欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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6.浄炎

 それから数日、ロローリャはアパートの隅に座り込んだまま、壁の剥がれた一か所を見つめて過ごした。灰を吸った服はリエンが着替えさせ、髪にこびりついた煤はタオが濡れ布で拭ったが、ロローリャの目はどこか遠くへ置き去りにされたまま、差し出された粥にも、冷めた茶にも、ほとんど触れずにいた。夜が来ても横にならず、朝が来ても杖を取らず、宝くじの束はリエンの部屋の棚に置かれたまま、輪ゴムに締められて湿気を吸っていた。

 

「ロローリャ、少しでいいから食べな」

 

 タオはそう言って、蟹の出汁を薄くのばした粥を椀に入れて持ってきた。匙を口もとへ運ぼうとすると、ロローリャは唇を閉じたまま、壁の染みを見続けた。リエンは苛立ったように煙草を揉み消し、何か言いかけてから、結局そのまま廊下へ出ていった。ジウだけは黙ってそばに腰を下ろし、団扇でゆっくりと湿った空気を送っていた。

 

 四日目の昼過ぎ、リエンが部屋へ入ってくると、赤い爪の先で窓の外を指し、わざと軽い調子で言った。

 

「あんた、その壁と結婚するつもりかい? ちょっとは外に出な。少し歩いて、風に当たってくるんだ。ここに座ってたって、気が晴れるわけじゃないだろ」

 

 ロローリャは壁を見たまま、しばらく動かなかったが、やがて枕元に置いた杖へ手を伸ばした。リエンは何も言わず、部屋の入口から身体をどけた。

 

 ハイフォンの街は、何事もなかったように動いていた。焼けたアパートのほうへ続く通りでは、まだ焦げた匂いが風に混じっていたが、屋台は湯気を上げ、バイクは水たまりを撥ね、男たちは店先のプラスチック椅子に腰かけてコーヒーをすすっていた。ミーが座っていた椅子の赤い色も、フオンが戻ってきた夕暮れの薄い光も、街のどこにも残っていない。あるのは、値段を叫ぶ声と、排気の匂いと、湿った紙幣を指で数える音ばかりだった。

 

 カウダット通りの近くまで来たとき、ロローリャの足が止まった。

 

 向かいの食堂の軒先に、あの男がいた。フオンに食ってかかられていた男だ。薄い水色の半袖シャツにはきちんとアイロンがかかり、髪は油で撫でつけられている。安物の靴も磨かれ、丸い腹の前には黒い革の鞄を抱えており、人のよさそうな笑みを浮かべれば、役所の窓口にいてもおかしくない顔だった。男は店先で煙草を買うと、あたりを見回し、市場の裏へ続く細い通りへ歩き出した。

 

 ロローリャは人混みの端に身を入れた。杖の音をバイクの騒音に紛れさせながら、男のあとを追う。男は大通りをしばらく歩いたあと、両替屋と安宿の看板が並ぶ横道へ入った。バイクの修理屋、荷運びの詰所、小さな雑貨店が肩を寄せ、壁には求人の紙が何枚も重なって貼られている。

 

 男はその路地奥にある小さな事務所へ入った。錆びた鉄扉の横に、労働者派遣と書かれた看板が斜めに掛かっている。窓には黄ばんだカーテンが引かれ、下には中国語の古い貼り紙の跡が残っていた。

 

 ロローリャは向かいの壊れた屋台の陰に身を寄せ、窓の下までゆっくり近づいた。割れた換気口から、男の声が漏れていた。

 

「三か月だ。向こうは景気がいいから、酒を作って歌を合わせるだけで、こっちの半年分くらい稼げる。住むところも食事も向こうが見る。最初に少し手数料は引くが、そんなものはすぐ返せる」

 

 別の女の声がした。若く、地方の訛りが残っていて、ためらいを隠そうとするほどか細く震えていた。

 

「でも、子どもがいて……」

「だから稼ぎに行くんだろ。短いあいだ親戚に預ければいい。先に行った女たちも、みんなそうしてる。戻ってきたら借金も消えて、子どもをいい学校へだってやれる」

 

 男の薄い油を塗ったような、滑らかな売り文句に、かつてのフオンの震える声が、ロローリャの記憶の奥で重なった。

 

 紙をめくる音がした。男はにこやかに言葉を重ねていく。

 

「みんな元気に働いているから、そんな不安に思うことはないぞ。受けるならここに名前を。親戚の紹介という形にしておく。向こうの老板は優しい人だ。きちんと働けば、すぐに生活は楽になる」

 

