欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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7.火のあとに残るもの

 アパートの階段は、まだ夜の湿気を吸っていた。裸電球の下に虫が集まり、羽の音だけが細く鳴っている。ロローリャは手すりに肩を寄せ、杖を一段ずつ置きながら上がった。膝の奥が熱く、喉には煙の苦さが残っていた。髪の先に焦げた匂いが絡み、服の肩には細かな煤が落ちている。布袋は軽かった。底にあったノコギリの重みは、運河の黒い水の底へ沈んでいた。

 

 廊下に上がると、ジウが裸電球の下に座っていた。団扇を膝に伏せ、首だけをこちらへ向けている。ロローリャが一歩進むと、ジウの目は布袋へ落ち、それから髪、肩、指先へ移った。膝を揉んでいた手が止まる。

 

「ずいぶん歩いてきたね」

 

 ロローリャは答えなかった。息を吐くと、自分の口から煙の匂いが出た。

 

 外では遠い喧騒が続いていた。夜の底に沈んだ街の一か所だけが、赤く煮えているようだった。バイクの音が重なり、誰かが怒鳴り、どこかで戸が乱暴に閉まる。ジウはロローリャの肩に落ちた煤を親指でこすった。黒い粉が指先につく。

 

「港が燃えてるってさ。ハイアン運送の倉庫だって、下の通りで男どもが騒いでたよ」

 

 ロローリャの指が、杖の握りを強く掴んだ。

 

 ジウはそれ以上訊かなかった。訊く必要もなかった。布袋は軽く、服は煤け、髪には火の匂いが移っている。二万ドン札の代わりに、煙とガソリンの残り香だけがロローリャの周りにまとわりついていた。

 

 奥の戸が開き、リエンが髪を乱したまま顔を出した。

 

「何の騒ぎ……」

 

 声が止まった。リエンの目がロローリャの服を見て、次に布袋を見た。タオもその後ろから出てきて、口元を押さえた。

 

「その匂い」

 

 タオが呟いた。リエンはロローリャの腕を掴み、ぐいと自分のほうへ向けた。

 

「あんた、何をしたの?」

 

 ロローリャは黙っていた。リエンの手は強かったが、震えていた。

 

「赤鳳会の倉庫だよ」

 

 ジウが言った。

 

 タオの顔から血の気が引いた。

 

「赤鳳会に手ぇ出したってことかい。あそこは、ただのチンピラじゃないんだよ」

 

 リエンはロローリャの前にしゃがみ込んだ。怒鳴ろうとして、喉の奥で止める。火の匂い、煤、軽くなった布袋。どれを見ても、もう尋ねる意味はなかった。

 

「ばかだね。本当に、ばかだね」

 

 ロローリャは小さく唇を開いたが、言葉は出なかった。フオンの名も、ミーの名も、口に出せば床へ落ちてしまいそうだった。

 

 ジウはポケットから古いスマホを取り出した。割れた画面を親指で叩き、耳へ当てる。やがて繋がると、声を低くした。

 

「バオかい。ジウだ。今すぐ車を出してくれないか。市場裏じゃない、東の橋の下に十分で来な。理由は後でいい。金は払う。あんた、まだあたしに借りがあるだろ」

 

 通話を切ると、ジウはスマホを胸元へ戻した。

 

「ここには置けない」

 

 リエンが目を剥いた。

 

「待ちな。どこへやる気だい?」

「朝になったら人が来る。赤鳳会か、警察か、その両方か。どっちでも同じだよ」

 

 タオが青ざめた顔でロローリャを見た。

 

「でも、どこへ逃がすっていうのさ?」

 

 リエンがロローリャの肩を掴む。

 

「あんた、どうするつもりだい。どこか行く当てはあるのかい?」

「ない」

 

 声は小さく、乾いていた。

 

 ジウが身を乗り出した。

 

「ここに来る前は、どこにいたんだい」

 

 ロローリャは目を上げた。長いあいだ思い出さないようにしていた地名が、喉の奥で硬い石みたいに転がった。

 

「中国」

「中国の、どこ?」

「昆明」

 

 廊下の三人が黙った。山の向こう、国境の向こう、ハイフォンの湿気と排気から遠く離れた異国の街だった。

 

「昆明って、あんた。そんなところに、どうやって戻るのさ!」

「分からない。道も、分からない……」

 

 リエンは額に手を当て、荒く息を吐いた。

 

「一人で中国なんて行けるわけないだろ。足も、その身体も、その顔も、全部目立つ。途中で捕まっちまうよ」

 

 売られる、という言葉を誰も口にしなかった。けれど全員が同じものを思い出していた。

 

