし少し声を低くした。
「みんな元気に働いているから、そんな不安に思うことはないぞ。受けるならここに名前を。親戚の紹介という形にしておく。なに、向こうの老板は優しい人だし、きちんと働けばすぐに生活は楽になる」
ロローリャは窓の下で息を詰めた。
胸の内側で、何かがゆっくり熱を持ち、男の声が途切れるたび、爪先に力が入った。窓枠の高さ。鉄扉の軋み。裏へ抜ける細い通路。街灯の届き方。向かいの屋台跡。隣の安宿の出入口。まばたきのたびに、それらが目に入った。
アパートへ戻ったころには廊下の裸電球が灯り、リエンは窓際で煙草を吸い、タオは洗濯物を畳んでいた。
「少しは風に当たれたかい」
ロローリャは小さく頷いただけで、すぐ自分の隅へ戻った。
夜が深くなるにつれて、昼間聞いた男の声が耳の奥で繰り返された。
三か月。住むところ。食事。親切な老板。
フオンを連れていった言葉が、また別の女へ向けられていた。
どうして奪われたのだろう。頭が悪かったからか。弱かったからか。火事では大勢が死に、町の者たちはフオンの名を憎しみの中で吐いた。あの女が火をつけた、あの女は子どもを道連れにした、あの女のせいで家が焼けた。
誰も、フオンがそこへ落ちていくまでに何を渡され、何を奪われたのかを考えようとしなかった。
あの若い母親、もう紙に名前を書いたのだろうか。明日には、愚かな女がひとり消えた、と誰かが言うのだろうか。そして、警察はまた見て見ぬふりをするだろうか。
港は荷を積み、屋台は湯を沸かし、バイクは路地を流れていく。きっと何も止まらないし、何も返ってこない。
もっと強かったら。
そのとき、ロローリャはあの裏路地の男を思い出した。五十万ドン札を置き、銃口の前へ進み、剣を抜いた男。
『自分で立て。でなければ死ぬ』
あのときは腹が立った。今も腹が立った。では、自分で立てない者はどうなるのか。ミーみたいな子どもは。薬で壊されたフオンは。金も身寄りもなく、うまい話に縋るしかない女たちは。みんな、死ななければならないのか。
ロローリャは壁に立てかけてあったノコギリを布袋へ入れ、スカートの内側へ縫い込んでいた細い鉄片を一本ずつ確かめた。釘を削って尖らせたそれは、古びた布の間に三本収めてある。
廊下へ出ると、ジウが裸電球の下に座っていた。片手に団扇を持ち、もう片方の手で膝を揉んでいる。ロローリャの布袋を見て、目だけを細めた。
「どこへ行くんだい」
「また少し、歩いてくる。外の空気を吸ったほうがいいからね」
「もう外も暗いのに?」
ジウはしばらくロローリャを見ていたが、やがて団扇を止め、深く息を吐いた。
「あんまり危ない道をほっつき歩くんじゃないよ」
そう言って、ジウは胸元の小さな財布を探った。折れた二万ドン札を一枚抜き、ロローリャへ差し出す。
「腹が減ったら、帰りに何か食べてきな。空っぽの腹で歩くと、余計なことばっかり考えるからね」
「うん。ありがとう」
ロローリャは金を受け取ると、階段を降りた。
◇
夜の路地は、昼間よりずっと細く見えた。
表通りの明かりは角を曲がったところで途切れ、閉まったシャッターと黒い窓ばかりが並んでいる。事務所の窓には、まだ黄色い光が残っていた。カーテンの隙間から、帳簿の上に落ちる影が見える。あの男は椅子に腰かけ、革の鞄から札束を出して数えていた。
ロローリャは扉の脇に膝を落とした。杖を壁へ預け、布袋からノコギリを抜く。木の柄を右手の届くところへ向けて床へ寝かせ、スカートの内側から鉄片を三本抜き、口に含んだ。尖った先を左の口端へ寄せると、舌の上に鉄の味が広がった。
右手で扉を押した。
蝶番が鳴る。
男の顔が上がるより早く、ロローリャは口端の一本を抜いた。手首が跳ねる。鉄片は暗い部屋を斜めに裂き、天井の照明へ突き当たった。硝子が砕け、黄色い光が散って消えた。
「なんだ!」
椅子が倒れた。机に腰がぶつかる。男の足音が、闇の中でばらける。
ロローリャは二本目を打った。
「ぐあっ!」
鉄片が脚に突き刺さり、男の体が横へ崩れた。踏みこたえようとしたもう片方の脚へ、続けて三本目が飛ぶ。男の膝が折れ、鈍い音がして、床板が大きく軋んだ。
ロローリャは足もとのノコギリへ手を落とした。木の柄を掴む。男は倒れた椅子を押しのけ、床を這って逃げようとした。
ロローリャは低く身を滑らせ、片脚で身体を支えながら、まず鉄片の刺さった脚へノコギリの背を叩き込んだ。
悲鳴が跳ねた。
その声にかぶせるように、ノコギリを振り下ろす。肩。首の後ろ。耳の横。男が腕を振り回すたびに、肘の通り道から身体を外し、返す手でまた頭を打った。鉄の背が骨に当たり、男の身体が床の上で大きく揺れる。立とうとする膝、這おうとする手を、ロローリャは何度も叩きつけた。
男の罵声はすぐに呻きへ変わり、荒い息が闇の中でひゅうひゅうと鳴っている。
「フオンのこと、覚えてる? 子どものことで騒ぐなって言った。あんたはそう言った。袖の埃を払って、あの人を置いていった」
男は腫れた顔を歪め、闇の中で何度か瞬きをした。ようやくその名前に思い当たったらしく、喉の奥で短く息を呑んだ。
