アパートの階段は夜気に湿り、裸電球の下でブンブンと虫の羽音が鳴っていた。
ロローリャは手すりに肩を寄せ、杖を一段ずつ置きながら上がった。膝の奥が熱く、喉には煙の苦さが残っていた。髪の先に焦げた匂いが絡み、服の肩には細かな煤が落ちている。
廊下に上がると、ジウはまだ団扇を扇ぎながら共同椅子に座っていた。ロローリャが一歩進むと、ジウの目は布袋へ落ち、それから髪、肩、指先へ移った。膝を揉んでいた手が止まる。
「ずいぶん歩いてきたね」
外では遠い喧騒が続いていた。夜の街の一か所だけが、赤く煮えているようだった。バイクの音が重なり、誰かが怒鳴り、どこかで戸が乱暴に閉まる。
ジウはロローリャの肩に落ちた煤を親指でこすった。黒い粉が指先につく。
「港が燃えてるってさ。ハイアン運送の倉庫だって、下の通りで男どもが騒いでたよ」
ロローリャの指が、杖の握りを強く掴んだ。息を吐くと、自分の口から煙の匂いが出た。
ジウは諦めたように瞼を閉じた。二万ドン札の代わりに、煙とガソリンの残り香だけがロローリャの周りにまとわりついていた。
奥の戸が開き、リエンが髪を乱したまま顔を出した。
「何の騒ぎだい? ロローリャがどうかし……」
言いかけて声が止まった。リエンはロローリャの姿を上から下まで見て、眉をひそめた。タオもその後ろから出てきて、口元を押さえた。
「その匂い……」
タオが呟いた。リエンは震える手でロローリャの腕を掴み、ぐいと自分のほうへ向けた。
「あんた、何をしたの?」
「赤鳳会の倉庫だよ。いま火事だって街中が大騒ぎだ」
ジウが吐き捨てるように言うと、タオの顔から血の気が引いた。
「赤鳳会に手ぇ出したってことかい!? あそこは、ただのチンピラじゃないんだよ!」
リエンはロローリャの前にしゃがみ込んだ。怒鳴ろうとして、喉の奥で止める。火の匂い、煤、軽くなった布袋。どれを見ても、もう尋ねる意味はなかった。
「ばかだね。本当に、ばかだね……」
ロローリャは小さく唇を開いたが、何も言葉が出てこない。フオンの名も、ミーの名も、口に出せば床へ落ちてしまいそうだった。
ジウはポケットから古いスマホを取り出した。割れた画面を親指で叩き、耳へ当てる。やがて繋がると、声を低くした。
「バオかい。ジウだ。今すぐ車を出してくれないか。市場裏じゃない、東の橋の下に十分で来な。理由は後でいい。金は払う。それにあんた、まだあたしに借りがあるだろ?」
通話を切ると、ジウはスマホを胸元へ戻した。
「ロローリャ。こうなっちまったら、ここにはもう置いておけないよ」
リエンが目を剥いた。
「待ちな。この子をどこへやる気だい?」
「朝になったら人が来る。赤鳳会か、警察か、その両方か。どっちでも同じだよ」
タオが青ざめた顔でロローリャを見た。
「でも、どこへ逃がすっていうのさ?」
リエンがロローリャの肩を掴む。
「あんた、ここの他にどこか行く当てはあるのかい?」
「ない……」
声は小さく、乾いていた。
ジウが身を乗り出した。
「ここに来る前は、どこにいたんだい?」
ロローリャは目を上げた。長いあいだ思い出さないようにしていた地名が、喉の奥で硬い石みたいに転がった。
「中国」
「中国の、どこ?」
「昆明」
廊下の三人が黙った。山の向こう、国境の向こう、ハイフォンの湿気と排気から遠く離れた異国の街だった。
「昆明って、あんた。そんなところに、どうやって戻るのさ!」
「分からない。道も、分からない……」
リエンは額に手を当て、荒く息を吐いた。
「一人で中国なんて行けるわけないだろ! その身体も、その顔も、全部目立つ。きっと、途中で悪い奴らに捕まっちまうよ」
売られる、という言葉が全員の脳裏によぎっていた。
ジウは、しばらく考え込んでから、ゆっくり顔を上げた。