 ロローリャは窓の下で息を詰めた。胸の内側で、何かがゆっくり熱を持ち、男の声が途切れるたび、爪先に力が入った。窓枠の高さ、鉄扉の軋み、裏へ抜ける細い通路、街灯の届き方、向かいの屋台跡、隣の安宿の出入口。まばたきのたびに、それらを拾っていった。

 

 アパートへ戻ったころには、廊下の裸電球が点いていた。リエンは窓際で煙草を吸い、タオは洗濯物を畳んでいた。ロローリャが帰ってくると、二人とも顔を上げた。

 

「少しは風に当たれたかい」

 

 リエンが尋ねると、ロローリャは小さく頷いただけで、自分の隅へ戻った。

 

 夜が深くなるにつれて、昼間聞いた男の声が耳の奥で繰り返された。三か月。住むところ。食事。親切な老板。フオンを連れていった言葉が、また別の女へ向けられていた。

 

 どうして奪われたのだろう。頭が悪かったからか。弱かったからか。火事では大勢が死に、町の者たちはフオンの名を憎しみの中で吐いた。あの女が火をつけた、あの女が子どもを道連れにした、あの女のせいで家が焼けた。誰も、フオンがそこへ落ちていくまでに何を渡され、何を奪われたのかを考えようとしなかった。

 

 あの若い母親は紙にもう名前を書いたのだろうか。明日には、愚かな女がひとり消えた、と誰かが言うのだろうか。そして、警察はまた見て見ぬふりをするだろうか。港は荷を積み、屋台は湯を沸かし、バイクは路地を流れていく。きっと何も止まらないし、何も返ってこない。

 

 もっと強かったら。

 

 そのとき、ロローリャはあの裏路地の男を思い出した。五十万ドン札を置き、銃口の前へ進み、剣を抜いた男。

 

 『自分で立て。でなければ死ぬ』

 

 あのときは腹が立った。今も腹が立った。では、自分で立てない者はどうなるのか。ミーみたいな子どもは。薬で壊されたフオンは。金も身寄りもなく、うまい話に縋るしかない女たちは。みんな、死ななければならないのか。

 

 ロローリャは布団のそばへ手を伸ばし、壁に立てかけてあったノコギリを布袋へ入れ、スカートの内側へ縫い込んでいた細い鉄片を一本ずつ確かめた。釘を削って尖らせたそれは、古びた布の間に三本収めてある。

 

 廊下へ出ると、ジウが裸電球の下に座っていた。片手に団扇を持ち、もう片方の手で膝を揉んでいる。ロローリャの布袋を見て、目だけを細めた。

 

「どこへ行くんだい」

 

 ロローリャは立ち止まった。ノコギリの重みが布袋の底で揺れた。

 

「また少し、歩いてくる。外の空気を吸ったほうがいいからね」

「こんな夜中にかい?」

 

 ジウはしばらくロローリャを見ていたが、やがて団扇を止め、深く息を吐いた。

 

「あんまり危ない道をほっつき歩くんじゃないよ」

 

 ジウはそう言って、また団扇を動かしながら、胸元の小さな財布を探り、折れた二万ドン札を一枚抜いてロローリャへ差し出した。

 

「腹が減ったら、帰りに何か食べてきな。空っぽの腹で歩くと、余計なことばっかり考えるからね」

「うん。ありがとう」

 

 ロローリャは金を受け取ると、階段を降りた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 夜の路地は、昼間よりずっと細く見えた。表通りの明かりは角を曲がったところで途切れ、閉まったシャッターと黒い窓ばかりが並んでいる。昼間に見た両替屋も修理屋も看板を落とし、道端の椅子だけが壁に寄せられていた。

 

 事務所の窓には、まだ黄色い光が残っていた。カーテンの隙間から、帳簿の上に落ちる影が見える。あの男は椅子に腰かけ、革の鞄から札束を出して数えていた。唾で湿らせた親指が紙幣の端をこすり、机の上で帳簿の紙が一枚めくれる。

 

 ロローリャは扉の脇に膝を落とした。杖を壁へ預け、布袋からノコギリを抜く。木の柄を右手の届くところへ向けて、床へ寝かせた。

 

 スカートの内側から鉄片を三本抜き、口に含む。尖った先を左の口端へ寄せると、舌の上に鉄の味が広がった。

 

 右手で扉を押した。

 

 蝶番が鳴る。

 

 男の顔が上がるより早く、ロローリャは口端の一本を抜いた。手首が跳ねる。鉄片は暗い部屋を斜めに裂き、天井の照明へ突き当たった。硝子が砕け、黄色い光がぱっと散って消えた。

 

「なんだ!」

 

 椅子が倒れた。机に腰がぶつかる。男の足音が、闇の中でばらける。

 

 ロローリャは二本目を打った。

 