 ジウだけが、ゆっくり顔を上げた。

 

「ラオカイ……、あそこなら渡しがある。昔の客に、山のほうへ荷を運ぶ男がいる。まっとうな仕事ばかりじゃないけど、今はそれでいい。ラオカイまで出れば、国境を渡す連中もいる」

 

 リエンがジウの腕を掴んだ。

 

「あんたが連れていく気かい」

「そうだよ」

「馬鹿を言うんじゃないよ。火事の後だよ。赤鳳会が動いてるんだよ」

「だから今すぐ出るんだよ」

 

 ジウの声は急に低くなった。

 

「リエン、タオ、あんたらには子どもがいる。だから、あたしがこの子を連れていく」

「そんな言い方するんじゃないよ」

 

 リエンが低く怒鳴った。ジウは笑わなかった。

 

「時間がない」

 

 ジウは部屋へ戻り、古びた上着を羽織って出てきた。畳の下に隠していた封筒を抜き、胸元へしまう。リエンがそれを見て、目を細めた。

 

「あんた、それ」

「貯めてたのさ。いつかもう少しまともな部屋へ移るつもりでね」

「そんな金」

「部屋はまた探せる。この子は、今逃がさなきゃ終わりだ」

 

 ロローリャは何も言えなかった。ジウの動きに迷いがなさすぎて、胸が痛くなった。

 

「私は、一人で行く」

「行かせないよ、ロローリャ」

 

 ジウは即座に言った。

 

「歩けるとか歩けないとかの話じゃない。あんたは今、火の匂いをさせてる。顔も知られてる。どこかで止められたら終わりだ」

 

 ジウは濡れ布でロローリャの髪を拭いた。煤が布へ黒く移る。拭いても拭いても、焦げた匂いは消えなかった。

 

「あんた、何も喋るんじゃないよ。車に乗っても、誰に訊かれても、黙ってな。あたしの姪だと言う。脚が悪くて、山の親戚へ預けに行く。それで通す」

「ジウ……」

「何だい」

「どうして」

 

 ジウの手が一瞬止まった。

 

「ミーがあんたの膝で寝てたのを見たからだよ」

 

 それだけ言った。

 

 ロローリャの喉が詰まった。ミーの小さな重みが、膝の上へ戻ってきた気がした。泣きそうになって、けれど涙は出なかった。

 

 リエンは薄い上着を持ってきて、ロローリャの肩へ乱暴にかけた。

 

「その煤だらけの服で外へ出るんじゃないよ。目立つ」

 

 タオは乾いたパンを二切れ、布袋へ押し込んだ。

 

「途中で食べな。食べられなくても、口に入れな」

 

 外から短いクラクションが聞こえた。ジウが顔を上げる。

 

「来たね」

 

 タオがロローリャの手を握った。短く、強い握り方だった。

 

「生きな。何があっても、生き延びるさ」

 

 リエンはロローリャの頬を両手で挟み、少し乱暴に顔を上げさせた。赤い唇は色を失っていた。

 

「あんたは、ばかだよ」

「うん」

「でも、あいつらが悪い。あんた一人が悪いんじゃない。そこだけは、間違えるんじゃないよ」

 

 ロローリャは頷いた。リエンは額を一瞬だけロローリャの額へ押しつけ、すぐに離れた。

 

「元気でね、エム(私のかわいい妹)

 

 ジウが先に階段を降りた。ロローリャは杖をつき、その後に続いた。階段の途中で一度だけ廊下を振り返る。裸電球の下で、リエンは唇を噛み、タオは目元を袖で押さえていた。

 

 橋の下には、古い灰色の小型トラックが停まっていた。運転席には頬のこけた男が座り、煙草をくわえている。前歯が一本抜け、そこだけ黒い穴のように見えた。

 

「ジウ。何だよ、こんな夜中に。港が大騒ぎだぞ」

「ラオカイのほうへ出る車はあるかい」

「ラオカイ?」

 

 男はロローリャを見た。杖、上着、布袋、顔。すぐに値踏みする目になった。

 

「高いぞ」

 

 ジウは封筒から札を抜いた。

 

「途中まででいい。乗り換えられるところまで運びな。人に見られない道で」

「これっぽっちじゃ足りねえぞ」

「あたしがあんたの借りを一つ消してやったこと、忘れたのかい」

 

 男は口を曲げた。しばらく黙ってから、荷台を顎で示す。

 

「後ろへ乗せろ。しっかり顔を隠せよ。途中で訊かれても寝てることにしろ」

 

 荷台には古い麻袋と空き箱が積まれていた。ジウはその隙間にロローリャを座らせ、自分も横へ乗り込む。

 