「ラオカイ……。昔の客に、山のほうへ荷を運ぶ男がいる。まっとうな仕事の奴じゃないけど、今はそれでもいい。ラオカイまで出れば、中国との国境を渡す連中がいる」
リエンがジウの腕を掴んだ。
「あんたが連れていく気かい?」
「そうだよ」
「馬鹿を言うんじゃないよ! 火事の後だ。赤鳳会が動いてるんだよ!」
「だから今すぐ出るんだよ!」
ジウの声は急に低くなった。
「リエン、タオ。あんたらには子どもがいるだろ。だから、死んでも特に悲しむ奴のいない、このあたしが、この子を連れていく」
「ジウ。そんな言い方するんじゃないよ」
「さぁ、話は終わりさ。もう時間がないんだ」
ジウは部屋へ戻り、古びた上着を羽織って出てきた。畳の下に隠していた封筒を抜き、胸元へしまう。リエンがそれを見て、目を細めた。
「あんた、その金……」
「貯めてたのさ。いつかもう少しまともな部屋へ移るつもりでね。まぁ、部屋はまた探せる。でも、この子は今逃がさなきゃ終わりだ」
ロローリャはなかなか言葉が出なかった。ただジウの動きに迷いがなさすぎて、胸が痛くなった。
「私は、一人で行くよ」
「行かせないよ、ロローリャ」
ジウは即座に言った。
「歩けるとか歩けないとかの話じゃない。あんたは今、火の匂いをさせてる。顔も知られてる。どこかで止められたら一瞬で終わりだ」
ジウは濡れ布でロローリャの髪を拭いた。煤が布へ黒く移る。拭いても拭いても、焦げた匂いは消えなかった。
「あんた、何も喋るんじゃないよ。車に乗っても、誰に訊かれても、黙ってな。あたしの姪だと言う。脚が悪くて、山の親戚へ預けに行く。それで通す」
「ジウ……」
「何だい?」
「どうして……」
ジウの手が一瞬止まった。
「ミーがあんたの膝で寝てたのを見てきたからだよ」
ロローリャの喉が詰まった。ミーの小さな重みが、膝の上へ戻ってきた気がした。また泣きそうになって、けれど涙は出なかった。
リエンは薄い上着を持ってきて、ロローリャの肩へ乱暴にかけた。
「その煤だらけの服で外へ出るんじゃないよ。目立つからね」
タオは乾いたパンを二切れ、布袋へ押し込んだ。
「途中で食べな。食べられなくても、口に入れるんさ」
外から短いクラクションが聞こえた。ジウが顔を上げる。
「来たね」
タオがロローリャの手を握った。短く、強い握り方だった。
「生きな。何があっても、絶対に生き延びるさ」
リエンはロローリャの頬を両手で挟み、少し乱暴に顔を上げさせた。赤い唇は色を失っていた。
「あんたは、ばかだよ」
「うん」
「でも、あいつらが悪い。あんた一人が悪いんじゃない。そこだけは、間違えるんじゃないよ」
ロローリャは頷いた。リエンは額を一瞬だけロローリャの額へ押しつけ、すぐに離れた。
「元気でね、
ジウが先に階段を降りた。ロローリャは杖をつき、その後に続いた。階段の途中で一度だけ廊下を振り返る。裸電球の下で、リエンは唇を噛み、タオは目元を袖で押さえていた。
橋の下には、古い灰色の小型トラックが停まっていた。運転席には頬のこけた男が座り、煙草をくわえている。前歯が一本抜け、そこだけ黒い穴のように見えた。
「ジウ。何だよ、こんな夜中に? 港が大騒ぎだぞ」
「ラオカイのほうへやっとくれ」
「ラオカイ?」
男はロローリャを見た。杖、上着、布袋、顔。すぐに値踏みする目になった。
「こいつは高くつくぜ?」
ジウは封筒から札を抜いた。
「途中まででもいい。乗り換えられるところまで運びな。人に見られない道で」
「おい、これっぽっちじゃ足りねえぞ」
「あたしがあんたの借りを一つ消してやったこと、忘れたのかい!」
男は口を曲げた。しばらく黙ってから、荷台を顎で示す。
「後ろへ乗せろ。しっかり顔を隠せよ。途中で訊かれても寝てることにしろ」
荷台には古い麻袋と空き箱が積まれていた。ジウはその隙間にロローリャを座らせ、自分も横へ乗り込む。
「ジウ、あんたも行くのか?」