「ぐあっ!」

 

 鉄片が片脚の脛に突き刺さり、男の体が横へ崩れた。踏みこたえようとしたもう片方の脚へ、続けて三本目が飛ぶ。男の膝が折れ、鈍い音がして、床板が大きく軋んだ。

 

 ロローリャは足もとのノコギリへ手を落とし、木の柄を掴んだ。男は倒れた椅子を押しのけ、床を這って逃げようとする。ロローリャは低く身を滑らせ、片脚で身体を支えながら、まず鉄片の刺さった脚へノコギリの背を叩き込んだ。

 

 悲鳴が跳ねた。

 

 その声にかぶせるように、ノコギリを振り下ろす。肩。首の後ろ。耳の横。男が腕を振り回すたびに、肘の通り道から身体を外し、返す手でまた頭を打った。鉄の背が骨に当たり、男の身体が床の上で大きく揺れる。立とうとする膝、這おうとする手を、ロローリャは何度も叩きつけた。

 

 男の罵声は、すぐに息の混じった呻きへ変わった。荒い息だけが、闇の中でひゅうひゅう鳴った。

 

 ロローリャはノコギリを握り直し、床に崩れた男へ顔を向けた。

 

「フオンのこと、覚えてる? 子どものことで騒ぐなって言った。あんたはそう言った。袖の埃を払って、あの人を置いていった」

 

 男は腫れた顔を歪め、闇の中で何度か瞬きをした。ようやくその名前に思い当たったらしく、喉の奥で短く息を呑んだ。

 

「ま、待て。違う、俺はただ仕事を紹介しただけだ。あの女が勝手に」

 

 ロローリャはノコギリを振り下ろした。男の腕のすぐ横で床板が割れ、錆びた鉄が木へ食い込む。

 

「私みたいな腕にしてあげようか」

 

 男の喉から、空気だけの悲鳴が漏れた。

 

「片腕で生きるのも、慣れればけっこう何とかなるよ。ご飯も食べられるし、金も数えられる。女を売る紙にも、たぶんサインできる。でも、慣れるまで痛いと思う」

「やめろ、やめてくれ!」

 

 男は両手を胸へ抱え込んだ。汗と血の匂いが混じり、喉の奥で引きつった息が鳴っている。ロローリャは、その左腕だけを見ていた。

 

「ひっ……」

 

 ロローリャは静かにノコギリを挽いた。鉄の歯が、皮膚を噛み、肉を引き裂く。男の身体が跳ね、悲鳴が事務所の壁にぶつかる。

 

「いてぇ! 待って、待ってくれ! 俺じゃない、俺が決めたんじゃない!」

 

 男の言葉は、ロローリャの耳に届かなかった。ノコギリの歯が、もう一度沈む。

 

「俺は下っ端だ! 本当だ! 女を集めて、紙を書かせて、車に乗せるだけだ! フオンのことも上から言われただけなんだ!」

 

 男は逃げようとして足を動かした。刺さった鉄片が床を擦り、悲鳴がまた跳ねる。ロローリャの手がわずかに動くたび、男の声は喉の奥で潰れ、唾と涙の混じった息が漏れた。

 

「薬だ! 薬を流してる連中がいるんだよ! 最初は少しだけ渡して、払えなくなったら借金にする。女は仕事の口で外へ出す。カラオケだの、マッサージだの、縫製だの、言い方はいくらでも変えられる。本人が行くって紙に書けば、それで通るんだ!」

「うるさい!」

 

 ロローリャがさらに力をこめると、男の声が裏返った。

 

「赤鳳会だ! 赤鳳会が仕切ってる! 俺は末端だ、顔役の名前だってろくに知らない! 薬も、女も、みんな同じ連中の商売なんだよ!」

 

 男は泣きながら床に額をこすりつけた。

 

「あいつらは、ハイアン運送の第三倉庫を使ってる。翼を広げた鳳凰のロゴがある。そこに薬を集めて、港の連中へ卸してるんだよ。俺は鍵番に連絡するだけなんだ。頼む、腕はやめてくれ」

 

 ロローリャはノコギリを持ち上げた。

 

「助けてくれ! 金なら払う。全部やる。だから、もう勘弁してくれ!」

 

 男は顔を上げた。汗と涙で濡れた頬が、窓の隙間から入る細い光を受けていた。そこにフオンの顔はなかった。ミーの顔もなかった。金を数え、紙を差し出し、女の肩を押してきた男の顔だけがあった。

 

 ノコギリの背が、男の肩へ落ちた。

 

 鈍い音がして、男の身体が床に跳ねた。悲鳴が上がる前に、二度目が脇腹へ入った。男は腕を抱えて転がり、机の脚に頭をぶつけた。帳簿が崩れ、赤い印の押された紙が散った。

 