「ジウ、あんたも行くのか?」

「ああ、ついて行くよ」

「帰りのことまでは知らねえぞ」

「帰る道くらい、自分で探すさ」

 

 車が低く唸った。橋の下の水が震え、ロローリャの背中に荷台の板が当たる。布の隙間から、港の赤い空が建物の間に切れ切れに見えた。

 

 車が動き出した。

 

 ハイフォンの路地が後ろへ流れていく。閉まった店、倒れた椅子、火の入っていない屋台、電線に止まった鳥の黒い影。ロローリャは布の下で膝を抱えた。義足の革紐が汗を吸い、切断された腕の先が疼いている。けれど痛みは遠かった。

 

「寝られるなら、寝な」

 

 ジウが小さく言った。

 

「眠れないよ」

「目を閉じるだけでもいい」

 

 ロローリャは目を閉じた。すぐに炎が見えた。ハイアン運送の赤い鳳凰。焼けたアパート。ミーの手。フオンの膝。閉じたまぶたの裏で、全部が同じ火に照らされていた。

 

「ジウ」

「何」

「中国に入っても、帰るところはないの」

 

 ジウはすぐには答えなかった。車が角を曲がり、荷台が大きく揺れる。遠くで鶏が鳴いた。

 

「だろうね」

 

 ジウは静かに言った。

 

「でも、ハイフォンにいたら朝までもたない。まずラオカイへ行く。川を越えて、そこから先は、またその先で考えるんだよ」

「うん」

「今は、とにかくこの町を、この国を出ることが一番だ」

 

 車は街を抜けた。工場の煙突が後ろへ流れ、港の匂いが薄くなる。代わりに、湿った土と夜明け前の畑の匂いが入ってきた。東の端に、薄い灰色が滲みはじめている。

 

 ジウは布の下でロローリャの手を探し、そっと握った。

 

「覚えておきな。戻る場所がないのと、生きる場所がないのは違う」

 

 ロローリャは手を握り返した。

 

「ミーのことも、フオンのことも、置いていかなくていい。抱えたまま行きな。重くても、抱えて行きな」

 

 車は北へ向かった。ハイフォンの火の色は、もう見えなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 夕方近く、山の影が道へ長く伸びはじめたころ、車はラオカイの手前で停まった。運転手はこれ以上進めないと言い、煙草に火をつけたまま、道端の小屋を顎で示した。

 

 ジウは封筒を胸元から出し、木戸の前に立つ男へ向き直った。男はロローリャの身体を上から下まで見た。義足、杖、片腕、焦げた匂いの残る髪。口の端で笑いかけ、ジウの目を見てやめた。

 

「この子だけ渡すのか?」

「ああ。中国側までたのむよ」

「二百万だな」

「ふっかけるんじゃないよ! 子ども一人っぽちだ。荷もないだろ。百二十万」

「片足で片腕じゃないか、面倒が増えそうだ。百八十」

「百五十」

 

 しばらくして、男は舌打ちし、手を出した。

 

「先払いだ」

 

 ジウは百五十万ドンを男の手に押しつけた。

 

「夜になったら渡す。声は出すなよ。もし水に落ちても、助けないからな」

 

 ロローリャはジウを見上げた。

 

「さぁロローリャ。あたしはここまでだ。ここからは一緒に行けないよ」

 

 ジウはしゃがみ、ロローリャの上着の襟を直した。

 

「中国側へ入ったら、人の流れについて行きな。昆明の名前をすぐ出すんじゃないよ。足元を見られる。分からないふりをして、聞いて、黙って、少しずつ進みな」

「うん」

「戻ってくるんじゃないよ」

 

 その言葉に、ロローリャの目が揺れた。

 

「冷たい意味で言ってるんじゃない。戻ったら、あいつらに食われる。リエンもタオも、あんたが帰ってくるのを待つんじゃない。生きてると思って、それでいいことにする」

 

 ロローリャは頷いた。涙は出なかった。泣ける場所は、ハイフォンに置いてきた気がした。

 

 ジウはロローリャの額に唇を当てた。湿ったザウゾーの匂いがした。

 

「行きな!!」

 

 夜が落ちるころ、小さな舟が川へ出た。水面は黒く、向こう岸の灯りが揺れている。ロローリャは舟底に座り、杖を胸へ抱いた。ジウは岸に立ち、最後まで手を振らなかった。ただ、ずっとこちらを見ていた。

 