「ああ、ついて行くよ」
「俺はあまり危ない橋は渡りたくねぇ。帰りのことまでは知らねえからな」
「わかってる。帰る道くらい、自分で探すさ」
車が低く唸った。橋の下の水が震え、ロローリャの背中に荷台の板が当たる。布の隙間から、港の赤い空が建物の間に切れ切れに見えた。
ハイフォンの路地が後ろへ流れていく。閉まった店、倒れた椅子、火の入っていない屋台、電線に止まった鳥の黒い影。ロローリャは布の下で膝を抱えた。義足の革紐が汗を吸い、欠けた腕の先が疼いていた。
「寝られるなら、寝な。移動は長いからね」
ジウが小さく言った。
「ジウ。全然眠れないよ」
「なら少し目を閉じるだけでもいい」
ロローリャは目を閉じた。すぐに炎が見えた。ハイアン運送の赤い鳳凰。焼けたアパート。ミーの手。フオンの膝。閉じたまぶたの裏で、全部が同じ火に照らされていた。
「ジウ」
「何だい?」
「中国に入っても、帰るところはないの」
車が角を曲がり、荷台が大きく揺れる。遠くで鶏が鳴いた。
「だろうね」
ジウは静かに言った。
「でも、ハイフォンにいたら朝までもたない。まずラオカイへ行く。川を越えて、そこから先は、またその先で考えるんだよ」
「うん」
「今は、とにかくこの街を、この国を出ることが一番だ」
車は街を抜けた。工場の煙突が後ろへ流れ、港の匂いが薄くなる。代わりに、湿った土と夜明け前の畑の匂いが入ってきた。東の端に、薄い灰色が滲みはじめている。
ジウは布の下でロローリャの手を探し、そっと握った。
「覚えておきな。戻る場所がないのと、生きる場所がないのは違う」
ロローリャは手を握り返した。
「ミーのことも、フオンのことも、置いていかなくていい。抱えたまま行きな。重くても、抱えて生きるんだ」
車は北へ向かった。ハイフォンの火の色は、もう見えなくなった。
◇ ◇ ◇
夕方近く、山の影が道へ長く伸びはじめたころ、車はラオカイの手前で停まった。運転手はこれ以上進めないと言い、煙草に火をつけたまま、道端の小屋を顎で示した。
ジウは封筒を胸元から出し、木戸の前に立つ男へ向き直った。男はロローリャの身体を上から下まで見た。
「この子だけ渡すのか?」
「ああ。中国側までたのむよ」
「二百万だな」
「ふっかけるんじゃないよ! 子ども一人っぽちだ。荷もないだろ。百二十万」
「片足で片腕じゃないか、面倒が増えそうだ。百八十」
「百五十」
しばらくして、男は舌打ちし、手を出した。
「先払いだ」
ジウは百五十万ドンを男の手に押しつけた。
「夜になったら渡す。いいか。声は出すなよ。それと、もし水に落ちても、助けないからな」
ロローリャはジウを見上げた。
「さぁ、ロローリャ。あたしはここまでだ。ここからは一緒に行けないよ」
ジウはしゃがみ、ロローリャの上着の襟を直した。
「中国側へ入ったら、人の流れについて行きな。昆明の名前をすぐ出すんじゃないよ。足元を見られる。分からないふりをして、聞いて、黙って、少しずつ進みな」
「うん」
「戻ってくるんじゃないよ」
その言葉に、ロローリャの目が揺れた。
「冷たい意味で言ってるんじゃない。戻ったら、あいつらに食われる。リエンもタオも、あんたが帰ってくるのを待つんじゃない。生きてると思って、それでいいことにする」
ロローリャは頷くと、ジウはその額に唇を当てた。湿ったザウゾーの匂いがした。
「行きな!!」
夜が落ちるころ、小さな舟が川へ出た。水面は黒く、向こう岸の灯りが揺れている。ロローリャは舟底に座り、杖を胸へ抱いた。ジウは岸に立ったまま、流れに乗った舟を見送っていた。
岸の影が遠ざかる。ジウの姿も少しずつ闇に沈み、やがて見えなくなった。
◇ ◇ ◇