「頼む……頼むから……もう許してくれ……」

 

 男は右へ這い逃げようとした。ロローリャはその肩へノコギリの背を落とした。身体が床へ崩れる。続けて、背、腕、太腿へ振り下ろす。男の声は一打ごとに潰れていった。

 

 フオンが膝をついていた姿が浮かんだ。ミーの小さな手が浮かんだ。焼けた柱、濡れた灰、誰かの口から出た判定という言葉。ロローリャの腕は止まらなかった。

 

「連れていったのは、あんたでしょ」

 

 もう一度、振り下ろす。

 

「紙を書かせたのも」

 

 また、振り下ろす。

 

「帰れるって言ったのも」

 

 男は丸い腹を床に押しつけ、喉の奥でひゅうひゅうと息を鳴らしていた。顔を庇う腕がだらりと落ち、返事の代わりに唾と血の混じった泡が床へ垂れた。

 

 ロローリャは肩で息をしながら、なおもノコギリを握っていた。男のまぶたが白く裏返り、身体から力が抜ける。事務所には、紙の擦れる音と、ロローリャの荒い呼吸だけが残った。

 

 しばらくして、ロローリャは散らばった帳簿を見下ろした。そこには女たちの名前らしきもの、数字、地名、荷の番号、赤い印が並んでいた。人も薬も、同じ紙の上に載っていた。

 

「すべて燃えてしまえばいい」

 

 そう言うと、ロローリャは杖を拾い、闇の中に男を残して事務所を出た。

 

 路地の外では、遠い大通りをバイクが流れていた。まだ開いている屋台の明かりが、角の先でぼんやり滲んでいる。ロローリャは布袋へノコギリを押し込み、表通りへ戻った。

 

 道端に、ペットボトル入りのガソリンを並べた男がいた。バイクの燃料を切らした者や、発電機を回す店のために、夜でもこうして細く商いを続けている。売り手はロローリャの顔をちらりと見ただけで、眠そうに値段を告げた。

 

 ロローリャはスカートの内ポケットから、ジウにもらった二万ドン札を出した。男は汚れたペットボトルを一本取り、蓋を強く締めて渡した。中の液体が街灯を受けて揺れる。ロローリャはそれを布袋の底へ入れ、ノコギリを上に重ねた。

 

 そこから先は、町の音が少しずつ変わっていった。食堂の湯気が消え、シャッターの閉まった店が増え、道幅が広がる。港へ向かうトラックの低い唸りが聞こえ、空気に油と川の匂いが混じりはじめた。

 

 運河沿いの倉庫群に着くころには、表通りの明かりは背中のずっと後ろにあった。錆びたフェンスの向こうに、ハイアン運送の倉庫が並んでいる。白い壁には、翼を広げた鳳凰のロゴが赤く描かれていた。第三倉庫。隣には木材が積まれ、裏手には油の匂いが染みたドラム缶が並んでいる。入口の前には椅子が二つ置かれていたが、人影はなかった。明け方の積み替えまでの、短い空白だった。

 

 ロローリャは息を止めた。フオンの声が戻り、ミーの手首に結んだ布袋の紐の感触が戻る。薬も、女も、金も、ここではみんな同じ穴へ流れていく。

 

 地を這うようにして生き、ようやく手にした家族がその穴に呑まれたのだと考えた瞬間、ロローリャの目から涙がこぼれた。頬を伝ったそれを拭わず、彼女は倉庫の暗がりへ身を沈めた。

 

 やがて、夜の底で小さな火が生まれた。

 

 最初は、誰かが捨てた煙草の火ほどの赤だった。それが木材の隙間に這い、古い紙を舐め、油の匂いを含んだ床へ広がると、倉庫の闇が内側から膨らみはじめた。続いて男の怒鳴り声が上がり、犬が吠え、運河の向こうで誰かが叫んだ。

 

「火事だ!」

 

 ロローリャは一度だけ運河の水面を見た。炎は川に映り、ゆらゆらと揺れながら、赤い帯になって流れている。燃えているものが何であれ、そこにミーはいない。フオンもいない。けれど、ロローリャの中で何かが確かに焼け、黒く崩れ、別の形へ変わっていく。

 

 遠くでサイレンが鳴りはじめた。ロローリャはノコギリを運河に投げ捨てると、杖をつき、港の光から離れるように歩いた。夜の石畳に、こつ、こつ、と杖の音が響く。肩には煤が落ち、髪には焦げた匂いが絡み、喉の奥には煙の苦さが残っていた。

 

 ハイフォンの空は、また赤く染まった。

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