「ま、待て。違う、俺はただ仕事を紹介しただけだ。あの女が勝手に」
ロローリャはノコギリを振り下ろした。男の腕のすぐ横で床板が割れ、錆びた鉄が木へ食い込む。
「私みたいな腕にしてあげようか」
男の喉から、空気だけの悲鳴が漏れた。
「片腕で生きるのも、慣れればけっこう何とかなるよ。ご飯も食べられるし、金も数えられる。女を売る紙にも、たぶんサインできる。でも、慣れるまで痛いと思う」
「やめろ、やめてくれ!」
ロローリャは静かにノコギリを挽いた。鉄の歯が、皮膚を噛み、肉を引き裂く。男の身体が跳ね、悲鳴が事務所の壁にぶつかる。
「いてぇ! 待って、待ってくれ! 俺じゃない、俺が決めたんじゃない!」
ノコギリの歯が、もう一度沈む。
「俺は下っ端だ! 本当だ! 女を集めて、契約書を書かせて、車に乗せるだけだ! フオンのことも上から言われただけなんだ!」
男は逃げようとして足を動かした。刺さった鉄片が床を擦り、悲鳴がまた跳ねる。
「薬だ! 薬を流してる連中がいるんだよ! 最初は少しだけ渡して、払えなくなったら借金にする。女は仕事の口で外へ出す。本人が行くって言えば、それで通るんだ!」
「うるさい!」
ロローリャがさらに力をこめると、男の声が裏返った。
「赤鳳会だ! 赤鳳会が仕切ってる! 俺は末端だ、顔役の名前だってろくに知らない! 薬も、女も、みんな同じ連中の商売なんだよ!」
男は泣きながら床に額をこすりつけた。
「あいつらは、ハイアン運送の第三倉庫を使ってる。翼を広げた鳳凰のロゴがある。そこに薬を集めて、港の連中へ卸してるんだよ。俺は鍵番に連絡するだけなんだ。頼む、腕はやめてくれ」
ロローリャはノコギリを持ち上げた。
「助けてくれ! 金なら払う。全部やる。だから、もう勘弁してくれ!」
男は顔を上げた。汗と涙で濡れた頬が、窓の隙間から入る細い光を受けていた。薬を売り、金を数え、女の肩を押してきた男の顔が浮かび上がった。
ノコギリの背が男の肩へ落ち、鈍い音がした。悲鳴が上がる前に、二度目が脇腹へ入った。男は腕を抱えて転がり、机の脚に頭をぶつけた。帳簿が崩れ、赤い印の押された紙が散った。
「頼む……頼むから……もう許してくれ……」
男は這い逃げようとした。ロローリャはその背へ、腕へ、太腿へ、ノコギリの背を振り下ろした。男の声は一打ごとに潰れていく。
フオンが膝をついていた姿が浮かんだ。ミーの小さな手が浮かんだ。焼けた柱、濡れた灰、誰かの口から出た処理という言葉。
「連れていったのは、あんたでしょ」
振り下ろす。
「紙を書かせたのも」
振り下ろす。
「帰れるって言ったのも」
しばらくしてロローリャの息が戻ったころ、男は丸い腹を床に押しつけたまま、白く裏返った目を天井へ向けていた。庇う腕がだらりと落ち、唾と血の混じった泡が床へ垂れた。
ふと散らばった帳簿を見下ろすと、そこには女たちの名前らしきもの、数字、地名、荷の番号、赤い印が並んでいた。人も薬も、同じ紙の上に載っていた。
「すべて燃えてしまえばいい」
そう言うと、ロローリャは杖を拾い、闇の中に男を残して事務所を出た。
路地の外では、遠い大通りをバイクが流れていた。まだ開いている屋台の明かりが、角の先でぼんやり滲んでいる。ロローリャは布袋へノコギリを押し込み、表通りへ戻った。道端で売られていたペットボトル入りのガソリンを一本買うと、港へ向かった。
表通りの明かりが遠のくにつれ、空気に油と川の匂いが混じりはじめる。
錆びたフェンスの向こうの壁に、翼を広げた鳳凰のロゴが赤く描かれていた。第三倉庫。隣には木材が積まれ、裏手には油の匂いが染みたドラム缶が並んでいる。
入口の前には椅子が二つ置かれていたが、荷の積み替えに出ているのか、誰も見当たらない。
ロローリャは息を止めた。
フオンの声が戻る。ミーの手首に結んだ布袋の紐の感触が戻る。薬も、女も、金も、ここではみんな同じ穴へ流れていく。地を這うようにして生き、ようやく手にした家族がその穴に呑まれた。
そう思った瞬間、ロローリャの目から涙がこぼれた。
やがて、夜の底で小さな火が生まれた。
最初は、誰かが捨てた煙草の火ほどの赤だった。それが木材の隙間に這い、古い紙を舐め、油の匂いを含んだ床へ広がると、倉庫の闇が内側から膨らみはじめた。男の怒鳴り声が上がり、犬が吠え、運河の向こうで誰かが叫んだ。
「火事だ!」
ロローリャは一度だけ運河の水面を見た。炎は川に映り、ゆらゆらと揺れながら、赤い帯になって流れている。
燃えているものが何であれ、そこにミーはいない。フオンもいない。けれど、ロローリャの中で何かが確かに焼け、黒く崩れ、別の形へ変わっていく。
遠くでサイレンが鳴りはじめた。
ロローリャはノコギリを運河に投げ捨てると、杖をつき、港の光から離れるように歩いた。夜の石畳に、こつ、こつ、と杖の音が響く。肩には煤が落ち、髪には焦げた匂いが絡み、喉の奥には煙の苦さが残っていた。
ハイフォンの空は、また赤く染まった。