黒い車は夜の山道を走っていた。ラオス国境へ抜ける古い道で、舗装はところどころ割れ、窓の外には湿った森が続いている。ヴー・クアン・タイは後部座席で鞄を抱え、何度も後ろを振り返った。金の鎖は外し、翡翠の指輪も外套の内側へしまっている。赤鳳会の頭として港に座っていた男は、今は汗を拭う布さえ震わせていた。
薬が燃え、警察が動いている。下の連中も散り、組はすでに死に体だ。だがクアン・タイが本当に恐れているものは、そのどちらでもなかった。第三倉庫が焼けた報せは、すでに国境の向こうへ届いている。事はもはや、ベトナムの赤鳳会だけで済む話ではなくなっていた。
車が小さな集落の外れで止まった。
「ボス、ここで乗り換えましょう」
クアン・タイは鞄を抱え、車を降りた。閉じた商店、消えかけた街灯、雨に濡れた土の匂い。道端には別の車が一台、灯りを消して停まっている。
その車の横に、男が立っていた。
クアン・タイの足が止まる。背後で扉が静かに閉まり、運転手はいつのまにか頭を下げ、闇の中へ下がっていった。
「サオ・カム・トゥン様……」
クアン・タイの声がかすれた。
「ヴー・クアン・タイ、その金を持って、どこへ行くつもりだ?」
サオ・カム・トゥンは挨拶を受けず、細い目でクアン・タイの顔から鞄へ視線を落とした。
「ラオス側に身を潜めるつもりでした。港はいま火事とサツで荒れております。私が表に出れば、役人の名前まで出てしまいますので、騒ぎが収まるまで息を殺し、機を待ち、それから港を締め直す腹でございました……」
「それを誰が許した?」
低い声が響く。雨に濡れた土の上でクアン・タイの膝が揺れた。
「おまえの判断で、荷を焼かせた。おまえの判断で、港を騒がせた。おまえの判断で、金を抱えて逃げた」
クアン・タイの額から汗が落ちた。
「違いますッ。これは逃げ金ではありません。港を戻すための資金です!」
「第三倉庫の荷は、誰の荷だ?」
クアン・タイの口が止まった。
「……あなた方の荷です」
「赤鳳会の頭は誰だ?」
「私です」
「なら、焼けたのは誰の首だ?」
クアン・タイの喉が鳴った。丸い頬を汗が伝い、外套の襟へ吸い込まれていく。
「分かっておりますッ。焼けた荷の落とし前は、私の首にかかっております。ですが、今回ばかりは相手の筋が違いました。殺し屋でも、よその組の鉄砲玉でもない。倉庫のまわりにいたのは、宝くじ売りの小娘です。片腕、片脚、杖つきのガキ。警備の連中は、路地の物乞いと見て捨てた。そこを抜かれたんです。あんなガキが油を撒いて火をつけるなど、誰が読むというんですか……!」
サオ・カム・トゥンの目が、わずかに細くなった。
「片腕?」
クアン・タイは慌てて頷いた。
「ええ、片脚でもあります。杖をついた小娘です。小娘ひとりに倉庫を焼かれたなんて話、港の面子に関わる。サオ・カム・トゥン様、どうか私に始末をつけさせてください。必ず見つけ出し、赤鳳会に火をつけた報いを骨まで思い知らせます。私はまだ使えます。これからも、あなた方の荷を――」
言葉はそこで切れた。
銀色の線が、濡れた夜気を細く裂いた。クアン・タイの鞄が地面に落ち、札束が泥の上へ散った。彼の身体は車の側面にぶつかり、そのままずるりと崩れた。
サオ・カム・トゥンが剣を下ろすと、血を払う音だけが暗い道に小さく返った。
「片腕。片脚。宝くじ売り」
彼は低く呟いた。
ハイフォンの裏路地が、一瞬だけ目の奥をよぎった。ナイフを持った男たち、銃声、壁にめりこんだ弾丸。五十万ドン札を胸にしまい、杖を握ったまま、腹を立てた顔でこちらを見ていた少女。
自分で立て。でなければ死ぬ。
そう言い残したとき、少女は何も答えなかった。ただ、こちらの剣から目を離さなかった。
サオ・カム・トゥンは、闇の向こうを見た。
「まさかな……」
これにて第一章、ベトナム編は完です。
次章くらいから、ようやく剣劇寄りのエピソードが入れられるかなぁ?
よろしければ引き続き、ロロ―リャの旅路にお付き合いください。