 舟が流れに乗る。岸の影が遠ざかる。ジウの姿は闇に沈み、やがて見えなくなった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 黒い車は夜の山道を走っていた。ラオス国境へ抜ける古い道で、舗装はところどころ割れ、窓の外には湿った森が続いている。ヴー・クアン・タイは後部座席で鞄を抱え、何度も後ろを振り返った。金の鎖は外し、翡翠の指輪も外套の内側へしまっている。赤鳳会の頭として港に座っていた男は、今は汗を拭う布さえ震わせていた。

 

 薬が燃えた。警察も動いた。下の連中も散った。だが本当に恐ろしいのは、そのどれでもなかった。第三倉庫が焼けた報せは、国境の向こうへ届いている。ベトナムの赤鳳会だけで済む話では、もうなくなっていた。

 

 車が小さな集落の外れで止まった。

 

「ボス、ここで乗り換えましょう」

 

 運転手の声は妙に乾いていた。

 

 クアン・タイは鞄を抱え、車を降りた。閉じた商店、消えかけた街灯、雨に濡れた土の匂い。道端には別の車が一台、灯りを消して停まっている。

 

 その車の横に、男が立っていた。

 

 クアン・タイの足が止まる。背後で扉が静かに閉まり、運転手はいつのまにか頭を下げ、闇の中へ下がっていった。

 

「サオ・カム・トゥン様……」

 

 クアン・タイの声がかすれた。

 

 サオ・カム・トゥンは挨拶を受けず、細い目でクアン・タイの顔から鞄へ視線を落とした。

 

「その金を持って、どこへ行く」

 

 クアン・タイは笑おうとした。丸い頬が引きつり、喉の奥で湿った息だけが鳴った。

 

「ラオス側に身を潜めるつもりでした。港はいま火事とサツで荒れております。私が表に出れば、役人の名前まで出る。騒ぎが収まるまで息を殺し、機を待つ。それから港を締め直す腹でございました……!」

「誰が許した」

 

 低い声だった。怒鳴り声でもないのに、雨に濡れた土の上でクアン・タイの膝が揺れた。

 

「おまえの判断で、荷を焼かせた。おまえの判断で、港を騒がせた。おまえの判断で、金を抱えて逃げた」

 

 クアン・タイの額から汗が落ちた。

 

「違いますッ。これは逃げ金じゃありません。港を戻す金です!」

「第三倉庫の荷は、誰の荷だ」

 

 クアン・タイの口が止まった。

 

「……あなた方の荷です」

「赤鳳会の頭は誰だ」

「私です」

「なら、焼けたのは誰の首だ」

 

 クアン・タイの喉が鳴った。丸い頬を汗が伝い、外套の襟へ吸い込まれていく。

 

「分かっておりますッ。焼けた荷の落とし前は、私の首にかかっております。ですが、今回ばかりは相手の筋が違いました。殺し屋でも、よその組の鉄砲玉でもない。倉庫のまわりにいたのは、宝くじ売りの小娘です。片腕、片脚、杖つきのガキ。警備の連中は、路地の物乞いと見て捨てた。そこを抜かれたんです。あんなガキが油を撒いて火をつけるなど、誰が読むというんですか……!」

 

 サオ・カム・トゥンの目が、わずかに細くなった。

 

「片腕?」

 

 クアン・タイは慌てて頷いた。

 

「ええ、片脚でもあります。杖をついた小娘です。小娘ひとりに倉庫を焼かれたなんて話、港の面子に関わる。サオ・カム・トゥン様、どうか私に始末をつけさせてください。必ず見つけ出し、赤鳳会に火をつけた報いを骨まで思い知らせます。私はまだ使えます。これからも、あなた方の荷を――」

 

 言葉はそこで切れた。

 

 銀色の線が、濡れた夜気を細く裂いた。クアン・タイの鞄が地面に落ち、札束が泥の上へ散った。彼の身体は車の側面にぶつかり、そのままずるりと崩れた。

 

 サオ・カム・トゥンは剣を下ろした。血を払う音だけが、暗い道に小さく返った。

 

「片腕。片脚。宝くじ売り」

 

 彼は低く呟いた。

 

 ハイフォンの裏路地が、一瞬だけ目の奥をよぎった。ナイフを持った男たち、銃声、壁にめりこんだ弾丸。五十万ドン札を胸にしまい、杖を握ったまま、腹を立てた顔でこちらを見ていた少女。

 

 自分で立て。でなければ死ぬ。

 

 そう言い残したとき、少女は何も答えなかった。ただ、こちらの剣から目を離さなかった。

 

 サオ・カム・トゥンは、闇の向こうを見た。

 

「まさかな」




これにて第一章、ベトナム編は完です。

次章くらいから、ようやく剣劇寄りのエピソードが入れられるかなぁ?
よろしければ引き続き、ロロ―リャの旅路にお付き合いください。
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